大好きよ 大好きよ、大好きよ みぃんな、大好きよ。だから、私のぜぇんぶ――あげる★ ★ ★ ほかほかの優しい日差し。ふわり、ふわりと白い雲。「素敵なところですね、これで温泉ですか? まぁ!」 きらきらと目を輝かせるのは最近、覚醒し、保護された薄茶色の毛が美しい金星という名のハツカネズミの姿をしたロストナンバー。 その傍らには優に二メトールはある巨体の白い毛に黒い斑毛の虎の獣人・白藍と白いうさぎのぬいぐるみを抱きしめたふわふわの白い毛が可愛らしい執事服の兎の獣人・緑水。「うむ。最近はなにかと心休まらないことばかりだったのでな、せっかくだ。ゆっくりと湯につかろう」「面白い効果もあるんだって、いってた」モフトピアでの戦争後、妙な効果の温泉が現れたのに、彼らは肉体的、精神的な疲れをとるためにやってきたのだ。「あら、歌声? それもこれは、アニモフたちと……?」 金星が耳をぴこぴこと動かして、その声の方向を見る。 大好きよ、大好きよ さぁ、遊ぼう。 私を楽しませて、 あなたたちをもっともっと好きになりたいの 大好きよ、大好きよ…… 温泉がある場所から少し離れた浮島。 大きな樹が一本、そのまわりは色鮮やかな花たち。 くるり、くるり、くるり。 二十人くらいのアニモフたちが輪になって踊る。その真ん中には一人の少女。 それだけならばなんのことはない。 ただし、その周囲の花は黒く爛れ、枯れていた。そして踊るアニモフたちの体も、ひとり、またひとりと……楽しげに踊りながらその足が、その手が崩れてゆく。 黒い風が吹き荒れて、鼻を覆いたくなる腐敗の匂い。「な……」 異常な光景に三匹は息を飲んだ。「うしろのしょーめんだーれー?」「それは、はなちゃん!」「あたりぃ!」 うふふふふふ。 あはははははは。 くすくすくす。 ぽとりと少女の後ろにいたアニモフの両脚が腐って転がる。それに少女は立ち上がりきょとんとした顔をすると、また笑う。アニモフたちも笑う。 大好きよ、大好きよ。 唄うようにささやかれる言葉。「はなちゃん、これにゃーとくぅーから!」 黒猫のアニモフと白いクマのアニモフが花冠を少女、はなちゃんの黒髪にかける。「ありがとう! 二人はね、みんなのなかで特別に大好きの大好きよ!」 舌足らずな言葉でお礼を述べて、花冠に少女が触れる。とたんにぐしゃりと花は崩れて、さらさらと塵となって落ちていく。「貴様がこの事態の原因か!」 白藍が叫び、腰の剣を抜く。それに少女は驚いたように顔をあげると、にこりと微笑んだ。「遊ぼう! ずっとはなちゃんが鬼でつまんないの。虎さんとうさちゃんと、ねずみさん!」 少女はスキップをしてやってくる。少女の白い足が大地を踏みしめるたび、そこだけ黒く変色し溶けてゆく。「お前は」 白藍が息を飲む。少女は首を傾げ、ああ、と頷いた。「この姿はいや? わかった。じゃあ、こっちね!」 少女の姿が、瞬時に二十歳くらいの女のものへと変わった。「ねぇ好きよ? 大好きよ……あなたを一目見たときから、あなたは私のこと、守ってくれるとわかったわ」「……っ」 女の囁きに白藍の意識が抗いがたい誘惑にかられる。女と遊びたい、好かれたい。愛されたい。触れたい。――愛したいと心が溺れてゆく。「そう、始めて見たときから、私のすべてをあなたにあげようってきめたの。さぁ、いらっしゃい、キスしてあげる。遊んであげる、好きでいてあげる。だからねぇ、あなたも私を愛して、私の信頼に応えて」「白藍から離れなさい! このあばずれっ」 金星が叫び、トラベルギア――銀の針を取り出した。それを巨大化させると女に向けて投げた。 女は逃げない、むしろ、にこりと微笑んだ。「強いのね、あなたのそういうところ、――好きよ?」 女の腹に、巨大な針は刺さった、はずだった。 しかし、それによって血を流し倒れたのは白藍だった。そして、金星もまた己の下腹部からの激痛に血を吐き出して倒れた。「な、なんで……攻撃は、あたった、はず、なのに……どうして、私と白藍に……」 女は自分の腹に突き刺さった針を引き抜くと、地面に投げ捨てた。「あなたの強さ、好きよ。大好き。それこそ、私のぜんぶを預けようって思ったの! ああ、怪我をしてかわいそう。大丈夫、いたくない、いたくない。