● それは小さな女の子のお話。ヘルがほんの小さな女の子だった頃のお話。 ヘルが母と二人きりで暮らしていた頃。 ある日、ヘルはドレッサーの前でアクセサリ作りに熱中していた。 その手は小さくふくふくとしていて、細かな作業をするにはまだ大変な年頃だったのだけれど、母親が根気よく手伝ってくれていたので、どうにかこうにか完成が近づいてきていた。 最近、女の子達の間ではキラキラとしたビーズのアクセサリが少しばかり流行っている。そんな話をしてみたら、母は綺麗なビーズや壊れてしまった真珠のネックレスなどを娘に譲り渡してくれたのだ。 母のドレッサーはとても立派な物というわけじゃなかったし、決してたくさんの宝石が詰まっていたわけじゃないし、そんなに高価な物も入っていなかったのだろうけれど、いつもキラキラして素敵なものだった。 大抵の女の子がそうだろうけれど、その中のものを見つめていることがヘルも好きだった。 出来上がったばかりのネックレスでおめかしをした自分をヘルが確認していると、うっかり余っていたビーズが手から転がりおちた。 ころころとビーズは転がり、少し開いていた引き出しの中に入ってしまう。 どこまで行ってしまったのと引き出しを引っ張り出してのぞき込む。ビーズは奥の奥までぶつかって、跳ね返り戻ってくるところだった。手を伸ばして拾いあげる。それで今度はこんなことがないように、引き出しをきちんと押し込めばいい。 でも、ヘルがそうする前にいつもは気づかない引き出しの奥に大事そうに仕舞われているものに気づいた。黒い小さな箱。 手を伸ばして取り出してみると、それはベルベッドのような肌触りのケースだった。重さはあまりない。指輪かイヤリングでも入っていそうな箱。今までみた記憶はなかった。 少しワクワクとした気分で開けてみると中には綺麗な青い石のはまった指輪が一つ。 「きれい……これなあに?」 ヘルの作ったネックレスとおそろいでブレスレットを作ってくれていた母に尋ねてみる。ヘルが手にした物を見て、母は少し目を見開いてから、すぐにとても綺麗な笑顔で答えた。 「貴方のお父さんに貰った物よ」 お父さん。 ヘルは父親というものを知らない。 ヘルの母が17という若さで出会い、一年間一緒に暮らしたという少年。 母と父がその一年間をどのように過ごしたのか、その時は存在すらしていないヘルには知らない事ばかりだ。 二人は一年間の生活でヘルを授かった。けれど、母も若かったが、少年は更に幼かった。彼は妊娠が判明するや生活費を置いて飛び出してしまったのだという。 それからヘルは無事にこうして生まれて生きているけど、彼に会ったことは一度もない。 ヘルはまだ見ぬ父親に思いを馳せた。 お父さんのくれたもの。 それはとても綺麗な指輪だった。 まだ幼い少女のヘルには教えられた事も少なかったし、知っている難しい事情もまだ半分もわからなくって。ただ、父が母へと贈ったこの綺麗な指輪をまじまじと見つめる。 「その指輪、疵がついてるでしょ」 母の言葉に指輪を見ると確かに大きな傷がついていた。ヘルが無言でどういう事かと訴えるように母を見つめると、珍しく少し決まりの悪そうな顔をしてからくすりと笑った。 「別れ際の揉み合いで窓の外におっことしちゃって……一晩かけてさがしたの。貴女にあげるわ、ヘル」 「こんな大事な物貰えないわ」 じっと指輪を見つめていた娘に対して母は微笑んで言ったけど、ヘルはすぐに断った。幼いながらに、母が大切にしていたことはよくわかったから。 「いいのよ。私には思い出があるから」 寂しく微笑み、更に引き出しの奥から一枚の写真を取り出す母。 底に引かれていた綺麗な布地がぺらりとはがれるなんてヘルは知らなかった。こんなところに写真が隠れていたのも。 母が写真を差し出す。