オープニング

 しゃりん、しゃらん。
 雲母の鈴の涼やかさで、無数の光が、ゆったり、ゆるりと降り注ぐ。
 きらきらと煌めくそれを手のひらに受ければ、水晶の粒のようだった雫は水になり、掌の熱で溶けて消えてゆく。
 しりん、さらん。
 光る雫はとめどなく、歌うように降りしきり、彼らをあたたかく濡らしてゆく。
 しかしそれは、少しも不快ではないのだ。
 芯まで濡れそぼりながら、衣服が身体にまとわりつくことも、濡れたそれを重く感じることもない。ただ、『雨』はあたたかく、懐かしく好い香りがして、奇妙な感慨を誘った。
 これだけの雫を降らせながら、空はどこまでも高くあおく澄んで、ところどころに、真夏の、真昼の太陽の黄金と、夕暮れの紫と、夜明けの赤とをはらんでいる。精緻に編まれたレエスのようにも見える雲が、銀の光を透過しながら空を横切ってゆく。
 温かな土の感触を持つ大地には、何、という種族とも知れない、多様な木々や草花があって、透き通る葉を生い茂らせ、花を咲かせ、実を結んでいる。
「……不思議だ。なぜ、俺にも見えるんだろう」
 歪は、掌に受けたそれが、ゆっくりと溶けてゆくのを見つめながらつぶやく。
 覚醒後のとある事情により、完全に視力を失っている彼は、視覚以外の感覚がすさまじく鋭敏で、戦いや日常生活に支障をきたすことはなかったが、それでも、見るという行為を、他の器官で補うことは不可能なのだ。
 それなのに、今、歪には、ここで起きているすべてのものが見えていた。
 とはいえ、ヒトの持つ視野を大幅に超える、実に360度の視界から、何かがおかしいことは鈍い歪にも理解できる。人間のみならず、大半の存在は、こんな視野は持ち得ない。この視野を持てないからこそ、他の生物たちは、視覚以外の感覚を発達させてきたのだ。
「私の視界とリンクしているからかもしれないな」
 が、その疑問はすぐに解けた。
 彼をここへいざなった張本人、黒羊プールガートーリウムの化身たる夢守、一衛が、あっさりと答えを提示したからだ。
「……あんたには、世界がこんなふうに見えているのか」
「そうだな。私たち夢守には十以上の視界があるし、【箱庭】中に張り巡らされた感覚器が、拾いきれなかったものを伝えてもくる」
「それは……疲れないのか? 俺は今、少し、眼が回りそうだ。あまりにもたくさんのものが見えるというのも、考えものだな」
「さて……今まで、これ以外の視界を経験したことがないから、何とも言えないが」
 夢守とは、ヒトのかたちをしていても、ヒトの在りかたからはほど遠い、神の代理戦士たる兵器である。『電気羊の欠伸』を護ることを存在の至上原理とし、そのためならば大量殺戮も厭わない、本来ならば恐ろしいモノなのだ。『電気羊』に敵対する者にとっては、という注釈が必要かもしれないが。
 しかし、歪にとって一衛は、世界を隔てて再び出会った、見知らぬ懐かしき友人だ。歪自身が規格外の存在であるのも手伝って、彼は、生命の法則から大幅に逸脱した黒の夢守に対して、親愛以外の感情を抱いてはいない。
 ゆえに歪は、あっさりと今の視界に納得し、何でもない調子で本題に入るのだ。
「それで、ここは? こうして、ものを見ることが出来ると、ここが美しい場所だということは判るが」
 問う間に、金色の獅子と銀色の狼が走り寄ってきて、一衛のみならず歪にまで身体を摺り寄せる。一衛曰く、ここの番人だそうだ。狼の頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。