……うさぎちゃん、いらっしゃい」「緑水、誘惑されないの! あなたはにげなさい! はやくっ!」 女の抗いがたい誘惑を打ち破る金星が叫びに、緑水は現実の悲惨な様子を目にして震えあがり、叫んだ。 すべてを吹き飛ばすような大声で――びぃえええええええええええええええん!★ ★ ★「至急、モフトピアに行って欲しい。敵がそこにあわれて、二人ほど大怪我を負って危険な状態だそうだ」 怒りを滲ませて説明したのは黒猫にゃんこ――三十代の黒の姿だ。 その傍らには泣き続ける緑水がいる。「怪我を負ったのは虎の獣人の白藍と、鼠の獣人の金星。この緑水と温泉にいったときに敵と遭遇したそうだ……相手は女の子。ただし、そいつは触れたものを腐敗させていくそうだ。そばにいるだけでいろんなものが腐っていって、そろそろ浮島を一つ、破壊させかけているらしい」 緑水が、遭遇した少女とのことを黒が、ざっと説明する。「どうも男は、この少女……いや、二十歳くらいの女の姿になると誘惑されるらしいな。それ自体も厄介だが、こいつは攻撃してもなぜか攻撃したやつ、いや、その周囲にダメージが転移されているようだ。倒すとなると、そのからくりをとかなくちゃいからしい」 黒は目を眇めた。「下手すると同士討ちなんてシャレにならんことになる可能性がある。……危険だと感じた場合はせめて怪我したやつらを連れて逃げてこい。いいな?」
「ね、エル、思ったんだけど、はなちゃんって……世界樹旅団の連中ってことでいいのかな?」 つぶらな瞳を瞬かせて、エルエム・メールは首を傾げた。 「エルエムもそう思うか? もしあいつらと違うんだったら可愛そうなミダスの王様を保護してやらなきゃな」 「ミダス? なんだよ、それ」 虎部隆の言葉にマフ・タークスがぴょこんと耳を動かす。 「触ったものを全部、金にした挙句に最後は一人ぼっちになっちゃった王様だよ」 「それは似ておるな。ただ少女が故意的に周囲を腐らせておるのか、元よりそういう体質を持って生まれてきたのかで対応が違ってくるのう。後者なら不可抗力、同情の余地もあるぞい」 「同情ってよォ、かなりヤバイ今の状況でもかァ?」 ネモ伯爵の言葉を鼻で笑ったのはジャック・ハート。彼の緑色の目は軽薄な色を湛え、灰色の大地を睨みつける。 「この状況で同情の余地なんてあるのかァ? 無意識にしろよォ」 大地は灰色に染まり、黒い風が吹き荒れ、鼻を覆いたくなる悪臭が――腐敗は手の施しようのないほどにひどいものとなっていた。 この地が元通りの青々とした芝生に覆われ、花が咲くようになるには長い時間が必要になるだろう。 なにより問題の少女が仲間に深手を負わせたのは確かだ。それも故意な行動で。 「ま、俺サマは楽しく戦えればいいしよォ」 ジャック・ハートはなんの躊躇いもなく、持ってきた長刀で自分の右腹を突き刺した。突然の行動に四人が唖然とするのも気にせず、包帯で刀を腹に巻きつけて抜けないように固定しはじめる。 「ちょ、なにしてるの!」 エルエムが叫ぶ。 「アァ? ヒャハ! 仕方ねぇだろう、抜いちまうと治っちまうんだからよォ」 「はぁ! なにいってるのよ!」 ジャックは右耳に指をつっこんで耳栓かわりにした。 「仕方ねぇだろう。ったく、精神感応にあるヒュプノたァ良く戦ったゼ。不死なやつもいたからな。あの娘が怪我を転移させてるのは……お前ら」 びしっとジャックはエルエムと隆を指差した。 「戦闘のときにゃあ、その猫の後ろにでも隠れてろヨ。俺ァ他人は治せねェンだからヨ」 「オレは猫じゃねぇ。山猫だ!」 マフが尻尾を膨らませて抗議する。エルエムもまた鼻で息を吐いて腕組みをした。 「エルは守られたくないもんね! 能力を破ってぶっとばすつもりなんだから!」 「オイオイ、攻撃の反射のからくり、わかってるのかヨ」 ジャックが意地悪く歯をむき出しにして笑うのにエルエムは胸を張った。 「能力を破るのはみんな、任せた! エルはぶっとばす役!」 「お前なぁ……マァよゥ、予想はもうツイてるぜ」 「え、わかったの?」 ジャックの言葉にエルエムが身を乗り出す。 「暗示をかけてそいつに怪我したと思わせてるのさ。魂レベルで思い込めば、身体が反応して怪我の症状があらわれるってナ」 「おい、それだとあの娘が怪我してないのはおかしいだろう」 ジャックの推理に眉を顰めてマフが反論する。 