受け取る手が少しだけ緊張で震えるような気がしたが、えいやっと写真を見る。 そこにはヘルと同じ黒髪黒目の少年が写っていた。 初めて見た写真。 (知らない人だけど……どこかで見たことあるような気もする……) これはまさかと思いながら、ヘルがじっと写真を見つめていると母はそっとヘルの頭を撫でて言った。 「貴女の父親よ、ヘル」 (やっぱりそうなのね!) 黒い髪、黒い瞳。母はもちろん、他の黒髪黒目の人とも微妙に色合いは違う。でも、この写真の人とは全く同じ黒に見えた。 父親にこれまで会ったこともないけれど、そこに確かに親子という繋がりを感じる。 お父さん、パパ、それともダディ? 私はあなたをなんてよんだらいいのかしら? あなたは、私のことをなんて呼んでくれるの? 素敵な指輪をくれた人。 ヘルウェンディ? それともヘル……ひょっとしたら優しくウエンディって呼んでくれるのかも。 私に会ったらどうする? 喜んでくれる? 私は会ったらどうする? 喜ぶのかしら? 手の中の青い指輪をぎゅっと握りしめてみる。まだヘルの指には少し緩い指輪。 (これが私の指にぴったりになる頃には、パパに会えるかしら?) 指輪を握りしめるヘルを見て母は優しく微笑んでいた。だからヘルも大事にするわと微笑んでみせた。大切な指輪と同じくらいママを大切にしてあげよう。 その時のヘルはおぼろげながらもそんな事を思い、心にあたたかいものを感じたのだ。 ● 自分はマフィアの隠し子。 その事実をヘルが知るのは物心ついた後。 幼い頃とはもう違う。 心のすみっこにあった置いていかれた寂しさは怒りにとって代わり。いなくなってからも母を苦しめるその存在に憎しみさえも抱いた。 父に会いたいという想いは今も変わらずあるけれど、その形は大きく変わってしまった。 ただでさえ若い母親と父親、その間に生まれた娘。 それが父親が逃げ出したとか、相手はマフィアだとか、なんだとか。 周囲の目はいつも冷たかった。 ――なんで勝手にいなくなった奴のせいでお母さんがどうこう言われないといけないのよ! 私たちは何も悪いことなんてしてないのに!―― 人目を避けるように逃げるように引っ越した先でも、若いシングルマザーとその娘は必ずしも暖かく受け入れてもらえない。 だけど、そこには親切にしてくれる人もいた。中でも警官の男の人はとても親切にしてくれた。いつもヘル達親子を気にかけてくれる。 ヘルは嬉しかった。その人が来た時は、お母さんはよく笑う。ヘルがいつも一緒にいてあげられればいいけれど、ヘルは学校に行かなければいけなかったし、お母さんだって仕事がある。いつもそれについて行くような子は大人じゃない。 「ヘルウェンディ嬢?」 「どうしたの?」 急に変な呼び方をされる。ヘルはどんな冗談が始まるのかとくすくす笑うが、どうも様子がおかしい。 「私は貴女の父親になれたら素敵だと思っているのだが、貴女はどう思うかな?」 ヘルはとても驚いた。そして 「あらやだミスター。そんなの決まってるわ!」 「答えは?」 「ママを泣かせたらぶん殴ってやるわよ、パパ!」 そうして若い警官は母親と再婚した。彼はヘルの父となった。 生まれてから一度も父親と過ごしたことのないヘルにとっては初めての父親。 義理の父とかそんなものは関係なかった。ヘルも彼もそんな事は気にしない。 「ヘル!」 「パパ!」 パトカーの窓から声をかけられる。 「もう学校は終わったのか」 「終わってなかったらこんなところにいないわ!」 「それもそうだ」 今日は夕食は一緒に食べられそうだと父は言った。 「本当! 急いで帰るわ!」 (本当の親子みたいだね? 当たり前よ。本当の親子だもの) 素敵なママとパパ。こんな幸せな家族はそうそういないと心から思う。 けれど、ヘルの心の奥には実の父親。自分の半分を作り上げた男の事もくすぶり続けている。 