ヒルガブが七夏を案内して連れて来たのは、放棄されたままのチェンバーだった。 視界を染めるのは一面の緑。 乳白色の石を積み上げて作られたアーチ状の門も、その門をくぐり抜けたところにあったあずまやも、伸びた蔦によって覆われている。 薄いオレンジ色の小さなバラに似た花や、薄紫色のリラに似た花が、緑の中に色味を添えていた。 上空を仰ぎ見る。広がっていたのは夕暮れを報せる、薄紫と薄紅とが混じり合った色をしていた。 涼やかな風が吹く。 七夏はひとしきり風景を検めた後、数歩ほどの距離のある位置にいるヒルガブの傍らに走り寄る。七夏がシンプルなプラチナのブレスレットをつけた右手を伸ばせば、ヒルガブもまた、揃いのブレスレットをつけた左手をゆっくりと持ち上げた。 七夏が決死の覚悟で想いをぶつけた二月。想いは受け入れられ、明くる三月。ヒルガブはお返しにと揃いのブレスレットを用意していた。 ヒルガブが世界司書という位置に就いている以上、頻度高く個人的に独占するわけにもいかない。とは言え、ヒルガブは司書陣の中でもそれほどに忙しいというわけでもなく。隙を見てはふたりの時間を作り、重ね。 ――そうして今は、指先をつなぐ程度のものではあるが、手をつなぎ歩く程度の距離に至っていた。 有翼の黒蛇――スムールは、チェンバー内につくとすぐに緑の中に身を隠してしまった。「どこに行ったのかしら」 七夏が視線を移ろわせると、ヒルガブは慣れたように笑いながらアーチの上を指さした。「この上が彼の定位置なんですよ」 言われ、目を向ける。スムールは確かにアーチの上にいた。身を横たえ、眠たげな目で空を見ている。その目線を追うように七夏も視線を上げた。チェンバーの空はよく出来た静止画のようだった。 手を引かれ、あずまやの椅子に座る。テーブルの上に広げたのは七夏が作り持参してきた焼き菓子と、アイスコーヒーをいれた水筒。ヒルガブは七夏の作る菓子が大好きだと言う。事実、放っておけば、気がつくとほとんどを食され終わっているというありさまだ。 嬉しそうに焼き菓子をつまむヒルガブにアイスコーヒーを用意しながら、七夏は涼やかに吹く風にぴょこぴょこと触覚を動かした。「このチェンバーはヒルガブさんが知ってる人が作った場所なの?」 問うてみる。 ヒルガブは小さくうなずきながらコーヒーを口にしていた。「そういえばスムールも、ロストナンバーが連れてたって言ってたわ。……その人は今、どうしているの?」「帰属していきました」 返された言葉。七夏はわずかな驚きを浮かべる。「スムールは彼女の使い魔だったのですが、彼女が帰属した先は当時ひどい戦乱の中にありまして……」「置いて行ったの?」「結果的には」 うなずくヒルガブに、七夏は口をつぐんだ。 決して人懐こいというわけでもない黒蛇。――なるほど、かつての主に置き去りにされたという過去を持つならば、それもまた無理からぬ話だ。「このチェンバーは彼女が作った場所なのですが、彼女が私に管理を譲渡し帰属した後は、時々こうしてスムールを連れて来ているんですよ」「帰属……」 ヒルガブが口にするその言葉を、七夏もまた無意識に反芻する。――焼き菓子をつまむヒルガブの動きがわずかに止まった。「……七夏さんもやはり考えますか」 問われ、顔を上げる。ヒルガブの目はまっすぐに七夏を捉えていた。「……私は」 応えようとして口を開く。 ヒルガブは静かに七夏が告ぐ言葉を待っていた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>七夏(cdst7984)ヒルガブ(cnwz4867)=========
