● 日は沈んで夜の時間。 夜空を照らし出してくれるはずの月は雲に隠されている。 けれど、雲の隙間から星が瞬いているので意外と明るい。 星空を眺めながら、霞月は昼間部の教師とお茶を呑んでいた。元は仕事の話であったはずなのだが。 それなりに親しくしている先生なのだが、活動時間帯のズレは何ともしがたい。良い機会だとついつい話し込んで話題は助手の話となっていた。 「一人だと大変でしょう?」 「えぇ、まあ」 「単位で釣って手伝わせても、文句ばかりたれて裏で何を言われるかわかったもんじゃないですからね」 「ははっ確かに。やはり、助手をまた募集しようと思っているんですよ」 「あぁ、それがよいですね。まだ行き先の決まっていないのもいますし」 「そういう時期ですね」 「喜んで飛びついてくるんじゃないですか?」 「そうだといいですが」 「私にも心当たりがあるんですよ。声をかけておきますね」 「助かります」 「さて、それでは先生の邪魔ばかりしてられませんし、失礼しますね」 「いえ、ありがとうございました」 霞月は湯呑みを片付けながら窓の方をふと見る。 窓硝子には部屋の中が鏡写しで映っている。 本棚、机、宙に浮いた湯呑み。そこに人影はない。 でも、うまいこといけば鏡の世界にも新たな住人が増えることだろう。 気づけば雲間から月が顔を出していた。 ● 中央都魔術学校、昼間部。 この慣れ親しんだ学舎とも、あと僅かで弓泉はお別れとなる。 浪人も留年もせずにきっちりと卒業できるはずだ。短い時間だったとも思えるし、長い時間だったとも言える。 北都の出身である弓泉がここまで来るのは決して楽ではなかった。 才能がある。 弓泉もそうは言われてきた。けれど、ここに来るのはそう言われてやって来た者達ばかりだ。井の中の蛙になっていたつもりはなかったけれど、周囲に圧倒される事もあった。 故郷にいたままでは決して体験出来なかったであろう時間。 充実した時だった。 「無事に卒業できそうだし、これからは働いて実家に仕送りしないと」 家族が、弟妹達が、みんなが、少しでも良い暮らしを出来るように。そう、元々その為に学んできたのだ。 (でも、現実って厳しい) 時間が空けば良い仕事がないかとずっと探しているが、なかなか条件が揃わない。これだと思ったものは、そう思うのは弓泉だけではなく、芳しい結果は返ってこなかった。 弓泉が机に突っ伏しているとぽんっと頭に手が置かれた。のろのろと顔を上げると、そこには共に魔術を学んだ友人が立っていた。友人はそのまま弓泉の隣に座る。 「何を見ているの? 弓泉」 「……求人」 「……切実ね」 「その余裕が羨ましい」 「楽なところに落ち着いただけだもの。おかげでこうしてのんびり読書に勤しめるわけよ」 「あ、それって紫雲先生も載ってるやつ?」 「そうそう。見かける事はあったけど、授業も受けてみたかったよね?」 「そうだね。先生の書画魔術は直で見てみたかったな」 優れた術式を見るのは心が躍るものだ。授業を受けられたらどんなに良かっただろうかと弓泉も思う。 「……弓泉はどちらかというとこういう先生とか研究職の方が向いてると思うんだけどね」 「そんなことないわ」 「まあ狭き門よね。でも大丈夫よ。ココの生徒なんて引く手数多なんだから」 選ばなきゃ何とかなるのだから、ギリギリまで選べばいいと友人は笑う。 「えぇ、そうする」 「良かったら息抜き用にコレ貸すよ?」 「いいの?」 「うん。それじゃ、頑張ってね」 本を置いて手をヒラヒラと振って立ち去る友人に弓泉も手を振り返す。 「さて、と……」 「雨里くん!」 新たな求人はないか確認でもしようと思って廊下へと出た弓泉に声をかける者がいた。 「はい?」 弓泉が聞き慣れた声に振り返ると、そこにいたのはやはりこれまでお世話になった先生だ。笑顔で弓泉を見ている。 