ターミナルの商店街の中に、ひっそりとその店はあった。飲食店街とは離れた所にある、壱番世界でいう『和風』のその店からは、店の外まで上品な良い香りが漂ってくる。 それもそのはず、看板に目をやれば小さな屏風を模したそれには『香房【夢現鏡】』と書かれていた。香房というのだから、香りを扱う店なのだろう。 入り口には御簾がかかっており、その御簾を上げればかぐわしい香りがいっそう濃くなる。 チリチリリン…… 御簾についていたのだろうか、鈴の音がしたと思うと几帳で仕切られた部屋の奥から衣擦れの音がし、程なく人が顔を見せた。「……！」 思わず息を飲んでしまうのも無理は無い。出てきた人物は艶のある長い黒髪を下ろし、十二単と呼ばれる衣装をまとったとても美しい女性だったからだ。 頭部を飾る冠は彼女が動くごとにシャラリと音を立て、彼女が一歩歩むごとに衣服に焚き染められた香が袖や裾から匂い立つ。まるで異世界を訪れたかのように感じさせるその風貌に、ため息が出るほどだ。「いらせられませ。香房【夢現鏡】へようこそ」「あ、あの……このお店はお香を売っているのですか？」 質問を受けた彼女は、柔らかく微笑んで、お客を几帳の裏へと導く。そこにあったのは壁一面の小さな引き出し。引き出し自体は透明でできていて、中に何が入っているのかが見て取れるようになっている。 中にはお香のようなものから小瓶に入った液体のようなものまで、様々なものが収められている。これが全部香り関連のものだとしたら、おそらく引き出しには匂いを遮る加工が施されているのだろう。香りが混ざってしまっては商売にならないからだ。「こちらでは、様々な香りを扱っております。お香だけではなく、香水や香油、お手軽な所ではポプリや香り袋なども」 けれども、と彼女は手にした扇を開いて。「ただ香りを売るだけではございませぬ。一番の売りは、香りに乗せて過去をお見せすることでございます」「過去……？」「ええ。ですが、ただ過去をお見せするだけでは、ただの夢をお見せしているのと変わりませぬから。わたくしのお見せする過去は、少し変わっておりまする」 開いた扇を口元に寄せて、彼女は別室へと移動する。 畳敷きのその部屋には、上等なふかふかの布団が一式。この部屋には何かの香りが焚かれている様子はなかった。おそらくここで、香りに乗せて過去を見せるというのだろう。「わたくしがお見せするのは『他人視点の過去』でございます。貴方様が見たいと思われた過去の出来事を、他人の視点からお見せいたします」 他人といっても人に限るわけではなく、動物や植物など、変わった所ではコップや本などの無機物でも大丈夫らしい。ただし、無機物は自分で動くことができないので、視界は良くないようだが。「視点を変えることで、新たな見解が得られることもあります。『あの時』のこと、思い出しては見ませんか？」 ふわり、どこから入ってきたのか小さな風が彼女の髪を揺らし、彼女の香りを波立たせる。「わたくし、夢幻の宮がお手伝いさせて頂きまする」 彼女は恭しく頭をたれたのだった。
ターミナルの商店街をそぞろ歩きしてみる。ターミナルには無数の施設があるからして、その店を目に留めたのは偶然かもしれない。それとも、漂う香りに惹かれるのは必然か。 「わー、こんなお店あったんだー」 黒燐はきょろきょろと首を巡らせ、看板を見つけると屏風型のそれの後ろを覗き込んだりして。 「中に入っても平気かなー」 ぴょんぴょんと飛び上がって見るが、御簾の中の様子は見て取れず、諦めて慣れた様子で御簾を上げた。 チリチリリン……と鈴の音が響く。店の入口と向こうを隔てる几帳の奥に壁一面の小さな引き出しを見て、おもしろそうだなぁと背伸びをしていると、その影からゆっくりと女性が姿を現した。 「こんにちはー」 「あら、まあ……」 十二単姿の店主、夢幻の宮は狩衣姿の黒燐を見て、目を細めて袖で口元を覆う。 「……失礼いたしました。懐かしい、と申しますか……親近感を覚える御姿でしたもので」 「気にしないでー。僕もなんだか懐かしい感じがしたから」 私心を断ち切り、深く頭を下げる夢幻の宮。黒燐は軽い口調で答え、和風の建物を見回す。 「ところでお客様、本日は何をお求めでございますか？」 「うん、あのね――」 ＊-＊-＊ 壱番世界出身者であれば、古典的な香りと評したかもしれない。渋みの混ざった甘い香りが黒燐の鼻孔から、毛穴から染み込んで聞く。顔を覆う布はさすがにつけたままで眠られるのは不安があったのか、夢幻の宮の願いで外されていた。だから、遮るものなく黒燐は香りを浴びている。 ふかふかの布団のおかげもあるのか、不思議と睡魔が襲ってきて。気がつけば、閉じた瞼は糊で貼り付けたかのように上がらなくなっていた。 目覚めた黒燐の瞳に映ったのは、見覚えのある壁や調度。これはいつの夢なのだろうか、いつ帰宅しても記憶にあるままの調度で出迎えてくれる実家であることはわかったのだが。 「お兄様、まだでしょうか」 ふと、自分が視点を借りている身体が可愛い声で呟いた。胸は平均よりも少し早く鼓動を刻んでいるのか分かる。 （『お兄様』？ ということは、この視点は成美ー？） もじもじと落ち着かぬ様子で擦り合わされる手は小さく美しく、女性のものであることは容易にわかる。白く長い指から目が離せない。 （これはあの時、なのかなー？） トクトクトクと逸る妹の鼓動をこそばゆく思いながら、黒燐は記憶をまさぐる。 そう、それは黒燐が黒燐になる前、まだ加茂計斗という名の少年であった頃。外見こそは今と変わらぬが、中身は齢七十であったと思う。妹の成美は確か、外見は齢十八程度で、中身は齢三十七くらいだったはずだ。 「今日、帰っていらっしゃるはずですよね？」 成美の確認に、両親は曖昧に笑顔を浮かべた。黒燐は両親のこの笑顔の意味を知っている。 黒燐は天人族なのに同族を研究している天人族研究家という異端児。水行天人族の中では由緒ある古い家系の加茂家にとっては、扱いづらい存在なのだ。両親は内心穏やかではあるまい。それが分かる、だから、過度な期待は抱かない様にしていた。けれども顔には出さず、常に明るく無邪気に、を心がけて。 「ただいまー！」 引き戸を開けて元気な声が飛び込んでくる。戸が開ききるかどうかという段階で、黒燐の視界は動いた。成美が、飛び上がるように立ち上がって走りだしたのだ。そして履物も履かず、玄関口に一歩足を踏み入れた黒燐に向かい一直線。 「おかえりなさいませ、お兄様！」 黒燐を捉えていた視線は一気に黒燐の後方へ。そう、成美が彼を思い切り抱きしめたからだ。 「わ、わー！？」 突然の出来事に、黒燐は理解が追いつかずにただ、パタパタと手足を震わせて。 （そうだ、あの時は確か――） 他都での研究が終わったので実家に帰ると連絡をしておいた。そうしたら、この状況。急に抱きついてきたのが妹だと理解するまで、少し時間がかかった。だって彼女は黒燐を抱きしめたままなかなか顔を見せてくれなかったのだから。 「声も可愛らしくて、姿も可愛らしくて、思わず抱きしめてしまいましたの」 花が咲くような笑顔が、初めて見た妹の顔。そして、今感じているのが妹の心。 黒燐が北都から西都へ引っ越した後に生まれたものだから、互いに初対面で。妹は役人として働いていたが、初めて会う兄が返ってくると知って、休みをとってまで待っていたのだ。 黒燐の心に妹の心が響く。 会いたい、会いたい、会いたかった、会いたかった、嬉しい、嬉しい、可愛い、可愛い、お兄様、お兄様、お会いしたかった――。 （そっか、成美。嬉しかったんだ……） 兄が異端児だとか、そんなことは関係なしに向けられる好意。ただ、初めて兄に会えたのが嬉しかった――純粋な心。 （素直に抱きつかれるなんて、思っていなかったし……） その裏にあるものが、こんなに純粋に喜びに満ちているものだなんて、思わなかった。 胸の内がじわじわと熱を帯びていく不思議な感覚。暖かい、嬉しい。 両親でさえ複雑に感じていた黒燐の存在を、会ったこともないというのに成美はすべて肯定してくれたのだ。いや、彼女にとっては異端児か否かなどどうでもよくて、ただ『加茂計斗』という存在が、とてつもなく愛しいものだったのだろう。 （成美の心の中、暖かいねー） 自ら甲斐甲斐しく兄の世話をしているからか、成美の視点はくるくると動く。だが必ず捉えるのは、黒燐の表情。黒燐が笑えば成美の心は跳ねるし、黒燐が嬉しそうにすれば成美の心は暖かくなる。 （本当に、嬉しく思ってくれたんだ……） 妹の気持ちを疑っていたわけではないが、改めて確認できれば、やはり思いも違ってくる。 彼女の想いを噛み締めるように心に刻むと、黒燐の視界は揺らいでいった。 ＊-＊-＊ 「お帰りなさいませ」 ゆっくりと瞳を開けると、見慣れぬ天井が目に入ってくる。頭の横からかけられた声に、ああここは香房だったなぁ、なんて思ったりして。 「旅路はいかがでしたか」 夢幻の宮に差し出された顔布を受け取り起き上がった黒燐は、それを手にしたまま掛け布団の上に置く。 「うん」 黒布に描かれた単眼をじっと、見下ろして。 「僕が退位しない限り、兄妹として接する事はできないんだ。成美はすでに水流（つる）家に嫁いでいて、別の仕事に付いているんだよー」 部屋に満ちていた香の薫りのせいだろうか、それとも今しがた見た夢のせいか、言っても通じないかもしれない自世界の事情を口にしてしまう。夢幻の宮はそういったことを聞く役目も担っているからか、黙って言葉の続きを待っている。 「でも、懐かしかったんだー」 無邪気に浮かべた笑顔は、追憶への喜び。その笑顔は『加茂計斗』のもの。 黒燐は黒布を顔へと近づけ、そして『加茂計斗』から『黒燐』へと戻る。 「懐かしく思えることは良いことです。随分と、昔の出来事でしたのでしょう」 「だって、今、僕は九百歳以上だもの」 夢幻の宮の言葉に、黒燐は黒布をつけ終わった顔を向けて。 『加茂計斗』が『黒燐』となって、八百年は経っているのだ――。 いつの日か、あの過去のような暖かい時間を再び過ごすことは出来るのだろうか。 黒方の薫りが移った装束を翻らせながら、黒燐はぴょんぴょんと跳ねながら店を後にした。 【了】
このライターへメールを送る