「ここは私の――人間風に言うと、『私的な』領域だ。私がこれまでに見た、たくさんのものが記録され、残されている。環昊記憶業野(カンコウキオクゴウヤ)、と、私は呼んでいるが」
「なぜ、俺をここに? ここに、その……俺を呼ぶ、何かが?」
 歪がシャンヴァラーラを、『電気羊の欠伸』の一衛のもとを訪れたのは、そんな夢を見たからだ。
 たかが夢、と笑うものもいるかもしれないが、あまたの不思議、あまたの奇縁を通り抜けてここへ来た歪にとって、それは、天啓にも等しいものだった。特に、彼は、ここへ来る『前』のことを、まだ思い出してはいないのだ。
「そうだな。……おそらく、そうなのだろうと思う」
 神によってつくられ、行動をプログラムされた兵器とは思えぬ――というよりは、出会ったころと比べると格段に人間臭い、煮え切らぬ口調で言って、一衛が宙へ手を掲げた。
 その手が差した先を、蝶が舞っている。
 薄い緑に透き通る、貴石のような蝶だ。
 石に詳しいものなら、最上級のフローライト、と称したかもしれない。
 神秘的な、まるで天なるもののように美しく、なぜか慕わしいそれに、
「……あれは?」
 妙な懐かしさを覚えて問えば、
「私は、あれをここへ持ち込んだ覚えがない。あれも、あれも」
 黒い金属をつなぎ合わせたかのような指が、金の鳥を、青い狼を、黒い犬を、それからさまざまな色合いのさまざまな動物たちを指し示す。それらは、この美しい記録の野にのんびりとくつろいで、ゆったりと欠伸などしているようだ。
「それは、どういう」
「最近、ここに、私ではないものの記録が混じるようになった」
「なぜ?」
「――私が、少しずつ、変質してきているから」
 変質、という言葉に奇妙な胸騒ぎを覚えた歪だったが、
「どうやら、私とつきあいの深いものの記憶、記録が、迷い込むらしい。あんなふうに、姿を変えて」
 説明のほうに気を取られ、理由を自らに問う暇もなかった。
 聴けば、ここの小石ひとつ、葉っぱ一枚、水の一滴まで、そのすべてが一衛の記録なのだそうだ。拾い上げて覗き込めば、『電気羊の欠伸』の営みのかけらを見出すことが出来るという。だからこそ、あれは自分のものではないと言い切れるのだろう。
「あれがお前を呼んでいるものなのかどうかは判らない。ただ、あれ以外には考えられなかったから、案内した。……どうするかは、お前の自由だ」
 いまだ失われたままの過去の記憶を探し、相見えるか、それとも、この美しい野をそぞろに歩き、気の遠くなるような時間が積み重ねられたあまたの記録を覗くか。何をするにも自由だと、一衛はほんの少し笑った。
「もしくは、お前が望むなら、茶でも菓子でも」
 先日土産に茶をもらったんだ、こういうのをとっておきと言うのだと教わった、と、どことなく楽しげに言い、
「今日はスロウレインがよく降るな」
 一衛は、楔形の瞳孔のある、不思議な眼を細めて空を見上げた。
「スロウレイン? ああ、あの雨のことか?」
「私の記録を凝縮した光の粒だ。あれが凝って、この風景の何かになる。――ん、ああ、また、私のものではない記録が混じっているな」
 光るかけらがくるくる舞って、地面へと降る。降ったそれは、地面へ降り立つと同時に紫と銀の虎の姿を取った。これもまた、のんびりと欠伸などして、その場に長々と寝そべる。
 不思議と穏やかな気持ちで、歪はそれらを見ていた。
「それで……どうする?」
 見知らぬ、懐かしい友人の静かな問い。
 歪は、そうだな、と、頷いて、次の言葉を探した。


