ノックをしてから数拍。開かれたドアから先に顔を出してきたのは黒い有翼の蛇だった。 そういえばこの蛇の名前は何て言うのかしら。刹那、ぼんやりと考える。 「七夏さん?」 甘さを含んだ低い声に名前を呼ばれ、七夏は弾かれたように顔をあげた。二本の触覚がぴょこりと跳ねる。 持ち上げた視線が声の主のそれと重なった。顔が一気に紅潮していくのがわかる。七夏はあわてて視線を泳がせ、それから再び、今度はそろそろと盗み見るようにして相手の顔を仰ぎ見た。 ヒルガブは七夏の視線が持ち上げられるのを待っていたように微笑む。 「どうされましたか? あいにく、今はまたお渡しできる依頼が……ああ、確かなんかあったような……」 言いながら部屋の中を振り向いたヒルガブを、七夏は慌てて呼び止めた。 「ヒルガブさん!」 「え?」 名前を呼んだ勢いで、ついうっかりヒルガブの服の袖を掴んでいた。気付き、慌てて指を離す。それでもヒルガブの顔を見上げたまま、七夏は自分の頬が熱をもっていくのを感じた。 わずかな静寂の後に、七夏は意を決して口を開く。 「あ、あれから調子どうかしらって思って」 「調子ですか?」 七夏の言葉にヒルガブは一瞬驚いたような顔をして、けれどすぐに破顔した。 少し前、ヒルガブたち世界司書の中に突如深い眠り――昏睡状態に陥るという症例に見舞われる者が複数名現れた。ヒルガブもその内のひとり。司書を昏睡から救命するために幾人かのロストナンバーたちが動いたのだが、その内情は該当メンバーしか知り得る事のないことだ。 「ありがとうございます。クリスマスの時にもお話しましたが、もう大丈夫ですよ」 クリスマスに行われた舞踏会。七夏はヒルガブからダンスの相手を申し込まれ、快諾した。その時にも確かに七夏はヒルガブの身を案じる言葉をかけていた。 「それなら良かったわ。……私」 「?」 眼前に立つヒルガブが首をかしげる。七夏はわずかな逡巡の後に言葉を継げた。 「……ヒルガブさんのいざという時、そばにいる事が出来なかったのが、とても悔しいわ……」 言いながら、視線が少しずつ足もとへ落ちていく。 ヒルガブが昏睡に陥ったという一報を聞き、七夏はすぐにヒルガブのもとに赴いた。けれど、その時にはもうすでに、昏睡からの救命に赴くという依頼を受けたロストナンバーたちが出立を済ませてしまっていたのだ。 出立したロストナンバーたちが無事に依頼をこなし、ヒルガブと共に帰還してくるのを待つより他に何も出来ない自分が、とても歯がゆかった。 ――けれど 七夏は思い切って顔を上げる。ヒルガブの顔をまっすぐに見上げ、携えてきた紙袋を抱え持ったまま微笑んだ。 「ダンスのとき、ヒルガブさん、夢を見たような気がするって言ってたわよね」 「え? ええ、そうなんです。内容はまったく覚えてないんですが……」 首をひねりながら目線を斜め下に落とすヒルガブを見つめる。夢の内容を思い出そうとしているのだろう。七夏はふるふるとかぶりを振った。 「私、ヒルガブさんが心配で変な夢まで見ちゃったの」 口をついて出たのは、自分でも驚くほどにストレートな言葉だった。ヒルガブも驚いたように目を丸くしている。 はたりと気がつく。顔がみるみる熱をもっていくのを感じたが、七夏は紙袋を抱え持つ両腕にわずかな力をこめ、気恥かしさに視線を移ろわせたくなるのを我慢した。 「でも、ヒルガブさんが無事だってわかったら、私、ホッとしちゃって。いつもよりよく眠れたの」 自分でも驚くほどにすらすらと口をついで出てくる言葉の波。触覚がぴょこんとはねた。 「それは良かった。……立ち話もなんですね。良かったら中に入りませんか? コーヒーぐらいならお出しできますよ」 ドアを引き、ヒルガブが微笑む。ドアの向こうに広がっていたのは薄い闇と、漂うハーブの香りだった。ロウソクの、オレンジ色のほのかな光が揺れているのも見える。 