「それより、言霊で特定してるんじゃないのか。たとえばあの娘が「好き」といったら、金星と白藍は倒れちまったっていうからな」 「ワシもそう思う。それに言霊で腐敗をさせているのかもしれんし……もしかしたら魅了で好意を持たせて、守りたいと思わせ、それで痛みを肩代わりさせているのかもしれん」 「むなくさわりぃ能力だな」 マフが鼻白んだ。 争いのないモフトピアの大地を腐敗させ、アニモフたちを危機に晒している。それだけでもいけ好かないが、個人的に草花を無造作に枯らしてへらへらと笑っているような子供は大嫌いだ。 「戦う前に旅団なのか確認も必要だし、説得もだめもとでやってみようぜ」 「攻撃をどうやって転移させているのか確認する必要もあるしな」 隆の言葉に、マフが頷き、全員が同意する。 まず説得、そしてアニモフたちと重症の怪我を負った二人の仲間をどう助けるかの作戦をたてた。 いざ、作戦を実行しよう段階でエルエムはふと重大なことに気が付いた。 「……えーと……コレって、もしかしてエルがものすごく頑張らなきゃダメってことじゃない?」 男性陣が魅了されてはせっかくの作戦が失敗することも大いにありうる。 しかし、この場にいる女性はエルエムただ一人。 エルエムは拳を握りしめた。 「よっーし! みんなを誘惑させないためにも、エル、ひと肌脱いじゃうんだからね!」 そういうとなんの躊躇いもなくエルエムは服を脱ぎ、戦闘スタイル「コスチューム、ラピッドスタイル」にチェンジする。 まるで水着のように必要最低限のところだけ隠したその姿はスピードを極限まで求めたエルエムの戦闘衣装。異性の目にはさぞ魅惑的に見えるはずだ。 「これでみんなをエルに釘付けだよね! エルとその子、どっちとるっていったら、当然エルだよね!」 その場にいた全員がエルエムを凝視する。 「な、なに……?」 戦闘ではいつもぽいぽい脱いでいるので、恥ずかしいとは思わないが、さすがにじっと見つめられるとちょっと照れてしまう。エルエムだって年頃の女の子だ。 「胸がねェし、色気もねェな」 ジャックが肩を揺すって笑った。 残りの男たちの視線も明後日の方向に向いている。 エルエムのスタイルが悪いのではない。ただ色気というにはあまりにも元気溌剌すぎるというべきか。 「もう、なによ! みんなぶっとばして目を覚まさせてあげるんだからねっ」 手始めにエルエムは許せぬ暴言を吐いたジャックを思いっきり殴っておいた。 「喧嘩するなよ。そうだ、エルエム、俺から、これを頼む」 「なに?」 マフから渡されたのは掌サイズのボールが三つ。 「攻撃が反射するからくりで魅了される確率が低いエルエムが攻撃してどこに転移するのかみたい。まぁ出来ればでいいからな」 「わかった! やってみる。魅了されても、みんなエルが目をさまして」 「だから色気がねェ」 「もう一発ほしいみたいね!」 ジャックの余計なひと言にエルエムの容赦ない鉄拳が飛んだ。 ★ ★ ★ 吐き気を催す腐敗の香りは奥へと進むたびに強くなり、そこについたときには嗅覚は麻痺して何も感じなくなっていた。否、目の前の光景に感じることを忘れてしまったのかもしれない。 少女が楽しげにアニモフたちと遊んでいる。一見、心和む光景だが――地面も草も木も黒く染まり、血を流して倒れている白藍と金星の姿がなければ。 なにもかもがちぐはぐで、おかしく、異常で――悪い夢を見ているかのような光景だ。 「あれが……問題の」 隆が呟く。と、はなちゃんが顔をあげた。 「……誰?」 はなちゃんがにこりと三人に――隆、ジャック、エルエムに邪気のない笑顔で微笑む。そのまわりにいたアニモフたちも不思議そうに見つめる。 思わずエルエムが身を乗りだしそうになるのを、隆が片手で制した。 「俺たちは、そこに倒れている二人の友達だよ」 「ああ、あの人たち? あのね、気が付いたら、ずっと寝てるのよ。お昼寝が好きなのね」 いけしゃしゃあとはなちゃんが嘘をつくのに隆は一瞬だけ言葉を失った。 隆は、この目の前の少女に同情すべきなのか、はたまた憎むべきなのかわからないでいた。 この能力が、この少女の心そのもののように思えたからだ。 