「ヴォロス。シエラフィ地方。砂礫の海という名の砂漠。キャラバンのルチルダ隊を護衛して、砂漠の道。キャラバンの路。砂漠の真ん中に、船。大昔の飛空船。壊れて飛べない飛空船。船のぐるり、小さな集落。発掘集団のひと達の、小さな街」 世界図書館の廊下の真ん中に番犬じみて赤茶色の犬が座り込んでいる。思わず立ち止まってしまえば、これ幸いと口に咥えたチケットをぐいぐい、黒い鼻先ごと押し付けられる。「砂漠、過酷。でも、船、きっと楽しい。大きな大きな船。部屋数、百も数百も。たーっくさん。まだ発掘中の部屋も。探検。探検、してきてください。そんなに危なくない。危険、砂漠だけ。お水、たくさん持って行ってください。船は、安全。船の中、街の中みたいなもの」 船の動力だった竜刻の欠片が見つかるかもしれない、と付け足す。「竜刻に近付くと、少しだけ、危険。昔の怪我、思い出す。怪我した時の痛さや気持ち、思い出す。でも、思い出すだけ。ぐーっと我慢。我慢して踏ん張れば、風みたく、通り過ぎる」 痛いのは辛いけれど、と息を吐き出す。「竜刻、発掘のひとたち、ずっとずっとずーっと、探し続けているもの。もしか見つけたら、渡してあげてください。持って帰って来たらだめ」 火の粉のように熱い砂粒が全身を殴りつける。キャラバンから借りた砂避けの衣を通しても、砂の熱も、熱の風も、照りつける陽の熱も、防ぎきれない。足を掴む砂に体力が奪われる。汗は流れる間もなく乾く。ひりつく喉にぬるい水を細く流し込む。「悪いな、強行軍でよ!」 ヴォロスはシエラフィ地方、砂礫の海と呼ばれる広大な砂漠にのみ生息する、砂駝鳥と呼ばれる飛べない灰色の鳥がいる。その砂駝鳥の背に載せた荷を気遣いながら、黒狼の仮面被った男が振り返る。 ――ヴォロスには、ヴォロス各地を結ぶ『キャラバンの路』というものが存在する。時に厳しい自然や野生動物、野盗や魔物の類に襲われることもある路を行くのは、隊を成す傭兵や商人。ヴォロスを旅する人々の多くは、旅慣れた彼らと行動を共にする。 今回、共に旅することとなったルチルダ隊も『キャラバンの路』を行く隊商のひとつだ。 普段は十数人から数十人もの行商人や傭兵、旅人達で膨れ上がるルチルダ隊だが、砂礫の海と呼ばれる砂漠を行く今回は、数頭の砂駝鳥と黒狼の仮面被った傭兵一人、それから、護衛の依頼を受けたロストナンバーのみ。「陽が暮れるまでには『箱舟』に着けるからな、がんばってくれ!」 足に絡みつく砂を振り払う。這うようにして砂の山を越える。身の丈ほどもある礫を回りこむ。「もうすぐだ」 傾けかけた陽の色に、砂の山脈が黄金に染まる。どこまでも落ちてゆけそうな青空が黄金に染まる。 砂礫の海の真ん中、僅かな緑に守られ、うずくまって眠る竜のような巨大な船がある。空を目指す大樹じみた帆柱、種々の樹を幾重にも重ねて緩やかな弧を描く船体。砂の中に思いがけず現れる巨大な船は、「大昔に沈んだ飛空船だ」 船の周囲には数百の長い梯子が掛けられている。熱砂の中、何百人もの人が巨大な船の腹にしがみつき、作業をしているのが遠目に見えた。船の腹の下に潜りこむようにして、小さな天幕が数知れず張られてる。「修復作業をしているんだ」 発掘作業とも言うな、と黒狼の仮面の下で男は蒼い眼を細める。 飛べるのか、と旅人の一人が眼を丸くすれば、「いつか必ず」 確固とした答えが返って来る。何百年とかけて、船を修復し、船の内部に隠された動力となる竜刻を発掘し続けている一族が居るのだと言う。船員の生き残りの末裔だ、と男は事も無げに口にする。「昔、船が墜ちた時にな、船の動力だったでっかい竜刻がバラバラに砕けて船の中や周辺に散らばったらしくてな。欠片をひとつ残らず集めて、動力部の台座に元の通りに並べないと船は飛べない」 途方もない話だよな、と真面目に笑う。「でも、ま、技術者ってのは凄いもんでな。欠片だけでも飛べる小さな舟も、最近開発したらしい。開発当時は観光客誘致しようぜとかって騒いでたが。立ち消えたかな」 小さく黒狼の仮面の首を傾げる。「大した距離も高度も保てんが、興味があるなら、乗せて貰ってもいいかもしれん。二三日は逗留するつもりだしな」 さて、と砂駝鳥のそこだけ黄色い巨大な嘴を撫でる。「箱舟に着けばメシも酒もゆっくり食える。泉もあるから、砂も落とせる」
