● 「あっち、いーにおいー」 あたたかな陽の光が心地よい昼下がり。 バターと砂糖の甘い香りがどこからか漂ってきている。その香りに誘われてふらふらと歩く小さな人影。人影は迷うことなくその匂いの元へと突き進んでいった。 「おやつだぞー。今日はマドレーヌだマドレーヌ」 「わーい」 外に置かれた素朴な木の椅子とテーブル――つい先日、エスポワールのみんなで廃材をもらってきて作り上げたものだ。――それらにきちんと座って待っていた子ども達は現の登場に歓声をあげた。正確には現の手にしているバスケットの中身に対してだ。 清潔そうなギンガムチェックの布が張られたバスケットの中にはまだほんわかあったかい焼きたてのマドレーヌがみっしりとつまっていた。焦げたりせず綺麗な黄金色のそれは、誰が見てもおいしそうだ。 「今回はちゃんと貝の形だね!」 「こんがりとおいしそう」 「前の時はなんか変な物体だったもんね!」 「あれは途中で邪魔が入って……」 「先生が無理にお兄ちゃんを追い出そうとするから悪いのよ。ああいう時は素直に手伝わせた方が楽よ」 「あれでも食べられる範囲だったしね」 「失敗は成功のもとなんだよねー」 次々としゃべりだす子供達に苦笑を返しつつも現はマドレーヌを順番に配っていく。 「せんせー!」 「んー?」 「ジュースまだあるー?」 「なんだ。もう飲んじまったのか?」 先に飲み物の方を子ども達自ら用意させていたのだが、こいつらはちゃんといただきますまで待てる子達だけれどなと首を傾げる。 「違うよーお客さんー」 「客?」 「おじちゃーん! ろじーもジュースほしいだよ!」 「……誰?」 テーブルのはじっこ。即席の木箱の椅子にちょこんと座るくまさんフードの男児がにこにこと飲み物を要求していた。 「迷子?」 結局、気づいたら紛れ込んでいた男児――どうやら名前はロジーというらしい。――は子ども達と一緒にジュースとマドレーヌをしっかりと食べて、今はみんなで鬼ごっこに興じている。 ひとまずグラスを洗い終えて、大人達は孤児院の一室でどうしたものかと顔を見合わせていた。 ロジーが紛れ込んでいるのに気づいてすぐに現は辺りを探し回ったのだが、親らしき人物とは出会えなかった。どうやら一人でやってきたらしい。母親はどうしたと聞いても要領を得ない答えしか返ってこなかったので、仕方なくそのまま子ども達と遊ばせている。 窓の外では楽しそうな声が響き渡っている。 「そういえば見た覚えありませんね」 「現先生は知ってる?」 「いや、あったらこうして相談してねーなぁ」 「前にどこかでウロウロしてるのは見たことある気はするけど、お家とか知らないわ。今日までここで遊んだこともなかったもの」 自分たち孤児院の職員も、子ども達の中で年嵩の少女もみんな口を揃えて何処の子かわからないという。 「まあ人の流れは多いところだけど」 「放っておいたらお家に帰る……かどうか怪しいわよね。あの子。小さいもの」 「現先生、送っていってあげた方がいいんじゃないですか?」 「送ってくっていってもどこの子なんだかわからねーんじゃなぁ……」 「先生、頑張って」 「一緒についていってあげてください」 「仕方ない。ちょっくら探してくるか」 現がよしと腕をまくりながら外の様子を確認すると、鬼ごっこは一段落ついたのかロジーがおしりをふりふり妙なダンスを披露して喝采を浴びていた。 (……アレ流行ったりしちまったら厄介だなぁ) その心配が現実のものとなったりしたとかしないとか。それはまだ定かではない未来の話。 「ほらお前達ー遊んでばっかりいねーでやることあるだろー!」 ロジーを中心に大きな輪ができていた。 たまに知らない子が入るというのも子ども達にはよい刺激になるんだろうかなどとぼんやり思いつつも、遊ばせたままにしとくわけにもいかないので、現は輪の中に入っていく。 