「華がね、咲くんだ」 虎とも猫ともつかぬ姿をした世界司書・灯緒(ひお)は、集まった旅人たちへ向け、開口一番にそう言った。謎かけのようなその言葉に、ロストナンバーの脳裏に疑問が閃く。「華。龍の華と書いて、龍華(りゅうか)。空に咲く華、と言えば判りやすいかな。……そう、花火さ」 雁字搦めに絡まった紐をほどいていくように、一言一言、静かに置きながら語っていく。「大陸を二つに分断する、大きな河が在るのは知っているだろう? 龍が眠る、神聖な場所とされているんだけど」 それは、先日東側の大陸へ調査に向かったロストナンバーが得て来た情報だった(ちなみにもうひとつ、東の大陸に立ち込める霧を持ち帰ってきているのだが、そちらは現在西の花と合わせて分析中らしい)。「まさかこんなに早く辿り着くとはね。……いつか説明しようと思っていたけど、この話は以前の調査でも判明していた事なんだ」 争いを続けていたひとつの大陸、幾多もの国。それらを憂い、容易く屠られていく命を嘆き、一匹の龍がその身を河と変えて、大陸を二つに分断した。――朱昏の人間であれば、御伽噺として幼い頃から刷り込まれている話でもある。ゆえに大河の両岸には龍を祀る社が建てられ、何名かの巫女がその場所を護っているのだ。 そこまでをつらつらと語り、猫はふと言葉を切る。ひとりひとりへ順に視線を送って、静かに目を細めた。「――かつて、朱昏の調査を中断した理由。それがこの、大河に眠る龍王についてなんだ」 大河へ調査に向かったロストナンバーが、叩きつけられたと言う敵意。その主の事だよ、と表情のない獣の眼が神妙に翳る。 朱昏の地理を、文化をも断ち割ってしまうほどの膨大な力を持った存在、龍王。かつての調査でも何度も邂逅し、その都度朱昏に深い介入はしないと誓いを告げ、また赦されてきた。 そうして、真都守護軍のようにロストナンバーに好意的な者達も現れ、朱昏を新しい故郷と選び帰属する者も増え始めた、その最中だった。「ある日突然――本当に突然だ、前触れもなく、龍王が掌を返してロストナンバーが朱昏へ乗り入れる事を拒んだ」 この地の均衡を乱すな、と。空模様が一変したのと共に、乗車していたロストナンバーの耳に、憤怒を顕にした声が聞えたのだと言う。「いきなり怒鳴られても、こちらには一切身に覚えがなかった。……そこからは、一瞬だったよ」 異世界の有力者からの、完全な拒絶。 龍の怒りを一身に浴び、雷雲と竜巻とが荒れ狂う空を駆けることなど幾らロストレイルといえど不可能だ。ゆえに世界図書館は不十分と知りながら、朱昏の調査から手を退くほかなかった。 ならば何故、今更になって調査を再開しようとするのか。「かれが怒る、その理由を知りたいんだ」 旅人の一人が疑問を口に出そうとしたのを遮り、先手を打った猫が言葉を継いだ。「おれは異世界に介入する意義だとか覚悟だとか、そう言うのを問うつもりはない。……せっかく知り合うことができたひとと、何が何だかわからないまま仲違いというのは、悲しいだろう?」 怠惰に見えた黄金の瞳に、意外なほど真摯な色を纏い、猫はゆるりと首を傾げた。誤解であればそれを解いておきたいし、こちらに非があったとしたら謝っておかねばならない。そんな単純なものでいいんだよ、と穏やかな声音で付け足す。 【セカンドディアスポラ】が世界図書館にもたらした機会。断絶された異世界とのつながりを取り戻すことができるかもしれないそれを、見過ごすことなどできなかった。「まずは、危害を加えるつもりがないと言う意思を示さなきゃならないからね。各地で起こっている事件や行事に積極的に顔を出してほしい」 で、これは第一歩。言葉と共に前脚を差し出して、虎猫はゆるく眼を細めた。 東西の反転した日本列島によく似た、朱昏の地図を彼らの前に広げ、猫司書はその中央を指し示した。昇る龍の形に似て細長い大陸の、東西を分断する広大な河川。龍が眠る、とされるそれ。「……朱昏では、大河には船を浮かべてはならない決まりがあるんだ。龍の身体の上を横切るわけにもいかないからね。ただ、それが許される時期が、年に何度かある」 そのひとつが、ちょうど今頃なのだと言う。「その時期に合わせて、大河の西側――江戸時代の方だね――ではちょっとしたお祭りが開かれるんだ」 大河に何艘かの船を浮かべ、宵闇に“龍華”と呼ばれる花火を咲かせる。