部屋の中を覗いた後、七夏はヒルガブの顔を仰ぐ。ヒルガブは「どうぞ」と言いつつ、七夏の歩みを誘った。 円いテーブルに椅子は四つ。内のひとつに腰をおろし、七夏はそわそわと所在なさげに視線を泳がせる。 ヒルガブは部屋の奥に姿を消したが、七夏が座るテーブルから少し離れた場所にあるソファの上に、ヒルガブから下ろされた黒い有翼の蛇が身を横たえていた。七夏をまっすぐに見つめ、時々思い出したように目を瞬かせている。 目が合って、なんとなく小さな会釈をしてみたりする。 そういえばあの子の名前、何ていうのかしら。 ぼんやり考えながら黒蛇を見つめていると、いつの間にかテーブルの近くに戻って来ていたヒルガブがカップを置きながら七夏の目線の先を確かめ、笑った。 「スムールというんです」 「ひゃっ!?」 思わず声をあげた。再び触覚がぴょこんとはねる。 「コーヒーに砂糖とミルクは使いますか?」 「えっ? あ、つ、使うわ」 かくかくとうなずいた。ヒルガブは七夏の仕草に目を細め、砂糖の入った容器とミルクピッチャーとをテーブルに置く。 「あの子の名前ですよ」 言いながら席に座り、自分用のコーヒーにミルクだけをいれて口に運ぶヒルガブに、七夏はなるほどとうなずいてから、改めて黒蛇の顔を見る。 「スムール、とは、付き合いも長いのかしら」 訊ねてみる。スムールは七夏の視線から逃れるように、ふっと横に顔をそらした。それからソファの上で丸くなった。 「初めて私から依頼を受けてくださった方が連れていたんですよ」 戻ってきた応えに、けれど、七夏はわずかに動きを止める。 「その方は別の依頼を受けて、そのときにひどい怪我をされましてね」 ヒルガブはひどく懐かしげに目を細め、カップの中に目を落としていた。七夏は言葉もなしに、ただ、ヒルガブの顔を見つめる。 ヒルガブはそれきり口をつぐみ、自分の顔を見ている七夏の視線に目を合わせて穏やかに笑った。 「……そうだったのね」 「ええ」 それはそうだ。ヒルガブがロストメモリーになってから、どれだけの歳月が経っているのかもしれない。その歳月の中、他のロストナンバーとの接触も、数えきれずこなしてきているはずなのだから。 わずかに胸が痛んだ。ごまかすようにしてコーヒーにミルクと砂糖を落とす。 蓄音機が静かに音楽を響かせる。 コーヒーの香りとハーブの匂い。それが薄い闇の中に漂っていた。 しばしの沈黙。七夏は言葉を模索しながらカップを口に運ぶ。 ――訊いてみたいことはたくさんあるような気がする。けれど。 カップごしにさりげなく目線を上げてヒルガブの顔を見た。ヒルガブは椅子に深く腰をかけ、足を組んで、両手は膝の上に重ね、七夏を見つめ微笑んだまま沈黙している。 カップを置いて、七夏は膝の上に置いていた紙袋に指を伸べた。 「あのね、ヒルガブさん。今日、って、何月何日か、知ってる?」 「え?」 応え、ヒルガブは視線を移ろわせた。カレンダーのようなものでも探したのだろうか。しかし自分の部屋にそういったものを置いていないのを思い出してか、ほどなくして再び七夏の顔に視線を戻した。 ヒルガブの視線が戻って来るのを待って、七夏は紙袋をそろそろとテーブルの上にあげた。 顔が熱をもつ。鼓動が早くなる。口の中が渇いたような気がして、七夏はコーヒーを一気にあおった。 「二月よ。二月の十四日」 「もう二月も半分ですか……早いですね」 のんびりと笑う眼前の司書に、七夏はカップをテーブルの上に置いて、代わりに紙袋を差し出した。 「バレンタインよ」 「えっ」 「もしかしたら他にももらってるかもしれないけど。その、ヒルガブさん、カウベルさんと仲良さそうだし」 「えっ」 「今日はそういう日よね? 私、一番にヒルガブさんに渡したいと思って」 「えっ」 一息に告げて、七夏は改めて紙袋をヒルガブに差し伸べる。それから思い出したように触覚をはねらせて、紙袋の中からラッピングされた四角い箱を取り出した。 