光る風は徐々に薫りを孕み、季節は花から緑へと移りゆく。 新緑が深緑に変われば次の季節はすぐそこだ。 このチェンバーには四季があるのだろうか。以前は桜に覆われていたというのに、今は豊かな緑が雨滴を弾いている。「……あ、ごめんなさい」 その小屋の扉を押し開けると、そばかす顔の少女――鈿(ウズメ)が慌てて椅子から立ち上がった。居眠りでもしていたのだろう、短い赤毛が所々ぴょこぴょこと跳ねている。「楽(がく)はしばらくお休みなんです。湿気は楽器に良くないからって咲耶(サクヤ)姉さんが言ってました」 どうやら簡易な居宅らしい。八畳ほどのフローリングにはテーブルセットが並べられ、奥にはキッチンらしき設備も見える。「あ。雨、やんだんですね」 鈿はぱたぱたと窓辺に走り寄り、小さく歓声を上げた。乳白色の雲の向こうに所々スカイブルーが覗いている。細切れの青空にはうっすらと虹がかかっていた。アーチの如く空をまたぐ虹はどこまで続いているのだろう。「綺麗ですね。何だか、いつまでも見ていたくなります」 七色のきざはしの行方を見つめながら鈿は小さく舌を出した。「内緒ですよ。火照(ホデリ)姉さんに怒られちゃう。楽器に触れずして何の楽団ぞ、って。だけど」 ぱたぱたとキッチンに入り、鈿は冷蔵庫を開けた。「ソウサクにはシゲキが必要なんだって咲耶姉さんが言ってました。それはそうですよね。あたしたちはずーっと同じ場所で暮らしてるんだし、曲のモチーフもなくなっちゃうっていうか」 細長いグラスに青い炭酸水が注がれ、バニラアイスが落とされる。青と白のコントラストは初夏の空を思わせたし、跳ねるように弾ける気泡は鮮やかな季節への予兆のようでもあった。「あ、もちろんこれはサービスです。タダです。……その代わりと言っては何ですけど」 鈿は躊躇いがちに来訪者を見つめた。「何かお話を聞かせてくれませんか。単なるおしゃべりとして、ですけど」
テーブルにだらしなく肘をつき、神喰日向は「えー」と口を尖らせた。 「普通メロンソーダじゃね? ソーダフロートっつったら緑だろ」 細長いスプーンで青い炭酸水をかき混ぜる。グラスの中、細かな炭酸が螺旋を巻いて駆け上がり、弾けた。 「何か聞かせて、って言われてもねー。オレの話聞いてソウサクの参考になんの?」 「神喰さんはツーリストさんですよね? 例えば元の世界のお話とか……」 「そうだけどさー、チワキニクオドルような冒険なんて都合良く転がってるもんじゃねーっつーかぁ。オレなんかフツーよ、フツー」 暮らしていたのは大都会でも田舎でもない中途半端な街。これといってやる事のなかった日向は、同心異体とも呼ぶべき片割れと二人で何でも屋のような真似をしていたのだった。何でも屋と聞いた途端に鈿は目を輝かせた。 「凄い! 何でもやるんですか?」 「そーだけど、暇潰しとか遊びみたいなモンだったしなー。しょーもない依頼からシリアスな仕事まで色々――」 だらだらと話しながらスプーンをくわえ、日向は不意に言葉を切った。 ソーダフロートの美味しさはアイスクリームと氷と炭酸水の境目にあるという。氷に触れたバニラアイスがシャーベット状になり、そこにソーダが絡んで不思議な風味を作り出す。 「……変だよな、コレ」 こってりしたバニラと、爽やかさの代名詞であるシャーベット。矛盾した味だと思った。怪訝そうな鈿の前で、日向はわざとらしくへらりと笑った。 「前もこんなの“喰った”ことあるんだ。――アイスじゃねぇけど」 月色の目をすいと細め、ゆっくりと語り始める。ピンキーリングを嵌めた左手が無意識に胸元のペンダントを握った。 その女が二人の元を訪れたのは薄明るい月夜のことだった。 四十がらみの女である。懐かしいと日向は思い、首を傾げた。初対面の筈である。 女は上質な黒のワンピースに身を包み、黒のストッキングと黒のパンプスを履いていた。黒いレースの手袋をはめた手で黒いハンドバッグを開け、一枚の写真を取り出す。ごくごく平凡な少女が映っていた。歳の頃は十五、六といったところだろうか。 「あなた達のどちらでもいいから、この写真の子と友達になって欲しいの。それとこれ、この子のプロフィールや行動パターン。別の人に依頼して調べてもらったから、活用して頂戴」 「ふうん?」 日向は首を傾げた。ほっそりとした女は朱の口紅で彩った唇をわずかに歪めた。黒ずくめの装いの中で、唇の色だけが鮮烈に際立っていた。 「駄目かしら。あなた達、何でも屋なんでしょう?」 「んー。まぁ、別にいいけど」 安請け合いする日向の隣で相棒が眉を顰めた。 「友達になるって、具体的にはどんなん? ふつーにだべったりとか、カラオケ行ったりとか、そんなんでいいわけ?」 