人の放つ言葉にはたましいが宿るのだという。例えば一人が虚言を口にしたところでそれは大きな力を持つことはないのかもしれないが、それに共感した者たちが同様のものを口にすれば、それは見る間に波紋のように拡がっていくのだ。波紋となり拡がった言葉はやがて呪力を得、虚言は真実のものへと変じていく。「ねえ、知ってる? バイト先の子が友だちから聞いたらしいんだけどさあ」 例えばそんなふうに、出所の曖昧な”噂話”にさえも、波紋はときとして力を及ぼし真実のものに変えてしまうのだ。 ――否、おそらくはそんな不詳なものであるがゆえに、たましいは宿るのかもしれない。 ◇ 壱番世界のとある小さな島国、その中のとある都市の一郭で、数週間前ほどからまことしやかに語られている噂があった。「懐かしいもんでやんすねェ。わっち、こう見えて壱番世界の出自でやんして」 数歩前を歩く花菱紀虎のあとを歩きながら、旧校舎のアイドル・ススムくんが笑みを浮かべたまま周囲を仰ぐ。 高いビルに囲まれた雑多な大通りを過ぎ、今は閑静な住宅街の中を歩いていた。時刻は十六時を示していたが、壱番世界の暦の上ではもう春なのだという。肌寒さはまだ厳しいものがあるが、なるほど、陽光は傾きこそしているものの一帯はまだ明るさの中にある。 児童の帰途を報せる市内放送が流れた。不審者に向けた対策の一環なのだろうが、肝心の児童の姿はまばらだ。ほとんどの子どもたちは何かを避けるように早足気味に家路を急ぐ。中には数人で徒党を組み探検隊よろしくといった風情で駆けていく少年たちもいるが、それも親たちの迎えと共に姿を消していった。「目撃例はこの一帯でのものが多いのだな?」 超人的能力を保有しているスーパードッグであるクラウスが周囲をねめつけた。まだかたいつぼみのままの梅の木が視界の端で揺れている。「俺なりに調べてはみたんですよ」 紀虎は歩む足をゆるめて肩ごしに振り向いた。「その結果、この先にある小学校内での目撃例がもっとも多いんです」「噂の出所は子供たち、というわけですね」 ふかぶかとうなずいたのは岩髭正志だ。書生姿の彼は指の先で眼鏡を押し上げ、遠くで響く市内放送に目を細める。 さもあらん、とでも言いたげに小さな息をひとつ吐いた正志の声にうなずきを返し、紀虎は口を開いた。「都市伝説っていうのは、”友だちの友だちが見たらしい”とか”聞いたらしい”とかいった類のものがほとんどです。要するに確固とした目撃例のない、こう、ふわふわとしたものであって、放っておけばいずれ勝手に風化して忘れ去られてしまう。そんなものであることがほとんどです」「根強いものも中にはありやすけれどもねェ」 ススムくんがしげしげと言う。三人の視線がススムくんに向け一斉に寄せられた。「そうです。時代を経ても繰り返し出てくる根強いものも多々あります。今回の”人面犬”もそのひとつだと考えても良いと思うのですが」 紀虎が説明を続ける。風が流れ、頬を撫でた。 本来であれば確固たる実像を持たない都市伝説であるはずの”人面犬”が、ここ数週間の間に人間を襲っているのだという。それも”らしい”というふわふわとしたものではなく、実際に被害を受けた子どもがすでに数人にのぼっている。もちろん”目撃例”も数件確認できている。警察も警邏にあたっているようだし、学校も集団登下校を義務付けているようだ。まだ明るいのに子どもたちの姿がまばらなのはその影響も強いのだろう。 街中が都市伝説の現実化に慄いている。否、むろん、大人たちは人面犬の実在など信じてはいないのかもしれない。不審者によるものだと判じているのだろう。 けれど子どもたちは信じている。知っている。なぜなら”見た”のだから。「”人面犬”の顔は安定せず刻々と変化するようです。ただ、集約するに、老人男性の顔、若い女性の顔、幼い男児の顔の三種であるようですね。それは目撃例のいずれにも共通した情報です」「三面保有か。まるでケルベロスだな」 クラウスが続ける。正志も同意を見せた。「”噛み付いてくる”などの攻撃性を持っているのがいずれかのみなのか、あるいは三面すべてがそうなのかまではわかりません。いずれにせよ怪我を負った子どもが複数いるのも確かです」「ファージ、でしょうか」 紀虎の言葉に正志が問う。紀虎はふるふるとかぶりを振った。「わかりません。万が一にそうであった場合、俺ひとりの手に負えるかどうかもわかりませんでした。お付き合いいただいて、本当にありがとうございます」 深く腰を折る紀虎の向こう、決して新しくはない校舎が姿を見せた。 =========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>花菱 紀虎(cvzv5190)旧校舎のアイドル・ススムくん(cepw2062)岩髭 正志(ctdc3863)クラウス(cymh8351)=========