灰色蜥蜴が砂の底から顔を出す。陽が傾き、僅かばかり熱の落ちた砂の上に人の腕ほどの身体を引き上げる。波のような風紋描かれた砂漠の山脈を、のそり、這う。灰色の肌を強い陽が濃い影で彩る。 黄昏の空で風捕まえて舞いながら、玖郎は引き結んだ唇を舌なめずりに近い凶暴な笑みで和らげる。 顔の上半面を覆う仮面に遮られ、玖郎の視界は極限までに狭い。けれど視覚を余るほどに補って、蜥蜴の肢が跳ね上げる砂の微かな音を拾うことが出来る。地を這う獣の身に触れる風の流れを感じることが出来る。 その背に二対持つ赤褐色の翼を傾かせる。上一対で風を捉え、下一対で風の中に舵を取る。空から方向を定める。砂の大地に向け、鋭い鉤爪持つ猛禽の肢を下にして、降る。鉤爪に切り裂かれた風が悲鳴をあげる。裂かれた風が赤褐色の翼に散切り髪に、天狗の衣装に巻き付く。 蜥蜴が乾いた皮膚を捩れさせ、そこだけ潤う目玉を空へ向ける。迫り来る未曾有の危機に慌てふためく。砂を掘ろうと両前肢をばたつかせる。砂に潜ろうとする頭と胴を、鋭い鉤爪が刺し貫く。長い尻尾が暴れる。砂が激しく舞い散る。 「ひゃあ?!」 盛大に砂を跳ね上げて、セルゲイ・フィードリッツが足を滑らせる。顔面から砂へと突っ込む。大事に抱えていた白銀の兜が砂山の斜面を転がる。 「わ、わっ、待って」 砂避けの衣の下で、蜜柑色のふさふさ尻尾がうなだれる。同じ色した尖った耳が砂を嫌ってぱたぱた震える。若草色の眼には、転がる兜を追いかけようと必死の涙が浮かぶ。 銀色兜は黄昏の光を反射して、黄金色の砂の山を転げ落ちる。砂を巻き上げ転がって、 「と、とと」 緋色の毛皮持つカンガルーの姿したルークの爪先で止まる。 「熱っつ」 セルゲイの兜を拾い上げた途端、ルークは小さな悲鳴をあげる。砂漠の太陽の熱を吸い込んで、金属の兜は火傷しそうに熱い。緋色の毛皮で包まれた両手で兜をお手玉しながらも、落としはせずにセルゲイに渡してやる。 「あ、あの、ごめんなさい、ありがとうございます」 転んで他の人に迷惑をかけてしまった! セルゲイはおろおろと背中を丸める。熱い兜をぎゅっと両腕で抱き締める。兜を抱き締める胸も、白銀の立派な鎧に覆われている。ルークは黒い眼を丸くする。 「熱くない?」 「えっと、でも、あの、……」 セルゲイは気弱な笑みを狐の獣人の顔に浮かべる。 「……鎧、着てないと落ち着かないんです」 そうか、とルークは透明な髭を揺らす。とんがり耳をちょっと傾ける。 「おれはこれくらいの暑さは我慢出来るけど」 ルークは、砂礫地帯を好んで棲まうアカカンガルーの眷属だ。そのルークにとって、砂礫の海と呼ばれるこの砂漠の暑さは耐えられないほどではない。 「もう少しで到着できるから、がんばろう」 黄金の海に浮かぶような、砂漠に沈む巨大な飛空船へと視線を投げる。陽が暮れるまでには、船に辿り着けそうだ。 「はい、すみません」 ぺこりと頭を下げるセルゲイに笑いかけてから、ルークは後ろを振り返る。 「ほんと、あついよー」 砂駝鳥の大きな影で、バナーが呻いている。サンバイザーの下のつぶらな黒眼が暑さに歪む。砂避けの衣と衣の下のシャツをばたつかせ、熱の籠もった栗色の毛皮に少しでも風を通そうとする。栗鼠のそれの三角耳が風を起こそうとするかのようにぱたぱたと震える。 「水、水」 手にした水入りの皮袋に口をつける。透明な髭にも黒い鼻にも水の雫をまとわりつかせながら、生温い水を喉に通す。 