この季節にはうってつけのお祭りだろう、と猫は怠惰な瞳を閃かせて語った。「岸には屋台や見世物小屋なんかも出張って、結構賑やかな行事みたいだよ?」 そこまで語り、ふと思い出したかのように口を噤む。足元に置かれた導きの書を巻き戻すようにして捲り、ゆるりと目を瞬かせた。「見世物小屋と言えば、そうだ。導きの書で見たんだけどね。岸で興行してる小屋のひとつで、覚醒したばかりのロストナンバーが見世物にされてるんだ。かれを助けてきてほしい」 ――花火よりも、そちらを先に言わなければならないんじゃないのか。 集まった旅人たちのみならず、近くで従事していた世界司書たちまでもが、虎猫の呑気さに嘆息を零した。「名前は判らない。特徴は、そうだなあ……小さな、黒い龍。としか言いようがないか」 光さえも呑み込む漆黒の鱗を持った、2メートル程度の小柄な東洋龍。朱昏のような“和風”に類される世界から来たのではないか、と世界司書は推測を告げた。「黒龍と言えば、日本では高淤加美神(たかおかみのかみ)と同一とされたり、五行思想では玄武に代わって北方の象徴だったり、地域によっては邪悪の化身だったりする場合も――」 唐突に脱線を始めた猫の語りを、隣の世界司書が咳払いで遮った。マイペースに話を広げるこの獣の性格を熟知している。「……とまあ、それはともかく。朱昏で龍と言えば、かなり重要な存在だ」 ――要するに、龍を神聖として崇める世界に、異邦の龍が迷い込んでしまったらしい。よくよく考えれば重大な事のはずだが、やはりこの猫が語ると簡単に聞こえてしまう。「どうも、他の世界で神龍として祀られていたひとらしいね。人の姿を取ることも出来るけど、初めての世界に動顛してそれさえも忘れてる」 龍は見世物小屋の目立つ場所に、木檻に入れられた上、鎖で繋がれている。昼間、客の集まる時間帯では、救出は難しいだろう。狙うならば人の眼が龍華に集中する夜――或いは、龍が己から逃げ出すように促すか。「なにせ、自分の名前すらも思い出せなくては、龍といえどただの獣でしかない。……ああ、それを取り戻してあげるのが、一番早い方法かもしれないね」 神獣の名には強い力が宿る。神龍が本来の名と力を得れば、鎖など容易く己で断ち切ってしまうのだろう。「それで、その黒い龍。名前を思い出せない代わりに、歌をよく詠んでいるらしいんだ」 そこでまた、怠惰な猫司書は話題を変えた。初めからこれらの話題は全て、猫の中でひとつに繋がっているのかもしれないと思わせるほど、顔色一つ変えず奔放に語る。「おれが確認できたのは、三つだけだったけど……まだ、幾つか違う歌を詠んでいるかもしれない」 そう首を傾げて、猫は反芻するかのように歌を口ずさんだ。 萩が花ま袖にかけて高円(たかまど)の 尾上の宮に領布(ひれ)ふるや誰 高砂の尾上を行けと人もあはす 山郭公(やまほととぎす)里なれにけり 高秋を峰の尾花か本柏(もとかしは) 思ひある草と色かはるらむ「どの歌も、朱昏の季節と少しずれている。今はあちらでも夏真っ盛りだからね。……何かの理由があって、黒龍は詠んでいるんだと思うよ」 チケットを持たぬ以上、朱昏の人間と言葉を交わす事は出来ない。それなのに、黒龍は何度も歌を繰り返し詠むのだと言う。――それを聞くことができる者に、何かを伝えたがっているのだろうか。「和歌とは三十一文字(みそひともじ)に思いの全てを籠めるもの。だから、もし伝えたい言葉があったとして、この歌から離れることはないんじゃないかな」 ただの推測だけど、と猫は呟いて、金の瞳で旅人たちを順に見遣る。「黒龍を無事助け出した後は、祭と龍華を楽しんでくるといい。もし要望があるなら、大河に浮かぶ座敷船に乗れるよう手配してあげるけど、どうだい?」 飄々と語り、猫はそこで説明を終えた。 君たちなら大丈夫だろう、といつもの台詞を吐く、その眠たげな瞳の奥で、確かな信頼の色が煌めいた。
