ひび割れた空を見上げ、唇を引き結ぶ。 ひどい孤独を感じさせる世界だ、と鰍は思った。 夜更けを思わせる濃藍の空は、今にも崩れ落ちそうな危うさを孕み、時折不吉な輝きをまとう星を地上へと降らせる。 星は幾重にも連なって、弧を描きながら地上へと降り注ぎ、禍々しい魔物の姿を取ると、かつて人間たちがつくりあげたのであろう文明の名残を次々と破壊してゆく。 人間がまだ数多く残っている頃は、『星』の最たる標的とされたのは彼らだったそうだが、今はすでにその声が聞かれることもなく、魔物たちはまるで腹いせのように、彼らのつくりあげたものを完膚なきまでに打ち壊してゆくのだ。 何故、『星』たちが世界を壊してゆくのかは判らない。 魔物たちの帯びる狂気の中に、千切れるような哀しみを感じるのは何故なのかも。 最期の、滅びの時を迎えつつある暗い世界を見つる鰍の脳裏には、司書の表情と言葉とが再生されていた。 (数十年間見過ごされてきたロストナンバーの情報が、導きの書に現れた) 彼に、保護を依頼した司書は、もう、この世界には、生きている人間はたったひとりしかいないのだと、そしてその人間とはすなわちそのロストナンバーに他ならないのだと告げて、消失の運命を回避するためにも、一刻も早く0世界へ連れ帰るようにと言ったのだ。 「さて、どこにいるんだ……?」 廃墟となった街を抜け、森へと踏み込む。 獣の声も虫の音も絶え、死を想起させる静謐に満ちた森は、鰍に物悲しさと薄ら寒さの双方をもたらした。 しばらく進むと、崖に囲まれた村落の姿が目に入る。強固な、堅固な門が、崖に挟まれるようなかたちで聳え立っていて、鰍は見事なもんだとひとりごとを漏らした。 と、 「――誰だ」 その呟きが耳に届いたのか、それとも気配で判ったのか、門の影から独特の衣装をまとった青年が姿を現し、門を塞ぐようなかたちで鰍と向かい合う。 青年の顔――というよりも目元全体が包帯で覆われているのを見て、鰍は眉根を寄せた。 「目……」 「?」 ぽつりと漏れた言葉に、青年がどこかあどけない仕草で小首を傾げる。 「いや、目、どうしたんだ、それ。――不躾な質問ならすまねぇ」 ロストナンバー本人の情報はほとんどなかった。 だから、かえってその痛々しさが際立った。 「ん、ああ……いや。この村の一員となるために差し出しただけだ」 「差し出した? 村の連中がそんな非道を?」 「違う」 「うん?」 「――俺は、『星』だ」 「何だって?」 話が飲み込めず、鰍が首を傾げると、青年は口元をわずかに笑みのかたちにした。 「俺は、空から降り、ヒトの姿を取った異形のものだ」 見えずとも感じることは出来るのか、青年が空を見上げる。 「だが、ここの人々はそんな俺を受け入れてくれた。俺は、彼らに報いるために、そして人として生きるために、『星』と決別すべく目と記憶を差し出した。ゆえに、今の俺には、光も、過去の記憶もない」 「そうだったのか……、……ん? 待て、じゃあこの世界に来るまでのことは、」 「? 無論、この村での日々が俺の記憶のすべてだ。そもそも、『星』である俺に他の記憶など」 「いや、違う、違うんだ」 「……?」 齟齬の理由に気づき、不思議そうに小首を傾けている青年に、鰍は語った。 真理数のことを、ディアスポラ現象のことを、覚醒する意味を、ロストナンバーとは何であるのかを、0世界と世界図書館に関する諸々を。――そして、消失の運命のことを。 「たぶんあんたは、そのディアスポラ現象を『星』の発生と見間違えられただけなんだよ」 青年は、鰍の言葉をじっと聴いていたが、 「……しかし、それは、」 俄かには信じ難いのか、それとも思い当たる節があって言葉を失っているのか、 「だから、なあ、0世界に帰らないか」 鰍の、そんな誘いにも首を横に振るばかりだった。 