「探検に行かないか?」 贖ノ森 火城はそう言ってチケットを取り出した。「行き先は、シャンヴァラーラの【電気羊の欠伸】だ」 それは、『羊』と呼ばれる極彩色の神の夢によってかたちづくられ、その化身『夢守(ユメモリ)』が護る、シャンヴァラーラで一番異質な【箱庭】だ。 無機と有機が境目をなくした、空を持たないその【箱庭】では、鉱物の樹木に甘い果実がみのり、エーテルの河が滔々と流れ、宝石の小鳥がさえずっては堕ちて来る星をついばむ。 住民の大半は鉱物から派生した金属生命体で、ヒトの姿をしてはいるものの、たとえば壱番世界の住民たちから見たとしたらとてつもなく異質に映ることだろう。「知っているものもいるとは思うが、あそこにとっては帝国の侵攻すら些細な出来事に過ぎん。あそこの夢守たちは容赦がないそうだから」 何がしかの事情、理由、目的を持って、シャンヴァラーラの【箱庭】を我が物としてゆく至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレ。その指導者である現皇帝クルクス・オ・アダマースから三代以上前の皇帝が何度も挑んでは敗れ、ついには手段を変えざるを得なかったのがこの【電気羊の欠伸】なのだ。「今回の訪問の名目は、【電気羊の欠伸】を……ひいてはシャンヴァラーラをさらに理解するため、ということになっている。だからまあ、好きなように行動して、いろいろ体験してくれればいい」 ただ、と火城はそこで言葉を切り、「特別な探しものをしたい、特別にほしいものがある、という者は、『数持ち』たちを探すといい。『数持ち』は羊が特別に我が身を削ってこしらえた化身だ、その力のほとんどを受け継いでいる」 ――現実と幽玄夢幻の境目が曖昧なあの【箱庭】なら、トコヨすら容易く覗けるかもしれない、そう独り言のように口にしてから、「もっとも、その場合は彼らの居場所まで辿り着き、彼らと交流ないしは交渉をして目的を果たさなくてはならないが」 羊と夢守の名が書かれたメモを指し示した。 黒い羊はプールガートーリウム、夢守は一衛(イチエ)。 黄の羊はテッラ、夢守は二桐(フドウ)。 金の羊はゲンマ、夢守は三雪(ミソギ)。 緑の羊はナートゥーラ、夢守は四遠(シオン)。 青い羊はアクア、夢守は五嶺(ゴリョウ)。 赤い羊はイーグニス、夢守は六火(リッカ)。 紫の羊はアエテルニタス、夢守は七覇(ナノハ)。 灰の羊はカリュプス、夢守は八総(ハヤブサ)。 銀の羊はフルゴル、夢守は九能(クノウ)。 白の羊はアーエール、夢守は十雷(トオカミ)。 それぞれがそれぞれの属性を、司るものを持ち、巧く接触出来たものに、己が属性の範囲内ではあるが、強大な力を持った様々な品や技術を与えてくれるのだそうだ。 そのうち、金の羊ゲンマは鉱物と文化、知識を。 青の羊アクアは水、河や海、流れや液体、癒しを。 紫の羊アエテルニタスは時間と普遍、不変と流転を。 白の羊アーエールは大気、天候、空間を司ることが、以前の訪問で判っている。 要するに、羊は、名前から連想される事柄の関連事象、並びにその両極を司るということらしい。 宝石であるならば、それを宝石と認識する文化や知識を。 水であるならば、それに関わるさまざまな事象をも。 空気であるならば、包み込むすべての事柄を。 永遠であるならば、刹那も。 ――そういうことなのだろう。「物見遊山でも構わない。知識や経験を求めていくのもいいだろう。だが、もしも求めるものがあるのならば、己が願いを託すに相応しい羊がどれなのか、しっかり見極めて探したほうがいいかもしれないな」「それだけ? ほかには……その、世界を救うための技術を探して来い、とか」 トコヨの棘、《異神理(ベリタス)》。 正体不明の悪意が、ひとつの【箱庭】を呆気なく砕いたことを覚えているものも少なくはないだろう。 それゆえの問いに、火城は微苦笑を浮かべた。「確かに、【電気羊の欠伸】なら何か有用なアイテムが存在するのかもしれないが、正直なところ、なるようにしかならん。皇帝と側近が大々的に情報を公開しない以上、こちらから派手に動くことは出来ないだろう。夜女神にも、過剰な干渉は出来ないと伝えてあるからな」 女神ドミナ・ノクスの願う、シャンヴァラーラの民の幸い。 どうにかかなえてやりたいが、とつぶやく火城の眼はどこか遠い。「……まあいい。『電気羊の欠伸』は奇妙だが興味深く、実を言うととても平和な【箱庭】だ。奇妙な連中が多いが、夢守たちと関わるもよし、住民たちの話を聞くもよし、変わった食い物を試させてもらうのもいいだろう」 そう言ってから、ただし、と付け加える。「帝国や華望月とは違って、ここの連中は感覚的にあんたたちが異質な存在だということを理解している。それは、自分たちが異質であることを知っているからだ。――要するに、『電気羊の欠伸』は【箱庭】の中でも突出した特異さを持つ異世界中の異世界だ。常識では考えられないようなことも起きるだろうから、充分に気をつけてくれ。無茶をして出て来られなくなった、なんてことにならないように」 では、健闘と旅の安全を祈る。 そう締め括って、火城はチケットをひとりひとりに手渡したのだった。
1.緑羊 「広大な世界を駆け上がるってのも悪くない」 “流星の”ライフォースが選んだのは緑の羊ナートゥーラだった。 緑多き世界に生きるケンタウロスには、それが一番身近に思えたのだ。 「しかし……変わったところだな」 ライフォースは、緑の名を冠した羊なら、森や平原の力を司るだろうと思っていた。事実、ライフォースにとって緑とは森のことであり平原を彩る色だからだ。 「この階層のどこかに羊がいるのか? ……相当骨が折れそうだ」 緑羊ナートゥーラの領域へとやってきたライフォースは、階層のだだっ広さに唖然としつつも、ケンタウロスの健脚を活かして内部へ踏み込み、あてどなく走り始めていた。 不思議な、静かな、どこまでも続く緑の世界を行く。 終着点すら見えない大地には、金属光沢のある岩や木々、花々があって、奇妙で非現実的な、それなのに『生きている』と判る光景が広がっている。 大地を覆うのは土ではなかった。 ライフォースには材質すら判らない、微細な金属の粒がこの世界の『土』だった。植物は、その『土』に根付き葉を茂らせているのだ。 「どこまで続くんだ、これ」 どれだけ、真っ直ぐに進んだだろうか。 あまりの広大さに、いつになれば目的の場所に辿り着けるのか、目当ての相手と出会えるのかと熟考に入りかけ、 「……まあ、たとえ広くとも無限ではないな。とりあえず探そう」 考えていても仕方がない、と再び走り出す。 しかし、 「あの、ごめんなさい。この階層に果てはないんです。ここは永遠に続く緑相連続体なの。『電気羊の欠伸』の有機金属緑生体は、すべてここから生まれて旅立ってゆくのよ」 不意に声が響き、ライフォースは驚きとともに立ち止まった。 「お前……いつの間に……?」 傍らを見やれば、そこには、初夏の陽光を浴びて輝く新緑のような髪と、不思議な形状の瞳孔のある、黒曜石のように光沢のある黒の双眸を持つ少女が佇んでいる。 その背後にいる、鮮やかな緑色の毛皮をまとった羊がナートゥーラだろう。 「植物と実り、安らぎを司る緑羊のもとへようこそ、お客さま。わたしはナートゥーラの化身、四遠。あなたのご訪問を歓迎します」 小柄で華奢な少女の姿をした化身は、彼が『緑の羊』に対して抱いていた予想とは少し違うことを口にして、穏やかに微笑んだ。 