「インヤンガイで、軽く除霊してきてもらえますか」 暴霊退治でも構いませんよと導きの書から視線を上げないまま唐突に声をかけてきたのは、知らない間に背後に立っている世界司書だ。周りの反応は気にした風もなく、勝手に話を進めていく。「対象となる暴霊は、フーツィと呼ばれていた男性です。恋人を殺した犯人を探し出し、殺害しようとしたところを返り討ちにあったようです。おまけにその時のショックで大分記憶が混乱しているようでして、手当たり次第に殺して回るようになったと、」 言いかけて導きの書を捲った世界司書は、そうなりかけている、といったところですと言い直した。「何故かフーツィが唯一話を聞く探偵がいるらしく、今のところは彼が引き止めているようです。ただ混乱したままどんどんと記憶が消えて行っているようですので、話が通じる今の間に何とかして頂けると助かります」 やる気のない熱を帯びない声で説明した世界司書は、導きの書を捲って僅かに眉を上げた。「詳細は探偵や本人から聞くのが一番だと思いますので省きますが、彼らの知らない事実を一つだけ」 今回の件とはあまり関わりがあるとも思えませんが、と前置きした世界司書は、導きの書から目を上げないまま続ける。「フーツィの殺された恋人は、元ロストナンバーです。壱番世界のアジア地域を気に入って拠点にしていたこともあったようですが、依頼で赴いたインヤンガイでフーツィに出会い、再帰属したようです」 さして興味もなさそうに告げた世界司書は、そのまま導きの書を閉じてふらりと視線を外した。「後の情報は、どうぞインヤンガイで。彼が見境なく人殺しを始める前に、できれば止めてください」 生きていれば彼女をがきっと止めたようにと小さく呟いた世界司書は、導きの書を抱え直して踵を返した。 いい加減にしたらどうだと、ドアをノックする前に疲れたような声が聞こえてきた。暴霊を止めているという探偵の事務所を訪れたのだが、先客がいるのだろうか。 控えめにノックをして中を覗くと、横着に椅子に腰掛けた探偵らしき人物が視線を巡らせてきた。「ああ、奴を止めにきてくれた面々か? 助かったぜ……」 とりあえずあれは気にしないで本題に入ろうぜと体勢を戻した探偵が、殊更視線を向けないようにしている部屋の片隅にはぼんやりと透けた男性がそこに立っている。 銃を片手に壁に向かって何やらぶつぶつ言っているが、言葉の意味としてはほとんど何も伝わってこない。「さっき持ち弾を使い切ったから、しばらく静かにしてるはずだ。……尤も、使い切ったと思ってるだけで我に返りゃいくらでも撃てるんだがな」 実弾じゃねぇからなとぼそりと呟いた探偵に、聞こえるのではと気を揉んだのは一瞬。フーツィだろう暴霊は壁と話すのに夢中で、こっちの話も聞こえていないらしい。「厄介な事に奴は俺が目を離すとすぐに暴走しやがるから、俺はここから動けねぇ。あんたらに頼みたいのは、ジョカ探しだ」 ジョカと確認するように繰り返すと、フーツィが何かに惹かれたように顔を巡らせてくる。 探偵が口許に指を当てて静かにしているように合図してくるまま黙っていると、フーツィは何かを探すように視線を彷徨わせたがまた壁へと向き直った。「その名前は、奴の死んだ恋人のもんだ。色々忘れ始めてるが、未だにそれには反応する。まぁ、今みたいに落ち着いてる時に限ってだがな」 暴れてる時は聞く耳も持ちやがらないと顔を顰めた探偵は、背を向けたフーツィをちらりと一瞥してがりがりと頭をかいた。「暴れ出す時の目的は、自分を殺したというより恋人を殺した相手への復讐、だ。ただ死んだ時のショックで、対面してた犯人の顔も名前も覚えてねぇらしい」「あなたは、その犯人を知らないんですか」「生憎な。奴が執念だけで見つけ出したんだ、俺にも何も教えないまま……殺されに行きやがった」 フーツィには見向きもしないで馬鹿がと短く吐き捨てた探偵は、顔を顰めたまま大きく息を吐き出した。「だがまぁ、犯人探しはどうでもいい。寧ろ見つけてくれるな。下手に判明すりゃ、奴は即座に殺しに行くだろう」 それはさせたくねぇと複雑な顔をしたまま呟いた探偵は、フーツィが暴れ出しそうにないかを視線で確かめて軽く身を乗り出させてきた。 