「だが、」 「あんたの名前を尋ねても?」 「――鰍だ」 「そうか……俺は、歪だ。鰍、来てくれてありがとう、久しぶりに人と出会って、話せて、嬉しかった。もう、十何年も、誰とも言葉を交わしていなかったから、尚更」 「歪、だったら」 「――ここにはもう誰もいない。俺は、彼らを護れなかった。だが、例え彼らがいなくとも、この門を護ると誓った……俺は、この地の門番だから。せめて、そのくらいは、果たしたいんだ」 きっぱりと言って、青年――歪が静かに微笑む。 顔の半分を包帯で覆われていても端正と判る面立ちが、穏やかな、童子めいたあどけない笑みを孕む様子に、鰍は胸をつかれた。 ――歪は、この世界に殉じるつもりでいるのだ。 自分を受け入れてくれた人々の亡骸の眠るこの地で、彼らの墓標を護って斃れる覚悟でいるのだ。 それが、初対面の鰍にも判った。 「せっかく来てくれたのに、すまない。ここは危険だ……一刻も早く、立ち去った方がいい」 堅い意志を感じさせる言葉に、説得が難しいことを悟るものの、鰍とて引き下がるわけには行かない。彼が引き下がることは、すなわち歪の消失を意味するのだから。 光を、名を、過去を失ってまで滅びた世界を護り続ける、愚直で真摯なこの青年が、『何もなかった』ことにされるのは嫌だ、と鰍は思うのだ。 「なら、少しだけこの村を見せてもらってからにしてもいいか?」 「構わないが……酔狂だな」 「あんたが護りたいと願う場所を、見てみたいってだけさ」 「……そうか、なら、存分に。俺も、誰かがこの場所のことを覚えていてくれるのは、嬉しい」 口元を綻ばせる歪にかすかな笑みを向けた後、村へ踏み込む。 そこは、緑の楽園と化していた。 人が絶え、道の整備をする者もなく、植物の栄えるに任せてあるからだろう。 ひび割れた空から漏れ落ちるわずかな光に、百合に似た白い花々が輝くように咲いている。――花が咲いているということは、今は、本当はまだ夜ではないのかもしれない。 「植物は、健気だな」 絹のような手触りの花に触れ、立ち昇る芳香に目を細めて呟く。 滅びに瀕した世界で、空がひび割れ昼夜をなくした世界で、そればかりが己が在り方だとでもいうように茂り、栄え、花を咲かせる。 「まるで、あいつみたいじゃねぇか」 それは、住民の絶えた村落で、頑なに門を護り続ける不落の門番にも似て、せつなくも愛おしい。 「どうにかして、やりてぇけど」 廃墟と化した木造りの家やわずかに残る街並み、そこに確かにあったであろう営みに思いを馳せつつ、記憶に留めながら、植物に覆われたかつての大通りを歩くうち、広場のような開けた場所に出た。 そこには、無数の剣が突き立ち、砕けた剣の破片があちこちに散らばっていた。 満ちる、荘厳な祈りと哀しみの空気。 「……墓か、これは。あいつが、つくった、のか?」 ひとり、またひとりと喪われてゆく人々を悼み、護れなかったことを苦悩し、無力感に苛まれながら、彼はひとりでこの墓をつくり、今も護っているのだろうか。 そして、ここに眠る人々に殉じ、ともに逝くつもりでいるのだろうか。 「……」 この世界は、歪にとってやさしかったのだ。 彼が、我が身を投げ出して悔いない程度には、歪の寄る辺たり得たのだ。 しかし、だからこそ、このまま彼を喪わせてしまうわけにはいかない、と、『墓』の傍らに佇んで思案する鰍の耳を、 しゃらん、しりん、りぁん。 哀しげに澄んだ、高い音が打った。 「何だ?」 りぃん、しゃあん、しゃらあん。 見渡せば、それらは、広場に散らばる鋼の欠片が立てているのだった。 原理は判らない。 原理などあるのかどうかも定かではない。 ただ、それを恐ろしいとは思わなかった。 