寄せられている視線をまっすぐに見つめ返す。 ヒルガブと目を合わせ見つめ合う機会は、これまでにも幾度となく重ねてきていた。けれどもそのたびに、七夏の触覚は七夏の心の内にさざめく波を示すかのように、忙しなくぴょこぴょこと動くのだ。 逃れるようにして視線をわずかに泳がせた後、七夏は小さく呼気を整える。 「私ね、ヒルガブさんと一緒にいるようになってから、色々考えてみたの」 ゆっくりとした語調で口を開けた七夏に、ヒルガブは小さくうなずいた。 涼やかな風が吹いている。七夏の長めの前髪が風に踊った。 「私、故郷が見つかったらどうするんだろう、とか……」 「七夏さんの故郷……そういえばあまり詳しくお聞きしたことがないような気がします」 ヒルガブがそう言うのを見つめつつ、七夏はわずかに首をかしげる。それから少しだけ思案して、 「そういえば、そうだったかもしれないわ」 そう返してうなずいた。 「そうね……何から話そうかしら」 言って、七夏は再び思案にふける。 陸に住まう一族と海に住まう一族とが存在していた世界。 陸に住まう一族は昆虫に似た特徴を備えていた。七夏の一族は触覚と蜉蝣目糸の薄い四枚羽が特徴的だった。たまたま七夏の一族が人の姿形を成していたというだけで、むろんのこと、中には到底人とは称し難い見目を持った一族もいた。昆虫そのものとも簡単な意思疎通は可能だった。 文明と呼ぶに相応しいものは栄えておらず、陸のほとんどは深い森で覆われていた。ほとんどの者が森の中に森の木で家を作り、耕作をし、水場で身体を清める。そんな暮らしを送りながら、日々を穏やかに暮らしていた。 海に住まう一族は魚介類に似た見目を持っていた。彼らがどのような日常を営んでいたのか、詳しくは知らない。けれど海の一族の何人かとの交友を持ってもいた七夏には、海の一族に属する親友もいた。彼らが友好的であることはよく知っていた。 七夏が生まれるよりずっと前の時代、ふたつの一族は長く戦乱の時を送っていたとも言う。が、少なくとも七夏が生まれたころには戦乱は影もなく、関係は良好で、とても平和だった。 「穏やかで良い世界だったのですね」 七夏の話に耳を寄せていたヒルガブがやわらかな笑みを浮かべる。 深い森に覆われた場所で生まれ育った七夏を想像すれば、それだけで自然と笑みがこぼれた。 七夏はわずかにうつむいて、上目にヒルガブを窺い見る。ヒルガブは七夏の焼き菓子に手を伸べて、語りの続きを待っていた。 わずかに沈黙が続く。 「でも、……私のいた村は水棲の化け物に襲われたの」 その沈黙を、七夏のやわらかな声音が震わせた。長く伸びた前髪に隠された灰色の眼差しが、遠い追憶を思い起こしているかのような色を浮かべている。 ヒルガブは口をつぐんだまま、まっすぐに七夏の顔を見つめていた。 あれは海の一族に属していない、けれども確かに水棲の化け物だった。 森の中にひっそりと広がっていた七夏の村は、禍々しいほどの漆黒をたたえた悪夢によって襲われた。四方から迫る水は森の豊かな土やなぎ倒された木々をもはらみ、自我を得た生き物のようにうねりながら村を見る間に飲み込んでいったのだ。 むろん、七夏の一族は飛行する術を持っていた。中には迫り来る水の壁よりも高く飛び、その脅威から逃れた者もいただろう。けれど、水の壁の向こうには悪意をたたえた化け物が待ち構えている。果たして、どれだけの者が幾重にも重なる脅威から逃れることが出来ただろうか。 七夏は水に飲まれ、飛行する力はおろか、身体を自在に動かす力までも奪われた。うねる水に沈み、それでも懸命に手を伸べた。 「それで、覚醒を……」 ヒルガブが問う。七夏は小さくうなずいた。 「村がどうなったのか分からなくて。……家族や友だちの安否も」 消え入りそうな声でそう告げて、七夏は両手で顔を覆う。 「海の一族には親友もいたの。どうしているかしら……」 指の隙間から、自分の膝をぼんやりと見つめる。 あの化け物が何だったのかも、結局知れないままだ。襲われたのが七夏の村ひとつだけで済んでいたのか、それとももっとたくさんの村も襲われたのか。 ――恐ろしいのは、あれがきっかけとなって、陸の一族と海の一族との間に再び戦火が生じていたらという、漠然とした空想。 あの時に村を覆った強靭な悪意は、思い出すだけでも身が震える。全身がこわばり、思考する意思はなくなり、ただただその悪意に降されるばかりの自分の弱さにも絶望するばかり。 「七夏さん」 指の先にふわりと温もりが落とされた。そっと外された手のひらから顔を持ち上げる。すぐ目の前に、心配そうに七夏を見つめるヒルガブの顔があった。 「大丈夫ですか」 ヒルガブの声が耳を打つ。七夏は何度も小さくうなずいた。知らず、頬に雫が伝う。 「……なるほど、それではやはり故郷に帰りたいですよね」 七夏の髪を撫でながらヒルガブは視線を落とした。けれど、七夏はわずかに逡巡した後、小さくかぶりを振る。 「確かに、みんながどうなったのか知りたいわ。だから帰りたいと思っていたの。でも、」 言葉が切れる。 ヒルガブの目を覗きながら、七夏は小さく息を吸った。 「私の居場所は、今はもうここだわ」 「……ここ、ですか」 ヒルガブは七夏の言葉に首をかしげ、けれどすぐに顔を紅潮させる。 「いや、でも」 顔を紅く染めながらしどろもどろになり視線を移ろわせるヒルガブに、七夏もまた頬を紅く染めた。再び両手で顔を覆いたかったが、指先はヒルガブの指とつないだままだ。 「わ、私」 声が淀む。 ふたりはしばらくの間そうしてしどろもどろになりながら、それでもつないだ指を解こうとはしない。つながったままの指先に伝う互いの熱の心地良さに、ふたりはほぼ同時に目を上げて視線を交わす。そうしてふわりと笑みを浮かべあった。 「私は記憶を捧げた身ですから、七夏さんにお話できるような過去の話を持ちません」 言って、ヒルガブは申し訳なさげに頬をゆるめる。 「七夏さんたちのように旅をすることも、基本的にはありません。ですから、私にはお話できる風景も知りません」 でも、と一呼吸おいて、ヒルガブは再びゆったりとした笑みを浮かべ、七夏の指を、手を握りなおした。 「私は思うんです。仮に私がロストメモリーとならず、ツーリストやコンダクターとして生まれていたとしても、きっとこうして七夏さんと出会っていたんじゃないかと」 「え」 ヒルガブが落としたのは甘やかな言葉だった。七夏の触覚がぴょこりとはねる。ヒルガブはそれきり、再び口をつぐんでしまった。 風の音が周りに響く。深く伸びた緑が風に揺れる音は静かにさざめく波音のようだ。 「……ヒルガブさんと同じ位置に立つことも考えたわ」 記憶を手離し、ロストメモリーとなって、0世界に帰属する。そうすれば離れることもなく、ずっと一緒にいられるから。でも 「でも、思ったの。貴方のことを忘れるなんてイヤだって。貴方との思い出はひとつも忘れたくないなって。だから私、今はまだどこかに帰属するっていうのは考えないで、ロストナンバーのままでいようって思うの」 意を決して告げた七夏の気持ちに、ヒルガブはただ静かにうなずき、笑った。 「それなら私は七夏さんの帰りを待っています」 まぶしそうに目を細め、ヒルガブは七夏の頬に触れる。やわらかな安堵感にうっとりと目を閉じて、七夏はそのままゆったりとヒルガブの胸に額を寄せた。それから思い出したようにぴょこりと触覚をはねらせて、ついで、顔を持ち上げてヒルガブの顔を仰ぎ見る。 「でも、司書になった後のことは覚えてるわよね」 「え?」 七夏の細い肩に手を回そうとしていたヒルガブの動きが止まった。その動きに気がつくこともなく、七夏はやはり首をかしげ、ヒルガブの目を覗き込む。 「貴方のことも知りたいわ。……もちろん、イヤじゃなかったらだけど」 「私のこと、ですか」 「例えば、……スムールの元飼い主さんのこととか」 知らず、声が再び淀んだ。