ブルーインブルーでしばらく過ごすと、潮の匂いや海鳥の声にはすぐに慣れてしまう。意識の表層にはとどまらなくなったそれらに再び気づくのは、ふと気持ちをゆるめた瞬間だ。 希望の階(きざはし)・ジャンクヘヴン――。ブルーインブルーの海上都市群の盟主であるこの都市を、旅人が訪れるのはたいていなんらかの冒険依頼にもとづいてのことだ。だから意外と、落ち着いてこの街を歩いてみたものは少ないのかもしれない。 だから帰還の列車を待つまでの間、あるいは護衛する船の支度が整うまでの間、すこしだけジャンクヘヴンを歩いて見よう。 明るい日差しの下、密集した建物のあいだには洗濯物が翻り、活気ある人々の生活を見ることができる。 市場では新鮮な海産物が取引され、ふと路地を曲がれば、荒くれ船乗り御用達の酒場や賭場もある。 ブルーインブルーに、人間が生活できる土地は少ない。だからこそ、海上都市には実に濃密な人生が凝縮している。ジャンクヘヴンの街を歩けば、それに気づくことができるだろう。●ご案内このソロシナリオでは「ジャンクヘヴンを観光する場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけてジャンクヘヴンを歩いてみることにしました。一体、どんなものに出会えるでしょうか?このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが見つけたいもの(「美味しい魚が食べられるお店」など)・それを見つけるための方法・目的のものを見つけた場合の反応や行動などを書くようにして下さい。「見つけたいものが存在しない」か、「見つけるための方法が不適切」と判断されると、残念ながら目的を果たせないこともありますが、あらかじめご了承下さい。また、もしかすると、目的のものとは別に思わぬものに出くわすこともあるかもしれません。
「民草の日常生活を知るためにオーダーをしてや……」 椅子で優雅に足を組むアインスの脇に、店主は仁王立ちになる。海向けて開け放った扉をまっすぐに指し示す。捲り上げた袖から覗く逞しい二の腕が揺れる。 「出てけ」 きっぱりと。いっそ清々しい笑顔で、店主は言い放った。 無礼な言葉に、アインスは眼を瞬かせる。 「何でそうなるのか分からん」 氷蒼色の睫毛を持ち上げ、アインスは泰然と腕を組む。海よりも深い蒼色の瞳の美貌の皇子に、王者然と見据えられ、店主は大きく息を吸い込む。負けじと眦を上げる。扉を示す腕は下ろさない。笑顔も変えない。 アインスは悩ましげな溜息を吐き出す。難しい表情のまま、 「やはり下々の者達の考え方は私と相容れな――」 呟きを零しきるよりも先、 「出て行け」 轟くような声で怒鳴りつけられた。テーブルがびりびりと震える。離れたテーブルで様子を窺いながら酒を酌み交わしていた爺さま達が、ひィと首をすくめる。爺達の寿命を縮めるような怒鳴り声にも、アインスは動じない。ほんの僅かに眼を見開いて後、何でもないように瞬く。ふむ、と首を傾げる。 「ならばそうしよう」 動揺の欠片もなく立ち上がり、流れる所作で店を出て行く。背後で店主が何か喚きたてているが、意にも介さない。 外に出た途端、潮を含んだ風が蒼の髪に吹き付ける。眩い太陽の光に照らされ、輝く氷のように一筋一筋の髪が輝く。 追い出された食堂の前に立ったまま、アインスは難しげに瞼を伏せた。唇から息が零れる。 どうしてこうなったのか。 上に立つ者として、下々の者の考える事は理解しなくてはならない。いつか自らの国に帰り、王となった時、このような経験は糧となっているはずだ。 眉間に皺を刻み、氷色の皇子は追い出されるに至った経緯を思い返す。 そう、始まりはこの町で食事をした事が無いと気付いたことからだ―― 絶え間なく寄せる波に洗われ、得体の知れない貝や虫がへばり付き、今にも海の藻屑となりそうな古びた桟橋を歩く。ジャンクヘブンの一角、桟橋が幾重にも掛けられたエリアを見つけた時には、ここならば海の只中に浮かぶ洒落たレストランでもあるのではないかと期待したのだが、 「……こんな安っぽいレストランしか無いのか……」 危うい桟橋の上を歩き回った末、やっと見つけられたのは、波間から突き出た僅かな岩礁に、しがみつくようにして建てられた小さな白壁の食堂一軒きりだった。 「あの喧しい市場の方がマシだったかもしれんな」 潮騒に包まれた静かな食堂は、アインスにはどう見ても寂れている上に安っぽくしか見えない。 「ほとんどの料理は、この私の肥えた舌には合わなさそうだが……」 しかし海には近い。 