何故なら、鋼の立てる物悲しい合唱の合間に、 (ヒズミ) (――歪) (私タチノ、愛シイ護リ手) (スマナイ、アリガトウ) (ゴメンネ) (ゴメンナサイ、アリガトウ) (俺タチノタメニ、戦ッテクレテ) (私タチノタメニ、血ヲ流シテクレテ) (今モズット、僕タチヲ想ッテクレテ) (ゴメンネ、アリガトウ) (大好キダヨ、アリガトウ) (――アア、ダカラ) (――アア、ドウカ) (ドウカ、生キテクレ) (私タチノ分マデ) (俺タチノ分マデ、ドウカ) (生キテ、ドウカ、幸セニ) (私タチハ、アナタガイテクレテ、幸セダッタカラ) 幾つもの言葉を、想いを、垣間見たからだ。 ただひとり残された同胞を案じる、今はもう喪われた人々のまごころを。 「あんたたちも、そう思ってるんだな」 呟き、鰍は拳を握り締めた。 同時に、何かを決意した目で踵を返し、門へ向かって走り出す。 ――そこは、戦場になっていた。 獣とも爬虫類とも蟲とも魚とも取れぬ、おぞましい、しかし何故か痛切な哀しみを感じさせる異形の群と、歪が渡り合っている。門を破り、残された村落を破壊しようと咆哮する『星』たちを押し留めんと、歪は我が身を盾に踏ん張っている。 歪の剣が異形の胴を裂く間にも、異形の爪が歪の頬に赤い筋を刻む。牙が歪の腕に埋まる。 戦いの腕は格段に歪が上だが、多勢に無勢だ。 歪はあっという間に血塗れになっていく。 白い、アイヌ文化を思わせる独特の衣装が、赤い血で染まっていく。 足元に群がった異形の、槍のような鋭い爪が、歪の太腿を、ふくらはぎを貫く。 それでも、歪は、我が身を以って、頑なに門を閉ざし続けた。 まるで、それだけが、生きる意味なのだとでもいうように。 「――もういい」 鰍は我知らず漏らしていた。 「もういいんだ、歪」 そして、歪と異形の間に飛び込むと、 「!? 鰍、」 「……黙ってろ」 驚愕の息を吐く彼を肩に担ぎ上げ、 「鰍、何を、――放、」 「ホリさんごめんよろしく!」 フードの中で眠っていたセクタンに声をかけるや否や、走り出した。 やれやれといった風情で顔を覗かせたフォックスフォームのセクタンが、追い縋る異形たち目がけて狐火を放つ。 火は、驚くほどの勢いで――もしかしたら、村人たちが力を貸してくれたのかもしれない、とは思う――燃え盛り、異形たちを包み込んで辺りをあかあかと照らし出した。 それを確認することもなく、ただ追っ手がなくなったことだけを理解しつつ、歪を抱えたままで一気に森を、山を駆け下りる。 「鰍、待て、俺は――やめてくれ、俺は、残らなくては!」 もがき、悲痛な声を上げる歪を、どこにこんな力があったのかと自分でも驚くような怪力ぶりで押さえ込み、抱え上げて、ロストレイルまで走り抜ける。 「頼む、鰍……!」 「――俺を恨んでも、憎んでも、構わねぇ」 列車へ乗せられる時、何度か抵抗しようとした歪も、鰍のその言葉に息を飲み、口を噤んだ。 鰍は、無言のままロストレイルへと歪を押し込み、自分もまた乗り込む。 すぐに列車が走り出し、――そして鰍は見たのだ。 「!?」 ひび割れ、砕けてゆく空と、崩れ落ちてゆく大地を。 ――滅びてゆく、ひとつの世界を。 「な……」 文明の亡骸と、哀しい異形と、健気な緑を飲み込んで、世界が砕け散る。 音もなく、静謐に、劇的に。 ただ、無の闇黒へと飲み込まれてゆく。 「こんな、まさか」 ひとつの世界の終焉を目の当たりにして呆然とする鰍の傍らでは、 「……生き残って、しまった」 唇を噛み締め、歪が苦悩している。 「鈴兼を離れて、生きる意味を、どこに見い出せと……?」 それは、護れなかったこと、殉じることが出来なかった己への悔恨だった。 理解出来ない感情ではなかったが、 「そうじゃねぇ」 今は亡き人々の思いを知る鰍は、かすかに震える歪の背を撫でる。 