視線をわずかに移ろわせた七夏に、ヒルガブは「ああ」とうなずき、やわらかな笑みを浮かべる。その笑みに小さな怒りにも似たものを覚えて、七夏は思わずヒルガブをねめつけた。 「だって、スムールやこの場所を預けるぐらいだもの。やっぱり親しかったのかなって……それに」 「はい」 「そこに植えてある花の花言葉も、その、気になって」 ごもごもと言い淀む七夏の重たげな口調に代わり、触覚は忙しなく動いている。ヒルガブは小さく笑って、七夏の髪を優しく撫でた。 「ど、どんな人でも、ふ、深い仲でも、ど、動揺は」 「覚醒したとき、彼女はまだ七歳でした」 「え」 「数百年にひとりと謳われた天才魔術師だったそうです。三歳で魔導書と言われる類のもののすべてが頭の中にあったそうで、四歳のときにはもう召喚術にも長けていたと言っていました」 「……七歳」 「ええ。だから、深い仲とか、そういうものは決して」 笑いながら肩を震わせ始めたヒルガブの顔をしばし見つめ、それから顔が紅潮して熱を持っていくのを自覚する。甘えたパンチをヒルガブの腕にくわえ、七夏は深々とした息を吐き出した。ヒルガブは変わらず笑っている。 「壱番世界にある大きな海のひとつに、地中海と呼ばれるものがあります。その東岸にあるパレスチナという国の古い呼び名はカナンというものであったそうです。宗教的な面も含め、古来より難しい問題を様々抱えている土地なのですが」 「?」 おもむろに口を開き始めたヒルガブに、七夏は首をかしげる。 「私の名前はそのカナンに伝わっていた古い神話から拝借されたものです。彼女が幾度となく足を運び、帰属していった世界は、そのカナンに類似した特長を多く備えた場所だと、彼女は言っていました。スムールに名を与えたのは彼女ですが」 言って、ヒルガブは口をつぐむ。視線を持ち上げ、アーチの上で眠っているスムールを検めて、どこか懐かしげに目を細ませた。 「偶然にも、ヒルガブとスムールはカナンで伝わる神話の、同一の神を意味する名前らしいのですよ」 「同じ神を意味する名前?」 「鳥の神だそうです」 「鳥」 応え、七夏もまたスムールを仰ぎ見る。その背に伸びる黒い翼を見つめた。 「私は飛べませんが」 それでも、と、ヒルガブは言う。視線を戻した七夏は、自分を見つめていたヒルガブの視線を知って、思わず動きを止めた。ヒルガブの手は七夏の髪を撫でているまま。 「七夏さんは私を舞い上がらせてくれますね」 言って、ヒルガブは笑った。 「わ、私、食べ物の名前かとおも、思って」 触覚が忙しなく動く。ヒルガブがまた笑った。その顔を再びねめつけながら、七夏はわざと顔をそらした。 「……七夏さんに会えてよかった」 そっぽを向いた七夏の肩がふわりと寄せられる。額にヒルガブの唇が寄せられ、やわらかな熱が落とされた。 「七夏さんのことは忘れません。この先、何があっても。ずっと」 降ってきた言葉は、まるで深い誓約のようだ。 頬を膨らませていた七夏も、再びヒルガブの胸に顔を寄せて目を閉じる。耳に伝う心音は懐かしいあの森を流れていた風の音に似ているような気がした。 「この花は、……私が植えました。七夏さんと出会った後に」 「――え」 返し、伏せていた目を持ち上げる。視線が重なる。視線の先、ヒルガブはただ静かに黙したまま、やわらかな笑みを浮かべていた。 そうして七夏は思い起こす。そこここで美しく揺れている花がもつ花言葉を。――ならば、その言葉はそのまま自分に向けられたものなのだ。 再び触覚が忙しなく動き始めた七夏に、ヒルガブはやはり笑みをこぼす。その顔をねめつけて、けれどすぐに笑みを浮かべ、七夏はヒルガブに抱きついた。 「私も忘れないわ、ずっと」 返したそれもまた、交わした深い誓約のようだった。
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