猛禽とは情深いものだ。 集う鳥達から盛大な歓迎を受け、玖郎は苦笑にも似た呼気を漏らした。彼と同じ赤褐色を纏う鴉達とは、以前この世界を訪れた際に会話を交わしたことがある。 覚えていたのか、と玖郎が問えば、おまえみたいな大きいやつ忘れるわけがない、と至極簡潔な答えが返った。どうやら翼の色から同族として捉えられているらしい。己は鴉ではないと思いつつも、特に不愉快でもないので訂正はしないことにした。 二対の翼を持ち、猛禽の脚を持つ玖郎は市井において目立ちすぎる。旅人の恩恵で騒ぎになる事はないだろうが、それでも人の間を堂々と歩くのは憚られたため、河沿いの森にその身を隠していた。棲み処によく似た森の中に在り、樹の上で鳥と語らう。祭の喧騒など忘れ、心が鳥に、森に還る。これでこの場所が河でなく山であれば――と考えた玖郎の耳に、ひとつの声が掛かった。 「玖郎さん!」 彼の立つ樹の足許から、ひとの声がする。聴き覚えがある。彼と同じ、ロストナンバーの一人。青い瞳をもつ少女。 錆色の鴉達が驚いて、姦しく飛び立っていく。それを僅か残念に思いながらも、赤褐色の天狗(あまきつね)は鉢金に瞳を隠し、しかし律儀に少女の方へその貌を傾けた。 「お願いがあります」 木漏れ日の下、華やかな扇を胸に抱く少女の穏やかだが強い光を持った青い瞳が、玖郎の背に伸びる翼へ向けられている。 寡黙だが実直な天狗の口許から、否の言葉は出ない。 煩雑とした賑わいの中に、身を溶かしこむ。 年に一度の祭ゆえ、規制も緩いのだろう。腰に刀を差した立派な身形の武士から、素足で楽しげに駆け回る小童まで、行き交う人々に身分の別はない。 流は人々の生み出す喧騒に紛れながら、微かな笑みを零して周囲を歩く。人の営みに東西の違いはないらしい。これもまた、彼女の故郷たる水の城では感ぜられなかったものだ。清廉な気に充ちた霊域も好いが、こういった賑やかな気配も嫌いではない。 祭市の区割、守護役の配置を見定めがてら、鷹揚と祭を楽しむ。その視界の先に、一際目を惹く仮説小屋が姿を見せた。不意に、その足を止める。 祭の中でも浮いた色彩の垂れ幕の下、急拵えで書いたと思われる看板が飾られている。一枚目には漆黒の龍が天へと昇る姿。二枚目以降には蛇女や河童の子供と言った、如何にも人の興味を惹く題目が並んでいた。 流は向きを正し、黒龍の画をじと見据えた。名うての絵師に頼んだものだろう。誰が描いたものかも判らぬが、その姿には、その眼には確かに天を目指す力強さがある。――それゆえに、書き込まれた誘い文句が空々しいとしか形容できぬ。 ひとつ静かに息を吐いて、龍神の化身は漆黒の龍図へと足を寄せた。 その背中に、朧げな色を纏って花が降る。 雲に遮られることのない晴天の下、蒼と金の花が舞う。熱気に持ち上げられ、重力に惹かれてひらひらと落ちていくその様は、色彩を持った雪のようにも見えた。 春秋 冬夏は両手に扇を抱え、大きく振るう。その動きに合わせ、扇の面に描かれた紫陽花の花と金木犀の花が空中に現れては落ちていく。金と蒼が混じり合い、また軽やかに風に吹かれた。 「とらべるぎあ、か」 頭上から朴訥な声が降り、冬夏は身体を捻って振り仰ぐ。彼女を抱えてくれている天狗の翼が強くはためく度風が生まれ、それに乗って花が散る。 「はい。お花は好きですか?」 「……木行だ」 きらいではない。そう語る玖郎の口許に表情はなくとも、雰囲気が和らいだことに気づき、冬夏まで嬉しくなって笑みがこぼれた。 花弁が散り、大地に迫るふたつの色彩。興味を惹かれた者達がその下に集い、地上はささやかな騒ぎとなっていた。 この隙に、残る二人が上手く黒龍を助け出してくれればいい。そうでなくとも、話だけでもできれば。 祈りを籠めるように、冬夏は再び花を降らせる。 貧相な獣だ。 木檻に近付けば近付く程、斎田 龍平はその印象を強く抱く。 人ひとりがやっと入れるであろう狭いその場所に閉じ込められ、強く強く首を戒められている。散々暴れたのか鎖の周りの鱗は剥がれ、そこから覗く柔らかな肌膚が痛々しい。瞳を閉ざして無理に眠りを呼び込もうとしても、周囲の喧騒がどうしても気になるのかその気配は逆立ったままだ。 隣の流をちらりと横目で見やるも、凛と引き結ばれた唇に表情はない。 「……神様ってのは、こうやって居なくなるのか。参ったね」 身動ぎする度傷に戒めが触れ、微睡みながらその黒い獣は表情を顰める。 振る花の雨に吸い寄せられるように人の波は引き、近付く二人の足音だけが静かに響く。それに気付いておきながら、顔を傾ける事さえしない。ただ煩わしげに閉じた瞼を震わせるその様は諦観と絶望が滲んでいるようで、同じ龍である流の胸を締め付けた。 沁み出す絶望と、捨てきれない一縷の希望。その二つに裏打ちされた警戒が二人へと叩きつけられ、龍平は思わず足を止めた。 