森は今日も、静謐な黒銀にたゆたいながら、あまたの想いをはらんだ光る果実を実らせ、誰かを待ち続けている。もしかしたら、永遠に出会うことは出来ないかもしれない誰かを。 「へえ……これが、想彼幻森か……」 レイド・グローリーベル・エルスノールが、精いっぱい伸びをしながら見上げている。 彼らの頭上では、黒い木々が伸ばした枝が絡みあい、精緻な文様を描き出している。 黒曜石と黒水晶、ブラックオパールを組み合わせて彫り出した樹木に、銀と白金の葉を飾りつけ、わずかなサファイアで陰影をつけたかのような、幻想的で美しいそれらは、しかし森全体が孕むのと同じものがなしさを持って佇んでいる。 「なんだろう、妙にせつないね」 レイドが言うのへ、ブレイク・エルスノールは小さくうなずく。 想彼幻森の空気は独特だ。 誰かのために実る記憶の果実が、やさしく、鮮やかで、烈しく、どこかものがなしい色で明滅しながら、いつか、遠い日に嗅いだことのあるような――懐かしい、かぐわしい香りで鼻腔をくすぐる。故郷を見失って久しい彼らの郷愁をかきたてる。 「それで、レイドさんはその……ここに実った記憶の果実? だっけ? それを探しに来たんだよね?」 「うん、ヴォロスのメイムで、気になる夢を見たものだから」 想うだけで愛しさが込み上げるのに、命を懸けて護りたかったと魂が叫ぶのに、何ひとつ覚えていない第一の主、すでにこの世にはない彼女のことをもっと知りたいとレイドはここに来た。 「ブレイク、君まで引っ張り込むつもりはなかったんだけど」 「でも、時々危険なこともあるって、夢守さんが言ってたから。何かあったとき、誰か対処できたほうがいいんじゃないかなぁって。僕も、想彼幻森がどんなのか、興味あったし」 ブレイクはおっとりと笑う。 形式上、レイドの主ということになっているブレイクだが、実際にはレイドから指導を受けている、師匠と弟子もしくは教師と生徒の関係だ。のんびりした性格の師弟は、公私ともによい信頼関係を築いている。 それゆえ、ブレイクは、純粋にレイドを心配して付き添いを申し出たのだ。 そして、ブレイクの気遣いが判らないほどレイドは鈍くもなければ世界というものに絶望してもおらず、その好意を素直に受け取り、喜ぶ。 「うん、ありがとう。戻ったらゾラと一衛がお茶を淹れてくれるっていうし、早く済ませて戻ろう」 「ああ、ここのお菓子は珍しくておいしいみたいだものね。楽しみだなぁ」 ふわふわとした、どこか幼い笑みを浮かべ、ブレイクは森を見渡す。 静かな森を漂い満たす、誰かへの想いが伝わってくる。 「誰かが誰かを想う気持ち、か」 それはきっと、鼻腔をくすぐるこの香りと同じくらい、甘く苦く深く、濃く淡く重く軽やかに、この森の中をたゆたっているのだろう。 「あ」 不意に、レイドが小さく声を上げた。 彼の視線の先には、七色に変わる不思議な果実がある。 「呼ばれたの?」 「うん、そうみたい」 タッと駆け出す猫妖精の、ゆらゆらと可愛らしく揺れる尻尾を見るともなしに見ていたブレイクもまた、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。その視線の先には、世の中の情熱という情熱を集めたかのような、鮮やかな赤の果実があって、ブレイクの心はひどく惹きつけられる。 「僕を……呼んだの?」 視線の隅に、器用に黒い幹へとよじ登ったレイドが、軽い跳躍とともに枝へ跳び移り、前脚で虹色の果実に触れるのが見えた。 それとほぼ同時に、ブレイクもまた赤い果実へと手を伸ばす。 ――ふわり、と、軽い酩酊感。 * * * レイドは、懐かしい悼みとともにそれを見ていた。 焼きたてのパンのにおい。 