四遠と名乗った彼女は、明らかにヒトのかたちをしていながら生き物の気配を持たない、不思議な存在だった。身体にぴったりと添う、ゴムと絹を混ぜ合わせたかのような漆黒の衣装を――後にそれをスキンスーツと呼ぶのだと教わった――身にまとっている。 身体のあちこちにソケットやプラグ、コネクタがあり、またあちこちからチューブやコードが伸びていて、それらが彼女から生き物としてのにおいをなおさら遠ざける。 「ははあ、おまえたちが夢の羊と夢守ってやつか。オレはライフォースだ、よろしくな」 とはいえ、人外の存在に対してわだかまりやこだわりがあるわけでもなく、屈託なく挨拶し、本題に入った。 「世界を壊した『棘』ってのがここにも存在する可能性があるんじゃないかって聞いて来たんだ。あとは単純な興味だな」 「はい、夜女神より伺っています。だけどそれはナートゥーラと私の司る領域ではないのです。深部ならば、プールガートーリウムと一衛の仕事だわ」 「なるほど……じゃあ、そっちに行ってみるか。気がかりだしな。案内とか、頼めるのか?」 「もちろん、喜んで。あとは……そうですね、せっかく来られたのだから、何か『お土産』でも?」 四遠の提案に、ライフォースは小首をかしげた。 「土産か……そうだな、オレとしちゃ、頑丈な木でできた弓矢と槍がほしいとは思うが」 「まあ、無欲なかたなのね。それなら、永代銀樫で槍を、鋼櫟で弓をつくりましょう。どちらも、この緑相連続体でしか見られない貴重な樹木です。きっとあなたを助ける力になってくれるわ」 「そうか、それはありがたいな。なら、頼む」 無欲と言われたがライフォースにとってはうれしい贈り物だ。 これだけでも来てよかった、と思いつつ、羊と化身に導かれて次なる階層を目指す。 2.赤羊 「黄は電気、緑は植物、生命……赤は火や炉? 精製ってことかな? 黒と灰色はなんだろ……灰は創造、思考? 想像でもある? 黒は、単純に考えれば闇、夜。もしくは……棘、とか?」 小竹 卓也は思考を展開しつつ赤い羊のもとへと向かっていた。 どの色の羊に会うか、散々悩んだ末のことである。 「そりゃさー、出来れば全部の羊に会いたいけどさー。でも、二兎を追うもの一兎をも得ずっていう言葉もあるくらいだしさー?」 卓也が悩んだのは、自分が現在持っているアイテムを製錬してもらうのに一番ふさわしい羊がどれなのか判らなかったからだ。彼には、とある異世界で仕入れてきた『俺の嫁』こと竜の手袋を鍛えてほしいという望みがある。 「全身竜化出来るように、とか。そんなアイテムとか。あったらいいのにな~」 想像するだけで顔がにやける。 「あっいかん、妄想がふくらんで来た」 竜の手袋が強化されて、あんなことやこんなことまで出来る様を妄想し、全体的にしまりのなくなった顔でによによしていたら、 「赤い羊イーグニス……色と名からして、炎ね」 傍らを歩くレナ・フォルトゥスがクールにつぶやいた。 卓也はうんうんと頷き、 「火のイメージからだと、鍛冶技術を連想しますな。炎からつくりあげる、鍛えるという」 「そうね、きっととてつもなく熱いのだわ」 「かもしれませんな……って、自分ら、普通に入れるんですかね?」 「さあ? まあ、いざとなればあたしの魔法でなんとかするわ。せっかく来たのに入れないなんて癪だもの」 「おお、それは心強い」 説明を受けたとおり、長い長い洞窟を進む。 「ここを超えたらイーグニスと六火の主要領域……うわお」 ――トンネルを抜けたら、そこは煉獄でした。 どこかの名著の盗作めいたフレーズが脳裏をよぎる。 それほど激烈な光景だった。 「火の森? 焔の湖? 極熱の岩山に溶岩の川……だけど、熱くはないのね、ここは」 石炭めいた幹には朱金に燃え盛る枝葉が茂り、湖にはオレンジの炎があふれている。いったいどういう生態なのか、時折魚が跳ねるのも見えた。火の木々が栄える山は、すべて赤々と輝き熱を発していたし、そばを流れてゆく小川の『水』はすべてどろどろに溶けた岩だ。 「普通だったら一瞬でダウンしそうですな、ここ。なんで熱くないんでしょうな……?」 いのちなど存在しようもないように見えて、しかし、卓也はそこかしこに生き物の気配を感じていた。 「うわ、レナさん見てあそこ、毛皮が炎の狼がいる! すっげ綺麗! うわーもふもふしてぇー、でも抱きついたら燃え尽きそうー! あっ、あの鹿、角に火が灯ってる! 尾羽が炎の鳥もいる……あれ、なんだこれ、実は結構な天国……!?」 人間が珍しいのか、興味津々といった風情で獣たちが顔を出す。 自他ともに認めるケモノ好きの卓也がそれで興奮しないはずがなく、鼻息荒く動物たちを観察してはあああさわりてえええなどと呻きつつ手をわきわきさせていたのだが、 「おお、来られたかお客人! 話は夜女神より聞いておる、歓迎しよう!」 すべてを焼き尽くす炎のような赤の髪に、不思議な形状の瞳孔のある漆黒の眼をした大柄な男がのっそりと姿を現したので、彼の視線はそちらへと持って行かれる。 「あー……えーと、六火さん、で?」 「うむ、いかにもわしは六火だの。炎と熱、攻性と精製を司る羊のもとへようこそ、お客人」 年のころは――といっても世界の始まりからいる夢守に外見での判断など無意味と判っているが――三十代半ばから後半の、身長190を超えようかという、筋骨たくましい巨漢である。 しかもそれが、どこの近未来のソルジャーですかと突っ込みたくなるような漆黒のスキンスーツに身を包み、身体のあちこちからプラグやコードやコネクタをはやしているのだ。 背後に浮かぶ、赤い毛皮をした羊との対比がすさまじい。 「め、めるへんvsガチムチ……?」 思わずこぼす卓也を尻目に、レナはクールに自己紹介を始めている。 「ここ、すごいわね。あたしの故郷ではありえない光景で、驚いたわ。――ああ、名乗りが遅れたわ、あたしはレナ・フォルトゥス。ここがどんな世界なのか見たくて来たの。どうぞよろしく」 「そうか、そりゃあご丁寧に。あんたからは強い魔力を感じるな。この階層とは親和性が高そうじゃ」 「そうね、炎はよく使うわ。――ここの炎はすごいわ、太陽も司っているのかしら?」 「太陽は我らが創り主(おやじ)どのの領域じゃ、わしらにはあれに届くすべもないの」 「ああ、ウィル・ソールといったかしら。どちらにせよ、この炎……悪用されればすさまじいことになるのでしょうね」 「ははは、赤羊イーグニスの炎は人を選ぶ。ゆるしもなく、身勝手な理由で火を悪用するものなぞ、触れただけで灼き尽くされるだけじゃ」 からからと豪快に笑う六火は、外見こそいかついがとっつきにくそうには見えない。楔のような瞳孔のある眼は、むしろ陽気で親しげだ。あまり怖そうには見えないし、事実、この夢守は親切そうだった。 せっかくなので、卓也も自己主張をすることにした。 「あ、自分は小竹卓也ですん。あのー六火さん、精製を司るってことは、イーグニスさんって、もしかして持ち込んだアイテムを強化するとかできます……? あの、これなんですが」 「ふむ、異界の品はちぃと難しいの。特に、イーグニスとわしは物質の精製を得意とする身、強化やものづくりの大半はカリュプスと八総の領域じゃ」 「あちゃー、そっかぁ。今からそっちに、ってのも時間的に無理かな……全身の竜化とか、特殊攻撃の付与とかお願いしたかったんだけど」 「ははあ、そりゃあカリュプスでも無理じゃ」 「えっ」 「このシャンヴァラーラにおいて、すべての竜に関することがらは竜涯卿に集約されておる。