腐敗は人との触れ合いを恐れ、魅了するのはそれでも人と離れることが出来ずに傲慢にも縛り付けようとして、怪我を転移するのは自分が傷つきたくないという利己性のあらわれ…… でなければこんな危険な力を――ネモ伯爵が指摘したように体質でなければ――腐敗はわからないが、魅了と反射に関して言えば彼女は自分の意識で使っている。 (自己中心も大概にしろよ) けど (……本当はかわいそうなやつなのか?) 隆はそれを見極めたかった。 本当にミダスの王なのか、それとも…… 「きみの名前は?」 「はな、華奈子! お兄さんたちは?」 はなちゃん――華奈子は明るく笑って答えると、無防備に近づいてきた。 「俺は虎部隆、こっちはジャックで、こっちはエルエム」 二人はこの場は隆に任せるとばかりに黙っているが、顔つきは険しく、目には警戒を滲ませている。華奈子は小首を傾げて笑う。 「ね、迎えに来たっていうけど、まだ大丈夫でしょ? 遊ぼう!」 怪我人を差し置いて遊べるはずがない。 しかし、華奈子は隆が自分の提案を絶対に否定するはずがないとばかりに手を握りしめてくる。 隆は腰を屈めると、用意していた硝子の薔薇を差し出した。 「なに、これ」 「お近づきの印に」 隆が笑うと、華奈子も笑う。 「硝子で出来ているんだ。もらってくれるか?」 「わぁ素敵!」 華奈子は気をよくしたように薔薇を受け取り、嬉しげに胸の中に抱きしめ、隆に抱きついた。 「ふふ、大好きよ。隆お兄ちゃん! ね、遊ぼう! ずっとアニモフたちとだけ遊んでたの、だんだんね、みんなお昼寝をはじめちゃったから。寂しいの」 「それをしたのはテメェだろう」 悪態をついたのはジャック。 これ以上、この子供の無邪気な悪意につきあう気にはとうていなれなかった。 「テメェはそうやって今度は隆をあそこで倒れてるやつらみたいにしちまうんじゃないのか。隆、そんなガキに魅了されてるんじゃねェぜ! ヒャハハハ、ロリコンに間違えられちまうぜェ!」 「俺はロリコンじゃねーよ!」 抱きつく華奈子の肩に手をおいて身体を離そうとすると、ふっと隆の頬に白く、ひんやりと冷たい手が触れた。 「あら、ロリコンだっていうなら、これなら問題ないよね?」 大人の姿をした華奈子はジャックを見つめて、鼻で笑う。 「ジャックのおじさん、口わるーい。もてなさそう! 一緒にいるおばさんは、肌を過剰に見せて露出狂みたい! あ、隆はいい男よ!」 「なっ、お、おじさ……!」 「おばさ……ろしっ……!」 華奈子の暴言にジャックとエルエムが鼻白む。 「あはははは! 図星つかれて怒った、怒った! ねぇ、隆、遊ぼう。この二人はほっといて」 「まてよ。俺たちと一緒に来ないか? そこで新しい生活をはじめてよう」 華奈子は冷ややかに隆を見つめる。すぐに困った悪戯っ子をたしなめる母親のように微笑みが浮かべた。 「新しいってなに? ここがいいわ。ここは優しいし、楽しいし、私はここがいいの」 「俺たちはターミナルってところにいて、そこでけっこう楽しく生活してるんだぜ? 君がこようと思えばまたここにもこれる」 隆は、必死に誘惑と戦った。ここでこの子に飲まれてはいけない。だが手は無意識に華奈子の背中にまわる。抗えと念じても、甘い香りは頭の芯を蕩かせる。このまま 「隆っ! エルとその子、どっちがいいの! 性格でもスタイルでもエルだよね!」 「しっかりしろ、オイ! そんな性格ブスにひっかかってんじゃねェぞ!」 二人の声に隆ははっと我に返った。見ると周囲の地面が溶けて凹み、二人から隔離されていた。 隆は慌てて華奈子から身をひいた。 「隆? どうしたの? 遊びましょう? ねっ」 「……君が俺に与えようとしているのは破滅の愛だ。俺は前に進む恋愛が好みなんだよ……愛する者に全てを求めるくせに、痛みだけは嫌だなんて虫がよすぎねぇ? 愛は痛くて楽しいものなんだぞ」 隆の言葉に華奈子はまた笑う。冷たく。 「そう、それで?」 「それでって……」 隆は絶句した。 「破滅だからなに? 進むからなに? ……私は別に痛みを受け取らないわけではないわ、隆、あなたは勘違いしてる。私は、全部預ける、けど同じくうけと……それに……」 くらり、華奈子の身体が倒れるのに反射的に抱き止めた。 