「俺がお前を終わらせてやるよ」 鈍くきらめく刃の向こう側で、銀の髪の彼がささやく。 紫の双眸は鋭い光を宿していたが、同時に、隠し切れない真摯さを熱っぽくにじませてもいた。 跳ね上げられる仕込み剣をかわし、驚愕と動揺の眼差しで見やれば、 「お前を殺して、終わらせて、お前の苦しみをすべて、拭い去ってやろう」 彼は紛れもない親愛の表情でまっすぐな視線を寄越した。 彼が、ただただ、まことのみでこれをなしているのだと気づき、胸が痛くなる。 歪んで狂った渇望に衝き動かされているのだとしても、彼の根底にあるのは自分への愛なのだと痛切に思い知らされて。 「――お前を、救ってやりてェ」 己へ向けて掲げられる剣は、むしろ差しのべられた手のように思えた。 * 想彼幻森は今日もあまたの想いを色彩に載せて実らせながらゆらゆらと輝いている。 「さて、今日は何か、見つけられるかな……?」 いつものように、歪はシャンヴァラーラの一角、異端の【箱庭】たる『電気羊の欠伸』を訪れていた。 夢に――失われたはずの記憶の端々に映り込む出逢うべき『誰か』、その相手の手掛かりを求めて、彼は森を分け入るのだ。 なぜならここは記憶のみのる森。 かのひとを想う、あの日の幻に出会う場所だ。 「お前はどこにいる? 今日こそ、その片鱗なりと見せてくれ」 顔も声も、名前も年齢も、何ひとつとして判らないのに確かにいると知っている『誰か』。自分を受け入れてくれた転移先、第二の故郷と呼び民がすべて死に絶えたあとも守り続けた世界の崩壊後、歪が殉ずることなく生きる道を選んだのは、その『誰か』に出会いたい一心だった。 「俺は――……」 『誰か』への言葉を重ねながら森を行く。 誰かのために実る果実が、馥郁たる香りをこちらへと寄越すが、それは歪を呼ばない。彼のための果実ではないのだ。 「しかし、今日は妙に多い……?」 目は見えずとも、日常生活にも戦いにも差し支えない程度にはほかの感覚に秀でた歪である。彼の、暗闇で覆い尽くされたはずの世界には、今、収穫期の果樹園もかくやという数の記憶の果実が映っていた。 赤、青、黄、橙、桃、朱、紫、緑、白、金、銀。 さまざまな色合いの果実が、穏やかな、静かな光を宿して輝いている。 「見事、と言うべきなのか、これは。どうにも、もの悲しいが」 閉ざされた瞼を貫いて送り込まれるやわらかな色彩がどこかせつなげなのは、この場所の特性というべきなのかもしれない。 と、 「どうも魂真風(たまかぜ)の影響らしい。あれが吹くと境界が曖昧になってたくさんの記憶が流れ込む。森に肥料をやるようなものだ」 抑揚に欠いた言葉とともに、唐突に地面から夢守が生えた。 黒羊プールガートーリウムの領域内をその化身が自由に行き来するのは当然のことでもあるのだが、慣れぬものの心臓には優しくない登場の仕方だろうとぼんやり思う。 「一衛か……あんたの登場はいつも奇抜だな」 「そうか? 夢守としては普通だと思うが……まあ、それはいい。また果実を探しに行くのか、歪」 「ああ。何か問題が……?」 「魂真風の影響が続いている。今日の想彼幻森は格別吸引力が強い。強く思う相手がいるものほど、引き寄せられやすいだろう」 「ああ……それはつまり、先日のような?」 「そうだ。誰かの記憶に引きずられて閉じ込められてしまわぬよう、気を付けて進め。ここは確かに望むものを与えてくれるかもしれないが、決して帰着すべき場所ではないのだから」 不穏当なものを感じ取っているのか、一衛の言葉にはいつもより緊張感がある。 「私も、なるべく見回るようにはするが」 「……いや、ああ、大丈夫だ。立ち止まるためにここにいるわけではないと、自分でも判っている」 危惧がなかったわけではない。 何せそれは、今の歪を生かす最大の意味であり糧だ。 強く呼ばれて引き寄せられない保証はどこにもないが、しかし、だからといって、一衛を子守のように引き連れて歩くわけにもいかないだろう。 「すぐに戻る。大丈夫だ」 自分にも言い聞かせるようなそれに、一衛は小さくうなずいた。 「なら、いつもの場所で茶と菓子を用意して待っていよう。――くれぐれも、気を付けて」 その言葉とともに、夢守の姿が地面ににじむように消える。 登場と同じ唐突な退場に微苦笑し、歪は森の奥へと足を向けた。 そして、果実の『声』に耳を澄ませながらゆっくりと歩き始める。 (引き寄せられ、引きずられる、か……) 妙な予感があった。 今日、この日に、確かに出会うと。 ――それは、すぐに訪れた。 ( !) 名を呼ばれた。 強く強く、彼を求める声に。 「!」 『誰か』だ、と、確信した。 踵を返すのももどかしく走った先には、銀と紫に彩られた神秘的な果実。 どこか懐かしい芳香が歪の鼻腔をくすぐり、 「――……!」 手を伸ばし、触れた瞬間、彼の意識は暗転した。 ぽちゃん。 そんな水音が響いたような気がしたが、定かではない。 * 記憶が、意識が巡る。 一番世界によく似た街並み。 そこで起きる、摩訶不思議で騒がしい数々の出来事。 多様な人々、たくさんの戦い、悩み苦しんで深められた絆。 (なぜ、俺は、懐かしい……?) 歪は誰かの記憶の中にいた。 目線の位置からして男性であるらしい。 