あんたがそれを真剣に望むなら、竜涯卿の古龍どもに頼むのが一番じゃ。無論、完全に願いが叶うかどうかわしにはわからんがの」 「竜涯卿か……なるほど。いや、でも、古龍ってそんな簡単にお願いとか聞いてくれるんです? 確か、一万年以上生きた竜のことですよね、それって」 「そうだの、なら、一衛に紹介状でもしたためてもらうとええ。神香峰(カミガネ)辺りに話をつけてくれるはずじゃ」 「はあ、なるほど。なんか話が大きくなってきたぞ……? あ、じゃあ図々しいついでにもうひとつ聞いてもいいです?」 「わしに答えられることならば」 「イーグニスさん、炎を操るとか耐火能力とか、そういうのを付加したアイテムってつくれます? この前、仕方なかったとはいえメーゼの――ええと、この、狐のカッコした自分の相棒なんすが――炎で全身大火傷負ったもんで」 当時の大惨事を思い起こしつつ卓也が言うと、 「ふむ……なら、これを持って行かれるがよい」 六火はごつい手を彼に向けて差し出した。 先ほどまで何もなかったはずの手のひらに、刃が朱金色の小刀を見出し、卓也は首をかしげる。 「おお、綺麗なものですな。これは?」 「切っ先で炎の流れを操れる。地面に突き立てれば、半径二メートル周辺の炎を遮断する結界円を展開する」 「おおお、すばらしい……ありがたくいただきます! あ、えーと、お代とかは? っつーてもあんま大した金額は持ち合わせてませんが……」 「わしらに金銭など無意味じゃ。ここまでたどり着いたあんたへの土産ということだの。ま、ご笑納あれ」 「うおーまじすか。ありがとうございますー!」 満面の笑みで受け取り、卓也は満足げな息を吐いた。 目的のひとつが果たされたのだから、それも当然だろう。 しかし、そのあと、もうひとつの大きな目的を思い出す。 レナも同時に思い至ったらしい。 「ねえ、奥へ行くにはどうしたらいいの? 世界の滅びを止めるすべがないか、調べたいの」 「奥? ああ、深部か。そいつぁ黒羊の領域じゃ、やつのところへ行くがいい」 「なら、案内をお願いしてもよろしいかしら?」 気のいい夢守は無論否とは言わなかった。 3.紫羊 ディーナ・ティモネンは、依頼を受けてすぐ、紫色の砂の砂時計を何個も準備した。それを糸で飾ってストラップにした。丸いプラスチックのボールの中に、紫色をした砂とビーズとスパンコールを入れてきちんと接着した。透明なビーチバレーボールの中にごく小さい紫色の鈴を無理矢理押し込んで長いゴムをつけた。 奇妙なものづくりにいそしむディーナを目にしたものは、いったい何を、と、彼女の胸中をうかがい知れずに首をかしげたかもしれない。 ディーナは紫の羊と七覇に会いに行くことを決めていたのだ。 彼女がつくっていたのは、そのための『土産』だった。 他愛ないと笑い飛ばされることも承知でそれを携え、ディーナは紫羊と七覇の主要領域へ向かった。 「こんにちは、紫の羊さん、それから七覇。私はディーナ、よろしくね?」 紫羊アエテルニタスの居場所は、以前別のロストナンバーがかかわったのもあって特定されている。だから、探し出すのはたやすかった。 紫羊の主要領域は、薄明かりに照らされた広い広い洞窟と、抹香めいた穏やかな香り、そして黒に近い紫の幹をした不思議な樹木によってかたちづくられ、彩られている。とても静かで穏やかな、時間が存在しないかのような場所だった。 「時間と普遍、不変と流転を司る紫羊の元へようこそ、異界の客人よ」 鮮やかで妖艶な紫色の体毛と漆黒の眼を持つアエテルニタスの化身、七覇は、肩ほどの長さで切り揃えられた、光の加減では黒にも見える艶やかな紫色の髪と、不思議な形状の瞳孔のある黒の双眸をした、外見で言えば二十歳前半程度に見える繊細な顔立ちの青年だった。 「さて……何がほしい? 何が知りたい?」 紫の羊が、何を考えているのか判らない眼でウンバアアアと鳴く。 「それとも、本当はここに来るつもりではなかったなら、別の羊の領域へ案内しようか?」 ディーナは首を横に振った。 「ううん、私は七覇に、アエテルニタスに会いに来たの」 最初からここに来ると決めていた。 ひとつの答えを求めて。 「永遠で一瞬。普遍で流転。存在して、壊れて、消え行くところまで含めて。知っていそうなのは、七覇かなって」 つくってきた他愛ない『土産』をすべて、七覇へと差し出す。 夢守は受け取ったそれを不思議そうに眺めている。 「これは……?」 「プレゼント。子どものオモチャ過ぎて、逆に珍しいかなって。私の考えた、永遠で一瞬で普遍で流転。壊れるところまで含めて、ね?」 「ふむ、一理ある。だが……その真意は?」 ディーナの求めるところを察しての返しに微笑み、 「知りたかったの。この世界の異質さ。この世界が、《異神理》への答えのひとつなのかなぁって」 空のない世界の、静かな天を見上げる。 「終わりは始まり。この世界、すでに《異神理》で何度か壊れてるんじゃないかしら」 ずっと考えていたのだ、この世界について。 なぜ、激烈な負の感情をまとった棘が、ひとつの小世界を壊すのか。 なぜ、世界は分かたれ、棘を孕むようになったのか。 そして、なぜ、この『電気羊の欠伸』はかくも異質なのか。 「これ以上壊されないために、すべてが壊されてもせめてここだけは残るように、羊たちが完成させた世界が『電気羊の欠伸』? だから曖昧模糊として突出した感情が入りにくく、変化をうけにくい鉱物派生の金属生命体が闊歩する」 ここはシャンヴァラーラの記録媒体なのではないか、というのがディーナの立てた予測だった。 しかし、七覇は首を横に振る。 「夜女神ドミナ・ノクスの記録媒体に滅びは残されていない。神を含むシャンヴァラーラの住民は今代が初めての存在だ」 「……そうなの?」 「金属生命体は『電気羊の欠伸』だけではない。先に滅んだ晶鳴宮の住民も大半がそうだった」 「だけど……この異質さには何か理由が」 「おそらく」 「え?」 「我々の、『電気羊の欠伸』の異質さに特別な意味はない。創世の二柱が世界に望んだのは多様性だからだ。我々は、【箱庭】として分かたれる前から、この異質さを多様性の中のひとつとして続けてきた」 「……そっか。じゃあ……でも、あの《異神理》はいったいなんなのかしら。また判らなくなっちゃった。どうして棘は世界を壊すんだろう……?」 方向性を見失い、困った顔で首をかしげるディーナに、七覇もまた首をかしげた。人形じみた淡白さ、無機質さを漂わせる夢守が、この時ばかりは人間臭く映り、ディーナはかすかに笑う。 「《異神理》は我々にとっても不可解な存在だ。【箱庭】をたやすく破壊するだけの力を持ちながら、創世二神にも、神や我々のような化身にもその存在を知覚させない。私たちには、《異神理》を認識することが出来ないんだ」 「――待って。私たちロストナンバーには見ることが出来るのに、この世界の神さまにはそれを捉えることもできないの? 神さまは各【箱庭】の守護者で、たくさんのものが見えているのに?」 「そうだ。たとえば私はアエテルニタスの領域のことならすべて見える。『電気羊の欠伸』のことも大抵見える。ほかの【箱庭】を見ることもできる。だが、ロストナンバーたちのいう《異神理》を実際に知覚することはできない。先だっての竜涯卿のような、目覚めた《異神理》を漠然と感じ取ることは出来たが、各【箱庭】に眠る棘を走査することも感じることも出来ない」 「それはなぜなのかしら。