ちりん、と場にそぐわない可愛らしい音が、探偵のポケットから聞こえたように思う。「犯人を殺したいってぇのも、確かな望みの内ではあるだろう。けどそんな事の為だけに、奴がここに残ってるとは思えねぇ」 本当の望みは一つだけと声を潜めた探偵は悼むように目を伏せて息を吐き、会いたいんだろうよと小さすぎる声で言う。「奴がまだ生きてる間に犯人探しを始めた時、俺がやるからじっとしてろと警告した。奴は薄ら笑いさえ浮かべて、言い放ちやがった」「僕を止めたいなら、彼女をここに連れて来てくれ」 壁に向かってぶつぶつ言っていたフーツィが、ゆっくりと振り返りながら探偵に声を重ねた。 探偵は遣り切れなさそうに顔を顰め、頭をかき、口をへの字に曲げて黙り込んだ。フーツィは探偵の様子を気にした風もなく、自分の為に集まった面々を見て薄っすらと笑った。「ジョカ……、どうして鏡から逸れたの? 僕をカラスと笑ってくれたのに、どうして僕の前から消えたの。僕の鏡は君を映さない……、ただ真っ白な月だけが欠けていく」 また今日も僕は一人で昇るよと泣き笑いの表情で歌うように告げたフーツィは、ふっと視線を落とすと表情も消してまた背を向けた。「時々、ああして正気なんだか夢を見てるのか分からない調子で呟きやがる。俺にはさっぱり意味が分からない」 恋人が奴に聞かせた話が元になってるらしいが、とフーツィの背を見て呟いた探偵は緩く頭を振って座り直した。「先に殺された恋人が、奴と同様に残ってるとは限らねぇ。いたとしても、奴みたいに自由に動けねぇんだろう」 だからあんたたちに探してほしい、とフーツィに代わって探偵が頭を下げる。「もし彼女がいないとしても、奴の記憶を刺激する何かを探してきてくれねぇか。二人で暮らしてた部屋に行けば、何かしらあると思う」 場所は教えると既に用意していたらしい手書きの地図を出され、どうしてフーツィを連れて行かないのかと尋ねると探偵は息苦しそうに顔を顰めた。「あの部屋は、彼女が殺された場所だ。生きてる間も、死に様を思い出したくないって近寄らなかった」 死んだからって行けるようにはならねぇだろと苦く呟いた探偵に、友人だったのかと誰かが尋ねた。 探偵は頭を抱えるようにも見える仕種で俯き、それなら俺はとっくに殺されてるだろうよと小さすぎる声で答えた。「──恋人が襲われるかもしれないから守ってほしいと、依頼を受けたのは彼女が殺される数時間前だった。連れて行かれた先で……、彼女が死んでた」 俺は依頼も果たせないぼんくら探偵ってだけだと、悔いるように噛み締めた探偵は真面目な顔つきで向き直ってきた。「奴が何もかも忘れちまう前に……、会わせてやりたい。取り戻させたい。奴の願いというより俺の身勝手だが……、どうか頼む」 彼女を連れてきてくれと机に手を突いて深く頭を下げた探偵から、またちりんと可愛らしい音がした。
「死んだ女に未練たらたら女々しい野郎だな」 癖の強い黒髪をかき乱しながら吐き捨てたのは、リエ・フーだった。隣に立っていた篠宮紗弓は乱暴な口調に軽く目を瞠り、ちらりと彼に視線を落とした。 フーは紗弓の視線に気づいた風もなく、どこか苛々した様子でフーツィの背に投げつける。 「女の腐ったような奴ってのはてめえの事か。暴霊化するほど恋しいのかよ? んなイイ女なら是非お目にかかりてえもんだ」 挑発的なそれらにもフーツィは振り返らず、確認したフーはちっと音高く舌打ちした。張り合いのねぇとぶつぶつぼやいているフーを他所に、話は分かりましたよとフーツィではなく探偵を見据えているファレル・アップルジャックがどこか酷薄に目を細めた。 「『彼女』とやらをこちらに連れて来ましょうか。ただし、彼女を探す過程で結果的に犯人を見つける事になっても怒らないようにしてくださいね、探偵さん」 「職業柄、私も犯人を探したい所だけど。……彼を、まず止めなければ」 語尾を上げたアップルジャックの言葉を宥めるように続けたのは、刑事だと名乗った流鏑馬明日だった。ちらりと流鏑馬を一瞥したアップルジャックは肩を竦め、場を譲るように一歩引く。ありがとうと目を伏せるようにして礼を述べた流鏑馬は、フーツィの様子を確認してから探偵を見た。 「いくつか確認してもいいかしら? 