校門の施錠はまだされていなかった。子どもたちはおろか人の気配はほとんど感じられないが、駐車場に数台の車があるのを見るかぎり、校舎内にはまだ何人かの教員が残っているはずだ。 校舎の外壁に取り付けられた時計が示す時刻は十七時より前。校舎内から人の気配が完全になくなるまで、まだしばらくの間があるだろう。もっとも、旅人の外套を身につけていればその効力を得て四人の存在感は希薄となるのだ。こうして敷地内や校舎内を歩いているぶんには不必要に注視を寄せることもない。 「不審者扱いされずに済むってもんでやんすねェ」 ススムくんが表情を変えることなくそう言って、ふむふむとうなずいた。 「確かにな」 ススムくんの脇を歩きながらクラウスが顔をあげる。 ススムくんが動き歩いているのを目撃されれば、不審者どころの騒ぎではないだろう。文字通りの歩く怪談だ。新たな学校の怪談をひとつ増やしてしまうことになる。むろん、あえてそれを口に出して言おうとは思っていないが。 「今思えば、俺って小学生のころから”噂”とか”七不思議”とかに興味あったんだよね」 先頭を歩く紀虎の口調はずいぶんと砕けたものになっていた。黒髪のあちこちをカラフルなヘアピンでとめ、シャツにゆるく結んでいた和柄のネクタイを心もち正しく締めなおす。校舎内に子どもはひとりもいないだろうし、誰に何を見とがめられるわけでもない。にも関わらず校舎の玄関をくぐり入った時から何となく姿勢を正してしまったのは、反射的なものだとでも言うのだろうか。 たいていの学校ならたいてい七不思議と称されるものは存在していた。夜中に走る二宮金次郎像、トイレの花子さん、夜中の音楽室から響くピアノ。増減する階段の数、夜中の体育館で響くボールの音。四時四十四分に鏡の前に立つと鏡の世界へ連れ込まれる。 内容は細部は様々だが、大まかな点だけまとめれば内容はだいたい同じようなものとなることが多い。人の噂は見る間に伝播するものだ。どこかで発生した、大元となる事例が尾ひれをつけ改変されて伝わり広がっていくのだろう。 「七不思議ってェのは学校だけにしかないもんなんで?」 ススムくんが問う。紀虎はかぶりを振った。 「日本の七不思議、世界の七不思議。神社仏閣の中にも七不思議を持つものもあるよ。なにも学校だけに限ったことじゃない」 ススムくんは「ほほう」と興味深げにうなずいた。 言う間にも四人は歩みを進め、ほどなく、ひんやりと冷えた廊下の床を踏みしめた。正面玄関を抜け出た廊下の向かって右手には体育館、左手には校長室や職員室。比較的近い位置に階段があり、その向こうには高窓を備えた渡り廊下がある。学年ごとに校舎が分かたれているのだ。 「ところで、その犬に関する目撃例が多いのはどの辺りなんですか?」 正志が口を開けた。ススムくんが同意をみせてうなずく。 「仮にその犬がファージであったとするなら、習性的に、群れを作っているのではないかと僕は考えます。そして、もしも数頭から成る群れが敷地内を棲家としているなら、子どもたちだけではなく大人たちにも目撃されているのではないでしょうか」 「まァ、そうでやんすよねェ。いや、わっちもね。まあこれでもいろいろ考えてみたんでやんすよ。その結果がこの荷物でやんしてね」 言いながらススムくんは持参した袋を開いた。覗きこんでみると中に入っていたのは封印のタグやら迷子用のチケットやらドッグフードやら酒がある。 「万端だね」 紀虎が感心したように言って目をしばたいた。 「これだけあればロストナンバーであろうがファージであろうが、問題なく解決できるな」 クラウスはうなずき、続いて顔をあげて紀虎の顔を見る。 「ところで、オレも正志の言う通りだと思う。いずれにせよ”人に害をおよぼすもの”を敷地内に置いておくような学校はないだろう」 「うん、俺もそう思ったんだけど」 紀虎はポケットからてのひらサイズの手帳を出して開き確認した。 