私、それはとても大事な、重要なことのように感じるの」 「判らない。――判らないことが、ひとつの答えのようでもある」 「……」 何か、大事な真実が浮かび上がってこようとしている。 しかし、それはまだかたちにはならない。 もどかしさに息を吐いたら、七覇がひとつ、道を示した。 「滅びに関するものごとなら、プールガートーリウムと一衛の管轄だ。あれらは羊とその化身の中でも特別に異質だ、我々には理解し得ないことを認識しているかもしれない」 「案内をお願いしてもいい? 私は知りたい。この世界の真実を」 4.灰羊 アキ・ニエメラは灰羊カリュプスのもとを訪れていた。 「カリュプス……鋼、か。剣や武器、鍛冶に関すること……かな」 アキは根っからの兵士だ。 しかも、指揮官などではない、戦場の最前線で血を流す下っ端である。 当然、思考もそちらがわに向かい気味だ。 「成長し続ける鋼の木とか、使えば使うほど経験を溜め込んで強くなる剣とか。自分の意志で形状を変える『考える武器』とか、あったら見てみたいもんだな。実際に使ってみるのも楽しそうだ」 灰羊のもとへ赴く際、道を尋ねた住民から分けてもらった何かの果実を齧りつつ想像を膨らませる。 「しかしこれ面白いな……鉱物樹から実ったものなのに俺でも食えるのか」 ヘマタイトを髣髴とさせる硬質な輝きを持った、梨のような形状のそれは、いかにも堅そうな外見に反して、かぶりつくとやわらかく、そして甘かった。不思議な快香が鼻を抜けてゆき、まろやかな酸味が舌に残る。 「金属派生でも、経口で食物を摂取してエネルギーを得てるやつらも少なくない。――これは収斂なのか、それとも創世の神々が望んだかたちだからか?」 アキの眼に、『電気羊の欠伸』の住民たちは、奇妙で異質だがどこか親近感の湧く存在として映っていた。 「飯食って、家族や仲間を大事にして、毎日を楽しく過ごす……なんて、俺たちと何の違いもない」 現在の家族、共同生活を送っている――というか、アキがひたすら世話を焼いているというべきかもしれない――同郷の強化兵士の顔を思い浮かべつつ果実を齧る。 道を行く途中、巻貝を重ねたような住居があちこちにそびえ立っているのが見えた。畑や庭、看板や店のようなものもあちこちに見られる。文化、文明を示すものが多くみられるのは、灰羊の司るモノのゆえでもあるのかもしれなかった。 教わった通りに進み、葉がすべて刃で出来た恐ろしげな森を超えると、 「ぬしがロストナンバーか。よくぞ参られた、歓迎しようぞ」 刀身を思わせる光沢ある灰の髪に、不思議な形状の瞳孔のある眼をした夢守が佇んでいた。がっしりした身体つきと、頑固そうな顔立ちをした壮年の男だ。どうやら、アキが来ることを知っていて、出迎えてくれたらしい。 「八総? で、あんたの後ろのが、カリュプスか」 「いかにも。ここは、鍛治や細工、ものづくり、ひいては戦いをも司る灰羊の領域じゃ。ぬしは見るからに『その道』の人間じゃの」 「はは、やっぱ臭うのかね、そういうの。俺はアキ、アキ・ニエメラだ。物見遊山で来させてもらった」 「そうか。まァ……特別面白味のある場所でもないが、好きに過ごしてゆくがいい。なんぞほしいものがあるのなら聞くぞ」 「あーそうそうそれ。もしくれるんなら……ってかつくれるんなら、『壊そうとすればするほど壊れなくなる刃物』がほしいな。武器破壊を狙ってくる敵用の切り札になりそうだろ」 「ふむ」 「あと同居人の土産に質のいいナイフがほしい。効果はお任せで」 「……なかなか自己主張の激しい男じゃ」 「図々しいことは承知の上だが自重しない」 むしろ胸を張ってアキが言うと、八総はぱちぱちと何度か瞬きを――アキは、夢守が瞬きをするのは眼の乾燥を防ぐためじゃなさそうだ、などとどうでもいいことを思った――した。それから、猛々しい笑みを浮かべる。 その意味するところを察して、アキも笑った。 「交換条件、てやつかな?」 「そうじゃな、俺の武器がほしいならそれにふさわしい力を見せよ……と、言いたいところじゃが、そんなものは後付に過ぎぬ。ぬしと俺は、どうも同類のようじゃ。ならばこうして『味を見る』に限る」 「ああ……いいなそれ。ぞくぞくする」 どこか陶然と八総を見つめ、身構える。 幸い、周辺は見晴らしのいい平原だ。 誰かを巻き込んだり、何かを壊したりする心配はないだろう。 灰羊が八総を咎めるように――しかしそこには諦めが混じっているようにも感じた――ゥンバアアと鳴いたが、そもそもアキにそれを自重するつもりがないのだから仕方ない。 「俺は、あんたみたいな相手と殴り合うのが大好きなんだ。兵士だからなんてのは関係ない、ただの生まれ持っての性なんだろうな」 「そうか。ならば」 「――行くぜ」 同時に地面を蹴った。 まっすぐに突っ込み、直前で八総の背後にテレポート、延髄めがけてコンバットナイフを叩き込もうとするも、ぎゃぎっ、という耳障りな音とともに防がれる。 ――八総の肩から、背から生えた無数の刃によって。 「鍛冶師ってのはそういうことか!」 「今までに鍛えた刃物の記憶を身体に持っておるだけのことじゃ」 「それって何本くらいあるんだ?」 「さて……億には到達しておらぬはずじゃが」 「剣山みたいだなそれ」 軽口をたたきつつ、小規模な転移を繰り返して間合いを測る。 八総の腕から百本近い剣が生え、じゃごっ、と凶悪な音を立てて先ほどまでアキが立っていた場所を抉った。剣も百本集まるともはや巨大な塊だ。斬り殺されるというより、押しつぶされるのに近い。 「……本気で殺すつもりだったな、今の」 「ぬしもそうじゃったろう」 「そういやそうだ」 肩をすくめつつアキは笑っている。 蜘蛛の脚のごとくに分岐した剣が、風さえ伴ってアキの身体を薙いでいく。転移が遅れて、頬と腕、脇腹を刃がかすめたが、頬に走った赤い傷は、瞬きほどの間で溶け込むように消えた。腕と脇腹も同様である。 「面白い身体をしておるのじゃな」 「ん? ああ、特に顕著なのはエンドルフィンが分泌される戦闘中だが、生まれた時から異様に傷の治りは早かったらしいな。俺のESP能力の半分はこの自己再生に回されてるんじゃないか?」 先天的ESP能力者たるアキだが、所有しているESP能力はさほど強力ではない。同居人と比べれば、だが。その原因の一端が、この、死なない身体なのではないか、とアキは思っていた。 「まあ……俺がこんな性格になったのも、この身体が原因、かな」 念動力で剣の森から刃を折り取り、弾丸のように撃ち放つ。 数十本の剣が八総めがけて殺到し、彼を貫かんとするが、それらは夢守の両腕から生え、編み込まれて壁のようになった剣の群れに阻まれてすべて落ちた。 「……ふむ」 八総から戦意が消えるのを見て、アキも力を抜いた。 「いや、うん、堪能した。またやりたいもんだぜ」 「俺もじゃ。ぬしとはいい友人になれそうじゃ、また機会があれば遊びに来てくれ。――では、約束の品を」 満足げな八総から差し出されたのは、余計な装飾が一切ない、黒い刃のナイフだった。刃渡りは三十cmといったところだろうか。ナイフコンバットを得手とするアキにはちょうどいいサイズだ。 「ぬしの同居人とやらにはこれじゃ」 握りやすそうな柄に、水晶のように透き通った刃のナイフだ。 「ぬしのナイフとは対になっておる。斬ろうとすればするほど強度を増すしろものじゃ。