彼女が亡くなってから、彼が彼女の思い出をあなたに語った事は?」 「ねぇな。元より顔見知りだったわけでもねぇ、奴らについて知ってる事といえば口を開けば惚気が出るぐらい、奴が彼女にベタ惚れしてたくらいだ」 「それなら、彼はどうして貴方に依頼に来たの?」 思わず紗弓が口を挟むと、探偵は視線を移してきて苦く笑った。 「依頼人が俺を指名してきた理由は、俺には分からねぇ。無駄だと思うが、奴に聞いたほうが確実だ」 「では何故、あなたの声だけが彼に届くのかしら? あなたを信頼しているから? それとも彼女と関係ある物を持っているとか?」 刑事めいた強さで流鏑馬が問いを重ねると、くすりと笑ったアップルジャックがちりんと手にある鈴を鳴らした。 「例えば、これとか?」 「っ、いつの間に」 自分のポケットを探って顔を顰めた探偵に、アップルジャックは失礼と反省した様子もなく笑った。 「ですが私がもし犯人であれば、現場を捜索されても自身が犯人だと特定されないよう、証拠は手元に残しておきます。……これがそうなのかもしれません」 試しにフーツィさんに見せてみましょうかとアップルジャックが鈴を鳴らすと、フーツィが振り返ってくる。よせと声を荒げた探偵が奪い返そうとするのをかわしたアップルジャックに、フーツィの視線が注がれる。 しばらくはぼんやりとしていたが徐々に不審げな色を広げたフーツィが無言で銃を持ち上げたのを見つけて、やめろと探偵が声を張り上げた。 「それは俺が呼んだ客だ! 今さっきこの街区に来たばっかで確実に犯人じゃない、俺が保証する」 撃つなと怒鳴りつけた探偵の言葉を追うように、ちりんとまた鈴が鳴る。それを聞いてフーツィは無言で銃を下げ、壁に向き直った。 大きく息を吐き出した探偵はアップルジャックを睨むように見据えながら、 「お前さんの説にも一理ある。俺を犯人と疑うのは構わねぇが、それは返してくれ。今回の件とは関係ない、単なる恋人の形見だ」 溜め息をつくように手を出した探偵に、アップルジャックは持ったままだった鈴を一瞥してその手に返した。 「失礼」 「……いや」 ぶっきらぼうに答えた探偵は、無造作にそれをポケットに突っ込んだ。 「フーツィさんは、その鈴に反応していたみたいだけど……。それのおかげで、あなたの声だけ届くのかしら?」 フーツィの反応を窺っていた流鏑馬が眉を顰めるようにして尋ねると、さぁなと探偵は肩を竦めた。 「生きてる頃に鈴の音が障ったらしくて、何だと聞かれたから形見だと答えた事はあるが」 それだけだと答えた探偵を遮るように、フーツィがジョカと寂しそうに呟いた。思わず全員で背中を見ると、フーツィは天井を仰いで嘆く。 「君はどこにいるの。彼の手には鈴があるのに、僕には何もない。鏡から逸れて、どうして僕の前から消えたの……?」 詰るよりは、見失った自分を責めるような。聞いているほうが居た堪れなくなる独り言に、アップルジャックが眉を顰めた。 「一度は犯人も見つけたというのに、『どうして僕の前から消えたの』という言葉は少々おかしいですね」 錯乱しているのか、或いは、と顎先に手を当てて目を眇めた。 「犯人は彼自身だった、という場合もありそうですか?」 「それだと、犯人に殺されたというのは」 「自殺でしょうね」 紗弓が驚いて聞き返した言葉にもさらりと答えたアップルジャックに、それは穿ちすぎじゃねぇのとぶっきらぼうに吐き捨てたのはフーだった。 「消えたってのは、何で先に死んだんだって恨み言か、若しくはあいつみたいに留まってない事を指してんだろ」 最初から同じように留まってりゃ話は早かったってのによと顔を顰めながら続けたフーに、流鏑馬も何度か頷いた。 「探偵さんの鈴に反応するのが、形見と知っていて羨んでいるなら。それに匹敵する物を持ってくれば、納得してくれるかもしれないわね」 「なら、ここは探偵さんに任せてフーツィさんの家に向かうかい?」 全員離れても大丈夫? と紗弓が首を傾げると、私がここに残りますよとアップルジャックが椅子に腰掛けながら答えた。 「ここに残って暴霊の様子を見ていますよ。何か手がかりが掴めるかもしれませんからね」 「行くならさっさと行こうぜ。