ごおおおおッ。 大地を震わせ、巨獣が咆哮する。 その、象と熊を足して二で割り、凶悪さというエッセンスを付け足したかのような魔獣の、小山を思わせる巨体には、すでに無数の深い傷が刻まれている。巨獣が狂乱し、吼え猛り、暴れまわるたびに、赤くはない血潮が身体中から噴き出して地面に水たまりをつくる。 「――あとひと息、ってところだな」 フブキ・マイヤーがつぶやくと、傍らのヴィクトルは無言のままデッキをリロードし魔力を変換したカードを補充、『赤』のカードを四枚使用し炎の茨を編んだ《焔棘柵》を発動させた。 朱金の炎が有刺鉄線のように絡みあい、巨獣を取り囲み締め上げる。 動きを阻まれて、魔獣が怒りに満ちた咆哮を上げ、激しく身をよじった。 だが、炎の茨は巨獣を逃さない。 「ははあ、いいね」 フブキはにやりと笑い、指先でくるりと円を描いた。 宙に描かれたそれが光を放ち、 「“薔薇の宵(ロジエ・ソワール)”」 フブキの、短い詠唱とともに発現した炎の網――それはまるで、夕暮れ時に空に広がる太陽の残滓の赤、薔薇の花弁のようだった――が巨獣を包み込み、灼(や)きながら足止めする。皮膚を焦がされ、苦痛と怒りの叫び声を上げる魔獣に踏みしだかれて、大地は雷鳴のように轟いた。 二重の魔術に押し留められ、巨獣ががちがちと歯を噛み鳴らす。 赤い眼が、ちっぽけな狩人どもへの怒りにぎらぎらと輝いている。 「すまないな、お前さんが猛ると困る連中がいるんだよ」 フブキは肩をすくめ、また指先で宙に円を描く。円が白く光る。 「“白の忘却(ブラン・ウブリ)”」 それはどこか清冽な香りを放ちながら白い霧となり、魔獣を包み込んだ。 霧に触れた途端、巨獣の身体がびくんと跳ね、動きが止まる。 唐突な沈黙が周囲を支配した。 「出番だぞ、鴉羽」 振り向きもしないフブキの言葉に、言われるまでもない、といった風情で黒い風が駆け抜けていく。風は黒龍人の姿を取り、身軽な動作で巨獣の身体を駆け上がる。やがて首元に組みついた鴉羽が、裂帛の気合とともに鋭い爪を叩き込んだ。 ぼんッ、と内部で何かが破裂するような音がして、魔獣の巨体が激しく痙攣した。目や口や鼻、果ては耳から、赤くない体液がどろどろとあふれ出たかと思うと、上体をぐらぐら揺らがせたのち、巨獣はゆっくりと倒れていった。 巨体が倒れた衝撃で、地面が揺れる。 「……ふむ、一件落着、であるかな」 飛天 鴉羽が、巨獣の骸から軽やかに飛び降り、着地する。 「ああ、おつかれさん、ふたりとも」 「うむ、よい連携、よい経験であった。フブキ、鴉羽、礼を言うぞ」 「ははは、そりゃ面映ゆいね」 心配そうに様子を見守っていた人々が、喜色と感嘆を浮かべて駆け寄ってくるのを視界の隅に認めつつ、もはやピクリとも動かない巨獣を見下ろす。 ヴォロスの大地は今日も豊かだ。 * * * 「……で、さっきのアレはなんなんだ?」 帰りの、ロストレイル車内である。 フブキの問いに、鴉羽は首を傾げた。 「さっきのアレ、とは?」 「それは我輩も思っていた。彼奴に叩き込んだ技のことだ」 「ああ、破内爪か。以前、必要に駆られてというか、追いつめられてというか、ともかくそういう状況下で会得した技だ。奥の手というやつかな。――それが何か?」 何を問われているのか判らず、返すと、フブキとヴィクトルが顔を見合わせた。 「いや、もっと効率のいい使いかたがあるだろう? 我輩やフブキ殿のように、自分の適性を見極めて魔力を変換するやりかたが、一番無駄がない」 「ああ、あれでは魔力を直接、物理的なエネルギーとして使用しているだけだ。簡単な買い物をするのに、小銭がないからって金の延べ棒を支払っているようなものだぞ」 ふたりの話を要約すると、『もったいない』ということになるらしい。 しかし、鴉羽は再度首を傾げるしかない。 「……魔力とは、私の、か? そんなものがあるのか?」 そもそも、魔力だの魔法だの魔術だのの存在こそ知っていても、それに関する教育を受けたことはなく、また知識も少ない。何より、自分がそんなものを持っているなどと、今まで思ったこともなかった。 「知らなかったのか」 「我輩には、出発前から、貴殿の身体中から魔力のあふれるさまが見えていたのだが……」 「ああ、俺もだ。何か理由があるのかと思って、尋ねなかったんだが……そうか、知らなかっただけか」 呆れたような、感心したようなふたりの言葉にも、鴉羽は疑問符を浮かべるばかりだ。 「その、魔力というのは、今もあふれているのか?」 