温かいミルクの湯気、スクランブルエッグをかき混ぜたときのバターの芳香、焼いたトマトの食欲をそそる香り。リンゴ、オレンジ、何種ものベリー、果物の鮮やかにして華やかな芳香。 そんなものが穏やかに満ちた家だった。 しかし、ひとつだけ異質なものがあるとすれば、それは、家人にしか判らない隠し部屋に祀られた獣面人身の神像だろう。 狼と梟と蛇の三つの顔に、首から下はしなやかな少年の肢体を持つ、異様でありながら荘厳なそれは、花と香と祈りによって祀られ、長い時間、受け継がれてきたものだ。 ――無論、魔法局が許した信仰ではない。 一般には邪教とされ、信者と判明すればただでは済まない、そんな類の信仰だ。しかしながら、邪教と呼ばれてはいても、それが邪悪な教えだったかどうかは今でも判らない。今や誰も判らない、と言うべきか。 なぜなら、魔法局にとって都合の悪い信仰は、その内容にかかわらず、すべてが邪教だからだ。魔法局が邪教の信仰を禁じ、信者を厳しく罰するのだとて、結局はその延長線上にすぎない。邪教を、人心を惑わすものと定義するとして、ならば魔術はどうなのかという問いに、正確に答えられるものはいるまい。 けれど彼は、邪教の徒であることを周囲に隠しながらも――平凡な、どこにでもいる住民を装いながらも、平和な、穏やかなこの営みに満足し、神に感謝していた。 両親はやさしく、勤勉で誠実で、彼のことを心底愛してくれている。 彼らの神は多くを求めることなく、日々を素朴に、誠とともに生きる大切さ、愛の重さを説いた。 それらを純粋に、朴訥に実践しながら、彼ら家族は――信者たちは生きている。 長く長く続けられてきた信仰を、後世へと引き継ぐために。 ――しかし、その穏やかな日々は、あるとき唐突に終焉を迎える。 「ここは私が食い止める、お前は母さんと行きなさい」 気づけば、彼らはすっかり囲まれていた。 邪教の信仰が、どこからか漏れ、魔法局に露見したのだ。 どこかで捕まった信者の誰かが、責めに屈し、もしくは大切なものを人質に取られて、他の信者について漏らしたのかもしれない。しかし、それを責めることは、彼らには出来ない。邪教とされ秘された神を信仰する厳しさなら、皆が知っている。 「お父さん、僕が。戦いなら、僕のほうが慣れているし、力もあるから」 今はまず家族の安全を確保しなくてはならない。 だが、両親を犠牲に生き残ることは、彼には耐え難かった。これまでを彼と神のために捧げ、正直に、純粋に生きてきた両親を、魔法局への贄に差し出しなどしたら、きっと彼の信仰は、魂は死ぬだろう。 渋る父を、哀しみ泣く母をなだめすかし、説き伏せて、秘密の通路から外へ逃がす。このまま祀りを途絶えさせるわけにはいかないと、異貌の神の像を抱かせて。 「……死ぬな、ユリノ」 隠し扉の向こう側から、絞り出すようにささやかれた、父の切実な願いに、約束することは出来なかった。 異教邪教の徒を粛正するために、魔法局内部から特に素質の高いものを集めて結成された執行部は、非常に高い戦闘力と、容赦のない戦いぶりで知られる。一対多数のこの現状において、安易な気休めは両親の哀しみを助長するだけだろう。 大きな音とともに執行部員が室内へ雪崩れ込んでくる。 廊下が狭いため、物量を押し込まれて圧殺されることだけは回避できた。 彼の剣の腕前は相当だ。一対一で対峙するなら、たとえ相手が執行部と言えども後れを取るつもりはなかった。 剣を合わせ、受け止め受け流し、相手の力を殺して跳ね返す。最小限の力で相手を無力化する。両親が逃げるだけの時間稼ぎが出来ればいいのだ。それ以外のことを彼は望まない。 その無心さゆえに彼は強く、執行部は苦戦を強いられた。 しかし、それでも、多勢に無勢だ。 