「暑い時は手首を舐めるといいよ」 こうやって、とルークは実際にやってみせる。アカカンガルー達が編み出した、体温を下げ、熱から皮膚を守る技だ。 「こう?」 ルークに倣いながら、バナーは熱の籠もったふさふさ尻尾を団扇のように揺らす。 「飛行船、気になるよね」 「空飛ぶ船って、気になるな」 「あ、あの、僕も、乗ってみたい、です」 同じように口にして、獣人三人は思わず笑み交わす。 「どんな機械があるかも、知りたいし……」 機械工として働いていた過去を持つセルゲイが遠慮がちに言えば、自在に変形するドライバーの形したトラベルギアを持つバナーが大きく頷く。 「そう言えば」 ルークが耳をはためかせる。出掛けはばたばたしていて、名を名乗ることも覚束なかった。 「おれはルーク」 アカカンガルーのルーク、と黒い眼を細める。バナーを見、セルゲイを見、砂駝鳥の手綱を持つ黒狼の仮面の男を見遣る。 「初めまして、かな?」 以前、シロという白狼の仮面の子に会ったよと言うルークに、男は黒狼の仮面の端を持ち上げて笑う。 「息子から話は聞いてる」 仮面の下には、シロと同じ蒼い眼を持つ壮年の男の髭面があった。クロ、と男は名乗る。 「改めて、よろしくです」 「こちらこそ。息子に引き続き、世話になる」 強い爪持つアカカンガルーの手と、日に焼けた人間の手が握手を交わす。 人と獣人の和やかな場の脇で、玖郎は捕えた蜥蜴を肢の爪と手甲の爪を使って切り裂いている。血で喉を潤し、肉で腹を満たす。歯で太刀打ち出来ない硬い骨を砂上に吐き出す。 吐き出した骨に、砂駝鳥の若い一頭が惹かれた。隊の流れが止まっているのをいい事に、十頭ばかりの群から離れる。子供の胴回りほどある肢で、玖郎の傍に寄る。人の頭ほどの嘴で、砂蜥蜴の死体を様子見するように突く。 「おおきいな」 砂駝鳥の灰色羽毛の頭は、大抵の人間よりも身丈の高い玖郎の頭のその更に三つ四つ分は優に越す。 「なにを食むのだ」 玖郎の言葉に、砂駝鳥は耳を傾ける仕種じみて首を傾げる。これ、と散乱する灰色蜥蜴の死体をそこだけ黄色い嘴でもう一度突く。 「おれの腹はみちた」 玖郎の許しを得て、砂駝鳥は蜥蜴の頭を嘴で一掴みにする。ぐ、と頭を持ち上げ、肉と骨が剥き出しの蜥蜴を頭から尻尾まで一息に呑み込む。 玖郎は砂に埋れた周囲へとその鷲の眼を巡らせる。翼を震わせ、羽の隙間に紛れ込んだ砂粒を落とす。海岸の砂浜ではない砂の海を、玖郎は初めて眼にする。傍らで美味そうに喉を鳴らす、不思議な形の鳥も初めて見る。 人の頭を易々と食い千切ることの出来そうな鋭い嘴、砂を踏むことに特化した馬の蹄のような爪持つ肢、柔らかな羽毛に包まれ、けれど翼とは決して呼べぬ、退化した小さな前肢。 「おまえたちは、飛べぬのか」 例えば、風切り羽を断たれ。例えば、交配により翼を人為的に退化させられ。人に飼われることで飛ぶ力を失った鳥を、玖郎は知っている。彼らもそうなのだろうか。人に飼われ、使役され、飛翔する力を失った鳥なのか。それとも、失うに足る何かを得た者達なのか。 「……おのれの起源など、おれもわからぬ」 訊くも詮無いか、と玖郎は僅かに首を傾げる。 餌をくれた玖郎に、砂駝鳥が嬉しげに巨大な身を寄せる。芸のつもりなのか、玖郎の周囲をその肢で軽々と巡ってみせる。 「いまはおれも飼われている」 鳥の姿持つ飛べない鳥に、鷲の翼と肢持つ人の姿した玖郎は小さくごちる。自らの世界を見失い、世界図書館の庇護の下、世界図書館の依頼を受けて異世界を飛び回る。飼われている、と感じるときは少なくないが、 「だが、他にいのちをつなぐすべをしらない」 天狗は、生きるということに、その自覚もないほどに貪欲だ。命を繋ぎ、いつか自らの世界へと帰る。そうしてまた、山を護り、妻を娶り、子を為す。繋いだ命で次の命を紡ぎ、山を護る。それは天狗の使命と言うよりも魂に刻まれた、盟約。 