シーフード料理であれば高貴なこの口にも合うかもしれない。 「話の種に食べていってみるか」 自分を納得させ、アインスは開け放たれたままの食堂の扉を潜る。幾つかのテーブルとカウンターしか無い狭い店内には、何故か呆然とした顔の老人数人と、カウンター向こうでこちらも何故か渋い顔をしている恰幅のいい店主が居るばかり。 開いた扉や幾つもの窓から、潮騒と温い風が入り込む。少し離れた場所にある市場の喧騒が遠く聞こえている。 いらっしゃいませの言葉も笑顔もない。店主が案内に立つ様子もない。 こんな辺鄙な場所に足を運んでやったのだ。ひれ伏して『ようこそお出でくださいました』なり『わざわざありがとうございます』なり言うのが普通だろう。 無礼な、と思いながらも口には出さない。下々の流儀はこのようなものなのだろう。 複雑な思いを抱きながら、足取りには全く出さずに店の真ん中のテーブルに着く。椅子を引くメイドも居ない。 小さく溜息を吐き、それでも忍耐強くアインスは店主を呼んだ。別のテーブル席で昼間から酒を呑んでいる老人達が、こちらを興味深そうに眺めている。 窺うような老人の視線は不快だが、見られることには慣れている。アインスは背筋を凛と伸ばす。見たければいくらでも見ればよかろう。 「こんな安っぽいレストランで何をご注文で」 店主が脇に立ち、仏頂面で問うてくる。 「そうだな、注文は――」 店主の不機嫌には全く構わず、アインスは少し考える。こんなレストランにあるとすれば―― 「ペルセベスのワイン蒸しアンダルシア風と、ロブスターのリゾットを地中海風で。それからロマネコンティをボトルで頼む」 アインスの口からすらすらと発せられた料理と酒の名に、店主は不機嫌も吹き飛んだ不思議そうな顔をする。何だいそれは、と異国の言葉を聞いたように首を傾げる。 「料理とワインだが」 教えてやっても、 「そんなワインは無い」 そんなもんあるのかね、と逆に聞き返してくる始末。 「仕方ないな」 アインスは鷹揚に眼を細める。 「ならカレラジャンセンで我慢してやる」 店主は首を横に振る。それさえもないらしい。それどころか、 「料理も作れねえよ」 はっきりと言い放つ。それでも料理人か、とアインスは叱り付けたくなるが、ここは城ではない。そんなことは百も承知だ。 「なら、一体どんな食事が出来ると言うのだ」 精一杯の譲歩に、店主は引きつった笑みを浮かべた。低い声で幾つかのメニューを並べる。牡蠣のクリーム煮、白身魚のフライ。 「なるほど、下々の者達はそういったものを食す訳か」 ならば私も、と皇子は静かに頷く。 「民草の日常生活を知るためにオーダーをしてや……」 折角の言葉を、店主は途中で無粋に遮った。出て行け、と言われたのはその直後だ。 アインスの白い眉間の縦皺がますます深くなる。 (何故だ) 顎に繊細な指を当て、潮風に吹かれて考えるが、答えは出ない。 私に落ち度は一つとして無かった筈だ。 むしろ店主が落ち度だらけだろう。 客を迎える態度はなっていない、客の注文にも応えられない。更には開き直る。客が譲歩しなければならない。あまつさえ出て行けとさえ言う。 「全く民草の考える事は分からん」 アインスは息と共、頭を悩ませる事柄を全て吐き出す。このままここで詰まらぬことで悩んでいるのは、時間の無駄と言うものだろう。 「これから少しずつ民衆の考える事を理解していけばいいか……」 瞳と同じ色の、晴れ渡った空を仰ぐ。眉間に刻まれていた深い皺が解け、涼やかな表情がその顔に浮かぶ。 悩むのはここまでだ。 頭を切り替える。さて、帰る前に一つ土産でも買いに行くか。 ここに来る前に通りがかった、賑やかな市場を思い浮かべる。確か、市場の隅で、露天商が貝を加工したアクセサリーを売っていた。 (貝のイヤリングなどはいいかもしれんな) 怜悧すぎて時に酷薄にも見える美貌に、淡く優しげな笑みが滲む。 (きっと彼女も喜ぶだろう) 想う相手の笑顔が、胸を甘く温かくする。 どうやって渡そうか。手ずからあの小さな耳に付けるのも良かろう。 (自分用にお揃いのイヤリングも買っておくか) 通りすがりの女が思わず振り返るほどの甘い笑顔は、不意に、心底楽しげな顔へと変わる。どこまでも愛しい女の後に浮かんだのは、彼女を同じように愛しく想っているらしい弟の顔。 その弟に、彼女とお揃いのイヤリングを見せびらかしてやろう。 思い浮かんだ双子の弟の顔は、見るからに悔しげだ。 (愚弟に自慢してやるのだ) 海に向け、アインスは快活な笑い声を響かせる。 終
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