「おい、どうし……ぐっ」 白い手に喉を締め付けられ、隆は顔を歪めた。 「うそつき」 ぞっとするほどに低い声で華奈子は吐き捨てる。きりきりと首をしめる手に力がこめられ、肌を焼く痛みに隆は息を飲んだ。 華奈子の胸に飾られた硝子の薔薇がパンっ! 音をたてて砕け散りる。 「本当に好きになりたかったけど、やっぱり信用ならないわね! ……隠れてないで出てきなさい! この男を腐らせて殺すわよ!」 怒りに燃える瞳で華奈子は自分の背後を睨みつけて怒鳴った。 ★ ★ ★ 隆たちが華奈子の気をひく間に、マフは魔法で、ネモ伯爵はトラベルギアのマントで透明化すると背後から忍び寄った。 それはなにも背後からの不意打ちが目的ではない。 深手を負った白藍と金星、腐敗によって倒れてしまったアニモフたちの手当とともに避難のためだ。 「おい、無事か。返事できるか」 マフが白藍の頬をぺちぺちと叩く。 白藍は薄らと瞳を開き、警戒を滲ませる。マフの横にいるネモ伯爵がマントから顔だけ出して人差し指を口にあてて、しぃと指示する。 「安心せい。おぬしらを助けきたのじゃ」 「助け、助け……俺は、ここに、あの娘のため」 譫言を呟く白藍の耳をつまんで思いっきりひっぱったのはマフ。 「しっかしろ! あの娘のせいでこんな怪我を負ったんだぞ。金星も」 「な、に……金星殿! ……金星殿の治癒を先にしてくれ……俺は丈夫だが、金星殿は」 巨大な虎の獣人である白藍と、ハツカネズミの見た目を持つ獣人の金星とではあきらかに大きさが違い、その怪我の重度もまるで異なった。 マフはさっそく金星に近づき、彼女が魅了されてないことを確認したあと「光の治癒」を施した。 「ごめんなさいね、マフ」 金星が息も荒く謝る。 「いいさ、危ないときはお互いサマだろう」 「けど、お願いがあるの」 「ん?」 「はなちゃんを、あの子を傷つけないであげて……」 「おい、お前」 金星はかぶりはらった。 「別に魅了されているわけじゃないのよ? ただそう思っちゃうの。私も白藍も、あの子のせいで深手を、これは私のミスなんだけど……こんな怪我をしているのに、なぜかしら、守ってあげたいと思うのよ。……そう、あの子が私に攻撃を受けるときに見せた笑顔と言葉……全部、この子は私に預けてるんから、守ってあげたいって」 ネモ伯爵はアニモフたちの説得にあたった。 驚いたことにアニモフたちは腐敗して、身体のあちこちが黒く染まり、失われているが華奈子に対して警戒も、敵意もまったくなかった。 それこそがアニモフがアニモフである所以であるが。 今回はその無邪気さと無垢さがこの子たちを危機に晒してしまったが。幸い、ここにいるアニモフたちのなかに死んでいるものはいない。重症そうな者は何人かいるが、それもマフの治癒でなんとかなりそうだ。 「さて、おぬしら、ここから少し離れようか」 「けど、それだと、はなちゃんは? はなちゃんと遊んでるんだよ?」 うさぎのアニモフが心配げな顔をする。 「そうだよ、一人ぼっちになっちゃう」 「一緒に遊んであげなくちゃ」 魅了されているのか、はたまた本当にそう思っているのかアニモフたちは誰一人として自ら進んでここを離れようとはしない。 ネモ伯爵はにこりと微笑んで、頷く。 「おぬしらがはなちゃんを慕っておるのはよくわかる……が、ずっとはなちゃんが鬼ではかわいそうじゃろう? 今度はワシらが鬼になってはなちゃんを追いかける番じゃ。どうじゃ、暫く遊び相手を変わってくれんか?」 「んー、けど」 「はなちゃんを一人にしない? 遊んであげる?」 「もちろんじゃ」 ネモ伯爵が請け負うとアニモフたちは顔をあわせて、だったらね、そうだねと頷きあった。 「こっちはどうにかなった、そっちはどうだ?」 白藍と金星の治癒を終えたマフがネモ伯爵に尋ねる。 「アニモフたちも治癒してやってくれ。みな、それぞれ腐敗が進んでおる……ただあの二匹は」 ちらりとネモ伯爵が黒猫のアニモフと白いクマのアニモフに目をやる。 二匹は先ほどから黙ったまま、うつむいている。 「みな、ふわふわの雲にのって楽しそうじゃぞ? おぬしたちもどうじゃ?」 雲とはマフの作り出した青い「まどろみの雲」。 