――ジャンクヘヴンよ、私は帰ってきた……!! そのような心の叫びが、Q・ヤスウィルヴィーネの脳内を満たしていた。 本日のジャンクヘヴンは快晴。海風はほどよく暖かく、実に気持ちの良い日和だった。 その中にあって、ヤスウィルヴィーネは、幽鬼のような負のオーラをまとい、見るからに憔悴した様子で立ち尽くしている。 隊長から差し出された一枚のチケット。 それはブルーインブルーでの海魔退治の依頼であった。 船に幾人かのロストナンバーが乗り込んで任務にあたった。首尾よく成功はしたものの、沖合の海は時化て船は大揺れに揺れ、凶暴の海魔の攻撃は容赦なかった。 ヤスウィルヴィーネは奮闘したが運にめぐまれず、うっかり足を滑らせて斜めになった甲板を転がり落ちると荒波のるつぼにダイブ。そのまま巨大な海魔に呑まれてその腹の中へ――なおかつそこで、先客として呑み込まれていた海賊連中と遭遇して死闘を演じ、最終的に生還はしたもののいかなる不運の集中か、雷に打たれて帰りの船の中で生死の境をさまよった。 ゆえに、今、ここでこうして立っているだけでも奇跡と言ってよかったのである。 帰還のロストレイルの発車時刻まではまだ間があった。 仲間たちは街中へ出かけたようだ。 ヤスウィルヴィーネは、駅のベンチで列車が来るまでぐったりしていたいのは山々であったのだが、そうすることは許されなかった。 と、いうのも、ある意味、彼にとっての任務はここからが本番だったからである。 隊長が彼にブルーインブルー行きを命じたのは、世界図書館に貢献せよという意味ではなかった。 ジャンクヘヴンのとある酒場で、酒を買ってこいという、言ってみれば壮大な使い走りであったのだ。 だからヤスウィルヴィーネは重い足取りで、よろよろと歩き出す。 満身創痍であったが、買い物くらいはできる。 それに、あの店――『角笛亭』へ行くことは、ヤスウィルヴィーネにとっても心浮き立つことだった。 うまい酒に、うまい料理。気のいい店主。 買い物のついでに食事をしよう。きっとこの疲れも癒されるはずだ。 新鮮な海の幸で店主がこしらえてくれる料理の数々を思い浮かべ、それだけを心の支えにして、ヤスウィルヴィーネはジャンクヘヴンの複雑な路地へ歩み入ったのである。 * それでも疲れは如何ともしがたく、倍は時間がかかった。 『角笛亭』はまたわかりにくい場所にあって、細い路地を行ったり来たりしなければ辿り着けない。普段のヤスウィルヴィーネなら、屋根から屋根へ飛ぶように駆けて最短距離を行けたであろうに、今日はそんな調子であったから、ひどく懐かしく感じられる看板が見えてきたときはほとんど泣きそうになった。 ああ、愛しき『角笛亭』。 わが胃袋を惹きつけてやまぬ蒸しロブスターのサラダとアサリのスープ。 むさくるしい店主の親父の髭面にさえ、今なら接吻の雨を降らせることもできそうだった。 疲れきったヤスウィルヴィーネの身体は最後の力を振り絞った。誰の目にも見えぬが、その背に幻想の天使の翼が宿る。そよ風に乗るごとくかろやかに、ヤスウィルヴィーネは『角笛亭』の玄関の木戸へと下る坂道を駆け下りた。そして勢い良くドアを開け、両手をいっぱいに広げてありったけの愛情をこめて親父を抱き締めようとした……のだが。 「……」 親父にとっては幸いなことだったかもしれないが、ヤスウィルヴィーネの思い描いた熱い抱擁を受けるべき相手はいなかった。 しん、とした店内。 客の姿は、ない。 「はて……。もしや営業時間、前――とか」 つぶやいた。 それもおかしい。仮にそうだとしても、もうじき日も暮れるのに仕込みをしていなければならないはずだ。 「お留守……ですかね」 店主が店のドアを開けたまま留守になどするものか。 いつものヤスウィルヴィーネなら、その気配に気づかぬはずはなかったが、今の彼はすっかり神経を磨耗し、感覚が鈍り切っていたのだ。 カウンターから身を乗り出して、厨房の奥をのぞきこむ。 