今となっては憎き男。昔は嬉しかったけれど、ヘルに現れた確かな血の繋がりの証拠すらも少し疎ましくなっている。 (カラコンをしているのは別にその事が理由じゃなくて、好みの問題なんだけど……!) だけど、母は男の事を悪くは言わなかった。指輪も大切にしていた。ヘルも譲り渡された指輪を捨てることもなく今も持っていた。 それを認めることはとんでもなく癪なことだから、いつか会った時に思いっきり力の限り顔面近くの最高に打ち所の悪い所に指輪を投げつけてやって、それが原因で死んじゃえばいいんだなどと息巻くことで何かを誤魔化している。 (だって、ママが大切にしてたものだもの……簡単に捨てるわけにはいかないわ) たまにそれを思い出さなければ穏やかで楽しい毎日。 「ヘル、今日の新聞は!」 「ちょっと待ってパパ! 今とってくるから!」 朝食の前に、新聞受けから新聞を取ってきて何気なく眺める。 この間起きたハリケーンの事、難しい政治のお話、どこかの悪党の死亡記事。 毎日そんなに代わり映えしない。大事な事がたくさん書いてはあるのだろうけれど、ヘルには遠い出来事ばかりだから。 「はい、今日の新聞……ってパパは?」 母が笑ってトイレの方を指さした。 「もう! 催促したくせに失礼しちゃうわ!」 母に新聞を手渡すとヘルは朝食のサラダをつまむ。みずみずしいレタスはシャキシャキと音を立てる。 あつあつのトーストで溶けたバターを全面にのばしながら、今日は帰りが遅くなるかもしれないと伝えようとしたところで、母親の異変に気づいた。 「…………」 「……?」 母の表情が強張っている。視線が紙面の一点を見つめて固まっていた。 「ママ……?」 パサリ 新聞が母の手から落ちた。ヘルはさっとそれを拾って母が見ていたであろう記事を読む。 どこかの悪党の死亡記事。それは若きマフィアのボスだった。 ハッキリと書かれたその組織名やら死んだボスの名前にヘルはピンとこなかった。けれど、そこにはご丁寧に写真も載っていた。 真っ黒の髪、瞳の青年。ヘルと同じ黒い髪、黒い瞳。いつか見た少年の姿と重なる。 「!!」 (私の、父親、だ……) だから、母が青ざめているのだ。ただマフィアが死んだからといって母が青ざめて固まる理由はない。 (ろくでもない事ばっかりしてるからよ!!) ざまぁみろ。 そう笑ってやりたいのに。大声で笑ってやりたいのに。ヘルの喉は変に渇いて声を出せない。 頭にカッと血がのぼっていくのがわかるけれど、首から下はおそろしく冷たくなっていく。そのちぐはぐな温度差が気持ち悪い。胸の奥がざわざわとする。 どうして家族を捨てたのか、その理由をまだ聞いてない。 いつか会いにいって殴ってやるつもりだったのに。 死んでしまったら何も聞けない。殴りにもいけない。 無意識の内に新聞を強く握りしめていた。新聞はぐしゃぐしゃになってしまっている。 母の目尻から鼻筋へとすぅっと透明の滴が流れていた。 愛した男の死を悼み泣いている。自分を捨てた酷い男だというのに。 ――お母さんを、私を、どうして家族を捨てたのか、その理由をまだ聞いていない! いつか会いに行ってぶん殴ってやるつもりだったんだってば! まだ殴りに行ってないの!! どうして、勝手にくたばってるのよ。 どうして、指輪をくれたの。 どうして、おいていったの。 どうして、私は、あなたは、どうして……どうして…………―― 汗ばむ手は新聞のインクで真っ黒に汚れていたが、気づきもしなかった。 手を強く握りしめすぎて指輪が皮膚に食い込んでいたが、気にもしなかった。 震える指には母から譲られた蒼い指輪が、父からの贈り物であったその指輪が、ただ輝いていた。
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