双方、見えぬモノを斬る力も持っておる、活用してくれい」 「おお、こりゃすごいな。ありがとう、早いとこ使ってみたいもんだ」 若干不穏当なことを言いつつ、目的のひとつは果たしたのでアキは満足げだ。 が、もうひとつ大事なことを忘れてはいけない。 「あーそうだ、あと、《異神理》について知りたいんだが。ここは境界が曖昧だからほかの【箱庭】じゃ判らないようなことも見えるんじゃないかって言われたんだ」 「ほう……噂には聞いておるが、俺はその辺りには疎い。ならば黒羊のところへ行くか、あれはやつの管轄のはずじゃ」 5.銀羊 カンタレラが銀羊を選んだのは、主人が彼女の銀髪を美しいと褒め、いつも愛でてくれたからだ。その程度の単純な理由だが、主の言葉はそのくらい彼女にとって絶対なのだ。 そして、それよりも何よりも、司書の、トコヨすら覗けるかもしれないという言葉にカンタレラは惹かれていた。 「この世ならざる場所を覗けるのであれば、あるいは……」 知りたいのはただ、主人の行方だ。 彼が今どこにいるのか、何をしているのか、どうすれば主の元へ還れるのか。 主人は今どこでどんな状態に置かれているのか。 ――幸福でいるのなら、それでいい。 彼が、飢えることも凍えることもなく、よく眠れ、笑えているのならそれでいい。離れていても、彼が幸いであることさえ知れればカンタレラは生きられるし、彼を想うだけで温かな気持ちになれる。 しかし、なにがしかのよくない状況が、彼から平穏や幸いなどというものを奪っているのなら、カンタレラは万物の摂理を捻じ曲げてでも故郷へ、主の元へ還らなくてはならないのだ。 カンタレラの命は、彼のためだけに存在し、彼のためだけに終わることをこそ至上とするのだから。 「九能……クノウ。クノウは、苦悩でもあるのか?」 同行者となったロストナンバー、由良 久秀が、時折珍妙な表情を浮かべつつ不可思議な光景を撮影しているのを見るともなしに見ながらつぶやく。 カンタレラの鮮やかに赤い視線の先では、どうにも遠近感覚の狂う奇妙な立体感の森と、違和感を覚えるほどに規則性を持って舞う落ち葉の群れがある。久秀がぼそぼそと説明した話によると、数枚の葉の動きを複写して連続投影しているのだという。 銀羊フルゴルの支配する領域は、奇妙な光と幻に彩られた遠近感の定まらない世界だった。確かにそこに存在して、手を伸ばせば触れられるのに、そこにあるすべてのものが浮遊感とともにあり、一定しない。そのくせ妙にまぶしく、美しい。 頭の芯がぼうっとしてくるような、酩酊感にも似た感覚が全身を包む。 「これは、ちゃんと写るんだろうな……?」 カメラを構えた久秀の独白が耳に届く。 ふたりは迷路のような通路に差し掛かっていた。 ここの住民か、もしくは羊がつくったのだろうか。踏み込み、見やれば、真っ直ぐ行った先に三叉路がある。あそこから進む方向を決めようと歩けば、辿り着いてみれば三叉路は消え、直線だけが残っている。眉をひそめて引き返そうと振り返っても、背後には壁があるだけだ。 「何なんだ、このふざけた世界は。悪趣味な遊園地とでも言いたいのか?」 久秀が呆れたようにぼやいている。 しかし、それらの物珍しい光景を前にしても、カンタレラはどこか上の空だ。 「九能が苦悩であるならば、甘い夢など見せてくれるだろうか?」 苦悩のせめてもの慰みに、と。 「神も現実も、甘くはないが」 そんなことはとうの昔に知っている。 苦悩を負わされることで主に近づけるのなら易いことだと感じるだけだ。 「主よ、カンタレラは」 祈るようにつぶやいた。 「――たとえ摂理を捻じ曲げてでも、あなたのもとへ還れるのならば」 この世界の、神と呼ばれるものを利用してでも。 その、仄昏く切実な情念を察したのかどうか。 「ごめんなさい、せつなくて可愛いかた。銀羊フルゴルが司るのは光と反射、幻、そして虚構と真実なの。わたくしたち夢守の名前は記号に過ぎないのですわ」 妖艶な女声が響くと同時に、迷路の様相を呈していた通路が消え去り、周囲が遠近感の定まらない奇妙な平原へと変わる。 「銀羊フルゴルの領域へようこそ、お客様。あなたがたのご来訪を歓迎しますわ、どうぞゆるりとくつろいでお行きになって」 輝く銀髪に漆黒の眼の、豊満で妖艶な美女が、銀の体毛をした羊とともに現れたのを、カンタレラは凝視していた。 * 由良久秀は写真家だ。 多くの不吉な表現によって語られようとも、撮ることにはプライドがある。 そして、何があっても撮影という手段を捨てられない。 だから彼は、自分が出会えるとしたら銀羊だと思っていた。 フルゴルとはきらめき、輝きを意味する言葉だ。 それは要するに光の一面であり、光を用いて風景を切り取る久秀には、これほどふさわしい属性もない。 「電気、灯火、星、雷、映像、光の速度、幻影、暗闇。あるとしたらそんなものだろうと思っていた」 「星は夜女神、雷と電気は白羊の領域ですわね。それ以外のものは、銀羊の属性ですわ」 いつの間にか、ふたりと一体と一頭は、ゆらゆらと景色の移り変わる――そう、まるで映画のスクリーンのように――平原で、気づけばセッティングされていたウッドチェアに腰かけ、ウッドテーブルを囲んでいた。テーブルには、白磁の茶器と砂糖菓子を髣髴とさせるカラフルなお茶請けが載っている。 銀羊まで椅子に腰かけているのを突っ込んだら負けだ、と自制しつつ、見れば見るほど不可解な世界だ、とも久秀は思った。 ものの明暗、光の入り方、影の方向、立体感、遠近感。 久秀の故郷では、というかほとんどの世界では当然だったはずの法則が、ことごとくこの領域では通用しない。 なまじ眼がいいだけに、違和感すべてに気づいてしまい、久秀はすでに疲労を覚え始めていた。眼と脳をフル回転させすぎて眉間と肩が痛い。めまいと頭痛がずっと続いている。 気を取り直して茶器を取り上げれば、器の中で夕暮れの茜を凝縮した雨の幻影がたゆたっていた。驚いて茶器を揺らすとそれは消え、代わってホログラフィのような蝶の乱舞が展開される。 何が現実で何が幻なのか、境界がひどく曖昧になる。 ぐらぐらと視界が揺れた。 「ここは――違う、俺は、」 片手で顔を覆い、呼吸を整えると少し楽になった。 「銀羊の主要領域は、外からのお客様にはもっとも負担が大きいのですわ。虚構と現実が入り乱れるために、ひどく疲れてしまうかたが少なくないのです」 「ああ、やっぱり」 眉間を揉みつつ、持参した鞄から写真を取り出す。 「これは?」 「いや……ここに来たのは、物見遊山というのもあったんだが。この【箱庭】の連中に、これがどう映るのか興味を覚えて」 「ああ……ええと、写真、というのだったかしら、これは。風景を、こんなふうに切り取るのですね。美しいわ」 写真を眺め、久能が微笑む。 「……でも」 そこに、ミステリアスな色彩が浮かび、 「あなたはなぜ、こんなにも黒を多用されるのかしら? これは、プールガートーリウムと一衛の領域ですわ」 「黒? 特に多用した覚えは、」 「ああ、ほら……ここにも、ここにも。これなんて、真っ黒」 美しい爪が、写真のあちこちを指し示す。 しかしそこに明確な黒は存在せず、いったいなんのことだと首をかしげかけて、気づいた。 「……そういうことか」 その写真は風景を撮ったものだ。 何の変哲もない、風景写真に過ぎないそれは、しかし、殺人現場でもあったのだ。九能が示した写真のすべてがそうだった。久秀が殺した人間の骸が転がる前か、あとか。