自分の身体を見下ろし、あちこち確かめてみるものの、魔力のなんたるかすら知らぬ彼女に判るはずもない。ヴィクトルが首を振った。 「いや、先ほどの、その……破内爪といったか、それを使って体内魔力が減ったからだろう、今は止まっている。相当な量を消費したようだな」 「ああ。しかし……やはりと言うべきか、もったいないな」 腕を組み、つぶやいたのはフブキだ。 「もったいない、とは?」 鴉羽には、正直言って何のことか判らない。 自分に魔力というものがあることすら初めて知ったのだ、何を言われているのか見当もつかない。 「身体からあふれるほどの生成量なのに、ただ垂れ流しているだけなんてもったいなさすぎる。せっかくこんなに潤沢なんだ、もっと有効活用するべきじゃないか?」 「そういうものか。いや、しかしだな、」 「貴殿の言いたいことは判る。そのすべがない、と言うのだろう?」 「うむ」 鴉羽が同意すると、フブキはにやりと笑い、ヴィクトルは懐から分厚い書物を取り出した。 「ここに『現役』がいるんだ、教師としちゃ、最適じゃないか?」 いたずらっぽいフブキの言に、鴉羽は何度か瞬きをし、それから頷いた。 ――どうせ、ターミナル到着までは時間がある。 己にはない知識を得るのもまた、一興だろう。 * * * 「そもそも、魔力とは何であるか? それには、まず、魔という文字を読み解く必要があろう」 ふたりの講義は滔々として淀むことがない。 「魔という文字には、人を痺れさせるであるとか、害を与える存在であるとか、人心を乱し道の妨げになるものであるとか、恐ろしげな意味が込められている。しかし、同時に、不思議な、神秘的な、魅力的な、恐るべき――強大な、という意味も持っているのだ。これは、興味深い暗示だと思わないか」 「要するに、魔力というのは、それのみでは善でも悪でもない。ただの、エネルギーに過ぎないわけだな。そこに方向性を与えて発するものを魔術、魔法、魔導なんて呼ぶわけだ」 「フブキ殿の言うとおりだ。魔導師、魔術師、魔法使いといったものどもは、つまるところエネルギーの扱いに長けた存在ということになる」 「あとは、イメージの具体化に長けてる、っていうのもあるだろうな。結局のところ、魔術というのは、イメージを介して法則外の現象を発現させる技術だ。その技術を用いるのに必要な『材料』が魔力ってことだな」 「……私には、その『材料』がたくさんある、ということか」 鴉羽の言に、ヴィクトルは頷いたが、しかし、と付け足した。 「無駄な魔力をあふれださせ、制御も出来ずにいるようでは意味がない。今後の任務に支障が出るやもしれぬし、魔術、魔法を生業とするものどもに自身の存在を見抜かれることにもなろう。気配と同じだ、それを察知される危険は理解出来よう?」 「うむ」 「そして、魔力を垂れ流すことで、己が生命力を失う危険もある。今までは問題なくいられたかもしれないが、今後、どんな変化によっていかなる変調をきたすか、誰にも予測は出来ぬし、安全なままだとは誰にも保証できぬ」 ヴィクトルの物言いは静かだったが、内容としてはあまり楽観視ばかりも出来ない。鴉羽は初めて自分の中にある魔力の存在を知ったものの、それが今もただ流れ出ていることに変わりはないのだ。 「では、どのようにすれば?」 「うむ、そんなわけでな、我輩は貴殿に魔力の制御法を伝授しようと思う。魔術を使うにせよ使わぬにせよ、魔力の、エネルギーの循環を自在に扱えるようになれば、自ずとさまざまな物事が整えられてくるはずだ」 ヴィクトルは、鴉羽に、まず身体の力を抜くよう指示した。 それから彼女に目を閉じさせる。 「では、魔力制御の簡単なイメージトレーニングから。深呼吸をひとつして、自分の身体を思い浮かべる。貴殿の身体には、穴が空いている。身体中にだ。それは光っていて、触れることは出来ないが、膨大な量の何かが流れ出している。その穴を、ひとつひとつ閉じてゆく。ゆっくりと、ひとつずつ、確実にな」 身体のすみずみに空いた光る穴。 そこから流れていく、不可視不可触の何か。 それを押し留めるためには、光る穴を意識の蓋で塞いでゆくしかない。 丁寧に、ゆっくりと、言われたとおりにイメージを展開する。 鴉羽自身には、残念ながら変化があったようには思えなかったが、 「ふむ、わずかにだが流れが緩やかになったように思えるな」 「俺にもそう見える。やっぱり素質あるんじゃないか、お前さん」 先達ふたりの言葉からは、それなりの手ごたえが感じられた。 