「騙された? そりゃ災難だったなあ」 濃い青を基調とした小さなオフィスで、その人物はソファに背を持たせかけながらニヤニヤと笑った。部屋の壁を通して、ジャラジャラという物音や人の話し声などの喧騒が聞こえてくる。 ここは、インヤンガイ。それもカジノ「ランパオロン」のバックヤードの一室だ。 目の前に座っているのは、ジェンチンという40代後半ぐらいに見えるラフなスーツの男である。彼はこのランパオロンの保有者であり、インヤンガイの成功者の一人だった。 トラブルに見舞われたロストナンバー、すなわち貴方はこの男に面会を申し込んだ。今はカジノオーナーであるジェンチンだが、噂によると彼は元は探偵をしていたらしいというからだ。 彼が貴方の探しているものを持っている。 尋ねれば、彼はあっさりとイエスと答えた。「あんたのトラベラーズノートだろ。ああ、確かに俺が持っている」 ちらりと、ジェンチンはロストナンバーの大切なトラベラーズノートを懐から出して見せた。手を伸ばそうとすると、さっとしまう。「待ちなよ、俺は慈善事業者じゃない。これを取り戻すためにいくら支払ったと思う?」 こっちの頼みも聞いてもらわなきゃな。ぽつりと彼は言って、ロストナンバーを促した。カジノフロアに連れていってくれるらしい。あなたはおとなしく彼の後ろについて、カジノの喧騒へと歩いていった。 状況は、こうだ。 インヤンガイでの依頼を片付け、貴方は仲間と離れて一人でインヤンガイでの食事を楽しんだ。美酒と食べたことのないような食材。いつしか、店で一緒になった太った男と貴方は意気投合していた。 その気のいい“太っちょ”と、何軒かのバーをはしごして、じゃあまた、と別れたあとで貴方は自分が大事なトラベラーズノートを無くしたことに気が付いた。トラベラーズノートは、仲間とエアメールを送るための道具にしか過ぎないかもしれないが、そこには貴方の旅の記録が書かれている。 世界図書館のことも、異世界のことも、だ。あなたは焦って、太っちょを探し回った。 そして巡り巡って……このカジノ「ランパオロン」のジェンチンへと行き着いたわけだ。 元探偵であるジェンチンが、あなたのトラベラーズノートを闇の取引市場から助けだしてくれたのだ。 無論、簡単には返してくれない雰囲気だが……。 カジノフロアは着飾った人でごった返していた。壱番世界でいうところのギリシャ風にも見える、格調高いフロアの中に、ルーレットやバカラ、ブラックジャックなど、アナログでクラシックなテーブルが並んでいる。 背中を大きく開けたドレスの婦人と、ダークスーツの男性がカクテルを手に談笑しながら、目の前を通り過ぎていった。 ジェンチンはそれに会釈しながら、大きなルーレット卓に辿り着いた。そこにいたディーラーに目配せすると、貴方にスツールに座るように促す。 すると、回りの客がそれに気付いて皆こちらを見た。何だろう、貴方は目を細める。オーナーがここに来た途端、何かが始まりそうな雰囲気になってしまった。「聞いてくれ」 ジェンチンは視線を浴びながら声高に口を開いた。「この御仁は、うちのカジノで全財産をすったらしい。だが、残った最後のラックにすがりたいと俺に相談を持ちかけてきた。だから、ランパオロンはこの人物のその最後のラックとやらを支援することにした」 と、彼は客から貴方に視線を戻す。「好きなゲームを選びな。俺との勝負に勝ったら、あんたの大切なものを返してやる。ただし、負けたら──」ざわざわと客がさざめいた。「──あんたの腕を一本もらう」 さあ、どうする? ジェンチンは悪戯っぽい色をその目に浮かべ、貴方をじっと見るのだった。「何か言いたいことはあるか?」
目前のジェンチンから視線を外し、天倉彗は自分が注文したカクテルを見た。赤、緑、茶、白など様々な色の酒が層を成すプースカフェ・スタイルのものだった。こうしたカクテルは様々な名前を付けられている。B-52、レインボー、云々。だが目の前の酒が何と名前を付けられているのか、彗は知らなかった。ただ、その色の重なり具合が世界郡を現しているようで少し気に入っただけだ。 「それは……光栄ね、と言うべきかしら」 周囲の客は、すぐに勝負が始まるわけでないことを察して姿を消していた。テーブルにはジェンチンとディーラーしか残っていない。静かな空間が出来ていた。 「何が?」 「あなたの払った大金と、この腕が吊り合うということに」 彗は人差し指と中指でグラスを挟み、そっと自分の方へと引き寄せる。その瞳には何の色も浮かんではいなかった。 「ギムレットをオーダーするには、まだ早すぎるだろ?」 ジェンチンは両足をゆったりと組み直し、口端だけで微笑んだ。 「その腕の自慢話をする時間ぐらいはある」 「聞きたい、と?」 