「集約するかぎり、中庭での目撃例が多いんだよね」 中庭とは言っても遊具があるわけでもなく、子どもたちや業者が出入りする門があるわけでもないらしい。ただそれなりに日当たりが良いため、子どもたちが育てている野菜や花の鉢が置かれたりするような場でもあるようだ。 「ただ、その中庭のすぐ近くに葬祭場があってさ。しかも音楽室の窓が面しているらしいんだよね」 「なるほど。ようするに”噂”が発生しやすい条件をいくつか備えた場所でもあるんですね」 正志が言う。紀虎はうなずき、渡り廊下の突き当たりにあったドアに手を伸べた。玄関口にあった案内図を見たかぎり、この奥が中庭になっているはずだ。ノブをまわす前に振り向き、肩ごしに連れ立ってきた三人の顔を順に見やる。 「では、開けますね」 ひっそりと声を落とした。次いでゆっくりとドアを開ける。 夕方の、冷えた風が枯れた庭の中を吹きまわっていた。子どもたちの名前が書かれた青いプラスチックの鉢が点在している。かすかに梅のにおいがする。クラウスが鼻を鳴らして首をかしげた。庭の端に一本の梅の木があるのが見えた。日照は良いということだ、他所の木よりもはやく花を咲かせるための条件は整っているのだろう。 正志が周囲を見渡す。数歩を進めた。確かに門はなく、フェンスに囲まれた空間となっている。フェンスを越えれば敷地内に踏み入ることは可能だろうが、大人よりもいくぶんの高さのあるそれを乗り越えるのはそこそこの至難だろう。 むろん、犬がいるような気配はない。 ひっそりと静まった一面に漂う空気は怪異とは縁のないものであるように思えた。 「枯れ尾花という可能性は?」 肩ごしに振り向くと、正志は眼鏡の奥の双眸をゆらりと細める。 「例えば本当にただ偶然に迷い込んできた犬がいたのかもしれない。それが尾ひれを得てひとり歩きをしたのかもしれませんよね」 紀虎は小さなうめき声のような息をひとつ吐いて、庭の中央に位置する辺りまで歩み出た。クラウスはフェンスのそばに寄っている。 「なにかありましたか?」 正志がクラウスの横に立ってフェンスに手をかけた。クラウスは「うむ」と小さく応えてから言をつむぐ。 「この一帯、ずいぶんと静かな環境下にあるのだなと思ってな」 「そうですね。向こうにはそれなりに子どもたちもいましたが」 「こちら側には葬祭場があるということだったな。そのせいなのかどうかは分からないが、隣接しているアパートは平屋も空き家が多いようだ」 クラウスの目はフェンスの向こうにある一軒の平屋に向いていた。 「おや、あの平屋の庭にあるのは犬小屋でやんすかねェ?」 ススムくんがのんびりと告げる。 雨戸が閉じ、ポストにはチラシが無造作に詰め込まれているその平屋には、確かに古びた犬小屋があった。 「あの家で犬を飼ってたんでやんすかねェ。お留守なんでやんしょうか? それとも引越しでもしちまったんでしょうか」 言いながら、ススムくんはフェンス越しに平屋を覗き込む。平屋には誰かが住んでいるような気配はまるで感じられない。だが犬小屋だけを残しての引越しということはあるのだろうか。考えたが、ススムくんはわずかに首をかしげただけで、すぐにきびすを返して校舎を仰ぎ見た。 紀虎の情報の通り、中庭から見上げた位置には音楽室がある。カーテンは開かれたままになっていた。ベートーベンやらの音楽家の画が飾られているのが見える。 例えば、子どもたちがこの庭に来て用事を済ませようとしたとして。この静寂はたしかに、ある種の緊張を幼い心の中に落としたりもするかもしれない。ふと視線を感じて見上げれば、そこには自分を見下ろしているかのような音楽家の目があるのだ。 「思うのだが」 口を開けたのはクラウスだ。 「その家にかつて犬が飼われていたとする。このあたりは通学路にもなっているだろう。まして、学校のすぐそばに犬がいるともなれば、子どもたちからすれば遊び相手のようなものだったかもしれない」 言いながら鼻を鳴らす。その時、わずかにクラウスの目が鈍く光彩を放った。視線は迷いなく空き家を外れ、校舎の影に向けられた。正志がクラウスの視線が移ろったのに気づき、顔を向ける。 「しかし普通の犬じゃァ人面犬なんざ呼ばれたりしやせんでしょうしねェ」 ため息のようなものを落としながらススムくんがフェンスに背を向けた。紀虎もまた首をかしげてフェンスに背を向け、もたれかかる。 「それはどうでしょうか。