そのどちらかの違いしかない。 「あんたは、」 「わたくしは虚構と幻の化身。あなたを咎める意味も義務も、資格も持ちませんわ。気になると仰るなら、黒羊をお訪ねになって」 この化身たちの眼にはいったい何が映っているのかとそら恐ろしくなり、気味悪く思いつつ、もうひとつ気になってフィルムを差し出す。 「さっき、ここで撮影したものだ。ここでも現像出来るか?」 「あら、それでしたら、」 九能が言いかけたところで、突然銀羊が大きな口を開き、くだんのフィルムを飲み込んだ。――久秀の手首ごと。 「!?」 驚愕のあまり久秀は硬直する。 ごりごり、ぼきぼき、めきめき、ごくん。 なぜかまったく痛くはないのだが、そんな音が聞こえてきて平静を保てるほど久秀は非常識慣れしていない。 「な、な、な、」 「あらあらフルゴルったら、おなかを壊しますわよ」 「そこより先に言及すべき場所があると思うんだが!」 しかも腹を壊すとか微妙に失礼だなと気づくころには、銀羊は久秀の手首を解放し、テーブル上に何かを落としている。 「……?」 手首には何の損傷もなく、また、フィルムにも変化はなかった。 何が起きたのかさっぱりわからない。 ――が。 「これは、」 机上の写真を目にするや、久秀の表情は凍る。 遠近感の定まらない、非現実的な風景の中に、不自然に映り込むいくつもの黒い影。ただの影でしかないのに、いまにも叫びだしそうな圧迫感をともなったそれに背筋が寒くなった。 影が、久秀を憎んでいることが判ったからだ。 そしてそれは、いつでも彼のそばにいるのだと。 「ッ!」 焦燥感に駆られて振り返るが、そこには無論、何もいなかった。 眉をひそめ、唇を引き結ぶ久秀に、久能が妖艶な――意味深な笑みを向ける。 「銀羊の領域には虚構と幻と現実が入り乱れますわ。あなたのそれは……『どれ』なのかしらね」 「あれは、いったい」 「幽世のものごとは黒羊の管轄。知りたいと仰るならば、ご案内いたしますわよ?」 危険だと、とてつもなくまずいと意識が警鐘を鳴らす。触れてはいけない、近づいてはいけないと――逃げなくてはと、魂の一部が泣き叫ぶ。あれに囚われたら、もう、逃げ場はないのだと。 しかし、 「……その黒羊のもとへ行けば、トコヨや外界のことが知れるのか? カンタレラは知りたいのだ、あのかたのことを。そして、故郷へ戻るすべを」 ずっとうつむき、黙っていたカンタレラが不意に顔を上げ、そう主張した時点で久秀の行き先もまた決まっていた。 なぜなら、彼は漠然と理解していたからだ。 九能がにっこりと微笑んで、 「ええ、可愛いかた。ではご案内いたしましょう、おふたりとも、もろともに」 そう返すだろうということを。 6.黒羊 黒羊プールガートーリウムのもとへは、三人が向かっていた。 「そうか、あんたも想彼幻森には?」 盲目の門番、歪と、 「うん、お陰さまで生きる希望っていうか、道筋をもらったよ。だから、一度、プールガートーリウムにはお礼を言いたいなって思ってたんだよね」 名門蓮見沢家の当主、理比古、 「俺は、興味の部分も大きいんだけど、尋ねたいことを知ってるのが黒羊かなって思って」 現役大学生、相沢 優である。 「アヤは想彼幻森の常連さんなんだ? 俺も一度は行ってみたいけど」 「ん? うん、人を探してるからなんだけど、そうじゃなくてもなんか好きなんだよね、あそこ。ゾラと一衛にも親切にしてもらってるし」 また、優と理比古は友人同士でもあった。 年齢で言えばひと回り以上離れているが、優のさわやかな親しみやすさと理比古の外見もあって違和感はない。 「誰かのために記憶が実る森か……俺のために実る記憶もあるのかな、やっぱり」 「そうなんじゃない? 好きな人とかいるんだったらなおさらだと思うよ」 「えっ」 「……なに? 耳、赤いよ?」 「いや、うん、な、なんでもない」 何を思い出したのか顔を赤らめる優を真ん中に、三人で連れ立って坂をのぼる。 黒羊の司る領域は、輝く漆黒の洞窟と、仄かに輝く黒い樹木、そして銀の枝葉がこぼす明かりによってできていた。天井が恐ろしく高いため圧迫感は感じず、また、それほど強い光源があるわけでもないのに暗さも感じない。 もちろん、そもそも視覚によって行動しているわけではない歪にはまた関係のない話だが。 「この先……だったか」 「うん、説明通りなら。この坂の向こう側に黒羊がいる」 頷く理比古に、優が視線を向けた。 「プールガートーリウム、か」 「うん? どうしたの、優」 「や、それって煉獄って意味だよな。てことは、黒羊ってやっぱ、浄化を司るのかなって。そう考えると想彼幻森の属性とも合うしさ」 「ああ、うん」 「生死、罪と贖罪、記憶と忘却、業。あとは……輪廻転生? 俺の予測はそのあたりだが」 「あ、近いな。黒は死の色でもあるからね。生と死、破壊と再生、罪と罰、そんなものかなって思ってた」 「――そうだな、おおむね当たっている」 声は唐突に、前方から。 それと同時にざあっと音を立てて風景が変化し、気づけば三人はひときわ高い天井のある、輝くような漆黒の岩で覆われた洞窟に佇んでいた。床はガラス張りのように透き通っていて、蛍だろうか、周囲を白い光を宿した何かがふわふわと飛んでいる。 「こうして、主要領域で会うのは初めてだな。生死と滅び、破壊と再生、無と無限、そして罪業と贖罪を司る羊の元へようこそ、客人たち」 目の前に立つのは、歪と理比古にとっては見慣れた、漆黒の髪に漆黒の眼をした夢守だ。 「うわあ、黒い羊。綺麗な黒だね。ふわふわそう……触っていい? むしろ抱きついていい?」 その背後に浮かぶ、漆黒の毛皮をまとった羊が当然プールガートーリウムで、要するに十の羊の中ではもっとも激烈で不穏当な属性を持つわけだが、理比古などはまず羊のふわふわぶりに興奮することしきりで、一衛がいいとも悪いともいう前に真っ黒な羊に抱きつき、あちこち触りまくりもふもふしまくっては喜んでいる。 黒羊の、ウンバアアアァと鳴く声も心なしか困惑気味だ。 「……ロストナンバーというのは猛者ぞろいか。領域内の住民すら滅多に近づこうとはしない黒羊にああも屈託なく抱きつくとは」 「いや、アヤのあれはただの天然だと思うけどな……」 一衛の言葉に優が苦笑している。 歪はそれらを鋭敏な感覚で察しつつ、一衛へ向き直った。 彼にとってこの得体のしれない夢守は見知らぬ旧友だ。 なぜか懐かしく、そばにいると失ったはずの記憶がどこかで音を立てる気がする。 「お前はここに来るだろうと思っていた」 「ああ、あんたの護るものが見てみたくて来たんだ」 想彼幻森以外の、一衛の司る場所を見てみたい、と。 「……そうか」 頷いた一衛が、かつん、と地面を踏み鳴らすと、先ほどまでガラス張りのようだった床の下に、小さな世界が現れた。 「うわあ……!」 それは、精巧過ぎるジオラマのように、生命の流転を映し続ける。何か仕掛けを施してくれたのか、それらは歪の脳裏にも映し出された。 「これは……世界の縮図なのか……?」 それは、黒羊の領域の、一番激しく荒ぶる光景だった。 【箱庭】の中の箱庭のような、激しい流転の光景だ。 瞬きの間に生命が生まれ、次にはもう滅びてゆく。 生い茂った草が太陽に焼かれて枯れ、生まれたいのちは瞬く間に老いて死んでゆく。ヒトのつくりだした文明はすぐに廃れて壊れ、瓦礫は岩に紛れてもはや誰の眼にも届かない。 植物が死に絶え砂漠と化した世界を行く旅人は老いと病に倒れ、その骨は砂にうずもれて消えてゆく。 