彗の言葉に、カジノオーナーは肩をすくめてみせた。イエスでもノーでもない。彗も短く息をついた。自分が腕を一本失うかもしれないというのに、それを気にした様子は微塵も無い。 ただ彼女は冷たい灰色の瞳で、訝しげに相手を見つめた。 むろん、腕を失うことは惜しい。トラベラーズノートと引き換えになどできない。しかしジェンチンもそれは同じなのではないだろうか。女の腕一本が大金と釣り合う価値があるとは、彗には到底思えなかった。 何かの比喩か冗談なのではないだろうか──? そっと彗はカクテルを口にする。一番上の赤い層は甘酸っぱいベリーの味がした。 「その太っちょと飲む前は、どんな仕事を?」 ジェンチンが言う。悪戯っぽい目は相変わらずだ。なるほど、と彗は当たりをつけた。このカジノオーナーの目的は、この状況を楽しむことなのではないか? 「大した仕事じゃなかったわ」 「へえ。誰かを撃ったってのに?」 さて、彼は何をもってそう断言するのか。彗はしかし何の頓着も見せない。 「まだ自分が撃たれてなかったから相手を撃っただけ」 言いながら、彼女は数時間前の光景を思い出していた。 街灯の明かりの届かぬ暗い駐車場。鉄線が張られた廃屋は何らかの食品工場のようだった。彗は廃材の冷蔵庫の陰に身を潜め、建物の入口を見つめている。 闇がぽっかり口を開けて待っているようなそこから、何かの影が飛び出した。 同時に、夜の空に数発の銃声がこだまする。 彗は冷蔵庫の側面に右手を這わせ引き金を引いていた。耳に悲鳴のような、何か柔らかいものをつぶしたような声が届く。 ──タンッ! その時、どこかでもう一つの銃声がした。 しかし彗は早かった。その銃声がするや否や彼女は振り向き、左手の銃を撃っていた。刹那、10時の方向にあったスクラップの山から悲鳴が上がる。甲高い声。女か? 銃撃をやめると、場には静寂が訪れた。 彗は目の色ひとつ変えず身体を起こした。右手の銃は倒れた者に、左手の銃は前方のスクラップの山に向けたまま、そろりと物陰から歩み出す。 彼女はスクラップの山の方へ背後から回り込んだ。すると、暗がりで誰かがうずくまっているのが見えた。 彗の気配に気付き、その人物が慌てたように振り向いた。手にした銃が僅かな明かりを反射して鈍く光る。 彗は撃った。 その銃撃に全く躊躇は無い。彼女の銃は相手の顔を吹き飛ばした。 スクラップの山に叩きつけられ命を失った身体を、彗は一瞥した。スカートにブーツ。やはり女だ。 彗は頬に飛んだ返り血を、銃を手にしたままの手の甲でぬぐって、今度は入口で倒れている方の元へと向かった。 そちらは相手は若い男……のようだった。サブマシンガン手にしたまま、うつ伏せに倒れている。 彗はその銃器を蹴り飛ばし、ぞんざいに足で男の身体を仰向けに転がした。 そうして相手が命を失っていることを確認したのだった。 「二人とも、まだ子供だったわ」 淡々と話し終え、彗はそう締めくくった。「それでも彼らが銃で13人もの人間の命を奪ったことは間違いないこと。私がやらなければ彼らはもっと他人を撃ったでしょうね」 「この世界は狂ってるのさ、仕方ねえことだ」 ジェンチンもマティーニか何かを口にしながら、つぶやくように言った。 「武器を手にした途端に、回りのものをみんなぶっ壊したくなる。若いなら当然なのかもな」 「そうね」 相槌を打ちながら、ふと彗は気付いた。彼女が撃ったあの二人は恋人同士だった。彼らはどこからか銃器を手に入れ、自分たちの交際を許さない両親や、勤めていた料理店の店長などの大人と、その近くにいた無関係の者たちを殺害した。 ジェンチンの口調は、まるでその事情を知っているかのようではないか。 「お前さんも若いが、かなりやるみたいだな」 彗の心中を知ってか知らずか、カジノオーナーは指で銃の形をつくって見せ微笑んだ。 「俺も昔はそうだった。一人で生きてかなきゃいけなかった。他人なんかに構ってられねえ。相手より先に撃つ、ただそれだけさ。お前は正しい」 と、言い彼は身を乗り出した。「早撃ちの勝負でもするか? お嬢さん」 「──悪くないわね」 彗は、少し考えてからそう言った。僅かな微笑みを添えながら。 「私の銃を持ってきてくれない?」 ジェンチンも微笑みでそれに応えた。傍らにいたディーラーに目配せすると、彼女はテーブルを離れて姿を消した。この男に会う前に預けた彗の武器を取りに行ったのだろう。 すぐにディーラーは戻ってきた。ビロードの敷かれたケースに鈍く光る銃器を二つ載せて。 艶消しの黒色と銀色の自動拳銃で、銃身には何やら文字のように見える刻印がある。それぞれ対になっているようだ。 彗はその銃をチェックするように促した。