● うたをうたう。 さえずる小鳥のように。 少女はただ、ただ、うたをうたう。 少女は一羽の小鳥になったからだ。 深い深い山の奥。山と山の間の小さな村。 その山にたまに転がっていた小さな黒い石。村人達は古くからよく燃えるそれをたまに拾い集めては竈の火にくべたり、暖をとるために利用していたが、新たな力の重要な燃料になるとわかったのは、ほんのここ数年のことだ。 今までは人で馬でと大変な労力をかけていたものをあっという間に難なくこなしてしまう蒸気機関というもの。それが必要とするのが石炭だ。 なんて事はない黒い石はあっという間に村の収入源となったのだ。転がっているものを拾い集めるのでは到底間に合わない。 ならば土に埋まっているそれを掘り起こすせばいい。そう言ったのは麓からやってきた学者という職業の男だった。小綺麗な格好をした紳士が引き連れてきたその男は、下男にあれこれと指示を出しては山の土をほじくり返したりしていたが、それは調査というものだったらしい。 「地盤はしっかりしてるようだし、この様子だと相当な埋蔵量が見込めるでしょう」 それを聞いた紳士は大層喜んで村人達を呼び集めて言った。 「ここに炭坑を開く」 何もない寂れた寒村が一気に熱気を帯びていった。これといった産業もなく訪れる人などほとんどいなかったこの村に、ひっきりなしに人が行き来するようになった。 小さな小さなカナリアには何が起きているのかはよくわからなかったのだけれど。 ただ、村の人達はみんな炭坑で働いている。山を掘ったり、石ころを運んだりいつも忙しそうにしていた。もちろん、カナリアの両親も。 この村の畑は元々そんなに良くなかったから、みんなはどんどん畑仕事をやめて炭坑で働くようになっていた。畑で作物を育てるよりも、お金で作物を買う方が効率が良かったのだ。全く畑がなくなってしまったわけではないけれど、多くの畑は作業場になったり瓦礫置き場になっていった。 でも、カナリアの家の裏には小さな畑が残っていた。病で足を悪くしたカナリアを一人で置いていくのは偲びないと思った母が畑仕事をする為に。カナリアに何かがあってもすぐ駆けつけられるように。その他にもカナリアの母は、忙しくなった村の女性達の代わりに家で繕い物をしたりとなるべくカナリアの側にいた。 カナリアはそれが自分の為だとはまだはっきりとわかっていなかったけれど、母がよく家にいるのは嬉しいことだった。だけれど、周りの村人達はそうでなかった。 その日、母がお弁当を忘れた父の元へと向かった為、一人でカナリアは留守番をしていた。家で一人でビー玉をはじいていたのだが、それがコロコロと転がり、どういうわけだか僅かに開いていた戸の隙間から外へと転がり出ていってしまった。 それを慌てて追いかけたその時、僅かな段差に足が縺れる。 ドサリッ そのままうまく手をつけなくて地面に転がってしまう。着物が泥と土埃にまみれる。 カナリアの来着ている着物は元々茶色だから、汚れてもやっぱり茶色のままなのだけれど。元々穴が開きそうな着物だけれど、本当に穴が開いてしまったら悲しいなと思う。 膝がヒリヒリするのを感じながらゆっくりと顔を上げると、通りがかった村人が怖い顔でカナリアを見ていた。 「この役立たずが!」 「まともに歩くことすら出来ないなんて」 「何の役にも立たないものにどうして餌をやり育てなくちゃいけないんだか」 カナリアはまだ小さいから、隣の伊織お兄さんのように大きな荷物は運べない。病気をしてしまってから右足を上手に動かせないから、茜ちゃんのように走り回ることもできない。 だから役立たずなんだろうなという事をぼんやりとカナリアは思っている。でも、もっと大きくなればきっと色々な事が出来るのではないかとも思う。 「どうしたの! 一人で勝手に!!」 丁度帰ってきた母親が慌てて駆け寄ってきてカナリアを抱き起こした。その様子に村人の視線が更に冷たくなる。 「まったく。こんな出来損ないを生んで」 「すみません」 「捨ててしまえばいいものを」 「すみません……すみません……」 お父さんとお母さんは大きな荷物を運んだり走ったり、色々な事が出来るのにどうして怒られてしまうのか。 それはカナリアにはわからなかった。 けれど、自分も何か出来るようになれればいいなと思う。 ――そうしたら、みんなは私に優しく笑ってくれるだろうか―― みんなはカナリアを見ると怒った顔をしたり、嫌な顔をする。カナリアが失敗をしたような時は笑っている事がある。だけど、その笑った顔はカナリアの心をしぼませた。 役立たずだから。 自分が役立たずだから、何もしていないから。みんなはちゃんとお仕事をしてる。自分もお仕事出来るようになればいい。 そんな事をなんとなく思うようになっていった頃、カナリアに役目が与えられた。 ● 「カナリアだ」 「カナリア?」 突然、家にやってきた何人かの大人達。カナリアは目にとまって両親が怒られては大変だと、家の隅でじっと縮こまった。大人達と両親は何やら話し込んでいる。父と母が時折、強い調子の声をあげたのが少しめずらしいなとカナリアは思う。 短くはない時間が過ぎた後、呼び寄せられると「カナリアになるのだ」と言われた。 「アレが死んだから。次のカナリアはおまえだ」 放り投げられた鳥籠の中で黄色い小鳥が死んでいた。前にもちらりと見たことがある。籠の中を可愛らしく動き回って綺麗な声でさえずっていた。 「あたしがカナリア?」 金糸雀はいつも綺麗な鳴き声で歌っていた。カナリアも歌が好きだ。