動じる素振りひとつ見せず、薄青の女は木檻の前に立つ。白き手を黒龍に向けて翳し、静かに瞳を閉じた。 澄んだ風が、二柱の龍神を覆う。 ――気を鎮めてくださいまし 青き龍が黒き龍へ向け、そう≪声≫をかけているのが、外れに立つ龍平にも漏れ聞こえた。 『こえ、が』 黒龍の口から零れ出るように落ちた声。茫洋と瞼を開き、その奥から現れた深い紅玉が声の主を探すように彷徨う。 ――此方に 流が再び≪声≫で呼び掛け、それに応えて黒龍が彼らを視た。まず胡乱に龍平を見、そして流へと向けられたその眼が、僅かに、しかしはっきりと開かれる。 『ひとではない……だれだ』 舌足らずの語調で、そう問いかける。能力だけでなく、思考にすら靄がかかっているらしく、彼らを見上げる紅い瞳は茫洋と濁って見えた。 「貴方と同じ、龍にございます」 『りゅう。……こんな、ところに』 だが、確かに聴こえている。確かに見えている。 ならば、語りかける事は決して無駄にはならないのだ。 『名は』 「我はただ、一柱の土地神」 己の胸に手を宛て、流は黒龍へと語る言葉を止めない。深紅の瞳が探るように彼女を見上げている内は、まだ言葉が届いているのだと確信出来るから。 纏う小袖の淡い青が、彼女の所作に合わせて揺らぐ。 「東方青龍とも違う、御名を持たぬ水の如き青の龍」 流れる清水の色彩を以って、龍の化身たる女は微笑んだ。 「故に、名を“流”と」 りゅう、或いはながれ。二つの意味を持った名を、明かす。 『なが、れ』 途切れ途切れではあるが、確かに黒き龍が青き龍の名を呼んだ。笑みを絶やさぬまま、流は頷く。茫洋としていた深紅の瞳に、確かに強い光が宿ったのが見えた。 『……じきに客が戻ってくる』 「ええ」 『また、夜に来てくれ。ながれ』 「約束致しましょう。必ず、再び参ります」 己を見失わぬ唯一のよすがのように、龍は同胞の名を呼び続けた。 その様子を静かに眺めていた龍平が仕種だけで流を促す。未だ瞳を向け続ける黒龍へひとつ礼を送り、彼女はその場を後にした。 通りに紛れるようにして立ち去る二人を見つけ、冬夏は玖郎に声をかけた。青と金の花の雨をより強く降らせ、風に扇が煽られそうになるのをしっかりと支えられる。 舞い落ちるふたつの色に紛れ、玖郎は冬夏を抱えたまま徐々に降下を始めた。二人が向う先、祭の外れに広がる森の奥へと飛び往く。 その耳に、確かなうたが届いた。 高袖も 尾花かもとに そふ草の 思ひぞ広き 野辺の夕露 「……また、うたってる」 玖郎だけではなく、冬夏の耳にもそれは確かに届いたようだ。独白にも似た彼女の言葉に頷きだけを返し、天狗は再び翼を羽撃かせる。 「自分がだれか判らなくて、寂しいのかな。……それとも、何かを探してる?」 少女の独り言は止まない。ぽつりぽつりと、うたを詠む声に滲む悼みを受け取り、それを己が事のように哀しむ。 ひととは実にふしぎなものだ、と、寡黙な物怪はただ思う。 迫る刻限。しかしまだ日は沈む気配を見せない。 まっすぐに伸びる屋台通りを突き抜ければ、その向こうには青々と繁る森と、朱色の鳥居を抱く社が現れる。龍神を祀る社。冬夏が訪れたいと言い出し、流がそれに同意して、ふたりはその路を歩んでいた。 神威に充ち、ひとの気配を遠ざけるその場所。膨大な水気をその傍に抱くこの地は、景色こそ違うものの、流のふるさとである水城山を思い起こさせる。知らず、進む脚が緩やかになった。 似ているようで、しかしこの場所は彼女とは違う龍神の領域。鋭い緊迫感を覚え、凛と眼差しを引き締める。 青い瞳を興味深そうに巡らせて、冬夏は大きく息を吸い、吐いた。祭の熱気、夏日の暑気は遠く、ただ涼やかで澄んだ風のみが吹き渡る。この場所だけが、周囲の風景から切り取られているようだ、とさえ思えた。 玉砂利を踏みしめて、ただ静けさと共に歩く。 やがて、二人の道筋の前に、本殿らしき建物が現れた。 「ようこそいらっしゃいました、異邦の方々」 その前に静かに佇むのは、緋色の装束を身にまとった、年若い巫女。 「あの、私たちは」 「貴方達がこちらへ訪れることは存じておりました」 声を掛けようとした冬夏の言葉をやんわりと遮って、巫女は語り、微笑む。 ふと過ぎる異和感に、流は整った眉をかすかに寄せた。 東の大陸で見かけた巫女は、藤色の袴を履いていたはずだ。 