「あぁ、先生。どうされたんですか?」 「雨里くんを探してたんだよ」 「私を探して?」 「君、就職先探してたでしょう?」 「あ、はい。すみません。まだ進路でバタバタしてご心配をおかけして」 弓泉が恐縮すると先生は笑った。 「そんな君に丁度いい話があるんだよ。助手を二人探してる先生がいる」 「助手を?」 「夜間部は嫌かい?」 「そんな! とんでもないです!」 「どう? 面接だけでも受けてみないかい?」 「……はいっ! 出来るものならば是非!」 「そう言ってくれると思っていたよ。君なら適任だと私は思うよ」 「そんなもったいないです」 「頑張ってごらん」 「はい!!」 詳細はあとで書類を取りに来なさいと先生は言うと、授業の準備があるからと行ってしまう。 「……魔術学校の助手」 降って湧いたような幸運な話に弓泉の身体はぶるりと震えた。 「あの、すみません」 「はい?」 「あの、廊下の真ん中で危ないです」 「ご、ごめんなさいっ!」 うっかりと廊下で立ちつくしていたのを通行人に注意されて慌てて飛び退く弓泉。 バササササッ 「あああああっ!」 勢いづいて手にしていた求人票その他諸々を盛大に落とす。 「ごめんなさいごめんなさいっ!!」 見かねた通行人は書類をかき集めるのを手伝ってくれたが、弓泉は恥ずかしさで顔から火が出そうであった。 (こ、こんなんじゃ駄目よね。しっかりしないと) せっかくのチャンスなのだから。 「すみません。ありがとうございました!」 気を取り直して通行人に身体を真っ二つに曲げてお礼を言うと、胸ポケットに入っていたペン類がまたドサドサと落ちていった。 ● (……大丈夫かな) 気づいたら、助手採用の面接の前日。 鏡の中の自分。前髪から見え隠れする瞳。眉が下がった少し情けない表情をしている。 ぐっと両手で髪の毛を後ろに引っ張る。頬が露わになり痣が剥き出しになるが、皮膚が引っ張られて強制的にツリ目になる。 「大丈夫! 先生だって適任って言ってくれてたじゃない」 気合いを入れる為に、ぱんっと両手で頬を叩く。 友人だって弓泉は研究職に向いてるんじゃないかと言ってくれていた。 助手に収まることが出来れば、額は大きくないかもしれないけど安定した収入が手に入る。そうすれば仕送りもきちんと出来るし、みんなだって喜ぶだろう。それに、研究職に就くのは少しばかり憧れだった。 (悪い方向に考えるのは良くない) 気分転換にと、友人から借りた本を取り出した。魔術の研究雑誌だ。中央都魔術学校の先生や生徒の論文が載ることもある。ぱらぱらとめくっていて飛び込んできた文字。 ――紫雲霞月―― 昼人である自分とは比べられないほどの長い時を過ごし、知識を蓄え、言葉の真の力を操ることに長け、書と画の魔力をどちらも劣ることなくあのレベルまで昇華させた人。 やはり、美しい文章だと弓泉は思う。 自分の能力なんて先生方に比べれば赤子のようだろうけれど。この数年、真面目に学んできたつもりだ。 勉強をもっと続けられれば、いつかこの領域へ近づけるかもしれない。その為には助手に採用されなくてはいけない。 (落ち着いてやれば大丈夫。絶対採用される!) そう決意して臨んだ面接だったのだが。 「え、あれ、えええ!?」 「……?」 陽光を好まぬ者特有の白い肌。切りそろえられた灰の髪。落ち着いた表情には紫の双眸。 弓泉も幾度かその姿を遠目に見かけた事はある。 目の前にいるのは紫雲霞月、その人であった。昨晩、その名前だけは活字でみたばかりだ 「はじめまして。紫雲霞月と申します」 (え、えぇ? えぇぇーーー!!) 助手の募集をかけたのは云々と彼は話を続けていたが、弓泉はそれどころじゃなかった。 弓泉はここにきて自分が誰の助手になろうとしていたか聞いていなかったことに気づく。 (せ、先生っ! そこは教えておいてよ!) そんなにうっかりしている人ではなかったのだけど。おそらく、先生の中ではわかりきっていることだったからポロッと抜けていたのだろう。というかどうして自分も聞き忘れていたのか。 (普通は真っ先に聞かなきゃいけないとこでしょうが!) 「雨里くん?」 「あ、はい! えっと、その、私の名前は助手希望の雨里弓泉と申しますっ!!」 何だか言葉が変なことになっている気がした。でも、もうどこがおかしいのか、どう修正したらいいのか。弓泉にはわけがわからなくなっていた。もう落ち着くとかそういう次元を越えていた。 「落ちた……」 「?」 (これ、絶対落ちた!) いくつかの質疑応答。何をどう答えたのか弓泉は思い出したくなかった。 この後、実技を見るという事だったが、もうそんな気分ではない。自分の思考が外に駄々漏れている事にも気づいていなかった。 (相手は書画魔術の研究では一、二を争う人ですよ? その人の前で書画やれとかどういうイジメですかっ!) 「……」 帰り道。 やれることは全部やった。と思う。でも、弓泉は何だかもう何もかも全部終わったような気がしていた。 (やらなくていいことも全部やったよぉ……) 思いっきり机の角に腰がぶつかった挙げ句に筆を落としたり。更にはその筆を拾って慌てて立ち上がって今度は机に頭をぶつけたり。 そんな弓泉をみて目を丸くしていた紫雲先生の表情を弓泉は忘れられない。忘れたいけど。 (……あぁ、もう!) 気が重い。 それからの数日、弓泉は気を取り直して就職先を探そうとするものの、どうにも気分が落ち込んでうまくいかない。 今日も朝陽が眩しい。 朝食をモソモソと食べて、家を出る準備をしていると、玄関先に気配を感じた。 コトンッ 郵便物が落ちる音。 「また不採用通知かなぁ……あはは……」 自分で呟いて悲しくなった。 差出人も何も碌に見ないで封を切る。ぺらりと出てきた用紙には採用という文字。 『採用』という文字。 「あ、え、嘘!?」 慌てて適当に破られた封筒を確認する。表も裏も何度もひっくり返してみる。 確かに送り先は自分。送り主は…… 「私が紫雲先生の助手っ!!」 何度見返しても間違っているようには見えなかった。都合の良い夢でも見ているかと弓泉は自分の頬をつねってみた。 「痛いし! 誰も起こしに来ないよね!!?」 嘘みたいだと思う。 「え、え、あぶり出しで不とか出てこないよね!? 悪戯!? 何かの間違いじゃないよね!?」 一人暮らし用の長屋の玄関先、誰も来ない朝の時間帯。弓泉は信じられなくて採用通知を握りしめて長い間立ちつくしていた。 ● 「採用でしたか!」 弓泉を霞月に紹介した教師は嬉しそうだ。 「はい。採用させていただきました」 「面接、大丈夫でしたか?」 霞月に尋ねる教師の表情は何かやらかしたでしょうと言っているようである。 「面白い人でしたね」 「あぁ、本当に。あの子は真面目なのに、そそっかしくて」 「けれど、書画はしっかりと……丁寧な仕事でした」 「そうなんだよ。何だかんだでそつなくこなしてくれる。きっと、くるくるとよく働いてくれると思いますよ」 あの子のこと、よろしく頼みますねと言って教師は部屋を出ていく。 (今までにいないタイプの人だったな) 面接の時の雨里弓泉の姿を思い出して、霞月はフッと微笑んだ。 窓からは陽光が差し込んでくる。眩しいが、自分は動けなくなるわけではない。だからこそ、霞月には一緒に働いてくれる人が必要だった。 これから、共に過ごしてくれる人は霞月に何をもたらしてくれるだろう? ――雨里弓泉―― 机の上に置かれたままの履歴書に浮かぶ文字をそっと撫でる。 不意に日が翳る。心地よい薄闇。 静かに雨が降り出していた。
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