がっつんと大きく砕ける音がする。 がりがりがり。 岩を、石を、鉄を、鋼を力任せに削り落とし、砕く――ああああ ぐちゃぐちゃ。 湿った水音が弾け飛ぶ。何度も何度も繰り返し、美味を味わい尽くすように、うっとりとした音が奏でられる――ひゃああああああああああああ 悲嘆の唄声は、重なり合う幾多の雑音にかき消され、気が付いたとき、すべての音という音は飲み込まれて、一つの音楽となっていた。 それを奏でるのは一人の少女。 こめかみから空へと飛ぶような片翼と雪のような白い百合を飾りをつけて、菫色の長い髪の毛は三つ網でたらされ、燃え上がる火の中心からすくいあげた金色の大きな眸。可愛らしい人形のような容貌。 小さな身を包むのは赤、青、緑、黄……幾多の色が重なった鮮やかな衣服。 金色はじっとそれを見つめる。 怒りも、哀しみも、なにもない。 桃色の唇がそっと動く。まるで操り人形のようにぎこちなく、それでいて悠然と。 「ぶっさいく」 漏れた声は降りしきる雪のように冷やかに、感情はなく、少女の見た目の推さなくも可愛らしい顔には似つかわしくなかった。 否、 ぽたり。 ぽたり、ぽたり、ぽたり。 零れ落ちる赤。 涙のように滴り落ちる朱は――少女の顔を濡らす。 ――アスト 慈愛深くも、どこまでも冷酷で、愛しくも悲しみすら覚える万華鏡のような輝きを宿した声が、脳裏によみがえる。 ああ、あの人の声がする。こんなところで、こんなこと、している場合じゃないのに、 ★ ★ ★ ――アスト アストゥルーゾが、彼女に出会ったのは春だった。彼女を示す言葉には多くある。けれど、そのなかで最も似合うのは春だ。 甘い香り。 鼻孔をくすぐり、そっと口を開ければ甘い味がぴりりっと舌を刺激する、星の輝きよりもなお多く、鮮やかな花のなかに彼女は君臨していた。 たった一人ぼっちで。 威厳に包まれ。 清楚を身に纏い。 無垢な笑顔を零して。 美しいと言ってはいけない。そんな軽々しくあの人を称賛してはいけない、ならなんといおう。朝の輝く露に、目覚めの愛しさにその名をたとえようか、夜の安寧に、輝く星と月にその名を捧げようか。そのときはじめて多くのものになれる自由さを知っていたアストゥルーゾは不便さを感じた。この世には言葉が足りなさすぎる。 銀の玉座は、白百合の形をして――そこに腰かけることが許されるたった一人の女王を抱いていた。 ――アスト きつく閉ざされた唇が綻ぶのを見たとき、すべては決められていたのだと悟った。 そう、これは運命。 最も大切な人で、 ――アスト 女王は――この世のすべてをその瞳で睥睨し、春風のようなあたたかさと、吹雪のような冷たさを宿していた。 一番最初で一番大事な友達で、 ――アスト なぜ女王が自分を気に入ったのかはわからない。まるでそよ風のように、または猫のように気まぐれさをもって、鈴を転がす声で囁いた。気に入った。 そして、友人になることが許された。 一番守ってあげたい人で、 ――アスト 政府直属の雑事隊であったことを、このときほど誇りに思ったことだろうか。女王に最も近く、その顔を頂戴し、言葉を投げかけられるのだから。 強い酒を飲んだような陶酔に我が心を預けても、まだたりないほどの愛しさを。 そして、あの人は――僕を殺す人 ――アスト あのときも彼女の声は変わらず、囁くようだった。 そして、自分の処刑を命じた 威厳は衰えこともなく薫る花の甘さを含み。白い百合が震える。清楚な瞳が伏せられて。百合が震える。無垢な笑みは保ったまま。 たゆたう思考の海から、顔を覗いてアストゥルーゾは今、自分がどこにいるのかと疑問を抱いた。 気まぐれな散策のつもりだったが、気が付くと知らない場所だった。 だが、自分のことに考えを傾けることがわるざわしく思えて無視する。足をまた一歩、一歩、わからないままに泳ぐように前へと歩いていく。 あの人は花に―― ふと、風を切る音がした。 ――あ 声をあげるよりも先に、衝撃が肉体を襲う。 投げ飛ばされて、転がる。 「……」 ゆるゆると体を起こしてみると、周囲は無機質な壁に囲まれ、目の前には緑色の鱗をしたドラゴン――二メートルほどの大きさに、地面を這う姿はトカゲが誤って大きくなりすぎたような、どこか滑稽さを感じさせた。それが尻尾を振るい、威嚇してくる。 