探偵として依頼を受けるため、インヤンガイに再び、エク・シュヴァイスは訪れた。 駅から出るとすぐに屋台や店が軒を連ねる賑やかな通りに出るとゆっくりとした足取りで進み、銀のナイフをずらりと並べて売る店で一本の小さなナイフを手にとった。細くて女性でも使える、けれど人を殺すには難しい、そんなナイフ。月色の瞳は迷いを孕むが、すぐになにかを決意したように手に力をこめる。「これを」 前と同じように帽子の機能を使って透明化し、慎重に、病室に訪れた。 なかにはいるとベッドに理沙子は横になって眠っていた。そっと近づくとゆっくりと目を開ける。「エク? 来て、くれたの?」 理沙子は微笑むのにエクは口を開いた。「……ああ」「ナイフは?」「ここにある」 エクはわが身を晒すと懐に隠してあったナイフを差し出した。理沙子はゆるゆると緩慢な動きでナイフを手にとった。「ありがとう」「元気がないな」「……たぶん、薬のせいよ」 エクは眉根を寄せた。「痛み止めと、精神安定剤とか。あの人が病院に手をまわして食事にいれてる、らしいわ。おかげでここ数日頭がもうろうとするの、不安も恐怖もなくなるわ。けど……とても眠くて……午後からあの人が部屋にくるわ。そろそろよ」「大丈夫なのか? しっかりしろ」「心配性ねぇ」 理沙子はからからと笑った。「……事を終えたらその刃を、誰の血で染めることなく俺に返してくれ」 理沙子はじっとエクを見つめた。「俺の言うことを、なんでも一つ聞いてくれると言っただろう? 貴女はキサの母親だ、貴女を人殺しにしたくない……探偵が依頼人を犯罪者にするワケにはいかない」「だめ」 理沙子は穏やかに、けれどはっきりと言い返した。「報酬は後払いよ。あなたが私の依頼を達成したとき、報酬を払う。それ以外は応じない」 エクは口を一文字に結ぶ。「侮らないで。交渉は常に自分が有利に立つようにしなくちゃ。あなたはこれでここにいるわね」「理沙子」「……大丈夫よ、私は力のない女だもの。両足失って動けないし、薬で頭もまともに動いてないもの、エクが恐れるようなことはしない。それって、きっと力のある男の人の考えだわ」「俺は貴女に生きてほしい」 理沙子は目を瞬かせる。「そして覚悟を見にきた」「……ねぇ、エク、あなたは大切な人を裏切ったことはある? そのときあなたはどうしたの?」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>エク・シュヴァイス(cfve6718)=========
朧月のような金瞳を眇めてエク・シュヴァイスは理沙子を見る。 顔色は紙のように白いが、瞳に宿す光からは確かな覚悟を読み取れたのにエクは口を噤んだ。言っても彼女は聞かないだろう。それくらいここに来たときから理解していた。 「ただの薬、のようだな」 エクは一人愚痴る。 あの男なら理沙子に毒を盛る可能性もあると思ったが、そんなことはしていないようだ。 「心配?」 「力の無い女性でも、刃物があれば手首を切ることは出来る」 自分でも、他人でも。 エクは苦笑いして取り繕うように言い添える。 「言ってみただけだ、そこまでヤキが回ってないと思いたいが、どうかな」 「信用してないのね」 「信用されるようなことを貴女はしたか」 心配を隠すように茶化してエクは言い返す。 「してない。だから仕方ないわ。けど、エクは私のことを信じてきてくれた。私はエクのことを信じた。我儘で身勝手だけど、私はエクに助けてもらえてうれしかった。セリカや、エクに出会えて、本当に感謝してるのよ」 身をよじって理沙子はエクに微笑む。 エクは笑おうとして失敗し、帽子を深く被った。 「照れた?」 「馬鹿」 文句を口にしてエクは理沙子を伺い見る。 「前に育ての母親を見殺しにした話はしただろう? それが、俺がはじめて行った裏切りだ……いいや、小さなものならきっともっといっぱいある。けれど俺が覚えていて、後悔しているのは、それだ。助けを請われ、助けようと思えば救えた……俺はそれをしなかった」 ――エク、エク、助けてちょうだい……! 必死にすがりついた義母をエクは恐怖と軽蔑をもって見下ろした。自分が殺そうとした子に助けを求めるみじめな女を心から否定することで、あのときの復讐が出来ると若い自分は思ったが、所詮それは幼い子どものような仕返しで、心はちっとも晴れなかった。 本当は、その手をとって、期待して、また傷つくことが怖かったのだ。 目を逸らして、平気だと口にしてもまだ傷ついて怯えた子どものままで、あのときからちっとも先に進めていない自分がいる。 