● 「……?」 なんとなく気配を感じて優が振り返ると、勢いよく綾が駆け寄ってくるところだった。優が自分に気づいた事に気づいた綾が笑顔を見せる。それに応えて優も微笑む。 「ユウ~、ブルーインブルーへ泳ぎに行こ!」 「デート?」 「断らないよね?」 「それはもちろん」 日々忙しくあちこちの世界を飛び回っている二人だけれど、今の優には彼女の誘いを断る理由はない。 「それじゃ決まりっ!」 綾と優は笑顔で頷き合うと、どちらからともなく走り出した。 ブルーインブルーのその日の天気は快晴。陽は燦々と二人に降りそそぎ風も穏やか。絶好の行楽日和だ。 「綾まだかな……?」 着くなり着替えてくるねとあっという間に走っていってしまった彼女を優は待っていた。 (綾の方が先に行っちゃったのに、ね) こういう時は男の方が着替えが楽だよなとぼんやり思う。女性の方がパーツが多い上に、その辺の物陰でサッと着替えるわけにもいかない。大変そうだけど、綺麗に着飾る女性を見るのは決して悪い気分でもない。 そう、自分の彼女が可愛い姿で走ってくるのを見るのは。 「おまたせっ!」 目新しい赤い水着。フリルもパレオも何もないシンプルなビキニだけれど、胸元でキュッと結ばれた唯一のリボンが可愛い。動きやすそうで彼女らしい。 「ユウが喜ぶかと思ってこれにしたんだけど……どうかな?」 くるくるりと回ってみせる綾。明るい赤のビキニは綾によく似合っている。優は微笑む。 「可愛い」 「でっしょ~?」 当っ然! と言ってみせる綾だけれど、素直に褒められると何だか少し照れ臭くもあり(褒めなかったらもちろん怒るのだけれど)、頬がほんのり赤く染まっているのはお約束だったりする。そんな姿を見て可愛いなと思う彼氏がいるのもお約束である。 「よかった。ユウが喜んでくれたんなら新調したかいがあったな」 「うん、よく似合ってる」 「えっへへー。自慢の彼女でしょ!」 「そうだね。早速彼女を自慢しにブルーインブルーを泳ぎ回ってもいいかな?」 「うん!」 焦っちゃいけないと浜辺で軽く準備体操なんかをしてみてから海に飛び込む。太陽の光で温められていた海水は優しく二人を包み込む。 「それじゃ、あの岩まで競争~!」 「負けないよ」 岩まではけっこうな距離があるけれど、いつも元気いっぱいの綾はもちろん、勝負事には全力投球な優もお互いに負ける気がない。真剣勝負だ。 「よーい……ドンッ!」 かけ声と共に波しぶきが上がる。抜きつ抜かれつの良い勝負だ。どちらが勝っても不思議じゃない。 「ユウ?」 すぐ横に感じていた気配が途切れた事に気づき、綾は泳ぎを止める。自分がそんなに離されるわけはないと思ったし、かといって優が自分からそんなに遅れをとるとも思えない。おかしい。 前方に優の姿はない。足がつったとか何か不測の事態だろうか。慌てて後ろを振り返ってみても優の姿はない。 ザプンッ 水しぶきと共に優が顔を出した。海中に潜っていたらしい。 (勝負をほったらかして何をしてるんだ) ちょっとムッとした綾は怒り顔で引き返して行ったのに、優は笑顔だ。 「ユウ! 何して……!!」 「すごいよ」 「え?」 「財宝発見」 「えぇ?」 優はそこから下の方を指差した。綾が引き返して海の底を見つめると、光が目に刺さった。 よくよく見ると何てことはないガラスの瓶。何かの事故で船の荷が落ちてしまったのか、そこがたまたま潮の流れの吹きだまりなのか、ただのガラス瓶が何十本と砂に半分埋もれていた。海の底で光を反射してまるで宝物のように輝いていた。 「嵐で沈んだ海賊船の財宝みたいじゃない?」 「本当だ!」 「ちょっと探索してみようよ?」 「うん、そうだね」 ブルーインブルーの海はその名の通り、どこまでも青かった。青の中の青。青の中、二人だけでどこまでも潜っていく。ゴーグルだけを装着した素潜りだったけれど、そこは運動神経の良い二人だ。 二人の呼気は太陽の光を反射してキラキラとはじけていく。 ガラス瓶を一本手に取るとそこを住処にしていたらしい小エビが砂と一緒に飛び出していった。 (ごめんね) 魚たちの群れがちょっぴり迷惑そうに二人を避けていく。 色とりどりの魚のアーチをくぐると、その中の小さな一匹が群れからはずれてちょろちょろとやってきて、そっと差し出した綾の指をちょんっとつっつく。紅玉みたいに赤いその魚は綾の指を何度もつっつく。