「えー?」 「ほら片づけだ。その後は各自当番の仕事をする!!」 「えぇー? せっかくいいところだったのにぃ」 「ね、現先生。ロジーくん面白いのよ」 「……つべこべ言わずにとっととやんねーと怒るぞー!」 「はーい」 怒られてはたまらないと、子ども達は散り散りに走り去っていく。 「おーい、そろそろお家に帰らねーのか?」 「かえるー?」 かえるーかえるーけろけろーとのんきにロジーは笑った。そして、ぴょんぴょんと蛙跳びをしながら通りへと出ていく。危なっかしいその動きにハラハラしながら現はついていく。 「まてまて! お家はどこだー?」 「おうち?」 はて? とロジーが首を傾げる。そしておもむろに一方を指差して言った。 「ろじーんちはろじーんちのとこだよ」 「それじゃ答えになってねーだろ」 どうしたものかと現は頭を悩ませるが、ロジーは全く気にしていない様子でぴょんぴょん蛙跳びを再びはじめた。すぐに止まった。 「どうした?」 「つかれるだよ」 「そりゃそうだろーよ」 「あのおかち、つくったのおじちゃん?」 話が何の脈絡もなく飛ぶ。そういえば子どもってそうだよなぁと思いながら、現がそうだと答える。ロジーは手を叩いて現をほめた。 「おかちじょうずだよ。ままよりおいちーね」 「ありがとよ」 「しゅごいねー」 にこにこと言われれば決して悪い気はしないのだが、このペースにのまれてしまうと話が進まない。 「かえるさん、おしまい」 不意にすっくと立ち上がるとてくてくと歩き出す。 ロジーはふらふらと蛇行しながら、でも何の迷いもなく我が道を突き進む。家へと向かっているのかそれとも気の向くままに進んでいるだけなのか。さっぱりわからない。それでも現はついていくしかない。 時折、転びそうになるのをつかまえたり、水溜まりにわざとつっこんでいこうとするのを止めたりと忙しい。 それでも歩いていると、人通りの多い場所へと出てきた。 「お家はここらなのか?」 「ここ、おみせやさん」 確かにここは商店街である。このおじちゃんは何を言ってるんだろうという風にロジーは言う。 「……ここで買い物するのか?」 「ろじーおかいものしゅる。おばちゃんほめる」 お使いにでも来たことがあるのだろうか。 「そーかそーかえらいなー」 「ろじーえらい?」 「えらいんじゃねーか?」 その年頃で一人で買い物出来れば上出来だと現が言うと、ロジーはえっへんと胸を張った。 ここらの商店にはあまり買い物に来たことがないなと思う。よく行く店は反対方向だ。 「すみませーん」 「はいー?」 八百屋のおかみに声をかけてみる。 「……というわけでして、この子の家知りませんか?」 「さぁ? この辺だとは思うけど、知らないわ」 「そうですか……ありがとう」 ちょくちょく見かけるけれど、おかみは家までは知らないという。家から遠ざかってはなさそうだからよしとする。 「みかーん、りんごー、きゃべつー、ぴーまーん」 店先の品物を指差しながら歩く。嬉しそうな顔をしたり渋い顔をしたりしてるのは、おそらく好みの問題なのだろう。 「みんな正解だな」 「せいかーい」 ぴんぽんぴんぽーんとろじーは自分で効果音をつけた。その微笑ましさには現も笑うしかない。 「でも、寄り道しないで帰らないと駄目だろ?」 「よりみち?」 「そう。母さんに言われなかったか?」 「ろじー、よりみちしない。いいこだよ」 「いやこれ寄り道じゃねーか……?」 「いいこーいいこーろじーいいこー♪」 現の言葉を聞いてるのか聞いていないのか。ロジーは軽やかに歌いながら歩く。 「わんこー、にゃんこー、うさぎさーん、あ、くまさん!」 通りの反対側にあるおもちゃ屋の茶色いテディベアを発見したロジーが急に駆け出す。 「あ、こら! 急に走らない!!」 危ないだろうと叱ろうとしたところで、案の定道を走る自転車にぶつかりそうになる。 