その彼が向き合う青年の姿を目にして、自分が誰の記憶を見ているのか知った。 (あれは……『俺』……?) 先だって、最初に想彼幻森を訪れた時に見た顔だ。 一筋だけが銀の色をした黒髪の、どこか無垢な雰囲気を持った青年。それは、『壱衛』の記憶にも出てきた、歪が今の歪になる前の自分自身に相違なかった。 その青年に向けて、記憶の主が剣を抜く。 青年は戸惑いながらも彼の撃ち込んだ刃を受け止め、 『どないしたんじゃ、ミゲル! なんやおかしいぞ、おまえ!』 呼ばわるが、応えはない。 ただ、次の刃が青年を襲うだけだ。 『ミゲル……ッ!』 青年の、『歪』の呼び声に返る、 「俺がお前を楽にしてやる」 苛烈な言葉。 苛烈な殺意。 そして、切ないまでに強い渇望と願い。 これが終わったら自分もともに眠ろうと、おまえのいない世界で生きているつもりはないと、魂の奥底に秘められた覚悟。 (ああ、) 記憶の主の心の中は、『歪』でいっぱいだった。 厳しくゆがみ、ただ彼を生命の重圧から解き放とうと苛烈に猛っていたが、それは心の底から『歪』を想ってのことだと判った。 魂の奥深くに根付いた『渇望の棘』に毒されて狂いながらも葛藤し、何かがおかしいと、本当の望みはそれではないのだと、自分を止めたいと心だけで叫んでいる。その慟哭が、歪にもひしひしと伝わってくる。 (そうか――……おまえが) 気づいた。 否、おそらく、最初から気づいていた。 この男こそが、歪が命を懸けてでももう一度逢いたいと願った『誰か』だと。 『もう苦しゅうないんじゃ、ミゲル。――いや、苦しいんも俺じゃいうて、気づいたんや。お前かて、それを手伝うてくれたんやないか』 青年の真摯な言葉に胸を打たれつつ、彼の気持ちが変わることはない。 抜き放った仕込み剣が宙を舞い、鋭くも流麗な動きで青年を襲う。 想いと覚悟の乗った剣は重く、そして速かった。 『俺のために、俺を殺してお前も死ぬいうんか、ミゲル!』 受け止めた剣で押し合いながら、金属のこすれぶつかり合う耳障りな音をBGMに鬼気迫るやり取りが繰り返される。 青年の剣は男にたやすく見切られ、逆に男の剣は紙一重で避けられた。 互いに、互いの戦いの癖を知り尽くしているからこそ、勝負はなかなかつかない。 男が行使する不思議の力が戦いの決着をさらに難しくした。 彼が慣れた手つきで陣を描くたび、それらは火の蛇に、風の刃に、雷の鞭に、岩の杭に、闇の剣に、水の針になって青年を襲った。 焼け爛れた翼のイメージが脳裏を翻り、歪は男の記憶の中で眉をひそめる。 それがいったいなんであるのか、判らないのに覚えている。 あれは彼の片鱗、彼の聖性の残滓だと。 『ちぃと痛い目に合わせるが、勘弁してくれよ……!』 一瞬の隙をついて男の背後へ回り込んだ青年が、彼の背中で刃を引いたその瞬間、歪は理解した。 意識がすべて白紙にされそうな激痛。 あの時、それを感じたのは男だけだったが、今は違う。 切り落とされたものがなんだったか、歪は知っている。知っていることに、微塵の疑問も抱いてはいない。 (あれは) 不可視の、不可触の、神性の翼。 彼を止めるにはこれしかなかった、と、歪の中の知らない歪がささやく。 堕ちた神の、神としての残滓を切り落とされた時に彼が味わった激烈な痛みに――こんなにもひどい痛みだったのかと、失ったはずの記憶の中で申し訳ない気持ちにすらなった――、目の前がちかちかと瞬いて、ふっと意識が遠のいた――……そう思った瞬間。 ( ――ッ!!) 誰かが、歪の名を呼んだ。 遠い日に失った、真実の名前を。 拡散しかけた意識では、それを言葉として捉えることはできなかったが、確かに呼ばれたと確信した。 そして、それと同時に、 「まったく、困ったものだ」 響いたのは、やや呆れを含んだ夢守の声。 「想彼幻森で遭難はやめろと、いったい何度言えば?」 その言葉とともに手首をつかまれ、強引に引っ張り上げられる。 奇妙な浮遊感に、意識が暗転した。 * 正気を取り戻した時、目の前には同居人がいた。 そして、明らかに同居人でも一衛でもない気配がひとつ。 「一週間も戻って来ねぇからホント心配したんだぞ!」 過保護な、というか歪を溺愛している風情のある同居人に怪我や不調を確かめられる間、彼はその気配に釘付けになっていた。 同じくらいの身長、年ごろの――といっても、歪にとっても相手にとっても、外見などというものがどのくらい判断材料としての意味をなすのかは判らないが――、手練れと判る雰囲気を漂わせた男。 見えずともわかった。 『誰か』だと。 忘れた、失ったはずの記憶が叫ぶ。 この気配を忘れるはずがないと。 目の前に立つ相手こそが、探し求め逢いたいと渇望し再会を希った人物だと判る。 彼の髪が癖の強い銀で、彼の瞳が濃く鮮やかな紫だということまで。 「お前……」 どこかためらいがちに投げかけられる言葉に、歪は笑った。 穏やかな、安堵にも似た笑みだった。 「遅い」 それだけ言って、待つ。 巡り廻る運命の帰着が果たされようとしているのを、肌で感じながら。
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