「ええ」 「マジで? ちょー楽勝ー」 日向はけらけらと笑った。嫌な記憶を喰ってくれと請われたこともあるし、酷い目に遭わされたから復讐してくれと頼まれたこともある。それらに比べれば楽な仕事だ。 「そりゃ、オレらのほうがターゲットとトシ近いからじゃん?」 日向達の保護者は万事屋を営んでいる。なぜ保護者ではなく自分達にと訝る相棒に日向はあっけらかんと応じた。 ターゲットはごく普通の少女だった。日向の“仕事”は順調だった。四人――日向と相棒、彼女と彼女の女友達――で集まるようになるまでにはそう時間はかからなかった。ファミレスで食事をしたり、カラオケに行ったり、テーマパークのような場所へ遊びに行ったりもした。 色恋に発展してややこしいことになりはしないかと相棒は懸念したが、杞憂に終わった。彼女は稀に見るファザコンで、父親以外の男は眼中になかったからだ。この年頃の少女は父親と険悪になりがちだというのに、彼女は父を全面的に信頼し、慕っていた。 「家族が仲良しなのはいいことじゃね?」 彼女達を送り届けた帰り道、日向は安直な感想を述べた。相棒は黙り込むばかりだ。 日はとっぷりと暮れた。夜の帳は街を均しく押し包み、ほっそりとした三日月だけが中天に君臨している。星の姿はない。 「何でも屋に来る客なんて大抵ワケありだろ?」 なぜこんな依頼をと首を傾げる相棒に日向はあっけらかんと応じた。仕事柄、他人の後ろ暗い部分を目にしてしまうことも多い。余計な詮索や介入はしないのがマナーでありルールだ。 「こんばんは」 と不意に声をかけられ、日向と相棒は息を呑んだ。 その女は宵闇から溶け出すようにして現れた。黒のワンピース、黒のストッキングに黒のパンプス。黒ずくめのいでたちの中で、ほっそりとした顔だけが月のように浮かび上がっている。 (ああ) またしても奇妙な懐かしさに囚われ、日向はようやくその正体に気付いた。 彼女からはほのかに母乳のにおいがする。 「仕事ぶり、見せてもらったわ。順調みたいね」 「え、もしかして尾けられてた?」 「ごめんなさい。自分の目で確かめたかったから」 朱の唇を笑みの形に歪め、依頼人である女はゆっくりと二人の顔を見比べた。 「神喰君、だっけ。貴方のほうが彼女と親しいのかしら」 「んー。まぁ、そうかな」 「じゃあ神喰君に次の仕事を頼むわ。彼女の前で、私と親子のふりをしてもらえない?」 「ふう、ん?」 日向は素っ頓狂に語尾を持ち上げた。 四十前後の彼女と、十六歳の外見を持つ日向。親子と言っても通る年齢差ではある。だが、日向にも相棒にも彼女の狙いが分からなかった。不審を抱いた相棒は独自に依頼人の身辺調査を始めた。 (ま、報酬さえ貰えれば別にー、って感じ?) しかし日向はさして気にせず、いつもの通り少女に会いに出かけた。今日は二人だけで会うようにと依頼人に言い含められている。 少女と街を歩いていると、相棒からのメールが届いた。 “依頼人は出産直前に流産。原因は駅の階段からの転落。誰かに突き飛ばされたらしい。胎児の父親は――” 「日向ー」 黒ずくめの依頼人が声をかけて来る。日向は打ち合わせ通りに少女に“母親”を紹介した。 「初めまして」 「初めまして。息子と仲良くしてくれてるんだって? いつもありがとう」 少女ははきはきと自己紹介し、依頼人もにこやかに応じる。依頼人の笑顔を見ながら日向は内心で首を傾げた。少女を見つめる依頼人の目は冷えた喜悦が浮かんでいる。 「貴女のこと、いつも息子から聞いてるわ。それでね、一度貴女にお話ししておかなきゃと思って――」 もったいぶるように言葉を切り、依頼人はくすりと笑った。 「貴女、パパのことが大好きなんですってね」 「はい」 「貴女のだーい好きなパパはね、私と不倫してたのよ」 その瞬間、空気が凍りついた気がした。 「えーっと、あの、お袋?」 「日向は黙ってて頂戴。大人の話をしているの」 冷え切った目で日向を一瞥し、依頼人は少女に向かって“大人の話”を投げつける。 「貴女の友達の母親は貴女のパパと不倫してたの。私、貴女のパパの子供を身ごもったんだから」 「……嘘です」 「嘘? どうして?」 「パパはそんなこと……不倫なんか――」 「薄汚いことなんかしません、って? パパが聖人君子だとでも思っているの? 愚かね。愚かだわ。パパだって男よ? 男はみんなケダモノよ? 貴女のパパは貴女に笑いかけるあの目で私の裸を見ていたのよ、貴女の頭を撫でるあの手で私の体をまさぐっていたのよ、ほらあげるわ、貴女のパパとベッドで撮った写真、パパから貰ったメールも見せてあげる、ほらこんなにハートのグラフィックを使って、うふふ、可笑しい、浮かれちゃって、彼女が出来たばかりの男の子みたい、うふふ!」 