「危ないっ!!」 キキッ 「……!!」 「……間一髪ってな」 現が何とかロジーの手首をふん捕まえて引き戻したおかげで、自転車の車輪はロジーの鼻を掠めるに止まっていた。 「……っぶないなぁーこらー駄目だよ坊主ー。お父さん、しっかり見ててよー」 チリンチリーン 自転車の乗り手はそんな事をいいながら走り去っていった。 お父さんじゃねーよとか、商店街の中は自転車押していけとか言いたい事はなくもなかったが、ここはまずは子どもを叱るのが先だ。 「びっくりしただよー……」 「びっくりじゃねーだろ!! 道を歩く時はフラフラしない! 反対側に渡る時は左右確認する!」 そして、こつんと軽めのげんこつ。 「いたい……」 「自転車にぶつかってたらもっといてーんだ! ごめんなさいは?」 「あぶぅぅ……」 「ご・め・ん・な・さ・い・だろ?」 「うぅぅ……ぅぇえーーん!!」 不満げに唸りだしたと思ったら、ロジーはついに泣き出した。 「あ、こら。泣いてすまそうとするのは良くないぞ!」 泣いたからといって甘やかすのは教育上大変よろしくないと現は腕を組んでしかめっ面でロジーを見つめる。ますます泣き声が大きくなるロジー。自然と集まる周囲の視線。 ヒソヒソ…… (もう。あんな小さい子を泣かせっぱなしなんて酷い親ねぇ) (っていうか奥さん、あの人なんか目つき悪くない?) (なんかちょっと怪しいわよね? 父親にしてはなんかぎこちない気が) (あらあの子、ロジーくんじゃないかしら? あの子、あんな人といたの見たことない気がするわぁ) (まさか、まさかだけど……誘拐とかじゃぁないわよねぇ?) ヒソヒソヒソヒソ…… (あれ? なんか周りの視線が嫌な感じじゃねーか?) なんとなく集まる視線に気づき、妙に居心地の悪い感じに身じろぎする現。でも、叱るときはその場でしないとなと思っていると、 ずかずかと一人のおばちゃんが近づいてきた。 「ちょっと」 「はい? あ、すみません。道の真ん中で大騒ぎで……こら、泣くのやめなさい」 おばちゃんはロジーの頭をなでながらも、訝しげな顔で現を見る。 「子どもが泣くのは仕方ないけど、貴方ここらであんまり見かけないわよねぇ? その子、貴方の子?」 「へ? いや違いますけど」 「……」 (あ、これ、犯罪者を見る目だ) 怪しい……とおばちゃんの目が雄弁に語りかけてきていた。 「あ、いやうちの子じゃないが」 「なんでよそ様の子を……」 誤解度上昇。今にも大声をあげて逃げられそうなこの空気。この誤解は痛いと現は慌てて事情を説明しようとする。 「ウチの孤児院の子に紛れ込んできてまして! な、ウチでおやつ食ったんだよな?」 「うぅ……うん、おじちゃんのおかちおいちー」 目尻に涙を残しつつも、おばちゃんに撫でられてちょっぴり機嫌を取り戻したロジーは、マドレーヌの味を反芻してうっとりした。 「おやつで懐柔して……」 (この人、悪い方向に想像力豊かだ!) 「違いますって! 俺はこれでも先生で……」 必死に言い募るもおばちゃんは、その必死さが怪しいわー孤児院とかなんとか言ってるけれど子どもの人身売買組織かなんかじゃないのといった具合である。 「だから……」 「あ、現先生じゃなーい。こっちで買い物? めずらしーわね」 通りかかった一人の女性が現に気づいてママチャリを止める。先生という単語におばちゃんが気づいて急速に表情が和らいでいくのがわかった。 (助かった!) 「うちの旦那が古い釣り竿を何本か処分しようと思うけど子ども達が使うかって言ってたからー今度連絡ちょーだい」 救いの女神は現の感謝のこもった視線に首を傾げつつも、更に駄目押しの台詞を放ってくれる。 「わかりましたー!」 「それじゃまたねー先生」 「……というわけでして、この子を家まで送り届けたいのですが」 「あらやっだー勘違いしちゃったわーごめんなさいねー」 軽い。 