いつしか彼は傷を負い、血と体力を失って、最後には気力だけで戦っていた。 痛みと熱に朦朧としつつも、ひたすらに剣を揮い続けた。 ――誰かが、埒が明かない、と叫ぶ。 すぐにレイドが来る、と誰かが怒鳴り返したとき、場違いなほどの優雅さで、オレンジ色の毛皮を持つ猫が、するりと現れた。 二足歩行し、人間と同じような衣装を身に着けた姿から、ケット・シー族の使い魔だ、と理解したときには、猫妖精は軽やかに跳躍していた。ナイフのように変化させた前脚が彼の腕に斬りつけ、腱を深く傷つけられて彼は剣を取り落とす。 それでもなお戦意を失わず、全身から血を噴きこぼした壮絶な姿のまま立ち向かおうとする彼に、猫妖精はある種の敬意、ある種の哀しみに満ちた目を向けた。 「ごめんね」 それとともに、軽い跳躍。 すでに身体が思うように動かせない彼には、その速さについてゆくすべもない。 ぎらりと光る前脚のナイフが、彼に濃厚な死を想起させるが、脳裏に浮かぶのは両親の笑顔だった。最期のこの時に、大切な人たちの大好きな顔を想いながら逝けるなら悪くない。そんなことさえ思った。 そして、鋭い刃が、彼の首筋へと吸い込まれてゆき、 ――――果実の記憶は、そこで途切れた。 レイドは、七色の果実を優しく撫でる。 「ごめんね、ブレイク」 意味がないと知っていて詫びる。 確かに幸せだった家族の、静かで平和な営みを破壊したのが自分たちなのだ。 何をどう詫びたところで、取り戻すことは出来ない。 そのことを、レイドは知っている。 * * * ブレイクはそれを、いったい誰のものだろうかと訝しみながら見ていた。 まだ少女と言って過言ではない、可愛らしい雰囲気の女性と、記憶の主との、つつましくも幸せな日々の記憶だった。 ふたりは周囲がうらやむほど仲睦まじい幼馴染であり、将来を約束した恋人同士でもあった。お互いがお互いを心底愛していて、相手のためなら苦労も厭わない、それぞれが相手を幸せにする方法を模索し続けている、そんな、微笑ましくも美しい恋人たちだった。 彼女は、あなたと逢うだけでこんなに幸せなのだから、いっしょに暮らす日が来たら幸せのあまり溶けてしまうかもしれないと笑い、苦労することだって怖くないと言った。彼は、君とする苦労ならそれはすでに喜びのひとつだと言い、だけど君には笑顔でいてほしいからいつでも幸せでいられるよう最善を尽くすと笑った。 愛することと愛されることのバランスが取れた、ひとつの完成された世界のようなふたりを、周囲の人々は微笑ましく見守り、時に羨み、そしてその幸いを祈ってくれた。 平凡で静かな、穏やかな日々だ。 何の変哲もない、けれどかけがえのない時間が、ふたりの愛をゆっくりと育んでゆく。 「レット、あなたが大好きよ」 彼女が笑うたび、胸を締め付けられるような幸福感に包まれる。 (これは、誰の記憶なんだろう? なぜ僕は、この果実に呼ばれたんだろう?) しかし、その幸せが暗転する日が来る。 ――病に寝付いた彼女が、必死の治療と祈りも虚しく息を引き取ったのは一年の後。 最後まで希望を失わず、最後まで彼への愛と感謝であふれた、短くも清らかな、美しい生だった。 誰もが、高い天の美しい国へ旅立ったのだろうと、きっと『向こう』で幸せにやっているだろうと、哀しみをこらえて――せめてもの慰めにと、口々にそう言った。きっとまた、向こうで会えるから、と。 けれど、彼は、それを慰めとして受け入れることは出来なかった。花に埋もれた亡骸の傍らで、哀しみにくれる彼にかける言葉を――彼を救う言葉を、誰ひとりとして紡ぎ得なかった。 まだ若い彼にとっては今のこのときこそがすべてだったのだ。 