「……?」 「陳腐なことしか言えねぇけど。生きる意味なんてこれから考えりゃいいんじゃねぇのか。――おまえがいなくなったら、あの村のことを真実伝えられる奴がいなくなっちまうだろ」 鰍の言葉に、歪は項垂れ、俯き、 「――……そうなんだろうか。まだ、俺には、判らない」 それだけ言って、拳を握り締めた。 「そうなるようにするんだよ。それが、残った奴のつとめなんだろう」 鰍は、震える歪の背を撫で続けた。 そのくらいしか、してやれることを思いつかなかった。 * * * * * 「……なるほど、お前たちの出会いにはそんな事情があったのか」 永遠のたそがれが続く記憶の森で、説明を終えた鰍は不思議な茶器を手に取った。 深い青に輝く、どこか温かな手触りの器には、今までに飲んだどの茶とも違う、爽やかだがどことなく懐かしい風味のある、やさしい薄紅色の液体がなみなみと注がれ、湯気を立てている。 「まあ、うん、色々あったわけよ」 想彼幻森を司る黒羊の化身、一衛の言葉に頷き、茶を啜る。 「今では可愛い義弟ということか」 「そそ、そういうこと。もうひとりの子もだけど、なんつの、放っておけないし、可愛いし、毎日幸せみたいな」 弟馬鹿全開の鰍に、 「なるほど、ならばその出会いは幸運だったに違いない」 ビー玉のような質感なのに、口に入れるととろけて極上の蜂蜜のような味わいになる菓子を薦めつつ、一衛が歪を見遣る。 「歪、お前は、どうだ?」 「――そうだな。今でも故郷と分かたれたことは苦しく思う、が」 「が?」 「その苦しみを、鰍や友人たちがやわらげてくれる。感謝すべきことだろう」 今日も、覚えていないのに記憶にある『誰か』の手掛りを求めて想彼幻森を訪れていた歪は、生真面目に、律儀に、同時に嬉しそうに応えて、茶器を口元へ運んだ。 「はは、そりゃよかった。俺も、冥利に尽きるってもんだ。で、歪、今回はどうだったんだ? 何か、判ったのか?」 「いや……」 「そっか。まあ、地道にやるしかねぇよなぁ」 「ああ、そう思う」 その『誰か』に会いたいがために0世界に留まっている歪だ。 「まあ、手伝うからさ」 「ああ、ありがとう鰍。おまえには、いつも世話になりっぱなしだな」 「気にすんなって、俺はそれも楽しいんだから」 健気な歪に、鰍がああもうホントこいつ可愛いなあ、などと目尻を下げていると、 「……私には、どうも、お前が匂うんだがな」 唐突に、一衛がそんなことを言った。 「え、何、何の話? 匂うって……普通に風呂も入ってるし洗濯もしてるんだけど」 「そうではなく、歪の探し人のことだ」 「へ? いや、俺知らねぇし」 「だが、匂う」 「えー、知らねぇってー。だってタマなんて知り合い、俺いねぇもんよ」 「ふむ……では、なんだろうな、この感覚は。アエテルニタス辺りに頼んで記憶を搾り出してもらったら何か判るかな……?」 「搾り出すって表現が微妙に怖い!? 歪もそんな期待の眼差しで見ないで、お兄さん『じゃあちょっとやってみようかな』とか思っちゃいそうだから!」 「そんなに痛くないはずだから大丈夫だ。たぶん」 「あんたの『たぶん』は信用できねぇんだよ……!」 気づいたら搾り出されてそうだ、と戦々恐々としつつも、ふたりのやりとりが面白かったのか歪が笑っているのを見て、まあいいかと鰍は苦笑する。損な性分だとは思うが、歪が笑ってくれるだけで安堵するのだから仕方ない。 このままでいいとも思う。 あの日の、あの邂逅、託された願いを覚えているから。 (……判ってる、全部) そこに自分の想いを載せて、今日も鰍は歪に笑いかける。
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