ここでアニモフたちが騒いでは華奈子に気が付かれてしまうため、マフは治癒のあと眠らせ、浮遊させてこの場から少しでも遠くへと運ぶことにしたのだ。 ネモ伯爵はそこで気が付いた。 (この二匹、腐敗していない……?) 他のアニモフたちと違い、この二匹だけはぴんぴんしている。 マフが金星を治癒したときに聞いた言葉が脳裏に蘇る。 ――あの子を守りたい ネモ伯爵が考えたように、華奈子は魅了した相手に怪我を転移させているのか? だが、それだったら、なぜ、この二匹は無事なのだろう。 「けどね、ぼくたちがいきなりいなくなったら、はなちゃん、びっくりするよ?」 「そうだにゃ。あのね、にゃあとくーにゃんは、はなちゃんがここではじめてあったの。三人であそんでたの。けどね、いっぱいおともだちがきてね、みんなであそんでたの。はなちゃんいってたの。にゃあとくーにゃんが一番好きって」 「そうか。しかしな」 「おい、急ぐぞ。隆が危ない」 「む」 マフが後ろから囁くのにネモ伯爵は顔をあげた。 華奈子が隆を抱きしめ、ジャックとエルエムと対峙している。説得は失敗したらしく、離れているマフとネモ伯爵でも肌で感じるほどのぴりぴりとした緊張感が少女と仲間たちの間に漂っていた。 「眠らせて、運んじまおう」 「……仕方あるまい」 マフが青い雲を生み出すと、黒猫と白いクマのアニモフはびくりと肩を震わせた。声をあげられる前に素早く、雲で二匹を包み込む。 しかし。 二匹は雲のなかから自力で這い出てきた。 「なに?」 マフは驚きに目を見開く。 「……隠れてないで出てきなさい! この男を腐らせて殺すわよ!」 煉獄よりもなお深い憎悪の炎を宿した声が轟いた。 ★ ★ ★ 華奈子は忌々しげに頭を二度、横にふると忌々しげに吐き捨てた。 「精神系の能力は私には一切通じないのよ、バカな人たちね」 「っ、きみは……」 「しばらく黙っていてちょうだい、あなたと話すのはおしまいよ、うそつきさん」 隆の顔が紙のように白く、血の気を失い。身体はぐったりと倒れているのにマフとネモ伯爵は透明化し続けることをあきらめ、姿を現した。 「にゃーちゃんとくーちゃん! ……他の子たちはどこにやったの!」 「さぁ、どこだろうな」 マフは尻尾をふって余裕な顔で言い返す。 アニモフたちは浮遊させて、自分たちの頭上に浮いているのだが、幸いにもまだ華奈子は気が付いていないようだ。 ここで焦ってアニモフたちを危険にさらすわけにはいかない、隆を見殺すつもりもない。 マフはちらりとネモ伯爵を見る。ネモ伯爵は静かに一度、頷いた。 チャンスは一度だけ。 「っ! にゃーちゃん、くーちゃん、そいつらはうそつきなの。あぶないの! 私のところにきて!」 黒猫と白いクマのアニモフは迷うような足取りで華奈子に近づいていく。 一歩でアニモフと華奈子の手が触れ合う、そのとき。 突如として地面が割れ、そこから人の形をした土人形――命無きゴーレムが現れた。 それはネモ伯爵が用意した囮だった。 「!」 華奈子の注意がゴーレムに集中した、タイミングで全員が動いた。 マフの蔦の鞭が華奈子の身体を拘束し、ジャックがアニモフ二匹と隆を華奈子の元から五十メートルまで瞬間移動。未だ空中で漂っている数名のアニモフたちはまとめて瞬間移動と高速移動を組み合わせてさらに遠くへと逃がした。 隆を受け止めたのはエルエム。ウィスキー色の瞳が心配げに隆を見つめ、右手に拳を作った。 「隆、しっかりしてよ!」 エルエムが隆の頭を容赦なくはいた。 「いて……! おい、俺は怪我人だぞ」 喉の焼ける痛みを我慢して隆が涙目でエルエムを睨みつける。 「問題! あの子とエル、どっちがいい女?」 「……あのなぁ。そんなこと聞くなよ、俺に」 苦笑いする隆にエルエムは微笑み、華奈子に向けて突撃した。 超高速でジャックは華奈子の間合いを詰めた。目の前にいる華奈子が本体なのかということも事前に能力で探っておいた。 華奈子が前方からやってくるジャックを警戒するのに瞬間移動で背後に回り込む。がらあきのうなじを乱暴に掴んで、地面に叩きつけた。 「っ!」 女性から少女の姿に戻った華奈子が腐敗の大地に転げてくぐもった悲鳴をあげる。ジャックは容赦なく少女の体に馬乗りになった。 華奈子の口を拘束していた蔦が腐る。