「あ、この子の家は知らないわー。でもよくこの辺りでみるからご近所さんだと思うわよー」 おほほほと笑いながらおばちゃんはそそくさとその場を立ち去っていった。 「はぁ……」 なんだか一気に疲れが押し寄せてくる。その原因を見ると……見るといなくなっていた。 「おじちゃんー……ぐまさん?」 スキンヘッド。スーツ。サングラス。いかにもいかにもな風貌の男性を見上げてロジーはどこか目を輝かせていた。 「ぁあ?」 男はいかつい声をあげる。ロジーは少し首を傾げる。 「ぐまさんちがう?」 「ぐまさんじゃねーよ」 その言葉にロジーはがっかりしてうなだれる。がっかりしつつもサングラスはすてきだったともう一度よく見ようと顔をあげようとしたその時、男の手にあるものに気づいた。 「あ、あるきたばこめっ!」 ゆらゆらと煙の立ちのぼる煙草をロジーはぺしっとはたき落とした。 「ちょ、おま! なにやってんだ!」 気づいた現が慌てて駆け寄る。まだ火のついた煙草で火傷したらどうすんだとロジーの手のひらを確認する。幸いにも無傷だ。 ホッとするが、ホッとしきれない事に気づく。 「……おい、にーちゃん」 (めんどくせーなぁ……) 全く次から次へと。子どもは目を離すと危なっかしいもんだが、それにしたってと現は思う。 (どうしてこうめんどくさそーなところにつっこんでいくんだコイツは!) 「あー……すみません。えーっと」 ここで荒事になっても、現が後れを取るとは思わなかったが、小さい子どもの前であんまりやりたくねーもんだなと思う。 (逃げるかぁ?) ロジーを抱えて逃げ出す算段をしようかと思ったところで、がしっと腕を掴まれる。 (やる気か?) 身構える現。そっちがその気なら仕方ない。さくっと終わらせるかと思ったところで腕を掴む男の力が緩んだ。 「えっ?」 「にいちゃん……いい教育してるな!」 よい笑顔でそのまま肩をばしばし叩かれた。思わずこけそうになる現。 「小さいのにしっかりしている。こんな子に怒られないように気をつけるよ」 男はガハハと豪快に笑いながら立ち去っていく。 「またねー!」 「おぅまたなー!」 朗らかに挨拶までしてくれる。 (ふ、普通に強面なだけのいい人だ……) 「ろじー、ほめられた」 「あぁ、そーだな……」 何だろう。なんか疲れる。 「こんなんでウチに帰れるのか……」 かろーんころーん 軽やかな鐘の音が辺りに響く。どこから鳴っているのかわからないが、時を告げる為のものだ。 「おうちにかえる音」 「あ?」 「おさんぽーおしまーい」 ロジーはとてとてと小走りで細い路地へと入っていく。分かれ道も迷いなく進んでいくと、ふと少し開けた場所に出た。 気づいたら、辺りは少し古びた雰囲気もある住宅街だった。 「え、あれ? ここってウチからそんな遠くないぞ……」 むしろさっきの商店街からより近い。明らかに遠回りというか、長い距離ではないが行って戻ってきてしまっている。 「ろじーんち、ここ」 一軒の家の扉の前でにこにことロジーは言った。 「なんで真っ直ぐこねーんだよ……」 「だって、おさんぽしてただよ」 現は脱力するが、ロジーは何を当たり前の事を言っているんだという顔だ。 「散歩か……はは……」 「こんど、ろじーんち、くる」 「……あぁ行けたらな」 「いっしょあそぶ。ままのおかちあげる……まじゅいけど」 それじゃまたねと手を振って、ロジーは扉の奥へと消えていった。 「帰るか……」 カァーカァー カラスの鳴き声が聞こえたような気がした。 今日は風呂にゆっくり浸かりたい。そんな事を思いながら現は子ども達の待つエスポワールへと帰っていくのだった。
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