そこで、ガタン、と物音がしたので、ヤスウィルヴィーネは無邪気にほほえみ、 「なんだ、いらっしゃるじゃないですか。すいませーーん」 と、声をかけた。 そのときすでに、背後に迫っていた影に彼が気づいたのは、棍棒が振り下ろされるその瞬間であった。 「……おい、あんた……大丈夫か」 「ん――」 気を失っていた。 目を開けると、『角笛亭』の親父が、心配そうな顔でのぞきこんでいる。 「……! ああっ、ご亭主!」 がばっと身を起こしたが、腕ごと身体を縛られている。 しかしそれでも、ヤスウィルヴィーネは親父の髭面にくちづけしようと身を乗り出した。 「ちょ、あんた、殴られて気でも違ったか……!」 親父のほうもやはり縛られていたので、必至に身をよじって逃れようとした。 「うるせぇ、静かにしねぇと、命はねぇぞ!!」 ドアが開いて、怒りの形相の悪人面が怒鳴り声を吐く。そして再び、荒っぽくドアが閉じた。 「……」 怒鳴られてはじめて目が覚めたように、ヤスウィルヴィーネはあたりを見廻す。暗くて狭い空間に、縛られたまま彼と親父が押し込められている。周囲には、樽に、木箱に、掃除道具に……。 「物置だよ」 親父が内心の疑問に答えてくれた。 「今のは押しこみ強盗かなにか――ということですか」 「そんなところだ。仕込み中に突然きやがった。うちみたいな店襲ったって大して実入りもないだろうによ」 「……」 事情が飲み込めた。 強盗が来て親父は自由を奪われ、物置に押し込められた。強盗連中が店を物色しているところにヤスウィルヴィーネがやってきた。そして殴られて自身も捕まった。 なんたる不覚! 構図が頭に入ってくると、凄まじい羞恥と屈辱にカッと血が昇った。 いかに疲れ切っていたとはいえ、栄えあるS.S.Sの一員たる自分が、強盗ごとき遅れをとるとは! 「……ご亭主。強盗は何人ですか」 「二人組だった」 「ふむ」 では自分を背後から殴ったのと、厨房を漁っていたやつだけか。 「武器は持っていましたか」 「刃物は持ってた」 「銃は」 「見なかったが……」 「なるほど。ではどうということもない」 「な、何――」 すっく、とヤスウィルヴィーネは立ち上がった。はらり、と縄が落ちる。 「あ、あんた……!?」 「ご亭主はここで待っていて下さい。なに、すぐに済みますから――」 店主は絶句した。 瞬間に、まるで別人になったようだと思った。 店主を一瞥した視線は、彼に対しては思いやりを示していたけれど、身にまとう空気は真冬のそれのように冷ややかになっていた。 そのまま、平然とヤスウィルヴィーネが倉庫を出ようとした、そのとき。 だん!と扉が開いた。 「おい、出ろ!」 いやに焦った様子で、強盗が怒鳴った。 ヤスウィルヴィーネがすんでのところで再びしゃがみこみ、解いたはずの縄を後ろ手にひっぱってもとのとおり縛められているふりをしなければ、露見していただろう。店主の位置からは、律儀にも彼が後ろ手で縄を結び直しているのが見えた。 ふたりとも店のフロアへ連れだされる。 いつのまにか日が落ちたと見え、天井から吊るされたいくつもランプが店内を照らしていた。 強盗たちが火入れをしていたのだったと思えば、妙に可笑しく感じられた。 「おい、こいつらがどうなってもいいのか!」 強盗は窓辺までヤスウィルヴィーネをひっ立てていくと、その喉元にナイフをあてる。 「あ――」 ヤスウィルヴィーネは見た。 『角笛亭』のある路地に、大勢の人が詰めかけ……近くの家並みの屋根やテラス、窓という窓からも人々が顔をのぞかせて、なりゆきを見守っていたことを。 ジャンクヘヴンの自警団らしき武装した男達が、その先頭にいて、『角笛亭』を取り囲む包囲の輪をかたちづくっていた。 ふたりが物置にいる間に、押し込み強盗は立てこもり事件に発展していたのであった。 「……」 ふたりの強盗をどうにかすることは容易い。 しかしこの衆人環視の中では事情は違った。いかに旅人の外套の効果をあてにしたところで、これだけの好奇の目にさらされ、注目されていては言い逃れのしようもなかった。 