「徒に終わるわけにはいかない」 玖郎の呟きに、砂駝鳥は踊る肢を止める。黒くつぶらな眼に陽の最後の光を煌かせ、こくりと頷く。 『生き延びんが為』 鳥の語を解する玖郎にだけ分かる言葉で、鳴く。太い首を伸ばし、嘴を高く高く、掲げる。空気震わせ遠吠えのように、 『地も這おう、砂も食もう、跪きもしよう』 吼える。若い砂駝鳥の声に、黒狼の仮面の男に大人しく手綱を握られていた他の砂駝鳥達が声を揃える。砂漠の夕空に、悲しく強い鳥の歌を響かせる。 砂に慣れた足が草を踏む。砂に足を掴まれずに楽に歩けることに、セルゲイが安堵の溜息を吐く。頭をどれだけ大きく巡らせても、樹の船腹が視界を遮る。仰いでも、巨大な船の腹は山脈のように高く高くそびえて空を覆うよう。遥かな船上から、帆のない何本もの柱が夜の藍色に翳る空へと伸びている。 その巨大な船の腹や柱を庇うように、無骨な梯子が掛けられ、足場が組まれている。よく見れば、船腹のあちこちに大きな穴。 外から破壊されたのか、内から何かが飛び出したのか。穴の周辺にも幾つもの梯子や足場が組まれ、幾つもの光が灯る。修復のためか、人々が忙しげに行き来している。涼しくなるこの時間帯が、船を発掘し修復する人々にとっては絶好の作業時間のようだ。 「直せるものがあるなら、直したいな……」 セルゲイの呟きを、通りがかりの作業員らしい男が聞きつけた。 「直せんのか?」 背中に灰色狼の仮面を負った強面の砂漠の民に腕を取られ、セルゲイは気弱に何度も瞬きする。 「あ、その、迷惑でしたら、大人しく、」 「じゃこっちだ!」 「え、ええと、あの、あの、」 お役に立てるなら、壊れた機械があるなら、とおろおろ続けるセルゲイの腕を掴んで半ば引き摺り、 「よっしゃ、今日も今日とて働くぜィ!」 作業員は大破した飛空船へ勢い良く駆けて行く。 「アイス、あるかな」 バナーは熱の籠もるもふもふの身体で元気に歩く。 天幕の屋根から突き出して、木製の梯子が船体に掛けられている。壁のようにそびえる船体を柱のようにして、幾つもの天幕が砂と緑の間に間に設けられている。天幕の中では煮炊きの火が揺れる。 あそこに行けばアイスあるかな? バナーはふらふらと天幕へとひきつけられる。 箱舟と呼ばれる古代の飛空船を護るように、高い椰子や蘇鉄が船の周囲を巡る。樹の陰には赤や黄の果実を宝物のように鈴生りに実らせた蔦植物がうねっている。 「緑があるってことは」 運良くオアシスの上に落ちたってことかな、とルークが首を傾げる。天幕から流れて来る炊き出しの暖かな湯気の匂いに鼻を動かす。 「いや」 ルークの言葉に、クロは首を横に振る。砂駝鳥の背の荷を解きながら、箱舟を見仰ぐ。 「草木が生えてきたのは箱舟が墜落した後らしいな」 箱舟が空から落ち、衝撃で砕け散った動力源の竜刻の一部が船の壁や底を砕いて砂に潜り、 「竜刻が水脈を呼び起こし、船の周りを人の住める大地とした、ってぇ言い伝えがある」 「そうなのか」 「ま、伝説だ」 背から荷が降ろされた砂駝鳥達が、水からあがったように羽毛の身を震わせる。ご苦労さん、と砂駝鳥の首や腹を叩きながら、クロは箱舟へと視線を遣る。 「あちこち見て来るといい」 「きみは?」 「休んでる」 砂駝鳥達の餌や水を準備しながら、クロはひらひらと手を振って、 「どうした?」 天幕の脇でがっくりと砂の上に座り込むバナーに気付いた。心配したルークが傍にしゃがみこむ。 「アイス、なかった」 「アイス?」 「冷たくて甘くて、凍ったお菓子だよ。食べたかった……」 クロの問いに応えながらますますしょんぼりするバナーの肩を、ルークは慰めるように叩く。 「とりあえず、少し休んでから石でも探す?」 「アイス……」 「……おなかすいたし、食堂、探そうか」 バナーをなだめて立ち上がらせ、ルークは炊き出しの天幕を目指して歩き出す。いい匂いは外の天幕からだけではなく、箱舟の中からも漂ってくる。 