顔面が真赤に染まり、熱を持っているのが自分でもわかる。けれども、もう取り返しはつかない。ヒルガブは七夏の顔と差し出された箱とを順に見つめ、それからゆっくりと顔を赤く染めていった。 「……これは、あの、もしかして」 もごもごと言いよどむヒルガブに、七夏も顔を真赤に染めたままうなずいた。 「あんまり美味しくないかもしれないけど。……良かったら、受け取ってくれますか?」 バレンタインには、日頃親しくしている相手や良くしてもらっている相手に贈り物をする日だと聞いている。 さらに言えば、贈り物はチョコレートがいいのだそうだ。 想う相手にチョコレートを贈ることで、自分のもつ好意を相手に伝える日でもあるのだという。 何日も前からチョコレートの試作を繰り返してきた。そもそもヒルガブが甘いものを好むのかどうかも知れない。受け取ってくれるという保証も、どこにもない。 けれど、それでも。 故郷から持ってきたお守りの石を半分にわけて、七夏とヒルガブとで持っている。半分ずつではお守りの効力も半減してしまうのかもしれない。 ――-残りの半分は私が守るわ そう約束してヒルガブに渡した。けれどその直後、ヒルガブは昏睡に陥った。救命に赴くことも出来なかった。 無力だと思った。悔しかった。 ――それでは、残りの半分、私も守りましょう そう言って笑ったヒルガブの声をずっと反芻した。 無事に目を覚ましたと聞いたときに味わった安堵。 もうニ度と後悔はしたくない。 ヒルガブの顔をまっすぐに見つめ、七夏は息を整えた後、意を決めて口を開けた。 「ヒルガブさんは、その、私のこと、嫌いじゃない? あの、も、もし嫌いじゃなかったら、あ、あの、これからも、その、そ、傍に置いてもらえたら、とても、」 幸せだなあって思うの。 言葉がしどろもどろになって、最後のほうはもうかたちを成していなかったかもしれない。まともにヒルガブの顔を見ることもできない。七夏は思わずうつむいた。 ヒルガブの手が伸びて、差し出された箱を受け取る。 自由になった両手で顔を覆い、七夏は深い息を吐きだした。緊張はまだ解けない。ヒルガブは沈黙したままだ。 「あ、あの、どういう意味かっていうと!」 沈黙に耐え切れず、覆っていた両手から顔をあげて再び口を開く。 眼前にいる司書の顔に目をやって、そこで初めて、七夏は息を飲んだ。 「嬉しいです、七夏さん。……私は、その、」 ヒルガブもまたしどろもどろになっている。けれどその顔にあるのは満面に浮かべた喜色だ。嬉しさを押し隠すこともできず、モノクルの奥の双眸が糸のようにゆるめられている。 「……七夏さんが私の傍にいてくれたら、と、何度も想像しました」 「……えっ」 「七夏さんに会いたいと思って、舞踏会に足を運んで」 「私」 「す、すみません、私、気持ち悪いですよね」 「い、いいえ、いいえ!」 大きくかぶりを振る。 鼻の奥がツンとして、それから目の端にじわりと雫が滲む。――緊張の糸が切れたのだ。 ヒルガブが慌てる。椅子を立ち、七夏の傍に膝を折って、七夏の手をとって、大丈夫ですよと何度もうなずいている。 「私」 椅子を立ち、ヒルガブの腕に飛び込んだ。司書はわずかに驚いたようだったが、わずかな間を置いた後、そろそろと七夏の背中に両手をまわす。 「私、ヒルガブさんが好きです」 口をついて出た言葉。ヒルガブが小さくうなずいたのがわかった。 「私もずっとあなたのことが好きでした」 ヒルガブの声が応える。背にまわされた手に力がこもった。 やわらかな音楽が薄闇の中に漂い流れていく。 しばらくそのまま抱き合っていたふたりが、ヒルガブの司書室を訊ねてきたカウベル司書によって目撃され、派手な冷やかしを受けることになったのは、それから少しした後のこと。
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