そのタイミングを狙って右手を伸ばし、華奈子の口のなかに乱暴に手をねじこんだ。 「!」 「ヒャハハハハハ! どうだ。腐った肉の味はよォ!」 華奈子が必死の形相で身体をばたつかせて抵抗する。ジャックは懐に隠した短刀を抜くと、目を狙って振り上げる。 「お前の痛みを貰ってやるかせ命寄越しナ、お嬢チャン」 血が飛び散る。―― ジャックの腹から。 華奈子の手が、ジャックの横腹に刺してあった長刀を腐敗させて消し去ったのだ。 ほぼ同時。 どろりっとジャックの右手首から下をどろどろに溶かした。ぺっと華奈子は腐った肉を口から吐き捨てる。 「私を殺す? それでまたあなただけがいきるの? じゃあ、ぜんぶ、預けなくっちゃね。あなたに」 「アァ……くそォ!」 くらりっと意識が急速に奪われていくのをジャックは感じ取った。 必死に抗うが、少女から女性へと変わった華奈子はジャックの両頬を手で包み込むと嗤った。 「……バカね」 「させないんだからねっ!」 エルエムは華奈子を虹の舞布で拘束しようと試みた。華奢な肉体をきつく締めつけるととたんに倒れたジャックの呻く声が聞こえた。 「ジャック! エルとこの子、どっちがかわいい!」 起き上ったジャックは頭を軽く横にふり、不敵に笑った。 「その娘より、百倍は可愛いぜェ、エルエム!」 「当たり前じゃない!」 華奈子が乱暴に立ち上がろうとするのにエルエムは絞め技をきつくした。 「いいの? そいつ、死ぬわよ」 「死なないわよ。だってジャックはエルのほうが可愛いっていったもの! エルは負けない。だってエルのほうが可愛いから!」 「なに、それ、イミわかんない」 「エルはジャックを信頼してる。絶対にあんたの技なんて効かなくなるって!」 エルエムの啖呵に華奈子の顔が険しくさせた。 「……そう、強いなら、あなたに預けるのもわるくないかもね、私の全部」 エルエムの胸にきゅんと切ない痛みが走った。 (ほって、おけない……これって魅了?) 好きというのとは少し違う、ほっておきたくないという気持ちが心を支配する。だからこそエルエムは怒りをもって華奈子と向かい合う。 だって、こんなところで一人ぼっちなんて。 「エルは殴り飛ばしにきたの! こんなところで一人ぼっちだから」 エルエムは豹のように素早く華奈子に飛びかかった。華奈子は慌てて後ろに逃げようとするが、足をもつれさせ――マフの蔦の鞭が足に絡み付いたのだ。 エルエムは虹の舞布をふりまわし、加速とエネルギー体で華奈子の肌を焼いた。 「っ!」 痛みはジャック、エルエムを襲った。だが、エルエムは気が付いた。ジャックの痛みよりもエルエムの痛みは軽い。ちらりと後ろを見ると、隆には怪我はない。 (転移のからくりは距離? ううん、人数?) エルエムはすぐに考えることを放棄した。 いろいろと考えるよりは、いまはただ 「ぶっとばすだけ!」 エルエムの素早い攻撃に華奈子はじりじりと後ろにさがるが、そこにはマフとネモ伯爵がいるのに逃げ場のなく、苦々しい顔をする。 ゴーレムを一瞥すると、片手をふりあげた。 「腐れ!」 ゴーレムが岩となり、崩れる。 「エルエム、離れろ!」 隆が水先案内人を構え、華奈子のどろどろに溶けた足元を狙って芯を折る。 まだ彼女の攻撃を転移の方法ははっきりとわかってはいない。もしかしたら攻撃として受けたものを敵に返すのかもしれない。だったらこれで事故として落ちて怪我すれば――証明される。 「っ! くそ……っ!」 足元が崩れ華奈子の体が傾き、破壊されたゴーレムの肉体のなかにあった針が――金星からネモ伯爵が借り受けたものだ――華奈子に向かって飛んだ。 「ぐぁ……くそォ!」 華奈子から転移された肩の怪我にジャックが叫ぶ。 針は華奈子の肩を突き刺し、地面に縫いつけることには成功した。 「くそ、くそったれ……ち、こんなものっ」 「はなちゃん!」 二匹のアニモフが華奈子に駆け寄る。その上に、ゴーレムの砕けた岩が、落ちる。 「っ!」 声ない悲鳴が――少女の口から放たれる。 「ったくよ、オイオイ、お前らは避難してろっていっただろうがよォ!」 ジャックが二匹のアニモフを両腕に抱いて苛々と叱りつけた。 岩が落ちてきたとき、ジャックはすぐさまに瞬間移動して二匹を抱いて高速移動で回避したのだ。 