「中はきっと砂漠とは違って快適だよ」 見てて、とルークは強靭な肢で駆け出す。市のように並ぶ天幕と人々の間を縫う。駆ける勢いさえ跳躍力に代えて、跳ぶ。 「わ」 眼を丸くするバナーの前で、ルークは人々の頭を越える。天幕の屋根を越え、船腹に大きく開いた穴の傍、足場の天辺へと着地する。曲芸のような跳躍に、天幕の周囲にたむろする人々から歓声が起こる。 「ぼくも行くよー」 手を振るルークに応えて、バナーは梯子を登りにかかる。梯子の先の足場には、突然飛び移ってきたルークに驚いた様子のセルゲイの姿も見えた。みんなで船の中を色々見て回ればきっと楽しいだろう。 「箱舟の遺跡」 梯子をしっかり掴んで船腹を登りながら、バナーは口に出して言ってみる。それだけで胸が弾んだ。きっとすごいものが見られる、そう思えば体に籠もった熱も疲れも吹き飛ぶ気がした。 「冒険だよね」 元の世界で、冒険者に憧れていた獣人の少年はつぶらな眼を煌かせる。 「気をつけてくれよ」 足場の天辺では、ルークの跳躍に驚いた作業員の男が腰を抜かして座り込んでいた。もう若くねえんだよびっくりさせんなよ、と泣き言を言う男の背中を、セルゲイが擦っている。 「大丈夫?」 バナーが顔を出す。男にごめんなさいと頭を下げて、ルークはバナーが梯子から足場へ上がるのを手伝う。 「あの、竜刻探しも、お手伝いします」 男の手を取って立ち上がらせ、セルゲイは何だか申し訳無さそうに耳を項垂れさせる。 「動力だったんですよね」 壊れたものがあるのなら、直したい。それが壊れていることによって、人が困っているのなら、尚更。 「玖郎さん、いないね」 バナーが高い足場の上からぐるりを見回す。 「もう一人居んのか」 人心地ついた作業員の男が興味を示す。セルゲイが玖郎の特徴を伝えると、 「ああ、そいつなら」 男は頷いた。 「さっき水浴び用の泉の方へ飛んでったな」 透明な水は、泉の底の砂地から尽きることなく溢れている。 砂まみれの翼で冷たい水を跳ね上げる。水を掛けた赤褐色の羽を手指で整えて、水浴びはおしまい。翼を羽ばたかせて砂と水を払う。水にひたしていた鋭い爪の踵を返して泉から上がる。乾いた風が衣装や肌から水気をさらう。 暑さに強い木々に囲まれた小さな泉には、水浴びに訪れた人々が体を水にひたしている。のんびりと体を冷やす人々に比べ、玖郎の行水は短い。 砂と岩の大地を蹴る。翼に風を巻いて飛び上がれば、水辺の人々から感嘆の声が湧いた。 箱舟の船腹に沿うように宙を駆け上る。 目の前を遮る樹の船壁が不意に途切れる。空と砂の地平と、空目指すような幾つもの帆柱が現れる。風の流れが変わる。翼の角度を変え、更に飛ぶ。帆の無い帆柱の先端を一度越えてから、翼を広げて滑空する。強靭な爪の肢で、一番高い帆柱の先を掴む。翼を休める。 砂漠の風の中に、巨大な舟。周囲には幾つもの小さな森と泉と、舟を再び天翔るものにしようとする人々の灯。 「……飛ぶことを求むひと、か」 光の届かない帆柱の上で風に身を晒したまま、玖郎は小さく首を傾げる。 「不思議かい」 嗄れた老婆の声が、足元から上った。玖郎は仮面の眼を足元へ降ろす。 帆柱に取り付けられた籠のような見張り台に、灰色の衣で全身を覆った小柄な人影がある。 「数代にわたるいのちと歳月を、代価にしてまで……?」 そうまでして、空を求めるか。巨大な樹の舟を空へと押し上げようとするのか。 「約束なのさ」 老婆が顔を仰がせる。玖郎を見上げるその顔は、蒼狼の仮面に覆われている。仮面の奥で、蒼の色した瞳が笑う。 「古い約束だ。この婆が生まれるよりもずっと昔の」 「舟を空へ放つやくそくか」 「いいや」 老婆は衣の裾から枯れ枝のような細い指を伸ばす。指し示すのは、砂漠の遥かな地平。星明りに幻のように霞む、森。遠い夜空の果てに、淡く明滅する紅の禍々しい光を見た気がして、玖郎は一瞬身に力を籠める。 