いつまでもここにいると、こっちまで湿っぽくなってカビでも生えてきそうだ」 嫌そうに舌を出して悪態をついたフーは、見たくないとばかりにフーツィに背を向けてさっさと部屋を出て行く。追いかけましょうとぽんと腕を叩いて促す流鏑馬に続き、こちらはよろしくと頭を下げて紗弓も探偵の事務所を後にした。 「誰か、二人の知り合いを探してみるのもいいかもしれないわね」 フーツィたちが暮らしていた部屋に向かいながら流鏑馬が呟いたそれに、篠宮も何度か頷いて同意しているのが後ろから聞こえてくる。 「二人の馴れ初めや、ジョカさんがフーツィさんに聞かせた話が分かれば何を探せばいいか分かるかもしれない」 フーツィさんの呟きもよく分からないしと篠宮が続けたそれに、名前なんじゃねぇのと少し先を行きながらリエは投げるように答えた。 「名前? 名前がどうかした?」 「だから、馴れ初め」 その話してたろうがと肩越しに振り返って篠宮に顔を顰めてみせると、流鏑馬もよく分からないと首を傾げた。 「ごめんなさい、不勉強で。名前で何か分かるの?」 「……ジョカってのは元ロストナンバーで、亜細亜地域を気に入ってた。女禍といや中国神話で有名な女神だ。旦那は伏羲(フーツィ)でこっちも対応してる」 女はそういうの、ロマンチックとか運命的って喜ぶんじゃねぇのとどこか皮肉めいて笑うと、二人とも感心したように頷いている。 「女禍と伏羲。へえ。夫婦の神様なんだ」 じゃあそれに関する物かなと篠宮が呟くと、流鏑馬がリエを真っ直ぐに見てきた。 「ひょっとして、あなたは探す物にも見当がついているのかしら?」 自分の半分くらいの年齢だろうリエにも丁寧に話しかけてくる流鏑馬に、惚けようかと思ったが溜め息をつくように答えていた。 「中国じゃ月日の事を烏兎っていう。太陽の使者たる烏と対になるのは月の兎だ」 それで外れてたらお手上げだけどなと肩を竦めると、成る程と篠宮も感心したように頷いている。 「探偵さんの持ってた鈴に反応してたみたいだから、それに関する思い出の品でもあるのかなぁって思ってたんだけど。兎の置物だったりするかもしれないね」 「案外、兎の鈴なのかもしれないわよ」 「つーか、兎じゃなくても知んねぇからな」 決定したみたいに話してるけどとつい口を挟むと、その可能性も心得てるよと篠宮が微笑む。やり辛ぇと口の中でぼやいたリエは、少し足を早めた。 「オレは先に部屋に行って探してる。あんたらは聞き込みでも何でもしてから来いよ」 「っ、フー君、一人になったら危ない、」 「はっ、世間知らずのガキじゃねぇっての!」 それにこいつもいるしと肩に乗せていたフォックスフォームのセクタン──楊貴妃を摘んで持ち上げて見せた。 「あんたらもあんまりトロイ事してっと、置いてくからな!」 「危ないと思ったら、トラベラーズノートでちゃんと連絡してね」 「覚えてたらな」 心配そうにかけられる女性二人の声にひらと手を振って聞き流し、置き去りにするように走り出す。子供扱いされるのもされないのも、どうも調子が狂ってやり辛い。 「上海出身なんだ、中国神話くらい知ってるに決まってんだろ」 なぁ、とつい楊貴妃に同意を求めるように声をかけたが、当然のように返事はない。ただ手に持ってぶら下げられたままふんふんと頻りに鼻を鳴らしている様子に顔を上げ、目的地に着いたのを確認する。 ひょいと放るように楊貴妃を下ろすと、先にとっとっと駆けて目当ての部屋のドアに鼻を近づけている。 「さて。鬼が出るか蛇が出るか、ってか?」 鬼なら当たりだけどなと一人ごちながら扉を開けると、長く閉め切っていた部屋特有のむっとした空気が漂っている。微かに血の匂いが混じっているように思うのは、気のせいだろうか。 とりあえず鼻を鳴らしている楊貴妃を促して中に入り、ぐるりと見回す。 綺麗に片付けられているのは主人の性格が出ているのか、死体を片付けた後に誰かが見かねて片付けたのかは分からない。ただ部屋のあちこちに色んな置物が飾ってあり、どれもあまり趣味がいいとは言いかねた。 「何だって蛇だの蛙だの……」 もうちっと可愛らしいもんはないのかよと顔を顰めて呟きたくなるのは、尻尾が絡み合った二匹の蛇とか可愛げがあるとは思えない蟾蜍(ひきがえる)、黒い塊にしか見えない烏などが棚の上に大事そうに飾ってあるから。 