なるほどそういう事ならそれはよさそうだなと思う。 「それがお前の役割だ」 ゆっくりと言い聞かせるようにそう言われて、カナリアは迷うことなく頷いていた。 『カナリア』 それが自分の役割になった。役。もう役立たずじゃないのだ。よかったと父と母へ振り返った。 カナリアは嬉しかったのだけれど、何故か父も母も笑っていなかった。カナリアが喜んでいれば、いつも優しく笑ってくれる父と母が。 けれど、村人達はよかったよかったとカナリアや両親に言った。 「役立たずでも役に立つ事があったんだ」 「仕事はいつから……」 村人達はアレコレ段取りをどんどん勝手に話して帰っていった。残されたのは家族三人。 「ごめんね。ごめんね」 「どうしたの?」 「ごめんね……」 母がカナリアを抱きしめてごめんねと言い続ける。表情はすっぽりと抱きしめられてしまったので見えないけれど、ぽつんぽつんとあたたかな滴がおちてくるのがわかった。 「おかあさん? おとうさん?」 よいしょと母の腕をすり抜けて、父の方を見ると、父も今まで見たことのないような表情をしていた。それは、人がやりきれない時にするような顔だった。 父は無言でカナリアの頭をくしゃくしゃとなでた。 カナリアはハッキリとわからないもやっとしたものを抱える事となったが、仕事の日まではあっという間だった。 カナリアの仕事のために、母は泣き腫らした目で新しい服を仕立ててくれた。暗い場所でも目立つような明るい黄色の着物。金糸雀の色。とてもとてもカナリアは気に入った。 「綺麗だね。でも、こんな着物を着ていいの?」 「いいのよ」 「あ! あたしもお仕事が出来るようになったから、綺麗な着物を着られるの?」 「えぇ、そうよ。もっともっと着てもいいわ」 「本当に? それなら、次もカナリアの着物がいいな」 「……えぇ、えぇ」 「ありがとう、おかあさん」 「ごめんっごめんね……!!」 「?」 母はまた声を詰まらせた。今にも泣きそうな顔のままカナリアの身支度をした。母の仕立てた着物はよく似合っていた。 「いってきます!」 「いってらっしゃい。無事に帰ってくるのよ」 出かける前、母はカナリアに笑ってみせた。それがいつもと違うことだけはわかった。 ● カナリアは大きな声で歌った。いい気分だった。気持ちと一緒に自然とからだがはずむ。黄色の着物の袖がひるがえる。 坑内はいつもツルハシが硬い岩を砕く音や、働く人達の声で賑やかだったから、カナリアの声もすぐに紛れてしまうのだが、カナリアの仕事の時だけは違った。 誰よりも先へ一人で進む時は、響くのはカナリアの乗る車の車輪がレールに擦れる音や、吊るされたロープの滑車の回る音しかしない。 カナリアが歌うと坑内はカナリアの声だけが響くのだ。 それを合図にして、後から後から大人達が降りてくる。カナリアが歌わなければ、彼らの仕事ははじまらない。 「歌の上手い金糸雀だ」 「金糸雀は歌が上手いもんじゃないかね?」 「いやいや、あの時の金糸雀は随分と調子っぱずれなヤツだったじゃないか」 「歌まで歌う……立派にカナリアだな」 カナリアが一仕事おえてしまうと、後は大人達の番。 誰かが上がる時に一緒に連れて行ってもらえる事もあれば、また仕事があるかもしれないと、邪魔にならないようにと隅っこに追いやられる時もある。 けれど、家でじっとしていた時と違って、カナリアが歌を歌っていても誰も怒らなかった。時にはこうして褒められたり、みんなで合唱になる事さえあった。 「~♪」 今日もカナリアは大きな声でのびのびと歌っていた。 「……っ?」 不意に喉に鋭い痛みが走る。喉がひどく痛い。 坑内は土埃が舞う事もあって、それまでもたまに咳き込む事はあったけれど、その日は何だか嫌に鼻がツンとして、涙もこみ上げてきた。 カナリアの歌が掠れ途切れると、大人達はにわかにざわつきはじめた。 「むせたか?」 「いや、これはどうもちがうな」 「ガスが……」 「引き返そう」 「換気を……」 その時はすぐにカナリアは引き戻されて、よくやったと褒められた。歌声を途切れさせてしまったというのに、怒られなかった。褒められた。 何度かそんな事を繰り返す内に、いよいよカナリアの喉は引き攣れて、外に出てもカラカラに乾いた声になってしまった。それでもやっぱり歌うのは好きだが、綺麗に響きわたらなくなってしまった。 カナリアが嗄れた声で歌うと、大人達は何だか複雑な顔をするようになった。 (歌えないからなのかな) そうだとしたら、それは困ると思った。歌えなくなって、カナリアじゃなくなったら やがて、カナリアは鈴を渡された。歌の代わりに鈴を鳴らすことになった。それがカナリアの役割。 (よかった) カナリアじゃなくなってしまうかと思った。 歌の代わりに鈴を鳴らす。鈴が歌う。 ちりりん りりんっ りん カナリアは鈴の音と一緒に小さく歌う。 りんっ りりん りん ● 「お名前は?」 「カナリア」 世界図書館で、名前を問われた時。迷うことなく答えていた。自分の名前を忘れたわけでもないし、捨てたわけでもない。隠したいなんて事もない。 自分は自分だ。 自分は、カナリアだ。 だから、そう。 「カナリア?」 問い返されるその響きが心地よかった。自分に馴染むその響き。 「あたしは、カナリアです」 今日もうたをうたう。 伸びやかな声はもうここにはないけれど。 右足は素敵な魔法で何処までも飛んで行けそうなくらいに軽い。 うたをうたう。 空の果てまで歌声が飛んでいった。
このライターへメールを送る