もう、彼女の笑顔を見ることも、話しをすることも、すべすべとした白い肌に触れることも、名前を読んだり呼ばれたりすることも出来ない。彼女は喪われ、もう戻ってはこないのだ。思い出は不朽だと、己の中に彼女がいるのだと透徹できるほど、彼は大人ではなかった。 「レット、少しは眠ったほうがいい」 埋葬が済み、周囲が少しずつ落ち着きを取り戻し始めても、彼は停滞したまま身動きも出来ずにいた。 彼女の形見を握り締め、ぼんやりとうずくまる彼を、老人が見つめている。 「レット。彼女は、絶望して逝ったわけではないのだから」 (あれ? この人は、確か……) しかし彼は答えない。 答える気力すらないのだ。 茫洋と宙に向けられた双眸は、何の感情も映してはいない。 老人はそれを哀しげに、痛ましげに――気遣うように見つめている。 ――音のない、色のない、何も動かない、記憶の果実の光景は、そこで途切れた。 ブレイクは、掌の果実を見下ろし、首を傾げた。 「……あれは、確か」 あの老人の顔には覚えがあった。 魔法局にあるレイドの執務室に、その肖像画が飾られていたのを覚えている。 鈴をくれた主だ、と、いつだったか紹介された。 「偶然、じゃ、ないよねぇ……」 大切な記憶のはずなのに、自分の中には何も残っていないのだと首を傾げる、あの謎めいた猫妖精の正体が何となく判った気がして、ブレイクは困ったように笑う。 この哀しみが、今の彼をつくったのか、と。 「レイドさん……レットさん」 そっと呟いてみる。 それは、どちらも妙にしっくりと、ブレイクの胸に収まるのだった。 * * * 記憶の光景が遠ざかり、黒く輝く森が戻って来たあとも、レイドはじっと果実を見つめていた。 あの日、ブレイクが……ユリノが、剣を取り立ち向かった理由が判ったから、より一層、心が痛む。彼が営んできた、普通の人々と何ら変わらぬ暮らしの、その満ち足りた幸いを垣間見た今、その思いはなおさら強くなった。 レイドは、彼を殺めたこと、その結果彼を悪魔に替えてしまったことに責任を感じていたのだ。 後悔することなど許されはしないが、それでも、奪ったこともまた正しいとは思えない。魔法局が絶対ではないと知っているからこそなおさら。 「だから……せめて、護るよ」 最後までユリノを気遣い、彼が死してのちは我が身を糧に悪魔と契約し、息子を復活させたという両親。今の法にはそぐわずとも、その愛と祈りがレイドには判る。 「どちらにせよ、あのまま放置することは出来ない。局に見つかって、いい玩具にされるだけだ」 魔人となったユリノ、今のブレイクと再会した時、真っ先に感じた危惧を口にして、レイドは改めて思う。 レイドは、だからこそ彼を自分の支配下に――身分上はブレイクの使い魔という主従に、実際には彼を指導する師弟に――加えたのだ。ブレイクを魔法局から護り、その力を適切に使えるよう導くために。 ブレイクは夕焼けのような色をした果実を手に、レイドを見ていた。 「そっちも、なにか見つかったんだ?」 問えば、困ったように笑ったブレイクに呼ばれる。 「……レットさん」 レイドはへらりと笑って、人間臭い仕草で小首を傾げてみせた。 「主のマネかい?」 なぜか、最後の最後まで、自分をその名で呼び続けた老人の、深い哀しみと慈愛にあふれた眼差しを思い出す。 そしてなぜか、その名で呼ばれると、胸が痛い。 しかしそれらは心の奥に仕舞い込み、レイドは陽気な仕草で肩をすくめる。 「じゃ、お茶をいただきにいこうか」 「……うん」 双方、さまざまな思いを抱えたまま、ひとまずは森をあとにする。 森は、清く深い香りで、ふたりを見送った。
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