一番手近にあった蛇の置物を取り上げ、鬼じゃなくて蛇が出たって事かと皮肉に考える。 「鏡に拘ってたって事は、その近辺に何かあると思ったのによ」 目につく範囲にゃ見当たらねぇと舌打ちしながら部屋中を探し回るが、見つかったのは小さな手鏡。兎のモチーフがついているわけでもなく鈴っぽくもないが、ジョカの持ち物ではあるのだろう。 「……フーツィが烏なら、ジョカは兎だろ」 金烏玉兎じゃねぇのかよと大きく息を吐き出しながら愚痴るが、部屋中を探して一つも兎に関係する物がないのだからハズレだったのだろう。 「さあ、どうすっか」 がりがりと頭をかいて考えたのは束の間、戻るぞと足元でうろちょろしている楊貴妃に声をかけてその部屋を出た。 先に二人が住んでいた部屋に向かったフーを見送り、明日は篠宮と一緒に近所の住人に聞き込みに向かった。二人の事を教えて欲しいと頼むとあからさまに不審げな顔をされたが、篠宮が寂しそうに笑って言い添える。 「実は私たち、ジョカさんの昔の知り合いなんです。こちらで暮らしていると聞いて訪ねてきたんですが、突然の訃報に驚いてしまいまして……。せめてこちらでどんな風に過ごしていたか、教えて頂けないかと」 元気にしていたかどうかだけでもいいんですがと控えめに告げた篠宮に、尋ねられた女性も警戒を解いたようでそりゃお気の毒にねぇと痛ましげに眉根を寄せて頷いた。 明日は感心してぴくりと眉を上げてしまったが幸いにして相手に気づかれるほどの大きなリアクションではなく、いい子だったのにねぇと話し出す女性に意識を変えた。 「ジョカは元気にやってたよお。恋人のフーツィと、そりゃあ仲がよくてねぇ。片方が死んだらどうするんだいなんて、今思えば不謹慎なからかいもしたもんさ。けど二人ともにっこり笑ってね、その時は鏡に入るから大丈夫って」 あんなに幸せそうに笑ってたのにと目頭を押さえた女性の言葉で、明日は思わず篠宮と目を見交わした。逸る気持ちを抑えて、明日が申し訳ありませんと声をかけた。 「鏡に入るとは、どういう意味ですか?」 「え? 何か違ったかい? 鏡の中に入るんだっけね?」 そう言うんじゃないのかいと首を傾げた女性は、あたしも不思議に思って聞いたんだけどねぇと遠い目をして記憶を辿る。 「それぞれが持ってる鏡に、動物が描かれているんだろう? 先に死んだほうは、それに入って待ってるんだとか何とか言ってた気がするけど」 ジョカの知り合いなのにあんたたちは言わないのかいとまた薄っすらと警戒心を纏った女性に睨むように問われ、躊躇ったのは一瞬。 「出身地が違うもので」 明日が嘘ではない事をきっぱりと断言すると、女性は案外あっさり納得したように頷いた。 「そうかい。そういやジョカは、昔いたところでも変わってるって言われたって言ってたっけねぇ」 「こちらでも、変わって見えましたか」 「そりゃそうだよ、年頃の娘が蛇だの蛙だのの置物を嬉しそうに買ってりゃねぇ。でもまぁ、元気で可愛い娘だったよ。どうして殺されなくちゃなんなかったのかねぇ」 理不尽すぎると頭を振った女性に、ご親切にありがとうございましたと頭を下げるとその場を辞した。 そのままフーも待たせている事だからと本来の目的地だった部屋へと足を向けながら、女性に聞いた話を思い返して篠宮が呟く。 「鏡に入って待つ、か。フーツィさんが言ってた鏡って、それのことかな?」 「それなら、探すべきはやっぱり鏡かしら」 「動物の描かれた鏡……。鏡から逸れたなら、動物のほうかも?」 それならフー君が言ってた兎が正解かなと考え込む篠宮を眺め、明日は少し目を細めた。 「それにしても、篠宮さん、あなた刑事の素質があると思うわ」 「えー、刑事さんはあんな嘘をついたら駄目だよ。私はただの、しがない魔術師」 少しだけ照れたように微笑んだ篠宮は視線を逸らし、あそこじゃないかなと少し先のドアを指した。 「ドアが開いてる……、フーくんが中にいるのかしら」 少しだけ警戒しながらも中を覗くと人影はなく、争った形跡もない。多分、フーはここに来た目的を果たしてさっさと探偵の事務所に帰ったのだろう。 「無用心だなぁ。