ディーラーはジェンチンに銃を渡した。カジノオーナーは馴れた手つきで二丁の銃を手に取り、刻印を指でなぞる。 「レサトとシャウラよ」 ぽつりと彗は愛銃に付けられた名をつぶやく。「どちらが、レサトだと思う? 当ててみて」 「おいおい、まさかそれで勝負を?」 ジェンチンは銃器をケースに置き、眉を寄せた。 「フェアじゃねえな。俺があんたのことを調べ尽くしてたらどうする? 元々俺がどんな商売してたか知ってるだろ」 くすりと彗は笑った。彼女はここで初めて目の前の男に好感を持った。彼はわざわざ自分の手の内を明かし、常々彼女が感じていた疑問に答えたのだ。──イエス、と。 「なら、こうしましょう」 カクテルの二層目を口にして彗。鮮やかな緑色は爽やかに鼻に抜けるシトラスの香がした。 彼女はすでに覚悟を決めていた。身体は資本。この腕で生きてきたのだから、そう簡単に失うわけにはいかない。しかしここでそれを無くすなら、それは運命なのだ。 それにしても、もし本当に腕を無くしたら──? 再会したばかりの妹はどう思うだろうか。性格的にあまり気にしないのかもしれないが。 「こっちがレサト、シャウラよ」 彗は自分の銃には手を触れず、指で指し示し「残りの弾数が少ない方を当てるのはどう?」 「と、言うと?」 「さっき話した仕事の後、私は弾倉を変えていないの。私はあまり残りの弾を気にする方じゃないから、よく覚えていないわ。仕事が終わった後なら尚更よ」 でも、と彗はジェンチンを正面から見据える。 「あなたは今、私の銃に触れたわね? そういったものの扱いに慣れているようだし弾数を確認する時間もあったわ。つまり、私は自分の記憶を辿ることができるし、あなたは直前に弾数を確認できたということ。どう? フェアな勝負にならない?」 「……いいだろう」 ジェンチンは息をついた。 「弾数が同じだったらどうする?」 「私の負けでいいわ」 そっけなく彗。飲んだカクテルの三層目は白だ。甘いミルクの味。 ジェンチンも唇をマティーニで湿らせた。目線を二丁の銃に落とし、また彗を見る。そしてひらりと手を翻し、彼女に先を促した。先攻を譲るというのか。 「シャウラ」 「レサト」 彗が言えば、間髪入れずジェンチンが後を引き継いだ。彼は目で、その答えで良いかと確認してきた。彗がうなづけば、傍らのディーラーが二丁の銃器を手に取った。 ディーラーは洒落た動作で銃器から弾倉を引き抜くと、それを恭しく二人に見せた。まだ分からない。彼女はもう一つビロードのケースを取り出し、二つのケースに弾倉の中の弾をそれぞれ取り出して並べてみせた。 シャウラは10発。 彗は溜息とも安堵もつかぬ息を吐いた。 そしてディーラーは後攻のレサトの弾をゆっくりと並べていく。 ジェンチンは片腕をテーブルに置き、肩の力を抜くように頬杖を吐く。 レサトの弾は──10発だった。 彗は微かに笑った。自分が負けたというのに、その表情には面白がっているような節もあった。カジノオーナーは気難しそうに考え込むような素振りを見せ、最後にひょいと眉を上げてみせた。 さて、どうしようかな。 彼の表情にも、同じようにこの状況を面白がっている節が見えていた。 * 彗は非常階段を駆け下りている。 カンカンカン、と彼女の靴が大きな音を立てたが、そんなことに構っている時間は無かった。上から転がり落ちてくるように、黒い大きな影のようなものが彼女を追いかけてきているからだ。 ベシャッ。 何か黒いタールのようなものが彗の肩に付着した。チッ、彼女は舌打ちし、上を見上げた。 螺旋階段の渦巻きの隙間から、黄色く光る双眸が見えた。人とは違う、無機質で虚ろな眼が。 彗は撃った。 黒曜石に似た黒色の質感を持つ銃──彼女は自らのトラベルギアを両手でしっかりと構え、狙いをつけていた。 虚ろな光が消えうせ、同時に人のものとは思えない咆哮のようなものが聞こえた。 仕留めたか? 彗は目を細め、しかし銃の狙いを定めたまま相手の様子を伺う。 やがて、カラカラと乾いた音をさせて、上から何かが降ってきた。ネジや、バネ。小さなプレート。金属の部品である。 銃を納め、彗は階上へと慎重に上がっていった。 そうして、彼女は自分が今まで戦っていたものと遭遇した。先ほどよりも数倍縮んで小さくなった黒い塊──。タールのような黒い油にまみれ、グチャグチャにひしゃげたオートバイの残骸と。 終わったと彗が電話を掛ければ、ジェンチンは上機嫌で答えたのだった。 暴霊退治なんて、大したことねえだろ? あんたの腕一本で片付く仕事だ。 また頼むよ。 ……と。 (了)
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