その警戒心のない様子に綾が餌でも持ってきてあげればよかったかなと思っていると、別の一匹がまた近づいてきた。 最初の一匹より気持ち大きなその魚は好奇心旺盛の仲間を迎えに来たのか小魚をつっつくと、二匹はすっと綾から離れて群れに戻っていく。 綾がゴーグル越しに優を見つめれば、優も笑っている。 「「ぷはっ!!」」 勢いよく海面から顔を出す。 「それじゃ、競争さいかーい!」 「え、いきなり……!」 綾は返事は聞かずに泳ぎ出す。優の抗議の声は波にかき消される。 ひとしきり泳いで遊んで、浜辺に寝ころぶ二人。 「楽しかったぁ」 「また勝負しよっか?」 「いつでも受けてたつ」 「あと、今度もうちょっと装備整えて潜っても楽しいかも」 「シュノーケルとか? 足ヒレとか?」 「うん、そんな感じ」 今度はあーしようこーしようと話題は尽きないけれど。 「お腹減っちゃたし……そろそろ食事に行かない?」 「そうだね」 気づけば日は傾きはじめていた。海はオレンジ色に染まりつつある。 綺麗な夕日が水平線へとゆっくりゆっくり近づいて行く中で海を二人は後にした。 ● 「男の人って髪の毛すぐ乾くからいいよね」 「うん、楽だよ。……綾より髪の長い男もけっこういるけどね」 「髪洗うのも大変そうよね」 「おばけみたいになってることあるね」 「あるある」 「あ、料理きたかな?」 「うちのとこっぽいね。あ、やっぱりキタキタ~」 太陽があっという間に姿を隠し、代わりに月が顔を出した頃、二人は向かい合ってテーブルについていた。 髪はまだ半乾きだけれど、ちょっぴりおめかししてワンピースに着替えた綾も、白いシャツとズボン姿の優も、どちらも日に焼けてこんがりとした肌をしている。 「やっぱここの食事美味し~!」 ずらりとテーブルに並ぶ料理に舌鼓をうつ。なんといってもブルーインブルー。魚介類の料理に間違いはない。 赤身の魚のカルパッチョのようなものや、ふんわり揚げられた白身の魚。海老や貝のスープは出汁がよく出ていて独特な香りのスパイスと喧嘩することなくまとまっていた。 「本当に美味しいよね……」 「ユウの料理も美味しいけど、これもまた格別よね。あ、これもおいしぃぃー。ね、今度ユウも作ってみてよ?」 「どれ? ……この魚なんだろう? うーん何かに似てるような気もするけど……」 料理が美味しければ会話も弾む。 「あれはすごかったよね。今度また行こうか?」 「それでね、その教授ってば……」 「……オレもびっくりして。でも、面白かった」 「…………」 「……」 今日の出来事やら、最近の大学での話、楽しい会話は続いていたが、一瞬会話が途切れる。優がグラスの水に口づけるのを見つめながら綾は意を決して問いかけた。 「あのさ……ユウはやっぱり、壱番世界に再帰属、なの?」 「……」 コトン グラスがテーブルに置かれる音がいやに響いて聞こえた気がした。 別にここは個室でもないから周囲の人の話し声やオーダーをとる声がざわざわと賑やかで、食堂内の一角では小さな楽団の生演奏も続いているというのに。 彼女がブルーインブルーに帰属したいというのを知らないわけじゃない。その理由に隠されているであろう何かをうっすらと感じている優は躊躇う。 綾の目線は真っ直ぐに優の方を向いていたけれど、不自然にまばたきを繰り返していた。 そんな彼女を見つめ返して、優はゆっくりと語りはじめる。 「壱番世界に特別な人達がいて、その人達は俺の幼馴染で……」 優の脳裏に浮かぶのは、二人の幼い兄妹の笑顔。楽しかった日々の事。 そして、成長した二人の姿。二人から笑顔が消えていって、そして優から背を向けた。 優は目を伏せて数秒黙り込む。それでも綾は何も言わずに黙って待っていた。優は再び目を開いて続ける。 「小さい頃からいっぱい世話になっていて、でも何にも返せず傷つけて」 逃げ出した。 でも、逃げ出したけれど結局忘れられなかった。 そして、今ようやく向き合う覚悟を決めた。 「だからかな、守りたいんだ。今度こそ。何があっても。幸せになってほしいんだ」 心からの願い、祈り、誓い。 探し出して謝って、再び笑いあえるように。 必ず、必ず。 「…………」 ふぅと優が息を吐く。 「そっか」 語った言葉は決して多くはなかったけれど、強い想いがそこにこめられているのが綾にもわかった。とてもよくわかった。 「ううん、ユウらしいよ。