「これは生死の概念を封じた場所だ。『電気羊の欠伸』の模型……とでもいえばいいのか」 あまりにも儚く虚しい営みだ。 しかし、それでも、草は生い茂ることをやめず、いのちは生まれ続け、ヒトは社会を築き続ける。旅人は向こう側にある新しい世界を夢見て、命も惜しまず歩みを進め続けるのだ。 それはなんと儚く、むなしく、しかし美しい流転だろうか。 「存在にとって生死は定めだよね。だけど、決められたことなのに、どうしてこんなに美しいんだろう」 理比古がどこか呆然と、陶然とつぶやく間にも、小世界はまた移り変わり、命は繰り返してゆく。 「一衛。あんたの司る領域とは、シャンヴァラーラの輪廻機関なのか? 俺があんたをひどく身近に感じるのは、その所為なのかな」 「間違いではないが、それほど大仰なものでもない。お前が言うのは想彼幻森を想定してのことだろうが、あれは偶然の産物だ。魂の循環を司る場所は各【箱庭】にあり、それは私の知るところではない」 「……そうか」 「だが、黒羊の領域はシャンヴァラーラでもっとも現世と幽世との境目が曖昧な場所だ。いかなる世界の魂が迷い込み、黒羊の浄化を経て新たに旅立って行くとしてもおかしなことではない。……お前はそれを懐かしんでいるのか、歪」 「何?」 「ずいぶんと感慨深げに聞こえた。まるで、かつてはお前自身が輪廻を背負っていたとでもいうように」 「そう……なのか……?」 言われてみれば、過去など何ひとつとして覚えてはいないのに、巡り廻る魂の流転を懐かしく感じる。 (“彼女”は今、どうしているんだろうか) 漠然とそんなことを想い、それが誰かも判らない自分に動揺する。 わたしは救われた、永遠より深く愛している、だからあなたは幸せに。 そういって消えた女が、確かにいたような気がしたのだ。 「歪さん、大丈夫? なんだか、顔色が悪いような」 優の気遣いに首を横に振り、謝意を口にする。 優は心配そうな表情をしつつも、自分がここに来た目的を思い出したのか一衛に向き直った。 「あの、一衛さんに訊きたいことがあるんですが」 「ああ、私に答えられることなら?」 「トコヨの棘のことなんですが……あれって、亡くなった人たちが残した負の感情の集まりなんですか? だとしたら、どうすればそれを浄化できるんでしょうか。俺、シャンヴァラーラの手助けがしたいんです」 激烈な負の感情ばかりでできた《異神理》。 それらが、シャンヴァラーラで死した人々の感情の残滓だとしたら、それを浄化することで棘を消滅させられはしないかと優は考えたのだった。 「あと、素朴な疑問なんですけど、『羊の夢』って具体的にどういったものなんでしょうか。それと、神々の中で、負の感情を背負うヒトがいるかどうかとか、『電気羊の欠伸』の成り立ち、最近電気羊の中でも異変が起きてないか……って、すみません、尋ねるばっかりで」 「いや。順番に答えればいいか? まず、あの棘とやらはシャンヴァラーラ人が残した念ではない。それならば、私たちはもっと容易くあれに気づいただろう。私は今のルーメンと同程度には魂魄の動向に関して敏感だが、あれは私を素通りするばかりだ」 「じゃあ……あれはいったい……?」 「判らないことそのものが重大な鍵のような気がしている。――ああ、答えの続きだが、羊たちの夢とはこの【箱庭】そのものだ。彼らの夢が物質化して出来たのが『電気羊の欠伸』だ。これはもうひとつの問いの答えとしても有効だな」 「えっ……でも、目覚めてますよね、黒羊さん」 「概念的なものなので説明し辛いが、このプールガートーリウムは黒羊の一面であってすべてではない。起きている黒羊と眠っている黒羊が同時に存在する、と言えばいいのか」 「はあ、なるほど……判ったような、判らないような……? うーん、そうなってくると、他の神さまが……ってのもなんだか変だなあ。でも、ってことは」 「……ねえ、トコヨの棘ってどこで生まれたんだろう。むしろあれは、いったいどこから来たんだろうね?」 「どういうことだ、アヤ」 「ん、俺、こないだ晶鳴宮に行ったんだよね。あの時、『見た』し『聞いた』んだ。砕け落ちていく世界と棘のはざまで、誰かも判らない誰かが身悶えて泣き叫ぶのを。あれは誰だったんだろう?」 おそらくあの場にいたものにしか判らない、背筋も凍るような呪いの感覚。 あれが、理比古に疑問を抱かせた。 「あれがトコヨの棘を操っている張本人だとして、造物主である創世の女神ですら気づけないような力を持つものが本当にシャンヴァラーラの住民なんだろうか?」 「それは――……つまり」 「俺たちは、世界がひとつではないことを知っている。もしかしたら、それが答え……なのか?」 「うん、歪。だから、どうにかして調べられないかな。羊や夢守は深部には入れないんだっけ? 神様に近いヒトたちに棘を見てもらえたら何か判るかもって俺は思ったんだけど」 浮かび上がる大きな疑問。 棘はいったいどこから来たのか。 予測の範疇が、シャンヴァラーラ内のみではないという事実も含めて。 しかしそれは、ある種の前進でもあった。 「棘の出自が判れば、対処のしようもまた見えてくる、か」 そうであればいいという希望をにじませつつ、 「なあ、一衛。こんな時にのんきなことだとは思うんだが、俺は、あんたのことを知りたい」 歪は見知らぬ旧友にそう声をかけた。 「私の? なぜ?」 「あんたの領域へは足しげく通っているが、どうも、俺のことばかり話している気がする。たまにはあんたの話も聞かせてくれ」 「……面白いものでもないぞ。化身とは結局この世界を護るための兵器だ」 「ええー、そんなことないよ、一衛は俺たちのこと元気にしてくれたもの。そういうやさしい出来事だってたくさん持ってるでしょ」 「あ、俺も興味あるなー。開闢のころから世界を護ってるって、どんな気持ちがするものなんですか? さっき俺たちが見た模型みたいに、一瞬で過ぎ去っていくものなのかな」 「好きなものとかよく行く階層とか、感慨深い出来事とか、ないわけじゃないよね? そういうの、知りたいのが友達だと思うんだ。ね、優」 「同感。せっかく出会えたんだから、いろんなことが知りたいです」 「――そういうことだ、一衛。別にたいそうな目的があるわけじゃない。ただ、あんたの司るものに触れて、あんたに近づきたいだけなんだ」 三人が口々に言うと、黒羊が愉快そうにンンバアアァと鳴いた。一衛は小首を傾げたあと、ほんの少しだけではあったが照れくさそうに笑った。 「ヒトは貴いな。私に、こんな得難い感情をくれる」 無機質な人形に血の気が通った瞬間のような錯覚すらあって、三人は思わず微笑みあう。『友達』に少し近づいたことが判ったからだ。 と、そこへ、 「おお、ここが黒羊の領域か。さっきの平原とは何もかもが違うぜ……」 「こりゃまた荘厳な。赤羊の領域が情熱的なら、ここは神秘的、ですな」 「あら、うまいこと言うのね。確かに、ここからは不思議なエネルギーの波動を感じるわ」 「あ、こんにちは一衛。久しぶり。元気にしてた?」 「おー、あれが黒羊とその化身か。……正直、あんまりやり合いたいとは思わんな、瞬殺されそうだ」 「あの、プールガートーリウムという羊ならば、カンタレラの願いは叶うのか。――叶えてくれるのなら、いかなるものでも投げ打つのだ」 「ここは……何なんだ。ひどく神聖で静かなのに、ひどく重苦しい。まるで煉獄の入り口のようだ。そう感じているのは俺だけなのか……?」 