理沙子と会って、あのときの後悔と自分は向き合っている。 お母さん 自分は悔やんでいる。だから、彼女を救いたい。そうすることで許されるなんて思わないが、進みだすのだ。今度こそ。 己の弱さも、過ちも受け入れて 「貴女もまた、ハワードを裏切った」 「ええ」 「ハワードの判断は確かに冷酷だったと思う……だが、その選択は貴女を護る為だった。欠片を宿したキサが願うだけでアイリーンを塵に変えた。危険な力を宿した存在が最愛の妻の腕の中だ」 理沙子は目を伏せたまま黙っている。 エクはじれったくて言葉を紡ぐ。 「その気持ちを汲んでやれないか」 理沙子はゆっくりと目を開けてエクを見る。 「私はね、母親でいたかった。私は私の母親のようにならないと決めて、固執していた」 理沙子の母親の霊とエクは向き合い、彼女の過去を垣間見た。 理沙子がああなりたくない一心で必死にあがいて、迷い続けていた。そうして夢を見ていた。家族を作ることで、幸せを得られると。 「あの人に家族をあげたかったの」 「理沙子」 「ううん、欲しかったのは私ね。けど、本当に幸せをあげたかったの……私の依怙地さがあの人を傷つけてしまった」 「まだ、間に合う」 エクは低い声で励ました。こんなもの気休めといえばそうかもしれない。けれど必死に戦った彼女を母親として認めたかった。 「俺は、そのために依頼を受けたんだ」 ぎぃとドアが開くのにエクは振り返った。全身の毛が泡立つ鋭い殺気に拳を握りしめる。肺を圧迫するような冷やかな眼窩にさらされてもエクは不遜に笑った。 「勝手に邪魔したことは謝るから銃は取るな」 ハワード・アデルは何も言わない。ただ黙って睨んでいる。本当ならさっさとこんなところからは退避したいが、自分の背にいる理沙子が必死に服を握りしめ、縋り、助けてと口にしている。 「立ち去れと言われても、今回の俺の仕事はこの場にいることでね」 エクはわざと軽口を叩いて舌を出した。 「黙っていろとは言われてないから好きにさせてもらうぞ」 「……来ると思っていた」 「なんだと」 「受付で騒動を起こしただろう」 エクは思わず舌打ちしたくなった。はじめの訪問が耳にはいっていたのか。 「なら、わざわざ隠れる必要もなかったってことか。それにしては不用心だな」 「これ自体、罠だと思わないか? 鼠は元から駆除したほうがいいだろう」 ハワードはエクに近づいた。間合いを縮め、睨みあう。 「鼠と一緒にしないでくれないか? 俺は、探偵として、ここにいる」 「彼に依頼したのは私よ。ハワード、あなた、やめて」 理沙子の言葉にハワードは目を眇めた。 「薬が足りなかったのか」 「彼女は必死に戦っているんだ。なぜわかってやらない! 彼女に薬を与えて意識をもうろうとさせてどうするつもりだ」 エクは牙を剥きだしに唸った。 「なにも。ただここから出ることを禁じているだけだ」 「どういう意味だ」 「お前たちが接近しているなら、理沙子は必ず娘を探すだろう。それを阻止するためだ。私もまだ甘いな。もっと強い薬を与えて眠らせておけばよかった」 「貴様!」 エクは興奮に毛を逆立てて怒鳴っると胸倉を乱暴に掴まれて壁に追いやられた。 「理沙子に近づくな。殺してやる。お前たち一人残らず!」 「っ!」 万力のような力にエクは抗い顔を歪める。せめて蹴りを放てる間合いをと必死に考えているとハワードの動きが止まった。 「エクを離して」 エクも緊張に身体を強張らせる。 理沙子が自分の首元にナイフを突き立てているのにようやくエクは理解した。彼女はこのときのためにナイフを欲していたのだ、と。 「理沙子!」 ハワードが狼狽えた隙をついてエクの右足がしなる鞭のようにハワードの腹を蹴る。床に倒れたハワードが起き上がるよりもはやく、その首に足を添える。 「骨を折るぞ」 「噛み千切る」 「……俺は、殺し合いのためにきたわけじゃない。依頼を受けたのは言いたいことがあったからだ。キサのことで」 ハワードは目を眇めた。 「キサも貴方の元へ戻ることを迷っている、恐らく貴方と似た心境だ。貴方のキサに対する嫌悪の理由は知らない、キサにその真意がわかるはずもない。大人の感情なんて、子供には分からないものだ」 「……あの娘は私に似すぎている」 ハワードは吐き捨てた。 「理沙子の子なら、愛してやれると思った。けれどあの子どもは私に似すぎだ。どうして理沙子に似なかった! あの髪、あの瞳……昔の私を見ているようだ」 ハワードがキサに激しい拒絶を覚えたのは、自分に似ているからだ。 