大事なヒトが居て、そのために世界を守りたい、なんてさ」 だから、綾は微笑んで見せた。色々な想いがぐるぐるとしていてよくわからなかったけど。 大切なものがあるから、守るものがあるから。心の真ん中に芯が通っているんだろう。そんな優だから、綾も何かひかれるものがあったんだろう。 大丈夫だよ。ユウのおかげで幸せになってる子がここにいるんだよと笑ってみせたかった。 二人は黙ったままテーブルに残っていた料理を片付け始めた。それは決して嫌な沈黙ではなかったけれど、二人とも何かを言いたいような、何も言うことはないような、何を言おうか考えているような、奇妙な感覚のまま黙々と料理を口に運んだ。 「ごちそうさまでした」 それをきっかけにまた他愛のない会話をはじめる。 「何かデザートたのんじゃおっかな!」 「まだ食べられるの?」 「もっちろん。別腹だもん……ってユウだってメニュー見てるじゃない!」 「そこはほら、たくさん泳いだしね」 同じだけ泳いでるじゃないかと笑い合う。 そんな事をしていたら、ゆったりとしたテンポのメロディを奏でていた楽団が曲目を変えた。三拍子の明るい曲。 「あ……ダンス始まった」 気づけばフロアの中心で踊りの輪が出来ていた。 素敵な紳士淑女。長年連れ添ってきたであろうおじいさんとおばあさん。小さなカップルなのか兄妹なのか、大人の腰くらいまでの背の高さの男の子と女の子も手を取り合って踊っている。 「ねぇユウ……私たちも入れて貰おうよ!」 「楽しそうだな」 優はスッと立ち上がり、優雅に一礼して綾に手を差し出した。 「一曲お願いいたします」 かしこまった口調に綾はくすくす笑うと、差し出された手を取り応えた。 「喜んで!」 くるくる フロアで見よう見まねで踊りを踊る。 「足踏まないでね」 「もちろん」 「踏んだら罰金千円!」 「いいな。儲かるね」 「どんどん踏んでいいよ、ユウ」 くるくる くるり 話しながらもダンスは続き、明るく軽快な曲から、しっとりとした大人っぽいムードの曲に演奏が切り替わる。 少しかしこまって踊りながら、綾はユウを見上げて言った。 「ね、ユウ……今度そのヒトたちのコト、もっと教えて貰ってもイイかな?」 さっきの話の続きだ。そのヒトたちというのが自分の幼馴染み達の事を指しているのは優にもすぐにわかった。 「好きなヒトに幸せになってほしいって気持ち、分かるもん。私も出来るコトがあったら手伝いたいから」 綾の真摯な訴え。 ずっと考えていたのだろう。心の中の想いをまとめていたのだろう。あの後、料理を食べながら、軽口をたたき合いながらも。 真剣な想いが優にも伝わってくる。綾が心からの想いでそう言っているのは疑う由もない。 彼女の気持ちがじんわりと優の心に染みいる。 「……」 ダンスは続く。 手を取って一度離れて、引き寄せる。手を取って一度離れて、引き寄せられる。同じ動作の繰り返し。 引き寄せる腕にさっきまでと違う力がこめられる。綾が何だろうと思う間もなく緩やかに抱きしめられていた。 「今度、話そう」 顔は見えなかったけれど、またどこかで話そうと落ち着いた声で優は言った。 「……うん」 「それと」 優は綾を抱きしめた腕を放して何事もなかったかの様にダンスに戻る。 「なに?」 綾は首を傾げると、今度は優は綾を見つめたまま言った。 「オレも、手伝いたい」 「え?」 「綾が幸せになることを手伝いたい。好きな人には幸せになってほしいよ」 「あ……え、うん。でも、うん、ユウはもう手伝ってくれてる!」 顔が熱くなってきてるのを自覚しながらも、無理矢理気づかないフリをして綾は続けた。 声は小さくなっていったけれど、彼から目線は逸らしてしまったけれど。 ――ユウと一緒にいるの幸せだよ―― 「…………!」 聞き逃してしまいそうなくらいの声を優は決して聞き逃さなかった。 (みんな幸せになれればいい。みんなみんな幸せになればいいんだ) 優が幸せなら、綾は幸せに思うだろう。 綾が幸せなら、優は幸せに思うだろう。 そうすれば、きっと、みんな。 (あの二人も、オレも、綾も) いつの事になるかはわからない。けれど、優が彼を見つけるその時は、幸せが待っている事を祈った。 彼が幸せでいてくれる事を願った。幸せな未来を願った。 それは、きっと、決して遠くない未来。
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