「俺サマがいなきゃ、とっくに死んで」 「死ななかったぞい」 「あん?」 ネモ伯爵は黙って首を動かし、それを示した。 今まで怪我らしい怪我をしていなかった華奈子は頭や肩から血を流し、苦しげに呻いている。 「……はなちゃんは、自分が好意を持ったものに怪我を転移させていたんじゃ。好きといったのはワシらにたいする暗示ではなく、自分自身に対する自己暗示。すべてを相手に差し出し、預ける……じゃが、それだけだとおかしいんじゃ……ワシたちがアニモフたちに魔法を使って眠らせたのをすぐさまに気が付いた。まるで自分がその魔法を受けたように」 ネモ伯爵は目を伏せた。 「つまりは、はなちゃん自身、本当に好意を寄せた者の怪我は自ら請け負うわけじゃ。力には一方通行なんぞない。……愛すれば相手のすべてがほしくなる。この子の能力は最大の守りにして、最大の弱点そのものじゃ。このアニモフたち二匹がはなちゃんにとっては一番好きな相手、すべてを欲しいと願う対象じゃったんじゃ」 自分を愛させ、守りたいと思わせる。そして自分のすべてを差し出し、相手に預ける。それが少女のとった守り。 だがそれと同じく彼女自身が相手を愛した場合は、すべてを請け負う。 「……だから、エルたちがはなちゃんのことほっておけないと思ったわけ?」 「たぶん、な」 隆がよろよろと立ち上がり、痛みに蹲る少女を見つめた。 少女は片腕を抱いてふらふらと立ち上がる。その目には怒りの炎が宿っていた。 「腐敗の力は望んだもの……みんな嫌いだったから……この身体のおかげで誰も近づかなくなって、騙されることはないけど、一人ぼっち……けど、ここにきて、幸せだった。悪意がなくて、利用することもなくて、汚くなくて……みんな優しくて、お友達になってくれて。だから、ここに、ここに私たちのおうちがくればいいと思ったの。この子たちを殺す前にうんと好きになって、腐敗から守って……なにがあってもみんな私が守ってあげるって決めたの」 黒い風が少女の足元を浸食し、溶かしていく。 「あんたたちがきたせいで! 私の友達をみんな、遠くにやって! この子たちも危険にさらして! なにが守るよ、できもしないじゃない! ゆるさない、あんたたち、みんな殺してやる! 嫌いよ、あんたたち、みんな嫌い!」 「それが、間違ってるんだよ」 マフが白い歯を剥きだしにして唸り上げる。 「間違ってる? ハッ! 間違っていてもかまわない、私にはこれしないの! この方法しか……殴られるのも、殺されるのもいや! だから……みんな腐敗させてやるんだ」 華奈子が叫ぶと右肩に突き刺さっていた針がぐしゃっと音をたてて、肉を裂き、血が飛び散った。ジャックは自分の肩にあったはずの傷が治癒したのではなく、まるではじめからなかったように消えたのに驚いたように目を向けた。 「あんたたちにはあげない。一ミリたりとも、お前たちにやるものか、私を……嫌いだ。大っきらいなあんたたちになんて」 華奈子が相手を思うことで怪我を転移するからくり。 これには二つの弱点がある。 華奈子が本当に信頼した場合、そして本当に憎んだ場合、それは通用しない。 「私の力で腐らせてやる! ……くーちゃん、にゃーちゃん、こっちに……」 「はなちゃん、けんかしちゃだめだよ。このひとたち、いいひとたちだよ」 「こわい……ここをこんなふうにしたの、はなちゃんが原因なの? ちがうっていったのうそなの?」 ジャックの腕のなかにいる二匹のアニモフが怯えた顔をするのに腐敗の娘は愕然と目を見開き、俯くと小刻みに肉体を震わせた。 声にならない悲鳴は風となり、輝く透明な雫が大地に零れ落ちる。 「……はなちゃんとやら、ひとまずここは退散してくれんか?」 ネモ伯爵の言葉に華奈子はゆっくりと顔をあげた。 「いいわ。退散してあげる」 肩に突き刺さった針を乱暴に引き抜くと、地面に投げ捨てて華奈子は自嘲気味な笑みを浮かべ、黒い風を纏い、忽然と姿を消した。 腐敗の風は止み、枯れた地面だけが広がる。 「……本物のミダス王ってことか……愛ってめんどくせーよなぁ」 隆は誰に言うこともなく自虐気味に呟いた。
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