「空を駆け、必ず助けると約束をした。けれど果たせないまま、舟は墜とされ、城は封ぜられ、」 老婆の言葉が風に流れるうちに、血色の光は夜に儚く溶けて消える。 「我らの幼き王は忌まわしき獣と共、死にも等しい眠りに就いた」 この舟は、と老婆は詠うように続ける。 「獣が再び目覚めた時に、天駆ける力を取り戻していなければならない。そして必ず必ず、次こそは、――」 ふと、力強い言葉が途切れる。老婆は柔らかな笑い声を零す。 「婆の昔話を聞いてくれて有難うよ、旅のお方」 「かまわぬ」 玖郎は砂礫の海の果てへと視線を投げる。舟の周囲へ鷲の眼を丹念に巡らせる。外観に、竜刻らしきものは見つけられない。 背の翼を広げ、柱の先端から飛び立つ。人込み嫌う天狗は、箱舟の周囲を巡る。人気のない足場を探し、着地する。洞窟のようにぽかりと開いた箱舟の内を覗き込む。 馬車が走れるほどの広い通路が前面と左右に伸びている。ぽつりぽつりと灯が天井近くに掲げられてはいるが、深い隧道のように薄暗い。 「動力室への路、だそうです」 暗い通路にランプの明りが揺れる。暗がりから今回の旅の仲間達が歩いてくる。玖郎は驚いた風もなく小さく頷く。 「その辺りに行ければ、欠片、あるかも……」 自信なげに視線を落とすセルゲイの背中を、角灯を手にした作業員の男が叩く。 「お仲間も揃ったようだし、後は頼んだ!」 「おじさんは一緒に行かないの?」 バナーが首を傾げる。男は怯えたように首を大きく横に振る。 「もし竜刻が見つかってみろ、……いや、見つけなきゃならねえんだけどよ」 歯切れ悪く口ごもって、ぽつりと零す。 「痛えんだよなァ」 セルゲイに角灯を押し付け、男は玖郎の入ってきた船腹の大穴から外へ走り出る。手を振り、足場から更に上へ伸びる梯子を掴む。素早い動作で上って行ってしまう。 「竜刻、どこにあるかなあ」 ルークが注意深い視線を通路の壁や床へと向ける。動力部に至る通路は、比較的早い時期に修繕されたのだろう、整備され、歩きやすい。 「魔力のあるものなら、僕なら見つけやすいと、思う……」 セルゲイの控えめな言葉に、バナーは素直に眼を輝かせる。 「そうなの? すごいね!」 「自慢とかじゃないです、聖獣の、性質というか、その、」 うろえたるセルゲイに背を向け、玖郎は周囲を探る。船内の風の流れや人々の声を感じ取りながら、人気の少ない方へ、より人の居ない方へ、歩き出す。 「あ、あの、待ってください」 「こっちですか?」 「暗い方へ行くんだねー」 角灯の火を揺らして、鎧を鳴らして、セルゲイが追い縋る。バナーとルークが駆けて来る。 「ひとの手が及ばぬ場こそ未回収だろう」 淡々とした物言いながらどこか言い訳じみて、玖郎は翼を揺らす。 「痛いの、怖い……」 兜を抱き締め、セルゲイは不安を漏らす。あんなに強そうな作業員の人が怯えていた。竜刻の見せる痛みの記憶はどんなものなのだろう。僕は、大丈夫かな……? 不安がるセルゲイの横を、玖郎は無表情に歩く。 (よく覚えていないが) 雛の頃、天敵にあたる金行の妖に喰われかけた記憶が薄くある。生存に関わる記憶は、流石に恐怖として蘇るだろう。 面には出さず、玖郎は手を硬く拳にする。 「あの辺りかも、しれません」 セルゲイが指を上げる。その先には瓦礫の山があった。砕けた木板が、木屑が散らばる。用途の分からない金属の筒や、錆びて折れた槍や剣が散らばる。燃え滓のような鏃が転がり、焦げた弓が横たわる。どこかの隙間から入り込んだ砂が、通路に薄く積もっている。踏み出した足が砂を踏む。 「あれ?」 バナーが眼を煌かせる。瓦礫の中に、青空の色した小さな光が見える。 「あれかな?」 躊躇うことなく、元気良く瓦礫に向かう。光を隠すように覆い被さる瓦礫を掻き分けようとした、その瞬間。 青空色の光が爆ぜる。通路に立つ旅人達を包み込む。