前々から人面犬に関する噂や情報が周りにあって、それが脳内になんらかの形を成していた場合、正体が枯れ尾花であっても、人外のものに見えてしまうことも間々あることでしょうし」 応えたのは正志だ。しかしクラウスの声が彼らの会話を小さく制する。 「……枯れ尾花かどうか、確かめる機会が巡ってきたようだ」 「え」 紀虎が顔をあげた。 「ヒィッ?」 驚き、わずかに身をはねらせたススムくんが声を震わせた、そのときだった。 校舎の影から一匹の柴犬がゆっくりと姿を見せたのだ。しかし、 「人面じゃないな」 紀虎がひとりごちる。 あらわれたのは変哲のない見目の柴犬だった。当然、三面保有なわけでもない。驚きの声をくぐもらせたススムくんは犬の姿を検めて恥ずかしげに頭をかいた。 「いやァ……わっちとしたことが」 言いながら数歩を歩み出て片手を伸べる。 「ご機嫌いかが? ハウドゥユドゥー?」 「よせ!」 クラウスがススムくんを制する、精悍な声が響いた。 「へ?」 のんきな応えを返しながら肩ごしに振り向いたススムくんの耳に、幼い男児の声が触れる。 「おじちゃんたち、だあれ? なにしているの?」 「へ?」 再びのんきな声を落とし、ススムくんは再び柴犬に向き直った。 「こどもはさっさとかえれ! じゃまなんだよ!」 今度は老人の声がする。 「おじいちゃん、やめて。はずかしい」 続き、若い女の声がした。 どの声も、柴犬の口から発せられているものだった。 「これは」 紀虎がわずかに目を見張る。その視線の先で、柴犬はわずかに身を震わせていた。その動きは次第に大きくなっていき、やがてその顔面だけが幼い男児のそれへと変容する。 「おじいちゃん、またおこってるんだ」 男児の顔をした柴犬が男児の声を落とす。次いで柴犬は再び身を大きく震わせ、今度は初老の男の顔を見せた。 「オレはやかましいのがだいきらいだ。さっさとひっこすぞ」 今度は女の顔。 「そのまえにおじいちゃんはびょういんでしょ」 眼前にした四人のロストナンバーたちにかまうことなく、ごく一方的に発せられる”会話”。それはまるで、 「この犬が見聞きしてきたものを、一方的に聞かされているような感じだな」 クラウスが目を細めた。 柴犬はやがて再びぶるぶると大きく身を震わせると、最初の顔――つまり変哲のない柴犬の顔に戻り、そうして一声、暮れていく空に向けて吠え立てた。 「記憶を再現することの出来る犬……」 正志が呟く。 「特殊な能力を得た犬ということですか?」 紀虎が問う。 「はい」 「それってつまり、俺たちと同じ」 ロストナンバー? ススムくんは伸べた手を引っ込めることも忘れ、表情の変化のない顔で、けれどもぽかんと口を開けているかのような空気を放ちつつ、紀虎と正志の短いやりとりに耳を向けていた。クラウスの厳しい声に制された影響か、まるで動くことが出来ずにいる。 そうしている間に、ススムくんは指先にわずかな違和を感じて首をかしげた。クラウスの足が地を蹴る。 首をかしげ、ススムくんは違和の原因を視認するために顔を向けた。そうして再び驚きの声を張り上げる。 「ヒイイイイ!」 指先は柴犬によって噛まれていた。痛みのない身体ではあるが、視認してしまうとなぜか痛むような気になってしまう。否、それよりも驚きが先行する。 「わわわ、わっちはかじっても美味しくないでやんすよォォォ! ギャアアア! 紀虎のダンナ、岩髭のダンナ、クラウスの兄さんんんん!」 仰々しい叫びを口にする。クラウスが柴犬の体に当身をし、無理矢理にススムくんから引き離した。 「そ、そそんな乱暴なァァ」 解放されたススムくんは弱々しい声を発しながらよろよろと歩き、紀虎の後ろへと身を隠した。 「大丈夫ですか」 正志が声をかける。紀虎もまた心配してススムくんの手をとり検めたが、大きな負傷は特に見当たらなかった。柴犬が加減して噛み付いてきたということなのだろうか。 「怪我はないようですね」 正志が言う。ススムくんは大袈裟に首を振った。 「木目、わっちの木目が」 言って、ススムくんはそのまま小さくうめきながら倒れ伏した。 「わ、わっちはもうダメでやんす……わっちはお空の星になったと、チェンバーのわっちに伝えてくだせぇ……」 「そんな大袈裟な」 真っ当な返しを述べた紀虎の腕の中、ススムくんはそのままぐったりと力なくうなだれた。 一方、柴犬と向かい合ったクラウスは、柴犬が再び身を震わせ顔を変え人語を放つ様を目にしていた。