それは自己嫌悪に似た同族嫌悪だ。 ハワードは両親を失い、復讐のために生き続けたが、それは彼にとって傷だった。決して消せない。ゆえに己と似たものに本能的に拒絶感を覚えてしまう。 親とは、自分の親から学んだことを示しながら子どもとともに知り、なっていくものだ。しかし、ハワードはその愛を受けるべきときに他者を憎み、マフィアのボスとして立場から切り離すことしかしてこなかった。 理沙子も母親に虐待されて親としての愛を知らない。 二人は知らないことが多すぎた。時間をかけて、ひとつひとつクリアーするべき問題をキサが欠片を手に入れて成長した姿と力はハワードには拒絶以外の選択肢しかなかった。 「キサは貴方じゃない。似ているのは親子だからだ。受け入れないというのなら、受け入れなくてもいい。すべてを受けいれる必要なんてないはずだ。ただ、キサが帰ったらおかえりと言ってやってくれないか。あの子にはまず、帰る場所が必要だ。……しっかりしろ! 大人だろう! キサは、子どもは大人を選べないんだぞ!」 「エク」 理沙子の声にエクははっと我に返った。 「すまない。つい感情的に」 「ううん。私たちは知らないことがいっぱいなだめな大人ね。こんな私たちでもキサは受け入れてくれるかな?」 「キサは母親に会いたがっていた」 「そっか」 理沙子は苦笑いする。 「いいよね?」 「理沙子? 待て!」 エクが声をあげる前のに理沙子はナイフを握る手を動かした。 「理沙子!」 ハワードが叫ぶ。 さら。白いシーツに黒髪がまるで涙のように零れて、溢れる。 「あー、さっぱりした!」 エクは唖然と理沙子を見つめた。 「どうして」 「だって、邪魔だもの」 「邪魔って……」 「戦うには邪魔だもの。これが私の答え。私はハワードの妻なの。それを否定しないで、夫婦で待てって言われて嬉しかった。ありがとう。エク……私の夫は狼よ。その妻だって獣だわ。何も知らない。だから私はハワードに教えて、護っていく。もう守れるだけはおしまい! ……キサに伝えて。こんな親でもいいなら、精いっぱい向き合う。この世界は今、ひどい有様で、もしかしたら死ぬかもしれない。つらい想いをいっぱいするかもしれない。それでも、こんな私たちを許してくれるなら、帰ってきて」 理沙子は泣き笑いながら断ち切った髪の毛を差し出した。 「せめて、あの子に渡して。これが私の決意だと」 「確かに受け取った」 さらさらとこぼれた花弁のような髪をエクは握りしめた。 ハワードはふらふらと立ち上がり、理沙子を抱きしめるのに理沙子はゆっくりと両手でハワードを包み込んだ。 「一緒に、キサに謝りましょう? ねっ。二人で考えましょう、ハワード……ごめんなさい、あなたを裏切って」 エクはじっと夫婦を見ていた。 これがたぶん親なのだ。 子どもが思うほどに強くなくて、ものを知っているわけでもなくて、間違いを犯して、生きている。 あのとき、母を……きっと大人はすごいものだと幻想を抱いて、だから許せなかった。 今更でも、許そう。自分と母を。そして、進んでいこう。 ナイフを返されてエクは苦笑いする。 「貴女はいつも突拍子もないことをする依頼人だ」 「あら、約束は守ったじゃない。血で汚してない」 エクは押し黙る。 「男の人っていやね。いつも血を流すことばかり考えるの」 「後払いは」 「まだよ。あなたはキサに私の言葉を伝えていない」 エクは文句を口にしようとしてやめた。理沙子の横で穏やかに笑っているハワードの顔を見て馬鹿らしくなった。なにが後払いだ。 出ていこうとするエクにハワードは思い出したように 「今度見舞いにくるときは、普通に来るといい。私はお前たちを信用はしない。だが、理沙子が望むなら許可する」 エクは肩を竦めて、ロビーで偶然会った少女と男の二人に、理沙子に会ってやれと告げた。 ターミナルの司書室でちびめっこと勉強にいそしんでいたキサにエクは会うと託された伝言を告げた。 手渡されたそれをキサは困惑した顔で受け取って決意したように微笑んだ。 「ママ、パパ……ありがとう。エク」 「さてと、俺は行くぞ」 「どこに行くの? こばん食べるならキサと」 「今度な。依頼が終わったあと、一人でうまいものを食べるのは俺の楽しみだ……まったく割に合わない仕事だったからな、しばらくゆっくりさせてくれ!」 これだから女の依頼人はいやなんだ、エクは毒づきながら晴天の空の下を、尻尾を優雅にふりながら歩き出した。
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