竜刻の不思議の力が視界を奪い、思考を奪い、――それぞれが抱える痛みの記憶を抉り出す。 視界がぐるぐる回る。身体がぐるぐる回る。身体の周りで風が唸る。傍で爆発音を立てているのは、白ネズミの博士から無理やり借りた飛行機械『ジェットマン』だ。 空の真ん中、バナーは無造作に放り投げられたボールのように宙に舞う。身に付けた飛行機械に振り回され、ぐるんぐるん、何度も何度も強制的に宙返りする。身体が千切れそうなほど引っ張られる。髭がびりびりする。鼻先が風にぶたれてひりひりする。 真下では、色んな機械を作っている白ネズミの博士が、 「じゃから勝手に持っていくなと言うたろうが!」 「この前だって『千八十度レーザーキャノン』作動しかけたじゃないか!」 「あやうくユグドラシルが滅ぶとこじゃッたんだぞ!」 キィキィきゃあきゃあ、喚いている。 「だって面白そうだしー!」 悲鳴じみてバナーは応えて、 ふと、身体がぴたりと停止した。きちんと宙に浮く。 機械の暴走が収まったかと思った瞬間、ぷすぷす、ぷすん、不穏な停止音。内臓がふわりと浮く。ついでに毛皮もふわりと浮く。逆立つ。風が笑う。 「うひゃあああ!」 眼下にあった樹上都市ユグドラシルの根っこ部分がみるみる近くなる。機械の撒き散らす黒煙が身体に巻きつく。最後の力を振り絞るように、大量の黒煙を吐き出す。墜ちる。 バナーは地面に激突する。全身に痛みが走る。言葉も出せない。動くこともできない。 腹を、腿を胸を喉を肩を、鋭い槍の切っ先が貫く。冷たい鉄が熱い肉に突き立てられる。血が溢れる。痛みが爆ぜる。死が迫る。終わる。 侵攻者たる兵達が周囲で湧く。 「終われぬ」 潰れた喉から、唇から、血が吹き零れる。血と共、言葉が噴き出す。 「そうだここで終わるものか」 震える腕を天の高みへ掲げる。空掴もうとする掌のその先に、遥かな蒼穹。大地で血を吐き息絶える種族など知らぬ気に、翼を風に乗せて舞う、 「鷲よ」 空目掛け、天翔る鷲目掛け、吼える。 (……これは、なんだ) 「我が肉を食め」 最期の呪を自身に掛ける。 「我は汝となり天を翔る」 (これはおれの記憶ではない) 「そして我らの地を」 (これはだれだ、) 「聖なる山を」 (これは誰の) 「侵略の徒より守るのだ」 (これではまるでひとのような) 空へと伸ばした手さえ、侵略者の槍に刺し貫かれる。暗くなる視界に、空より舞い降りる鷲の赤褐色の翼が、見えた。 (……なぜ、ひとの?) 爪先が地面を捉えきれない。しっかりと着地したつもりがつるりと滑る。視界が翻る。仰向けにひっくり返る身体を尻尾で支える間もなく、転ぶ。爪先で蹴り上げた雪が宙に舞う。ばらばらと頬に冷たく降って来る。 ルークはしたたかに頭を打ちつける。思わずしかめた眼に映るのは、華やかに飾り付けられた樅の樹。幾つもの飾りが光を揺らす。 (サンタクロース、トナカイ、) 樹につりさげられた人形の名を、転んだまま、頭に思い浮かべる。 (クリスマス、とかって言うんだっけ) 頭を擦り、毛皮についた冷たい雪を払いながら起き上がった途端、景色が一変する。目の前に高い壁が立ち上がる。 「え」 慌ててぐるりを見回す。幾つもの分かれ道が広がる、複雑な廊下だ。 「迷路?」 どうしてこんなところに、と首を傾げる。けれど、迷いこんだのならば、脱出するだけ。ルークはぎゅっと眼に力を籠める。足の筋肉に力を満たす。目の前を遮る高い壁の天辺目掛け、跳ぶ! 「これくらいなら、」 壁の向こうには、更に高い壁があった。 「跳べ――」 力いっぱい、鼻先から壁にぶつかる。じん、と顔中が痛む。鼻がまるで火箸を押し付けられたように、 (痛ったーい!?) 石につまづく。身体が宙に投げ出される。地面に叩き付けられて、 「痛い、……痛いよう」 小さなセルゲイは地面に突っ伏したまま涙を零す。擦り傷の膝が痛い。