それは紛れもなく復讐だった。能面のように凍りついた少女の前で、依頼人は夜叉の如く笑い続けた。 「大人げねー」 それが日向の感想だった。善悪の判断に興味はなく、ただアンフェアだと感じた。 「家庭を維持しながら不倫を楽しむ男だってアンフェアだわ」 依頼人は日向を自分のマンションに誘った。祝杯だと言って注がれるジュースを見つめながら、日向は相棒からのメールを思い出していた。 “依頼人は出産直前に流産。原因は駅の階段からの転落。誰かに突き飛ばされたらしい。胎児の父親はあの少女の父親。依頼人の転落現場に彼も居合わせた” そのメールだけで真相に気付かぬほど鈍くはなかったが、何食わぬ顔で少女に接し、依頼人との打ち合わせ通りに振る舞った。それが“仕事”だったから。 「全部知ってるんでしょう?」 という声に顔を上げると、朱色の唇があった。マンションの高層階にあるこの部屋を覗き込むのは孤独な満月だけだ。 闇が降ってくる。明かりを消したのか、停電なのか。闇の中で、黒ずくめの依頼人の顔だけが月のように仄白く浮かび上がっていた。 「年齢的に、今回の妊娠が最後のチャンスだったの」 ゆっくりと、黒い服を脱ぐ。 「もう産まれる直前だったから……体は“母親”になっちゃってね。お乳が止まらないのよ」 喪服の下から、白い裸身が露わになる。 「月経の周期は月の満ち欠けと関係あるんですって。私、いつも満月の頃に“来て”た。だけどもう“来ない”の。ふふ。もう子供を産めない体になったのかもね」 「なんで?」 一糸まとわぬ姿の彼女に日向はあっけらかんと問うた。 「なんでそんなことすんの? フリンしてニンシンして、一個もいいことねーじゃん。最初から分かんなかったワケ?」 「そうね。その通りだわ」 子供のようにまっすぐで残酷な疑問に晒され、彼女は悲しそうに微笑む。 「正しい事なんて言われなくても知ってるの。でもね、理屈じゃ片付けられない事もあるのよ。……ねえ。胸が痛いの。張って、張って、しょうがないの。おかしいでしょう。赤ちゃんなんか何処にもいないのに」 不自然に膨らんだ乳房からは濃厚な乳がひたひたと漏れ出している。 それなのに――否、だからこそなのか。 「ありがとう、神喰君」 彼女は慈母の如く穏やかに微笑むのだ。 「この関係は対等じゃなかった。けれど私とあの人はお互いに大事な物を失った、これでようやく対等になれたわ。……報酬は私の記憶よ。張って、苦しいの。あの人と、死んだ子の記憶を全部吸い出して頂戴」 日向はかすかに眉根を寄せた。日向は“夢喰”だが、人の魂や精神を捕食してはいけないときつく言われている。 ――しかし、差し出された物を貰ってはいけないとまでは言われていない。 「じゃあ遠慮なく」 求められるまま、母乳を口に含んだ。 (……ああ) とろりとした乳の匂い。舌に広がる濃厚な味。 それなのに――これは。 (冷たい。……凍ってる) しゃりしゃりとした歯触り。それでも優しく、慈しみに溢れたこの風味。喩えるならば濃厚なシャーベット。矛盾した味だと思った。倒錯していると思った。 「!?」 不意に髪の毛を鷲掴みにされ、悲鳴を上げる。と思ったら非常識な腕力で引きずられ、壁に投げつけられていた。後頭部をしこたま打ちつけ、呻く。甲高い哄笑が響く。女は笑っていた。髪を振り乱し、産まれた姿のまま、己が頭を壁に打ち付け続けていた。彼女は狂っていた。日向の体は動かない。打ちどころが悪かったのか、急速に意識が遠のいて行く。 「開けろ! いるんだろ、開けろ!」 乱暴なノックと相棒の声を遠くに聞き、日向は意識を手放した。 その後のことは知らない。相棒が何とかしてくれたのだろう。日向が突っ走り、相棒が後から帳尻を合わせてくれるのが常だった。 「“喰う”と色んな味がするんだ。あの女のはこのアイスと似てた」 汗をかいたグラスの中、白いアイスクリームがとろとろと溶けて行く。ゆるゆると混ざり合う青と白を見つめながら、日向はへらりと鈿に笑いかけた。 「どう? 何か参考になった?」 「うーん……何だか、難しいお話ですね」 「なー。実はオレもよく分かんねー」 倫理や道徳を云々する気はない。ただ純粋な疑問だけが胸に残っている。 女は精神の均衡を崩した。愛した者の記憶を喪ったせいだろうと相棒は言った。だが、女は苦しいと言っていた。苦しいと同時に大切な記憶でもあるのだろうと相棒は言った。 「ま、ヒトの心はムズカシイよなってことでひとつ」 だが、日向はどこまでも軽やかに笑ってグラスを傾ける。 「ごっそさん。今度はメロンソーダで頼むぜ?」 <凍えた乳・了>
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