大きな入り口、いつの間にか四方八方に開いていたそこから、同じロストレイルに乗ってシャンヴァラーラへ入ったロストナンバーたちが顔を覗かせ、辺りは一時騒然とする。 「勢ぞろいだなあ……これから何が始まるんだろう?」 優の素朴な疑問に答えられるものはいなかったが。 7.ふかくふかくねむる それぞれにそれぞれの報告をしあい、黒羊が深部への道を開けるか、一番集中したのはその問いだった。 別件で言えば、卓也は一衛に古龍への紹介状を――といっても書面などではなく、古龍に会ったらこれを見せればいいと石炭のような塊をもらっただけだが――したためてもらい、上機嫌だったし、久秀はなぜか、ひどく切羽詰まった顔でそわそわと何かを気にし続けている。まるでここへ来ただけですべてを理解したような姿だった。 「カンタレラは主のもとへ辿り着きたいのだ。あのかたを護ることがカンタレラの使命であり意味なのだ」 切々と訴えるカンタレラには、残念ながら望むような答えは与えられなかった。 「……私たちは小世界を守護する神の欠片に過ぎない。想彼幻森ならば、お前の望む主の記憶を実らせる木がどこかで見つかるかもしれないが……界を超えさせてやるすべは、私には」 「そうか……いや、しかし、その想彼幻森ならば主の消息が知れるかもしれないのだな。今度、訪れさせてもらうのだ。もしもほかに有用な手段を持っているのなら、ぜひ教えてほしいのだ」 「わかった、約束しよう」 一縷の希望にもすがりたいのであろうカンタレラは、一衛のいらえに対してほんの少し表情を和らがせた。 残るは、深部と《異神理》に関する問題である。 「黒羊はその特性上深部をも司っているに等しい。ゆえに、私はお前たちを深部へ案内することが出来る。それは確かだ」 「なら頼んでもいいか? 俺は心配なんだ、この【箱庭】にも《異神理》が現れていないかどうか、確かめておきたい」 歪へ頷いてみせ、 「なら……今すぐにでも」 一衛がかつんと地面を踏み鳴らした。 それだけで、周囲が変わった。 ざあっ、と、先ほどまでの光景を拭い去るように。 「えええ、歩いていくとかそんなレベルじゃなかったああああぁ……!?」 卓也が驚愕の雄叫びを上げる中、 「これが……『電気羊の欠伸』の深部……?」 主に聞かれるのは不思議そうな声だ。 「異質な【箱庭】は、深部まで異質ってことなのかしら」 いっそ感心したようなディーナの声。 そこは、何もない漆黒の空間だった。 足元も天井もなく、彼らは何もない宙に浮かんだ格好だ。 ただ、蛍を思わせる白い光が時折ちらちらと瞬いては、この空間に果てがないことだけを教えてくれる。 「自分、ひとつ疑問なんですが」 ひとしきり驚いた後、卓也が冷静かつ真面目な言葉を発すると、彼に視線が集中した。 「なんですべての【箱庭】に棘が存在するって判るんですかね? そもそも、見つかってない棘を存在するって断定できるのはなぜなんだろう?」 見渡す限り『無』の深部の遠くを見晴るかすようにしつつ、卓也は顎に手を当てる。 「猫箱と同じですよね。見つからなければ『ない』とも言えます。自分には、この世界は、フォルダごとに分けられているようにも思えるんです。そのウィルスに感染したファイルを含むフォルダ――【箱庭】が崩壊するんじゃないか、って。そのウィルスが《異神理》であり、ウィルスに感染したファイルも実際に見つけるまでは感染していると判らない……それと同じことでは?」 シュレーディンガーの猫を引き合いに語られるそれは、確かに的を射てもいたのだ。 「小竹さん、俺たち、《異神理》がどこから来たのかって話をしてたんだ。『外』から持ち込まれたものであるにせよ、小竹さんのいうそれは適用されるんじゃないかなあ」 芽吹く前の棘をウィルスの『種』として、何らかのきっかけでそれが発芽し、世界の根幹にウィルスがばらまかれる。ばらまかれたそれは世界を蝕んでゆき、最終的には崩壊させてしまうのだ。 「……その棘への対策はないもんなんですかね。創世の二柱も、神さまがたも不可能だとしても、自分たちロストナンバーになら何かできないだろうか?」 すでにすべての【箱庭】に『種』が存在するとして、それを早期に発見して排除する方法はないのだろうかと頭をひねる。 「……あまりここに長居したいとは思わないから手短に訊くが、夜女神が覚醒したことでこの世界に影響はなかったのか。《異神理》が、今まで【箱庭】を戻そうとして女神たちがやらかしたことで苦しめた連中の何かなんじゃないかとも思ってたんだが、それはどうも違いそうだな」 やはり妙にそわそわしている久秀が、下調べした際に引っかかったことを挙げる。足元で光がまたたくたびにびくりとする様子は誰の眼にも不審に映ったが、問われたところで久秀には答えられないだろう。 「覚醒したとしても世界と夜女神はつながっていた。ゆえに影響はほとんどなかった。創世の二柱は世界そのものだ、彼女が消失の運命とやらに見舞われていたら、事態はまた少し変わっていたかもしれないが」 「なるほど。あとは……あれだな。夜女神はともかく太陽神、影薄すぎないか? 彼は何をしてるんだ?」 久秀の素朴な疑問に、どこかから噴き出す声が聞こえた。 周囲を見渡しても誰もいないが、一衛曰く、『外』で待っている――状況と会話の内容だけは一衛を通じて理解している――夢守たちが吹いたのだろうということだった。 「……もともとここの主神は夜女神だ。夜女神の伴侶が太陽神、という記述でいろいろ察してやってくれ。彼は彼で、地味な裏方作業に追われている」 そっかー姉さん女房ってことかーなどと理比古がうんうんと頷いている。 と、 「ねえ……あれ。見て、もしかして……?」 ディーナが、何もない空間の遠くを指さす。 目を凝らすとようやく見えるそれは、ぼんやりと赤く光る小さな棘だった。 不吉な、心の奥を波立たせるような赤だ。 「感情の、激烈なにおいがする。あれは……そうなんじゃないか?」 強力なテレパシー能力を有するアキが目を細め、 「嫌な気配だ。碌なもんじゃない」 「よくないエネルギーを感じるわ。あれを放っておいてはいけない」 ライフォースとレナが口々に言う。 「一衛、見えるか。……いや、見えんのだったか」 「……見える」 「何?」 「なぜだ? 多くのロストナンバーとともにいるからか……他に理由があるのか? 今ばかりは《異神理》が見える。あまりはっきりとではないが」 「何が判りますか、一衛さん。なんでもいい、教えてください。そこから、俺たちに出来ることが見えてくるかもしれない」 ぼんやりと光を放つ《異神理》を見据えながら優が言い、 「あと、この状態であれを取り除くことが出来ないかな? こういうのの芽って早いうちに摘んでおくべきだもんね?」 理比古が更に問いを重ねる。 棘をじっと見つめた一衛は、ややあって眉をひそめ、 「あまり、たくさんのものは見えない、が」 「ああ、どうした」 「アレがシャンヴァラーラに顕れた時期は判った」 「……それは、いつ?」 少し、困惑したようにぽつりと言った。 「五百年前、の、ようだ」 それは、その数字は。 「え……それって、どういう……」 シャンヴァラーラの事情を知る人々に、困惑が広がっていく。 示された数字の、その符号、その一致。 ――それが物語るのは、いったいなんなのだろうか。
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