犯人探しが目的じゃないとはいえ、犯人が見ている可能性はあるのに」 大丈夫かなと心配そうに呟いている篠宮を置いて先に部屋に入った明日は、部屋の様子からフーが既に探し物をしたらしいと見当をつける。誰かが潜んでいる気配もなく、襲われた可能性もなさそうだと察してほっと息を吐く。 ただ拭き取ったのだろうがまだ床にじわりと残る赤黒い物が血痕で、それは敷いていたカーペットに類する物から染み出して残ったのだろうと推測できた。 「惨い様子だったのね……」 死体がそこになくとも見当がつく痕跡に眉を顰めた明日は、犯人を追及したくなる気持ちをぐっと堪えて視線を変えた。 「あの女性が言ってた置物って、これみたいだね」 確かに変わってるかもと棚の上を指す篠宮に釣られてそちらを見た明日は、思わず側に寄ってまじまじとそれを眺める。 「きみょかわ……」 「え? 何か知ってる物でもあった?」 不思議そうな篠宮の声ではっと我に返り、明日は何でもないわと頭を振る。真ん中の蟾蜍の置物が、明日にとってきみょかわストライクだったなんて口が裂けても言わない。 篠宮は不思議そうにしながらも明日が見ていた視線を辿って蟾蜍を見つけたのだろう、うわーと微妙そうな声を出した。 「蛙の愛らしさがあるようなないような……、怖いような愛嬌があるような……」 複雑と苦笑した篠宮は、けれどふと真面目な顔をしてそれを見下ろした。 ひょっとしてと呟いた篠宮は、すっと指を立てて蟾蜍の少し上に翳す。そのままじっとしているのは気になったが、魔術師だとするなら何かしら術を行使しているのかもしれないと黙って見守る。 やがてふっと体勢を戻した篠宮は、大事そうに蟾蜍を持ち上げた。 「やっぱり……、誰か分からないけど霊が入ってる」 「……霊さんって、置物に入れるの?」 ふとした疑問が口をつくと、振り返ってきた篠宮は何度か目を瞬かせた。 「霊さんって……、うん、まぁ、霊魂だし」 「へえ。そうなのね」 「……鏑流馬さんのいた世界には、お化けとか霊魂とか存在しなかった?」 どこか苦笑気味に尋ねられたそれに、何だかざわりとする感覚を密かに自分でも疑問に思いつつごめんなさいと頭を振る。 「そういうの、信じない性質なの」 「……うん、ちょっと突っ込みたい気はするけど今は流しておこうかな」 それでもフーツィさんは大丈夫なのと僅かに語尾上げられ、インヤンガイには霊さんがいるものなのよね? と聞き返すと少しだけ声にして可愛いと笑われた。 最近の娘さんの思考回路は、よく分からない。 「とりあえずそれに霊さんが入っているなら、持って戻らない?」 「そうだね。上手くいけば、フーツィさんの供養にもなるだろうし」 早いほうがいいねと微笑んだ篠宮は、大事そうに蟾蜍の置物を抱いた。 ジョカを探しに三人が出て行った後、探偵の事務所に一人残ったファレルは椅子に腰掛けたまま壁と話すばかりのフーツィの背中を眺めて、つきたい溜め息を噛み殺した。 こういった事は、まったくファレルの柄ではない。ただ話を聞いて手を貸す気になったのは、大事な相手を持つフーツィに僅かばかり同調してしまったからだろう。 (ですが、あまり柄にない事はするもんじゃありませんね) 探偵が犯人だったなら復讐を遂げさせるのもいいかと思ったけれど、どうやら違うらしい。それなら探すのは他の三人に任せて、暴霊が暴れないように見張るくらいしかする事がない。 ただぼんやりしているのも暇で、フーツィを眺めたまま少し離れた場所でぐったりと座っている探偵に声をかけた。 「あの二人が具体的にどういった形で殺されたか、聞かないほうがいいんでしょうね」 「勘弁しろよ。せっかく大人しくなった奴が、また暴れ出すだろ」 あれを止めるのも一苦労なんだと疲れたように答えた探偵は、それよりさっきのと問いかけてくる。 「鈴、どうやって取ったんだ」 「ああ。簡単ですよ、空気の分子を使って、こう」 くいと手を動かす動作だけで目の前のテーブルを持ち上げてみせると、探偵はへぇと感心したような声を出した。 「便利だな」 素朴な感想に思わずくすりと笑い、そうですねと適当に頷いてようやく探偵に視線を変えた。 「あなたは、彼女がまだここにいると思ってるんですか」 「……さあな。正直、自信はない。俺の恋人も殺されたが、暴霊化もせずに逝っちまった。