「東岸の方とは、装束の色が違うようですね」 「左様。あちらの社は東昇宮、こちらの社は鎮西宮と呼ばれます。もっとも、私たち宮司とて、対岸に渡ることは許されておりませんが」 東西の双方を知るのは、王たる龍ただひとり。故に、それを知る流が純粋に羨ましいと、年相応の少女の顔で言った。 「――して、御用とは」 「あ、あの」 唐突に切り出された問い掛けに、冬夏が応える。一歩足を踏み出して、しかし微かに言葉が濁る。――まだ、彼女の中にも困惑が残っているのだろう。 「……私は、龍王さんともお友達になりたいんです」 この河に宿る朱き龍、そして同胞たる黒き龍。冬夏にとってはそのどちらも大切であり、同様に仲良く出来ればいいと考えている。思考に掛かっていた靄が晴れ、迷いが切り離され、少女の青い瞳は真摯に緋色の巫女へと向けられる。 「だから、過去に“私たち”が何をしたか。それを教えてください」 終わらぬ争い、奪われる命。流れる血を憂い、嘆き、その身を賭して大地を別った慈悲深き王が怒るほどの事を、本当にロストナンバー――自分たちの同胞が犯したのか。それが真実ならばどんな糾弾も甘んじて受けようと決意を秘めて、冬夏は言葉を続けた。 龍王の怒りが誤解か真実か、それを見極める≪眼≫は持っているはずだ。 「ただ謝るのは簡単だけど、何があったのかも分からずに謝るのは不誠実だと思うんです」 だから、知りたい。願わくば龍王自身の言葉で。 「お願いします」 懸命さを滲ませる仕種で頭を下げる少女に、巫女はうろたえ、流はかすかに微笑んだ。 「……“龍華の日”は、龍王が一年で最も深い眠りに就くからこそ船を赦す日です。ゆえ、今の時期は私たちでさえもその御言葉を聴く事は出来ません」 己の責であるかの如く、申し訳なさそうに眉を下げる。冬夏は首を振って、それならいいんです、と応えた。黒い髪が神域の風に靡き、それを目で追い、巫女は再び口を開いた。 「“龍燈の日”にお出でなさい、異邦の者達よ」 「……りゅうとう?」 「龍華と対を為す日です。――龍王が目覚め、微睡みの中で人を受け容れる日。ゆえに、宮司でない者にも、王の声を聞くことが出来ます」 「それは、いつ頃行われる祭りなんですか?」 「……此度の眠りは浅い。明確な日は決められておりませんが、そう遠いことではないでしょう」 矢継ぎ早に放たれる疑問に、表情を揺るがせることなく巫女は答える。簡単な礼を言い、ふたりはその場を離れた。 黒龍と同じく、この場にはまた再び訪れる必要がある。そんな確信を伴って。 「すこし、屋台を見て歩きませんか」 風の流れに乗って、甘味や醤油、様々な食べ物の匂いが入り混じって届く。賑やかな客寄せの囃子も聴こえ、黄昏に染まりつつある旧き祭の様子は、冬夏の好奇心を擽るには充分すぎた。 頬を紅潮させ、眼前に広がる屋台通りを見つめる少女に、流は微笑んで頷いた。 社へ向かった二人、何処かへ飛び去った玖郎と別れ、龍平は再び小屋を訪れた。とは言え今回は黒龍に用があるわけでもなく、人混みから離れた壁際にその背を預ける。 「あ、ちょっと」 小屋の主らしき男が目まぐるしく動くのを、軽い言葉で引き留めた。 「なんだい?」 「……あの黒龍、本物なのか?」 声を潜めて問う。己でも業とらしいと思える演技だが、主は胸を張って頷いた。扱いやすい人種だ、と瞬間的にそう判じて、黒龍へと視線を送る。 「そうか……いや、まさか本物を見られるなんてな」 「空から落ちて来たんだ。昔話みたいなこともあるもんだね」 主人はそう語り、口許に歪んだ笑みを造った。人に擦りよる商人特有の粘ついた口調に、龍平は表情を変えないまま不快感を覚える。 「すごいだろう?」 「この手の存在は信じないんだけど、実在されては信じる他ないな」 それは本音であった。龍だの天狗だの、彼の生きていた世界では伝説とされたものがこうも容易く傍に在る、その異和感に未だ慣れる事はない。天狗はともかく、共にやってきた薄青の女は、人の形を取っていたから気にならなかった。――だからこそ、今眼前に黒き鱗を閃かせる獣が存在する事実に驚かざるを得ない。 「しかし、龍王の眷族だったりしたらどうするんだい? こんなことして、天罰が下っても文句は言えないんじゃねえかね」 「大丈夫さ」 おもむろに切り出した本題に、主人は動揺のひとつも見せず答えてみせた。