やはり顔は三種、声も三種。 「貴様、オレたちの言葉が分かるのか?」 試しに訊ねてみる。柴犬は身を震わせ、幼児の顔を見せた後に応えた。 「そうだよ。おじちゃんたちはなにしてるの?」 「貴様に会いに来た」 返し、数歩を進む。柴犬はクラウスが近寄ってくるのを知るとゆっくりと後ずさった。距離は縮まらない。 「貴様、名前は」 問う。柴犬は女の顔を浮かべた。 「ユウター。モンにごはんあげなさいよー」 「……モンという名か」 「僕たちはおそらく貴方の力になれるはずです。貴方がこの場に居続けることは、たぶん、少なくとも、この近隣に住む方々にとっては悪い影響を広げることになるかもしれません」 クラウスの隣に立った正志が眼鏡を正しながら静かに言う。 「貴方は今ススムくんに噛みつきましたね。でも噛み跡を見るかぎり、貴方は本当に軽く、撫でる程度にしか力をいれていない。……子どもたちを噛んだときも、きっと同じように加減したのではないですか?」 「……怖いのかな」 ようやく意識を戻したススムくんを座らせてから、紀虎が口をひらいた。 「例えば誰かから――それとも複数人から、かもしれないけど。乱暴なことをされてきたら、やっぱり同じことをされるんじゃないかって思っちゃうよね」 「ススムくんは手を伸ばしていた」 正志が続く。 「思うんですよ。怪談っていうものは、実際にそんなことがあったら怖いからイヤだなっていう思いと、反面で、でもおもしろいだろうなっていう期待とが織り交ざって作られたものなんじゃないかって」 想像や空想がかたちを成して実体を呼び寄せる。それが”噂”をもとになされた”怪談”なのではないだろうか。 「とにかく、正志さんが言うように、このままここに置いておくわけにもいかないでしょう。連れて行かなくちゃ」 紀虎の言葉を聞いたのか、モンという名の柴犬は跳ねるように地を蹴って来た道を引き返し逃げようとした。クラウスが追う。再び当身をして無理矢理に押さえ込み、正志と紀虎の顔を順に見やった。 「ひとまずは確保だ。列車に乗せるぞ」 「あの平屋に住んでいたのはやっぱり、祖父と住む、年の離れた姉弟だったようですね」 モンをターミナルに連れていき引き渡した後、再び独自に調べに行っていた紀虎は手帳をめくりつつ口を開けた。 「けどおじいさんはお加減を悪くして入院、その後比較的すぐに亡くなっているようです。やっぱりモンという名の犬を飼っていたようです」 しかしモンはある日行方知れずになってしまう。犬小屋につながれていたはずのリードは、おそらく登下校する子どもたちによっていたずらにはずされてしまったのだろう。 「それが数ヶ月ほど前のことだったみたいです。柴犬はしばらく行方知れずになっていて、その間に姉弟は引越しを余儀なくされてしまった、と」 「飼っていた犬を放ってですか」 「結果的にはね」 正志の問いに紀虎はうなずく。クラウスがむうと呻き声を落とした。 「いたずらに、どこぞへ連れ去られていたという可能性も否めまい」 「そうですね」 それは柴犬にしか知り得ない話だ。 「腹ァすかせてやいやせんかねェ」 ススムくんがのんびりと告げる。 「まあ、いずれにせよ、正体見たり枯れ尾花というものとも異なる結果だったわけですね」 正志が続いた。紀虎はうなずき、手帳をしまう。 「でも、興味深くはありますね。作り話にすぎないものから実体が生まれる。噂が本当のものに変わるんだから」 「想像力が創造するものというところか」 クラウスが返した。 うなずきながら、紀虎はふと目を伏せる。 実際に枯れ尾花である例も多くあるだろう。けれど、今回のような例も少なからず存在するのだ。 「本当に怖いものを呼び寄せてしまうことも、あるのかもしれませんよね」 そう、今回のようなものではなく。もっと大きな害を成すものをも創造してしまうこともありえる話だ。 正志が眉をしかめている。ススムくんは相変わらず変化のない表情を浮かべつつも「ヒッ」と肩をすくめていた。 「無きにしもあらず、というところだな」 クラウスが低く落とした。 「俺、これからも調べてみます。噂が最悪な結果を招かないように」 言って、小さく頭をさげる。 「今回はありがとうございました。また良かったら、お付き合いください」
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