よほど俺に未練がなかったか、一人でも大丈夫と思われたかは知らねぇがな」 誰かを残して逝くだけじゃ暴霊化するには弱いんだろうと独り言のように呟いた探偵は、フーツィに目をやって頭をかいた。 「だが、奴さんは残して逝って大丈夫ってなタイプじゃなかった。生きてる頃からな。彼女が迷って残ろうと思っても不思議はねぇ」 物に宿って残るのはよくある話だからなと服の上から鈴に触れて目を伏せた探偵は、誰かが来た気配に気づいて顔を巡らせた。 戻ってきたのは何故かフー一人で、花のねぇ部屋だなと毒づく足元ではフォックスフォームのセクタンが銜えている手鏡をフーツィの側まで持って行った。足元にそっと置いて戻ってくるセクタンよりフーツィを眺めているフーは、見覚えねぇかよと投げるように問いかけた。 「それ、あんたらの部屋から持ってきたもんだ。ジョカのもんじゃねぇの?」 わざと出したのだろう名前に反応したフーツィは、けれど足元にある手鏡を拾い上げもせず、見下ろしたまま緩く頭を振った。 「ジョカがいない……、ジョカじゃない」 「てめぇんとこにゃ兎がねぇんだから、しょうがねぇだろ」 ハズレだって分かってらと鼻を鳴らしたフーに、フーツィはどこか不思議そうな目を向けた。フーはしばらく黙って眺めていたが、徐に首に下げていたペンダントを外して腕を突き出すようにしてフーツィに突きつけた。 「見ろよ、これ。陰と陽ふたつで一つ、宿命的に組み合わさってる。オレを産んだアバズレの形見だけどよ……」 一瞬だけ複雑そうに視線を揺らしたフーは、けれどすぐにフーツィを見据えて声を尖らせた。 「あんたとジョカもおんなしだ。霊魂だけの存在になったって、この勾玉みてえにお互い離れられない特別な関係なんだろ? 暴霊化したら心底愛しぬいた女の事も忘れちまうんだぜ、ホントにそれでいいのかよ。惚れたの運命だの抜かしたくせにてめぇの愛は所詮その程度かよ」 挑発的なフーの言葉にフーツィは軽く目を瞠り、ああ、とぽつりと呟いた。 「そうだった。こんな事をしている場合じゃない……、ジョカを殺した奴を、殺しに行かないと……」 「どうしてそっちに受け取るんでしょうね」 彼が指摘したまま自分の中からジョカさんを消す気ですかと暴走に備えて立ち上がりながらファレルが口を挟むと、フーツィは虚ろな眼差しでそこにいる三人を順番に眺めた。 「だってもうジョカはいないじゃないか……、僕の馬鹿を諌めてもくれない。僕を見捨てて、どこかに消えてしまった……ああでも見捨てさせたのは憎い、あいつのせいだジョカじゃないあいつが、……あいつが!」 叫ぶフーツィに同調したようにいきなり巻き起こった突風に、フーのセクタンが舞い上がる。咄嗟にそれを捕まえながら、探偵が落ち着けこの馬鹿と怒鳴りつけているが聞く耳は持たないらしい。 「っ、これがてめぇの答えかよ。惚れた女を自分の中から消すなんて……、そんなのてめぇが殺すのと変わんねぇじゃねぇか!!」 ふざけんなと怒鳴りつけたフーの言葉で、フーツィがびくりと大きく身体を震わせた。凄まじい風が吹いて目も開けてられないくらいなのに、何故かフーツィがフーに銃を向けたのだけは分かる。 「お前がジョカを殺しておいて……、何を偉そうに……!」 言葉が終わるや否や、引き金を引いたのが分かる。けれどそれがフーに届く前にいきなり風の向きが変わり、フーツィに吹きつけた風は彼を押し遣って唐突に止んだ。 「フーくん、怪我はない?」 淡々とした様子で声をかけているのは、どうやら今戻ってきたらしい流鏑馬。 抱えるようにして座り込んでいる流鏑馬の腕で我に返ったらしいフーは、離せよともがいて腕から逃れた。けれど背を向ける前に苦虫を噛み潰したような顔で、助かったけどと精一杯らしい礼を口にする。 ぶっきらぼうな態度を気にした様子もない流鏑馬は、よかったと頷くと無茶はしないようにと諌めて後ろから入ってきた篠宮に振り返った。 篠宮はフーツィが風を起こそうとするのをあからさまに邪魔して止めながら、 「せっかく連れてきてあげたのに、あまりの馬鹿に出すのを忘れたらどうするの」 憤慨したように文句をつけながらも、流鏑馬の視線に促されて何かを取り出した。 少し離れて見ていたファレルが、すごいセンスですねと思わず口にしたのはそれが蟾蜍の置物だったからだ。