ロストレイルから降りたエク・シュヴァイスはノートを開いて、場所を確認した。 ここに、エクは理沙子に会いに来た。 話をして、彼女に、自分が何かできることがあるのか知りに来た。 キサを保護したあとばたばたして病院までついていくことは不可能だった。かわりに理沙子が運ばれたという病院の名前と場所はノートに書き込んでおいた。 少し迷った末、何も持って行かないのもおかしいと思ってエクは通りにある甘い香りの御菓子屋でシュークリームを購入した。 なにが好きかわからないが、以前理沙子はおいしそうに食べていた。まだ食べられないと医者に止められたら、そのときは……以前意地悪をされた仕返しに自分がわざと目の前で食べてやればいい。 小さな箱を大切に抱えてエクは歩き出す。 薬臭い白いフロア。 何人もの人間がいる受付でエクは理沙子の部屋を尋ねた。「そのような方は、当病院には入院しておりません」「そんなはず……理沙子・アデルだ。もう一度調べてくれないか、一週間前に運ばれたはずだ」困惑するエクに受付の女性は厳しい顔で冷やかな一瞥を向けた。「面会は身内の方以外は本来御受けできません。あなたはその方とどういう関係なんですか?」「俺は……」 エクは口ごもる。 旅人であるエクにはインヤンガイでの身分証明類は一切ない。「申し訳ありませんが、御引取ください」 最近は個人のプライバシー保護とトラブル防止のため患者への面会の場合は、身内でないと身分証明書を提示の上、面会記録を残すシステムが一部の病院は採用されているのは危険から身を守るセキリティもインヤンガイのような街では売りになるのだろう。門前払いをくらったエクは仕方がないこととはいえ、しょんぼりと尻尾をたれさせた。自動ドアをくぐって外に出た。口惜しい気持ちになりながら振り返る。 気になるのは理沙子という患者がいないとつっぱねた受付嬢の冷たい態度だ。一応調べてくれればいいものをカルテの確認もなにもなく問答無用で切り捨てられた。まるで隠すように。場所を間違えたのか、それとも自分が怪しいと警戒されたのか。 真っ白い壁は太陽の日差しに輝き、まぶしさに目を眇める。「あれは……」 病院の最上階にあたる右端の窓の白いカーテンが揺れて微かになかがみえたが、そこには黒い鉄格子がはめられ、そこからじっと地上を見つめる女性の影があった。「理沙子、なのか?」 エクは呟く。 風になびいて白いカーテンが揺れ、彼女の姿を隠してしまった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>エク・シュヴァイス(cfve6718)=========
エクは病院からそう遠くない料理店に入ると、気前よくチップをはずんで頼んだ杏仁豆腐を待つ。 その間もノートをちらちらと見る落ち着きのなさに苦笑いした。 「普段なら、女の依頼人とは速やかに縁を切っていたはずなのに」 ようやく届いた甘いそれをスプーンですくい、一口飲み込むと、ノートからの連絡に気が付いた。冷たくも柔らかい、甘い杏仁豆腐を味わいながら目を細める。 そういうことか。 ターミナルにいる知り合いに頼んでインヤンガイの現在の情勢について情報を送ってもらい納得した。 マフィア同士が一触即発ならば、受付の警戒はあの勘違い男……思い出すとつい眉根が寄るハワード・アデル。あいつのせいだと理解する。 「いまは無理だな」 帽子に触れてエクは呟いて目を細めた。まるで暗い闇すら切り裂く刃のような三日月のように。 夜になるのを待ってエクは行動を開始した。 アルプの帽子は、赤外線にもひっかからない透明化が可能だ。 旅人であることを最大限に利用して、受付が交代を確認後、客を装ってフロアに入り込むと――壁にかかっている病院の見取り図をノートに写して、外で理沙子らしい女性を目撃した場所を見上げて、必死に頭を巡らせた。 会えると確信したとき彼女は歓迎するだろうかと迷いが生じた。 罵られ、警戒されたら、――一瞬だけ虚しさに似たものが心を過ぎた。その痛みを無視してエクは動く。 ★ ★ ★ 最低限の灯りだけがともった深海の底のような病院の最上階。その個室は好きなだけ明かりをともして私はため息をついた。 個室のいいところは好きなだけ勝手が出来ること。小さな檻のなかの自由を謳歌することに皮肉な笑みを漏らすと、ふいにドアの音がして振り返った。 「誰?」 ドアは勝手に開いて、閉じた。 鍵がかかっているそれが通常の方法で開くことがないのは一回ものを投げつけ、二回は打撃破壊を試み、三回ほど見よう見まねのピッキングをしてよくわかっている。 誰かの気配はしても沈黙が続くのにじれっていると 「理沙子」 絞り出したような深い声にようやく理解する。 