思い切り叩き付けた掌が痛い。 「痛い、」 呟いた声は、いつのまにか子供の頃の声ではなくなっている。いつだっけ、と眼を瞬かせた途端、 「痛ッ!」 胸の真ん中を、何かに貫かれた。衝撃に身体が跳ねる。 街を焼き尽くす炎が見えた。街の人達が嵐のように渦巻く炎に巻かれていた。血に塗れて倒れたたくさんの、本当にたくさんの、人。 (災禍の、日……) 穴の開いた胸が痛い。耳の中で早い鼓動が鳴り響いている。鼓動と共に傷口から血が噴き出す。倒れた地面が自分の血で濡れていく。痛みに涙が溢れる。火に炙られて熱い頬を、冷たい涙が幾筋も伝う。 (僕が、死んだ日) 痛いと呻く唇とは別に、心がどこか冷静に判断する。これは竜刻の見せる傷みの記憶。こんな痛い記憶、一人でなんか乗り越えられない。ぐーっと我慢すれば、とあの司書は言っていたけれど、 「痛い」 呟く声が掠れる。炎踊る街が歪む。誰かの足が視界の端にある。眼だけを上げる。 「こんなこと、したくなかった」 そう言って泣く蝙蝠の人が居た。手には、セルゲイを撃ち抜いた怖い銃。 撃たれた痛みに震える指先を伸ばす。痛みを我慢して、泣き続ける蝙蝠の人に手を伸ばす。 ――伸ばした指先に、冷たい石の感覚。 (違う) 手にしたかったのはこれじゃなくて、竜刻なんかじゃなくて、 「あ、……あれ?」 セルゲイは瞬きを繰り返す。白昼夢を見たように、頭がぼんやりする。とんがり耳をぱたぱた動かす。手の中で静かに光る青い石の形した竜刻を見下ろす。おろおろと周りを見回す。 「わ、わわ、大丈夫ですかっ」 箱舟の通路にうずくまり、へたりこみ、壁に寄り掛かる仲間を見つけた。セルゲイの声に、バナーが耳の先から尻尾の先まで身震いする。ルークが不思議そうに鼻先をそっと擦る。玖郎が仮面で半ば覆われた顔に手をやる。 「……ひどいなぁ……」 傷付いたような眼で、ルークはセルゲイの掌の竜刻を見詰める。どうしてこんな記憶を呼び覚ましたりするんだろう。まるで人を近付けたくないようなことをするんだろう。砕けて散って、もう二度と一つの竜刻の形に戻りたくないからなのかな? だから、こんな酷い記憶を強制的に見せるのかな? 「これが、竜刻ですか」 「そうみたい、です」 ルークの言葉に、セルゲイは小さく頷く。 「小船を飛ばす者に渡せばよいか」 玖郎が淡々と言い、 「うん、空の機械も、気になるのよねー」 バナーが嬉しそうに跳ねる。無邪気に笑う。 板一枚下は夜の空。波に揺れる木の葉のように、風に煽られた空飛ぶ小舟は震える。 セルゲイは足元が不安だ。隣ではバナーがすごいすごいとはしゃいでいる。ルークは船尾から真下の甲板を物珍しげに見下ろしている。 「すごいだろ」 小舟の船首に陣取った作業員の男が得意げに笑う。背中に負っていた灰色狼の仮面を被り、空色の竜刻を両手に包み込む。小舟は風をお供に更に空高く舞い上がる。 甲板に何本も立つ帆柱の、一番高い主柱の天辺には、玖郎が翼を休めている。何事か考えるように首を傾けていたが、それを振り切るように翼を大きく広げた。夜空に羽ばたき、小舟に並んで空に舞う。 「竜刻使い、なんですね」 男が舟を操縦する様に、セルゲイは眼を丸くする。灰色狼の仮面の男は天を指し示す。つられるように空を見仰げば、 「空……」 砂漠の砂のように夜空を埋め尽くす、満天の星が見える。 「綺麗、です」 「景色も、違うものだねー」 星を掴もうとするかのように、バナーが両手を空へと伸ばす。つられてルークも片手を伸ばす。楽しげな笑みを交わす。 セルゲイは星空を見、砂漠の箱舟を見下ろす。 「あの大きな飛行船も、いつかは」 星明りの下で今は砂に埋れる箱舟も、修繕する人々が居ればきっといつか、空飛ぶ力を取り戻す。 「ああ、必ず」 力強く、男は笑う。 終
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