「我輩も同感だ。――とはいえ、それは一朝一夕でどうこう出来るものでもない。このトレーニングを、毎日、少しずつでいいから続けるのだ。慣れれば、いずれ、己が魔力の流れも見えてこよう」 「そういうものか」 未だ実感はわかず、首を傾げるものの、知識と技術を伝授してもらったことに変わりはない。鴉羽はヴィクトルに向かい、深々と一礼した。 ヴィクトルが苦笑し、首を振る。 「そのように改まられることでもないな。我輩自身が気になって仕方ないというだけのことだ。我輩としては、貴殿のその体質が改善され、無駄な魔力消費が解消されればそれでよい。……なにより、そのことが、今後我々を救ってくれるやもしれぬのだからな」 そして、講義にも使っていた分厚い書物を鴉羽に手渡す。 「これは?」 「初級の魔術書だ。このレベルの内容ではすぐに実践とはいかぬが、基礎を培うには充分だ。貴殿に進呈しよう、よければ役立ててくれ」 「……すまぬ、恩に着る」 「よし、じゃあ次は俺だな」 フブキがずずいと身を乗り出す。 「ヴィクトルが基礎を伝授するなら、俺は初歩を教えよう。さっきの、イメージの具体化の続きだ」 「うむ、拝聴しよう。師匠と呼んだほうがいいか?」 「おお、そりゃ背筋が伸びるってもんだな。まあ、それはさておき、魔術におけるイメージが重要な位置を占めてる、ってのはさっきの講釈の通りだ。そのイメージを補助するために、俺たちは詠唱を用いたり、印を結んだり陣を描いたりする。そういう場合もある、ってだけで、必要ない連中もいるんだろうけどな」 「ふむ」 「俺は長ったらしい呪文ってやつが好きじゃなくてね。ごく短い詠唱で済む初歩的な魔術を、薬品や物理攻撃と組み合わせて使うほうが性に合ってる」 胸の前で掌を開き、 「“煌光(サンティユモン)”」 唱えると、彼の手のひらで光が踊り、きらきらと舞った。 『無』から『有』をつくる、魔術の不可思議さに鴉羽は感心するしかない。 「まあ、習うより慣れろ、だ。なんだって実践に勝るものはない。試しに、陽光をイメージしながら、太陽を意味する竜語『ショール』を唱えてみろ」 「……やってみよう」 ヴィクトルに教わったとおり目を閉じ、太陽と、放たれる光とを思い浮かべながら胸の前で手を開く。 「『ショール』」 唱えた瞬間、身体を光点がまわる感覚と、身体の中を何かが流れてゆく感覚がよぎる。 「お」 「うむ」 わずかな感嘆の響きを感じて目を開ければ、手と手の間に光が灯っていた。 それは蛍のようなかすかさで、しかもすぐに消えてしまったが、 「……小さいな」 鴉羽の落胆に反して、 「いや、見事なもんだと思うぞ。たったこれだけの講義ですぐ実践に移せるやつなんか、そうそういやしない」 「まったくだ。やはり、貴殿には素質がある」 ふたりから返ったのは、非常に好意的で肯定的な言葉だった。 「教えかたがよかった、ということであろうな」 「はは、そりゃあ甲斐があったってもんだ」 「必要とあらばいくらでも手助けをしよう。同じ力を持つものとして助力は惜しまぬ、遠慮なく頼ってくれ」 「ああ、俺もだ。しかし鴉羽、お前さん本格的に訓練してみる気はないか? やりかた次第で化けるぞ、これは」 「そうだな、我輩も鴉羽殿に教えてみたいと思う」 鴉羽は、ふたりの言葉を黙って聞いていたが、ややあって居住まいを正した。 「……偉大なる先達、師匠お二方に、謹んで御礼申し上げる」 敬意をこめて一礼すれば、フブキとヴィクトルは満足げに、どことなく面映ゆげに頷いた。 「ならば、次は、実例からの基礎構築について……」 「初歩魔術を重ねあわせることで強化されるもろもろについて……」 鴉羽のために噛み砕かれた言葉で、再び講義が始まる。 「魔力の制御とイメージ、か」 染み入ってくる言葉をイメージと結びつけながら、鴉羽はぽつり、つぶやく。 コントロール、エネルギーの循環、イメージによる表出。 それらの意味が、わずかなりと――何となくではあれ、実感を伴って理解できたことは大きい。 むろん、そこからさらに何が出来るのか、それが鴉羽の運命や生きかたをどんなふうに変えるのか、不慣れな彼女には予想することも出来ない。 しかし、『判る』が積み重なってゆくのは心地よいものなのだな、などと感心しつつ、鴉羽は引き続きふたりの言葉に耳を傾けるのだった。
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