「エク?」 「……監視カメラと盗聴器はないようだな。ここに俺の来た形跡を残したくない。キサは無事だ」 じっと私はなにもない声だけする空間を凝視する。むせかえるような花と果物を全部腐らせたせいで甘すぎる匂いが充満する檻にきた透明人間の言葉に衝撃が走った。 「生きて、いるの?」 「現在は世界図書館で保護をしている」 私はベッドの上で茫然と視線を彷徨わせる。やっぱり、 「ここに報告にきたのは依頼されたことじゃない、俺の独断だ。もし許せないなら俺はここからすぐに立ち去る」 「挨拶をさせて。近くにきてよ。ただし、ちゃんと姿を見せて」 私の誘いにようやく透明人間が夜より深い黒毛に覆われた姿を現す。猛獣なのに紳士のふりをしてスーツ、片方は小さな眼鏡をしている彼は自分の手の中に帽子を抱いて俯いた。 ちゃんと私のベッドの近く。一歩だけ踏み出せば触れれる、けれど私にはとてつもなく広い溝。 「どうやったの、いまの魔法?」 「帽子の機能だ」 エクの尻尾がしょんぼりとたれるのを私はなんだか愉快な気持ちで見てしまった。 「保護と言う名目で、キサを貴女から奪い去ったことを心からお詫びしたい」 「ずいぶんと他人行儀ね。寝室を襲ったくせに」 エクが顔をあげて何か言おうとして黙った。残念。 「あの子、生きていたのね、よかった」 「聞いていなかったのか」 「ハワードはキサが死んだと口にしたわ」 「……あの勘違い男か」 エクは苦々しく呟く。以前、私の罠であやうく穴だらけにされるところだったのをいまだに根に持ってる。 「だから、毎日、窓から見ていたの、外を。ずっと、ずっとね、ここは天に近いから、地上が良く見えるわ。そしたら、あの子のことがわかるかと思ったの。誰かが、私のところにきてくれるともね。本当に来ちゃったわ」 わざと茶化して言うとエクの口元がかすかに綻んだのに私は笑いの衝動に襲われて、くすくす、ふふ、あははは……ついおなかを抱えてベッドのなかで転げた。 おい、大丈夫かとエクが尋ねると涙が滲んで嗚咽が漏れた。 「よかった、キサが生きていて、よかった」 「理沙子」 エクがおろおろしているのに私は自分の感情の爆発でいっぱいになって、しゃくりあげた。自分の体を抱きしめて、いくつも溢れる涙を止められずに。 「あの子が死んでしまったかと思って、ずっと、こわかった。死体すらあの人は見せないというから」 私の噛みつくような訴えをエクは黙って聞いてくれた。涙も枯れ果てて、喉もひきって痛む頃、ようやく落ち着いて鼻をすすった。 「あの子には、俺と同じ罪を……親を見殺しにする罪を負って欲しくなかった」 エクはぽつりと告げる。 「……俺の育ての親のことを告げたな」 「ええ」 「俺は、あの女を見殺しにした」 「エク」 「キサの保護の理由だ。こんなのは独善的だと思う、本来の探偵にはあってはならないことだ」 まるでひどい失敗を告白する幼い子どもみたいな態度に私はまた笑った。もう笑わないと思っていたけれど。 「あなたのそういうところ嫌いじゃないわ」 「プロとして失格だ」 「救われた人間がありがたがってるのよ。素直に自分のしたことを認めなさいよ」 「しかし」 「あなたって、本当にくそまじめね。チェリーボーイじゃないでしょう」 私の下品なジョークにエクが耳と尻尾をぴーんとたてて、毛も逆立てる。私は目を丸めた。 「もしかして、」 「そんなこと答える義務はないだろう!」 エクをからかうのは面白そうだけど拗ねられても困るので私はすぐに降参と両手をあげた。 「ごめんなさい。この真実は私のお墓までの内緒にしておくわ」 「だからっ」 「あの子は、あなたたちのところにいるのね。それだけで私は十分救われたわ。生きていてくれるなら、どんな形であれ」 「欠片がとれるのはいつになるかわからないが、俺が、必ず貴女の元に返す。貴女の愛情がキサに与えられる間に」 私は沈黙した。夜になるとあの子がおなかがすいたとぐずって泣き出す声が聞こえてくる。はやくだっこして、ミルクをあげなくちゃと思うたびに胸が張って、裂けそうになるほど痛い。 「俺はキサを守り、育てることに協力する。俺たちの仕事は危険も多いが、貴女にキサを返すまでは決して死なない」 「私が……待てるかしら」 「どういう意味だ、それは」 「あなたも知っているわよね? ハワードの立場がどういうものなのか」 「……だいたいは」 「私はあの人の妻なのよ」 「キサの母親だ」 エクの、驚くほどきれいな月の瞳が真剣に私を見る。 「この檻からも連れ出す。インヤンガイでマフィアの争いがない街まで逃げればいい」 「私、足が動かないのよ」 「多少なら支援もできる。