どこかのチェンバーにはいったらしい。まったく気が付かなかった。 ドラゴンを見る限り、これは戦闘訓練などに使っていたものだということは理解できた。しかし、止めに入る者もいなければ慌てる声も聞こえない。死人の腹のなかのよう。ふと頬につく埃にここは使われなくなって長いのだと理解した。 ぼんやりと金色の眸が周囲を見つめていると、再び丸太のような尻尾が飛んできた。立ち上がることもできないアストゥルーゾの小さな肉体は――今は非力な女の子の姿をしていた。それは紙のように吹っ飛び、地面にころころと転がる。 天を見上げると灰色をしていた。 あの時の、空のように。 ――アスト 女王の下した声と、鈍い輝きの刃。一つたりとも見逃すものかと目を開き、じっと息を殺した。 何も忘れぬ、何も取り残さない、あの人が自分に与えてくれるものは 綻ぶ唇が動いた。歌うような囁きの あの人が、女王様がくれた。自分だけのもの。 ドラゴンは尻尾を二度振るった。アストゥルーゾが無抵抗に宙を舞い、地面に叩きつけられるのを見届けると、白い牙を伸ばしてきた。 猫が鼠を狩るとき、わざと弄び、楽しむように。 転がり、叩きつけられ、潰される。 誰にもやらぬ、与えぬ、奪わせぬ。 あの人が、あの人が、あの人が、 胸の中に零れ落ちる咆哮を宿した瞳で、ただ、ただ、ただ、じっと、見つめる。 ――待っている 変わることのできない、変われない、あの人は。 それでも時間は流れてゆく。 風を切りドラゴンの大きな尻尾が降りおろされる。 それが、宙で止まった。 ぐしゃあ――柔らかな果実が砕けるように、骨と肉、そして血が散る――赤い、花弁が風に踊るように。 時間は残酷に流れてゆく。どれだけ止めようとしても止まらない。こくり、こくり、こくり。時計の針は進む、進んでゆく。 ドラゴンは咆哮をあげ、大きな前足で地面を踏みしめる様は地団駄を踏む子供のようだ。ドラゴンは我が身の危険を感じて、後ろへと逃れようとしたが、その巨大な身体はまるで杭で地面に縫いとめられたように動かない。 ドラゴンが目を開いて、己の尻尾を潰した、それを見る。 白い、白い、牙をもつ口――を片手に生やした少女が立っていた。 無感動な金の眸はどこまでも埋まらない虚を抱えてドラゴンを――現実を、ようやく捕えた。 アストゥルゾーンはさして考えることもなく、その尻尾を咥える片手の口を動かしていた。 がっつんと大きく砕ける音がする。 砕け散る白い骨。 飛び散る朱の肉。 果て散る紅の血。 赤い雨を頭からかぶりながらアストゥルゾーンは桃色に色づいた唇を動かして囁く。 「ちょっと、邪魔」 ゆらりっと動く。 幼い少女の片手が黒い布で包まれた、と思ったときには鮮やかな衣が舞う。 ぐにゃり、ぐにゃりと歪み、蠢き、それがドラゴンよりも大きな口となった。白い、白い牙を生やした口がにぁあああと笑ったように動き、口を開けて、噛む。 ぐちゃり。 がりがりがり。 ぐちゃぐちゃ。 金の眸の焦点が歪む。再び想いの海へと沈んでゆこうとしている心を止める方法はない。爆ぜるような想いは、いつも寄り添いあおうと見えない手を伸ばす。自分ごときが、けれどせめて自分だけは。恐れに似た自惚れを抱いて。 最愛の人を思う。 優しい春の香り、あたたかな日差しに包まれて、そこだけは傷つけるものも醜いものもない鮮やかな花に囲まれている。穏やかに微笑んだ、あの人を。 「……帰らなくちゃ……早く……」 時間は待ってくれない。どれだけ止めたくても進んでゆくことを「彼女」はよく知っているから。 すべては一瞬。 夢のように過ぎて消えていく。儚くも、美しい、花のように。 「早く帰らなくちゃ……」 帰る場所を失う悲しさを、よく知っているから。 掟を破ったことに後悔はない、ただもうここには戻れないのだと。彼女の眸に自分を晒さたときに痛感した。 帰れない。 裁きの声は朗々と歌声となって耳を塞ぐ。 それが何にもかえられない罰だった。 「また会いたいよ……女王様……」 強く、強く、強く、焦がれる。 もう届かない手。それを伸ばし、伸ばし、て――必ず。この手をあの人に、 その時がくるまで、ずっと、ずっと、思う。女王様、あなたを、
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