こういった糾弾が来るのを想定していたとしか思えない、素早い切り返しだ。 「私らにもわからん言葉でまくしたててくるんだ、きっと東側から流れ着いた妖怪の一種だろうよ」 「へえ、喋るのか」 ちらりと黒龍を覗き見る。深紅の瞳を漆黒の瞼に隠し、数奇の声も全てを無視して彼は眠りを甘受しているらしく、言葉が通じるはずの龍平の声も聞いている様子はなかった。 「喋ってるのか鳴いてるのかも判らんがね」 今じゃ諦めたのか時々虚空を見上げて唸るだけだ、どうにも気味が悪いとおどけた仕種で身を震わせて見せる、その様の方がよほど気味が悪い。 「……せいぜい水難には気をつけろよ」 これ以上の会話は無益だと判断し、強ち冗談にもならない言葉を与えて龍平は小屋を後にした。戸口を潜れば、途端視界が広くなったような錯覚。あかく染まる空が龍平を待ち構え、閃いた。 雲が退く。 黄昏の光を受けて紫に輝くそれが、風の流れから見てもおよそ信じ難い方向に、信じ難い速さで動いていく。何やら妖術でも使ったのか、と胡乱に目を眇め、龍平は茜空に悠然と浮かぶ猛禽を見上げた。 朱色の空に、赤褐色の翼が融けるように広がる。鮮烈な色彩が、天狗をも呑み込んで滲む。 「龍華に乗じてことを為すなら」 龍平の視線に気づいていたのか、振り返る事もなく玖郎が口を開いた。 「雨がふれば台無しだろう」 「……なるほどね」 やがて全ての雲は取り払われ、鮮やかな朱色が一面の天に曝される。それを見届け、天狗は押し黙ったまま龍平の元へと降りてきた。 風をまとって降下してくるくせに、その裾は靡くこともない。まるで彼こそが風であるかのようだと思い、気障な台詞だと自嘲に似た笑みを刷いた。 東の果てから宵が迫る。玖郎と共に舞い降りる風が、龍平にそれを報せた。 大河の上を何艘もの船が行く。 龍華師と火薬を乗せ、西の黄昏から東に迫る夜へ向けて、龍王の河の上を往く。 朱と紺とが混じり合い、移ろう空、その色彩を映し揺らぐ水面。 去りゆく船に期待を籠め、喧騒と共に人の気配が河岸に集う。一夜の華が空に咲く、その時を待ち侘びて。 『ながれ』 主さえもが河岸へ出向き、完全に人の出払った小屋。その戸口を潜った四人を迎えたのは、声ならぬ声、龍の啼く言葉であった。 名を呼ばれた流は微笑み、応える。 「約束通り、参りました」 『ああ。……みな、ありがとう』 「礼を言うのは此処を出てからでいい」 流の姿を見つけ、その名を読んだ安堵から息を緩める黒龍。それを遮って、龍平は肩を竦めて木檻へと近付いた。 「……とりあえず、鍵でも開けておきますかね」 何処に隠していたかも判らぬ針金を一本取り出し、龍と彼らとを阻む檻、その扉に下がった武骨な錠前に差し込んだ。慣れた手つきで軽やかに金属音を立て、バネを引っ掛ける。ものの二十秒とかからぬ内、一際高い音が錠の内側から上がった。 「開いたぜ」 得意げに眉を跳ね上げ、格子と同じく木で出来た扉を開け放つ。 同じ要領で黒龍の首を締め付ける枷に手を伸ばしかけた龍平を、流が穏やかな所作で、しかし静かな思いを秘めて制止する。引き結んだ唇で柔らかな弧を描き、龍平に視線を合わせると、ゆるりと首を横に振った。 「自力で戒めを解かれるのが最良かと存じます」 その為に必要なものを、流は共に考えようとしている。 静かな言葉だけでそれを察して、呆れにも笑みにも似た呼気をひとつ漏らすと、龍平は身を退いた。入り口と格子窓、そのどちらもが視界に入る位置に立つ。 「千切れた絵を合わせてゆくように、纏めて参りましょう」 黒龍のうたう歌、そこに隠されているものを読み取ることで、彼を覆っている靄にも似た気の檻が、外れるのではないかと。流はそう考え、見上げる黒龍と視線を合わせた。鉱石に似た硬い輝きの深紅と、夜を映した湖面に似た黒とが交叉する。 「まあ、秋の歌だな、どれも」 「秋……五行ならば白か金」 一言一言置いて行くように語り、その度に黒龍の瞳の奥を窺う。 遺された歌を繋ぎ合わせ、視えるもの。――断片的でもその記憶の琴線に触れられれば、そこから糸口が見つかるやもしれない。 「……誰かへ向けた歌ならば、相手が居るはず」 「探し物があるなら手伝うよ」 流がぽつりとつぶやいた推測を拾い上げ、冬夏は青い瞳に真摯な色を燈して黒龍へと向けた。 「でも、そのためにはここから出なきゃいけない。――行こう、私たちと一緒に」 その笑顔こそが、咲き誇る花のようだ。 