女性が宿る物としてはあまり選びそうにないが、フーツィはそれを見るなり持っていたはずの銃も消して愛しげに手を伸ばしている。 「ジョカ……!」 お前それはないだろうと探偵までが頬を引き攣らせたが、蟾蜍の置物はフーツィの声に反応したように篠宮の手からぽとんと床に落ちた。そこからふわりと何かが広がり、フーツィよりも透けた女性が現われるところを見ると正解だったのだろう。 「ホログラム……、特殊能力」 何だか自分に言い聞かせるような流鏑馬の呟きは聞こえたが、突っ込む間もなく透けた女性──ジョカだろう──はフーツィと愛しげに呼び返して手を伸ばした。けれど頬に触れるなり力一杯捻り上げ、あなたって子はと声を震わせる。 「い、痛い痛い痛いよジョカ、痛い」 「痛いじゃないわ、どうしてもっと早く私を見つけてくれないの! 誰が敵をとってなんて望んだの……、どうしてあなたまで殺されてしまうの!」 どうしてそんな馬鹿な事をしたのと泣き出しそうに訴えられ、フーツィは自分の頬を捻ったままのジョカの手にそっと片手を当てた。 「君が先に鏡から逸れてしまったのに、僕を責めるの?」 「逸れてなんかないわ、先に鏡で待つと約束したのにあなたは私に見向きもしなかった。そうして殺されるなんて、どうしようもない馬鹿よ……」 俯きがちに嘆いたジョカの肩に手を伸ばそうとしたフーツィは、けれど先に伸びてきた彼女の手で無理やり頭を下げさせられている。 「あの、ジョカ?」 「私を連れてきてくれた方たちに攻撃している姿を見た時は、あなたを愛した記憶もなかった事にしようかと思ったわよ、この馬鹿! 謝りなさい、心から。ほら早く!」 小さい子供を母親がそうするようにぐいぐいと頭を下げさせながら、ジョカはようやく彼らに向き直ってごめんなさいねと特にフーに向けて謝っている。 フーツィも自分のした事を思い出して申し訳なさそうな顔になると、押さえられている以上に頭を下げた。 「すまない……、本当に申し訳なかった。頭に血が上って、わけが分からなくなってしまっていた」 「あ? あーまぁ、別に」 怪我してりゃ慰謝料は請求したけどなとぼそぼそと答えるフーは、二人から視線を逸らしつつペンダントを下げ直している。 目を細めて見守っていたジョカは、改めて深々と頭を下げてきた。 「皆さんにも、色々とご迷惑をおかけしました。馬鹿な子の面倒を見るのは、大変だったでしょう」 「ジョカ……」 聞いてて居た堪れないんですがと小声で反論するフーツィを肘で突いて黙らせ──どうやら相当痛いらしく、頭を下げるように身体を折っている──、ジョカはそろそろお暇致しますとにこりと笑った。 「でもジョカ、君を殺した奴はまだ、」 「フーツィ。あなた、また私と逸れたいの?」 もう待たずに先にいくわよと振り向きもしないで遮られ、フーツィは慌てて頭を振っている。それからようやくジョカに寄り添い、君がいるならそれでいいと満ち足りた顔で囁いた。 見てらんねぇとフーが小さく毒づき、結局当てられに来たんですかねとファレルもつい苦笑する。 「もう逸れないように、気をつけて」 流鏑馬がどこかしんみりと声をかけると、ジョカとフーツィは顔を見合わせて幸せそうに笑った。 「ええ、ありがとう。私の旅はこんな形で終わったけど……後悔はしてないわ。あなたたちも、どうか素敵な旅を」 かつての私のお仲間さんたちと悪戯っぽくジョカが笑い、ふわりと光が零れる。睦まじく寄り添った二人はそのまま光が消えると共に見えなくなり、二人がいた場所には烏と蟾蜍の小さな置物が並んでいる。 フォックスフォームのセクタンが鼻を鳴らしてそれを確かめている姿を眺め、フーはちっと舌打ちした。 「そういや、月には兎だけじゃなく蟾蜍も棲んでんだっけか」 そっちにまで気が回ってなかったと拗ねたようにぼやいているフーを尻目に、ファレルは解決したならもう帰ってもいいですかねと誰にともなく尋ねた。 何だか早く帰りたいのは、消えた二人があまりにいい笑顔をしていたからだろうか。 何となく、大事な人に早く会いたい気がした。
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