もっとも、この状況では、強盗たちに先があるとも思われない。 いずれは、しびれを切らした事件団が店に踏み込み、制圧されることになるのだろうが……そうなれば店は踏み荒らされるし、その大混乱の中で、自分はともかく店主の安全は保証されない。 だいいち、そんなことになれば。 (酒を買ってかえらないと) その使命を思い出し、そして万が一にもそれを果たすことなく自分が帰還した場合に待ち受けていることを思ってヤスウィルヴィーネは身震いする。 なんとか、すみやかにこの場を収めなければ。 しかしどうやって。 強盗はひとりがヤスウィルヴィーネを、ひとりが店主をおさえて、窓から包囲陣へなにごとかを喚いている。逃げられっこないのに愚かなことだ。ヤスウィルヴィーネは視線だけを巡らせた。店のフロアの配置は頭に入っている。椅子の位置も、テーブルの位置も、柱の在処も。目をつぶっていてもわかる。むろん強盗たちと店主の立ち位置もだ。 一分もかからない。 ただ問題は、この視線だ。かれらを固唾を飲んで見守る、目、目、目――。 この目さえなければいい。 ……幕を引こう。 舞台を、無粋な観客の目から覆い隠す幕で隠す。 だからまず、幕を引くための引き紐を、引くほんのわずかの時間があればよかった。 「あ、あれはなんだ!?」 突然の大声に、ぎょっとして、全員が彼を見た。 店主をおさえつけていた強盗だった。 だが、声をあげた本人が、驚きに目を見開いている。自分の口が、自分の声で、自分の言葉ではない言葉を叫んだのだ。 その瞬間、誰も彼を見ていた。 それで、十分だった。 後ろに回した手の、指のあいだからすとん、と落ちた一枚の手裏剣。 靴のかかとが、それを蹴る。 すべての物の配置は頭に入っている。 キィン、と音を立てて、跳ね返った手裏剣が、天井のランプにひとつを割った。 飛び散るガラスに思わず身をすくませる強盗と店主をよそに、ヤスウィルヴィーネは両手を縄から抜いて、第二、第三の手裏剣を投げる。見たものは誰もいない。もしいたとしても、次の瞬間、その光景は眼前から隠されていた。すべてのランプが割れて、店は闇に覆われていたからだ。 闇の帳に隠された舞台のうえでなにが起こっているのか、見ることのできた観客はいなかった。 ただその短い一幕のうちに、強盗たちがあげるうめき声を、聞いただけ――。 * 「いやあ、なんだかわけがわからないが、とにかく助かった!」 「いえいえ、オレは何も。ご亭主が無事でなによりです」 強盗たちは、自警団にひっぱられてゆき、結局、『角笛亭』にほとんど被害はなかった。 だからヤスウィルヴィーネは、酒と肴を思う存分に味わうことができた。 ああ、やはり、天は正しきものを見捨てなかった。 満足感が、彼を包んでいた。 ほろ酔いの、良い気分のまま、店を出た。 涼しい夜風が火照った頬に心地良い。 帰りのロストレイルの客車で、座席に身体を預けた。 大変な一日だったが、充実した疲れである。 このまま0世界までは、座席で眠ろう。『角笛亭』での楽しい夜を回想しながら。 ゆっくりと、ロストレイルが動き出した。 しばしの別れだ、ブルーインブルー。 またの再会を夢にみて…… 「……」 はっ、と目を開く。 ちょっと待て。 (いいか、ついでだからって忘れやがったら承知しねぇからな) 「あ――」 酒だ。『角笛亭』で売ってくれる、あの壺入りの地酒。 「あああああああああ!」 ヤスウィルヴィーネの絶叫が客車に響き渡った。 「ちょ、困ります、窓は開けないで!」 「わ、忘れ物が……あ、あれを買って帰らないと……っ!」 「無理です、もうまもなく、列車がディラックの空に――」 「ノーーーー! プレイバック!! アイルビーバーーーーーック!!!」 意味不明の叫びが車窓からこぼれるが、列車は無常に発車する。 ジャンクヘヴンは、みるみるうちに遠ざかっていくのであった。 (了)
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