やがて秋がやってきて、色付く葉と葉の合間に咲き誇る金木犀。その花によく似た、薫り立つような柔らかな笑みで以て龍の塞ぐ心を溶かしていく。 『……噫、そう、なのかもしれない。だが、おれは、俺は、己は』 「どうぞ、無理はなさらず。……全てを思い出そうとせずともよいのです」 与えられる言葉を全て受け止め、喪った己を取り戻そうと龍が苦心する。その様を優しく宥め、微笑む流の後ろから、それまで口を挟まず黙っていた玖郎が言葉を発した。 「おれは歌のたしなみはない、真意は汲めん」 淡々とした語調に、幾分か落ち着きを取り戻して龍は応える。 『……否、それでいいんだろう。歌ってのは愛でるものであり、目でるものだ』 深く考えぬからこそ、視えるものがある。 黒き龍が伝えんとしたもの。強い力の籠められた、神獣の名。 「おまえの歌には、かならずこの二文字がふくまれている。――“高尾”」 ゆっくりと、紐解いていくようにその名を紡ぐ。 鎖が擦れる音。重量のある冷たい響きを引き摺って、黒龍は屋根に覆われた天井を仰いだ。その向こうに広がる天、それを見透かしてでもいるかのように。 『ああ、そうだ。ありがとう、そうだ、俺の名は――!』 ――高尾。 声にもならぬ声、言葉にもならぬ言葉、神龍の咆哮が己が名を高らかに謳う。雷鳴の如く風鳴の如く大気を揺るがし、夜が震える。黒き身体を戒める鎖が慄き、その神威に耐え切れず亀裂と共に飛散した。 猛る龍神に応え、夜空に光が散った。 咄嗟に振り返る四人の視線の先で、漆黒の背景に咲く、大輪の朱色の華。咲いてはすぐに散り、そしてまた違う華が咲く。ひとつとして同じ形のものはない。同じ色彩のものはない。刹那に咲き誇る、美しい色彩。 「あれは」 「花火……いや、龍華か」 降りかかる龍華の光、爆ぜる華の音、立ち昇る龍の咆哮。 闇をも引き裂く音と共に、夜に融ける黒鱗の獣が徐々に浮き上がる。確かな輝きを持った、しかし黒と紫とが入り混じる深い深い光を伴って、その身を伸ばした龍神は天を目指し――飛翔する。 龍神が飛ぶ。 歓喜と解放に充ちた、朗々と響き渡る歌だけを遺して。 小屋の天井をも突き破り、晴れ渡る夜空へ飛び出した黒龍。 冬夏と龍平とが唖然と見上げる中、赤褐色の翼を閃かせ、玖郎が風を掴みその後を追った。龍の開けた穴から空へ。夜闇に紛れる黒鱗を見失うことなく、飛ぶ。 「高尾さん! 玖郎さん!」 慌てて冬夏が声をかけるも、龍と天狗とは彼女の視界、穴から覗ける空には既にない。時折龍華の光が射し込むのみで、まるでその場所だけ漆黒の布を継ぎ足したかのようだった。 「これでいいんだよ」 狼狽する冬夏を宥め、龍平が気だるげな笑みを浮かべる。振り仰いだ穴の向こう側に、鮮やかな火の華が咲き誇った。 「あの龍は天から落ちて来たんだから」 「――ええ。再び天に還った、それだけの事にございます」 同調するかのように流もまた微笑み、二人に促されて冬夏は小屋を後にした。 出て行く彼らと擦れ違うようにして、大河の方角からひとりの男が走り寄る。いやに焦ったようなその走り様に、不思議に思った冬夏は釣られて振り返った。 ――そして、彼の目指す先が見世物小屋であると知り、その意味を悟る。だが、彼らには弁解すべき言葉はない。 天から落ちた龍神が、鎖を引き千切り天へと昇った、ただそれだけなのだから。 「……あ、あそこ」 扇を持った手で、冬夏が濃紺の空を指し示す。上がる龍華の端、星の一点と思えた輝きが、徐々に大きさを増し、三人の方へと近付いて来る。広げた二対の翼と、闇に融ける黒鱗の肢体。黒龍――高尾を猛禽の二足で鷲掴み、玖郎が風を伴って飛ぶ姿だ。手荷物を下げるように無造作に、頭(こうべ)と尾とを垂れる黒龍をぶら提げている。 終始無言で舞い降りた天狗は、ぶっきらぼうに黒龍をその場に放った。 『すまない、はしゃぎすぎた』 大地に四足を付き、顔を上げた高尾は恥じるように苦笑を零す。久方振りの空に我を忘れ、東の果てへと飛び去ろうとしていた所を追いかけた玖郎に捕まえられたのだと言う。 一度首を巡らせ、空に咲く火を見上げて目を細める。弾ける華、咲き誇る音。うつくしいな、と声を零した龍は再び四人へと向き直った。 『ありがとう。流――と、』 「あ、私は春秋冬夏って言います! それで、玖郎さんと、斎田龍平さんです」 困ったように首をゆるく傾げ、黒龍は四人を順に見遣る。