だから、諦めるな! あの子の母親だろう! 貴女はあの子を助けるために必死に逃げたんだろう! なら今回も逃げてくれ。生き延びてくれ!」 私は困ったように笑った。すると、エクか口を噤んで拳を握りしめると尻尾の先をぱたぱたと不愉快げに振った。 「貴女はキサの母親だ」 「そうね。けど、ずっと支援してもらえるわけでもない。夢を見るほど子どもではないのよ。動けない母親と赤ん坊がこの世界で生きていけると? 笑わせないで、あなたの独善がいつまで続くかわからないことに怯えて生きろと? あなたの気まぐれで断ち切られて死ぬと?」 「そんなこと俺はしない。絶対に」 「あなたが死んだらどうするのよ。それに私はハワード・アデルの妻なの」 「あの勘違い男のなにが」 「私の夫よ」 「あいつは、キサを殺そうとしたんだぞ。貴女にも嘘を告げて、閉じ込めた!」 「マフィアは嫌いよ。けど、マフィアでもあるあの人を愛したのも真実なのよ」 エクは絶句して拳を戦慄かせ、必死に息を整えて、私を見る。 「キサはどうなる」 「エク」 「キサはママに憧れていた。ママが大好きだと言っていた。貴女のようになりたいとずっと……なのに、捨てるのか!」 牙をむき出しに全身を震わせるエクに私は駄々をこねる子どもを見るように小首を傾げた。 それがエクのなかのなにかを爆発させることも、わかっていたけど。 「貴女も、なのか」 「エク?」 「自分勝手な都合で子どもを巻き込むな!」 伸びた手が私の首を押さえて、締め付ける。驚くほどに弱弱しく震えていた。殺意と葛藤がぐちゃぐちゃにまざったまなざしで私を見つめる。 「貴女も、なのか……貴女も、母と一緒なのか……俺を、また殺そうとするのか?」 彼の言葉に私は目を丸めた。 そこでようやくエクの鈍い黄昏色の瞳が何を見ているのかわかった。 頬に後悔と罪悪の雨が、しょっぱい粒が、ぽたぽたと落ちる。 「俺は、俺はっ、見殺した」 血を吐くようにエクは告白する。 「俺はあのときのことをよく覚えている。苦しくて、重くて、けれど一番悲しかったのは知らなかったことだ……いつも俺のことを撫でてくれるあなたじゃなかった! ……わかっていたんだ、俺は、普通の子どもじゃない、毛があって、牙があって、目も……けどあなたは笑って、頭を撫でるから……けど、けど! 愛情でなにもかも覆い隠そうとしていたのも、感じていたんだ! そんなのがいやだとも!」 「エク」 「醜いといってくれてよかったんだ、怖がってくれても、よかったんだ……無理してほしくなかった。本当の俺を受け入れてほしかった、愛してほしかった、」 「母親だもの。受け入れてあげたかったのよ、あなたのことを」 「本物の親子なら、遠慮なく言えたんだろうか? ……俺はここまで育ててもらったのに、肝心なときに何もできなかった」 私はエクをしっかりと胸の中に抱きしめる。 「受け入れてあげたかったのよ、方法は間違えて、あなたを傷つけて、最後裏切ってしまったのは私が弱かったから、けど必死だったのよ。あなたのことを愛そうと」 「……っ、無理、しなくてよかったんだ。母さん」 噛みしめた嗚咽を聞きながら私はさらさらの毛を撫でる。 親なんて、捨ててしまえるのに。けど、捨てたとしても親は親のまま。無視しようとしても生きているとずっと足をとってひきずられてしまう。いつまでも、いつまでも。 「ごめんなさい、けど、あなたのことを愛していたのよ、エク、本当に。許してあげて。そしてあなたも自分を許して」 揺り籠のなかに眠る赤ん坊を抱くように頭を撫でているとしばらくしてエクがぎょっとして飛びのいた。すぐに髭の先までかちんこちんにして私でもわかるほど真っ赤になってうつむいた。 「っ、すまない」 慌てるエクに私は理解ある頷きをしたあと口を開いた。 「エク、依頼したいの」 「……理沙子?」 「けど、お礼は……私には自由にできる財は私しかないの。だからあなたのいうこと、なんでも一つ聞いてあげる」 私はエクを見つめた。 「依頼内容は至極簡単。もう一度ここにきてほしいの。そのときナイフを一本、渡してほしいわ。そしてハワードに会うとき、そばにいて。危険が大きいから断ってくれてもいいわ、かわりに二度と私の前には現れないで。……感謝しているの。会いに来てくれて、嬉しかった。教えてくれて、本当に救われたから、だから、もう逃げない。決着をつけるわ。自分のしたことにたいして」 エクが目を眇めたのに私はとびっきりの笑顔を浮かべる。ありがとう、エク。
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