思い出したように、冬夏がそれぞれの名を告げた。冬夏の仕種に合わせて顔を動かして、素直に反芻する。 『冬夏に玖郎、龍平。ありがとう』 率直な謝辞に微笑んで応え、流はかすかに顔を傾けた。長い黒髪が、清水のように靡く。 「その御姿では人目を惹きます。どうぞ、人の姿をお取りください」 私のように、と己を指し示した流を、眩いものでも眺めるかのように見上げた後、高尾は唸るように頷いた。長い肢体をうねらせて龍華から注ぐ光を振り仰ぎ、静かに瞳を閉じる。刹那鮮烈な光がその黒き鱗を取り囲み、しかしそれも宵闇を覆い尽くす事なく即座に収束する。 眩さに目を細め、そして開いたロストナンバーの前に立つのは、和装の男。 黒い髪と袖は龍であった頃の名残を残し、白皙に映える深紅の瞳は柔らかな光を湛えて四人を見ている。 「この姿では慣れない部分もある。襤褸が出てしまったらすまない」 「立って歩ければ充分だ。言葉は通じないはずだから、あまり喋るなよ」 眼前で龍が人へと変じた様に驚く素振りひとつ見せず、龍平は軽く片手を振った。踵を返し、視線を上げて大河の上に咲く龍華を見遣る。 「座敷船を手配してもらったはずだ。そろそろ行こうぜ」 淡泊なのか興味がないのか。あっさりと話を切り上げ、歩き出した彼を四人は追いかける。 龍王そのものであると言う大河、その水面に浮かぶ座敷船は緩やかに揺すれ、五人の旅人を乗せる。 障子窓越しに龍華が上がる様を眺めて、高尾が驚きに目を瞠った。それを微笑ましく眺め、冬夏は己のセクタンを彼の前に差し出す。 「……獣か、妖か」 その隣にゼラチン質の薄桃色を無造作に置いて、龍平が口を挟む。 「セクタンだ。ロストナンバーの中でも、俺らコンダクターが持てる生物だな」 「ろすとなんばー?」 「そうです。高尾さんも、私たちも同じ仲間なんですよ」 真理も階層世界も何も知らない新たな仲間に、冬夏は丁寧にひとつひとつ説明をしていく。真面目な表情でそれを呑み込み、時に驚き時に笑う、高尾の姿はまさしく彼らと変わらぬただの人であるかのようだ。 「高尾さんは、どんな世界で暮らしていたんですか?」 素朴な問いに、人の姿を持つ龍はひとつ頷き、しかしすぐに首を横に振った。 「――俺のことばかり喋るのは不公平だ」 盃を一息に飲み干し、はにかむように口許を緩める。 「あんたたちの國の話も、聴かせてくれ」 「はい!」 新たな同胞との距離が確かに近くなったのを感じ取り、冬夏は満面の笑みを浮かべて頷く。 障子を一枚隔て、訥々とした、しかし賑やかな会話を背中に聴く。ふと笑いを零した流が、静かに黒き視線を龍華から移ろわせれば、座敷船の屋根に止まる一羽の赤褐色の猛禽が目に留まった。狭いところは好まぬと言いながら、天狗が船から離れる事はない。 上がり、弾ける龍の華に、静かに見入っている。 「火」 二対の翼を夜気に広げ、玖郎は表情の窺えぬ貌で呟いた。 「その態を灯りでも暖でも武力でもなく、夜陰に瞬く花としたか」 紅の色が、濃紺の空に大輪の華を咲かせた。爆ぜる音さえもが高く轟き、波間を、座敷船を軽く揺るがせる。 「美しいものです」 「……火は金気を剋する」 きらいではない、と呟くその語調は何処となくあどけなささえ感ぜられる。流は緩やかに目を細めた。 「龍が群れ、天狗が舞い、人が集う」 空に咲く華、降り注ぐ焔の光を受け、流の白い頬に色が乗る。端正な美貌にその装いはよく似合い、彼女の語る言葉にもまた深みを与えた。 「私はこの光景を、存じているような気さえします」 賑やかな祭、煌めく水面は、彼女が還るべき故郷を思い起こさせる。似たような世界から覚醒した玖郎もまた、顎を引いて肯定を返した。 「……此度は祀られる神ではなく、ただ、ひとりの人として――此の一時を楽しみましょう」 凛と据えられた視線の先に、彼女の國は在るのだろうか。深更の水面によく似た瞳の奥に、龍の故郷は映り込んでいるのだろうか。 龍王の水面は人々の笑顔を映し、濃紺の空には鮮烈な色彩が躍る。その光景は決して、見慣れぬ異郷の地というだけではない。 「我々はただ、故郷へと続く永い帰途の中に在るのですから」 いつか還る、その日まで続く旅路のひとつだ。
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