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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。

<参加予定者>
歪(ceuc9913)

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品目企画シナリオ 管理番号2135
クリエイター黒洲カラ(wnip7890)
クリエイターコメント企画のオファー、どうもありがとうございます!
何でもあり、の自由旅行シナリオをお届けいたします。

もう、このコメント欄に何を書けばいいのか悩むくらいには自由です。
蝶を追ってみるもよし、動物たちとたわむれるもよし、荒唐無稽で摩訶不思議な『電気羊の欠伸』の歴史を垣間見るもよし。『とっておき』を用意している黒の夢守とお茶をするもよし、話をするもよし。もちろん、その他の行動を取っていただいても構いません。

すべて、歪さんの思うまま、望まれるままにお過ごしください。

なお、蝶と動物に関わる場合は、「どんなものを見たいか、どんな反応をされたいか、何を思うか」をプレイングにお書きいただけますと幸いです。


それでは、「この世界にあふれる命のすべてに意味があるように」と祈るようにうたう、スロウレインの降りしきる野にて、お越しをお待ちしております。

参加者
歪(ceuc9913)ツーリスト 男 29歳 鋼の護り人

ノベル

 温かい、光る雨が降りしきる。
 鮮やかな青い眼と、燃えるような赤い体毛をした美しい鹿が、そのしなやかな身体を歪に摺り寄せる。同じく青い眼と赤い羽毛を持った目つきの鋭い鷲は、彼の肩にとまるとからかうように歪の髪を引っ張った。
 黒い眼と黒い体毛の痩せた犬は朴訥に歪の足元で『お座り』をし、その傍らで、銀の眼に黒い体毛の仔犬がちぎれるほどに尻尾を振って歪の周囲をぐるぐる回った。緑の眼と黒い体毛の大柄な犬はというと、喜びを全身で表現するように歪に体当たりをした。
 深い青の狼が、よう、元気かい、とでも言うように鼻面を押し付け、紫の虎は大きな欠伸をして、まあゆっくりしていけよ、とばかりに彼の足元で長々と寝そべった。
「……ああ」
 心配そうに周囲を飛び回る金の鳥へ手を差し伸べ、歪は微笑む。
「お前は変わらないな、いつまで経っても」
 覚えていないのに、なぜか言葉が自然と口をついて出る。
 自分を取り囲み、深い友愛を表してくれる色とりどりの獣たち一体一体をやさしく撫で、感謝の言葉を口にする。
「……ありがとう」
 記憶には何も残っていないが、はっきりと判る。
 自分は遠い世界で彼らに護られていた。
 彼らが歪を愛してくれたから、歪は生きることを赦されて、手足を伸ばして呼吸をすることが出来た。食べること、眠ること、笑うこと、感じること、そして生きることの喜び、嬉しさを理解できた。
 傷つきながらも愚直に生きた先で、遠い日の歪は彼らと出会い、間違いなく救われていたのだ。
「そうだな、俺は幸せだった。――今でも、幸せだ」
 獣たちに触れ、彼らのやわらかな毛皮に、羽毛に触れながら――少し濡れた鼻先に、親愛の口づけのようなやさしさで頬や手に触れられながら、歪は感謝の言葉を紡ぎ続ける。ほとんど無意識のうちに零れ落ちる言葉は、自分が大切にされていて、それが魂の奥底まで刻まれた証しだろうとも思うのだ。
「ありがとう」
 楽しかった。美味しかった。嬉しかった。やわらかかった。まぶしかった。いとおしかった。やさしかった。
 未だ失われたままの過去のどこかから、かぐわしい香りが運ばれてくる。それは、『皆』で囲んだ食卓の匂いだったか、よく晴れた日に干された布団の懐かしいにおいだったか、それとも皆で見つめた海の、清々しい潮の香りだったか。
 やはりはっきりと思い出すことは出来ないが、歪は『そこ』に、確かにあった日々を感じる。それは、足元が温かくなるような安堵と、満ち足りた微笑みとを運んだ。
「だからこそ、俺は、護りたいと思い続けるんだろうな」
 第二の故郷となった鈴兼村でも、0世界を基本としたこの異世界群でも。
 我が身を死のただ中に放りだし、何も恐れず、悔いず、あまたの刃を、爪を牙を痛みを受け止めながら、血を流し続けた。
 それは結局のところ、『彼ら』が歪にみせた愛のかたちだったのだろう。そしてその愛が、今、歪と親友を再びめぐり合わせ、彼に生きる喜びと意味を与え続ける。――これを幸せと呼ばず、なんと呼べばいいのだろうか。
「護りたいと思いつつ、護られ続けている」
 と、そのとき、左こめかみ当たりの第三視界を、大きな蝶が横切った。
 先ほど一衛が指示した、薄い緑に透き通る、貴石のような蝶だ。
「フローライトのような、とは、誰が言ったんだったか」
 神秘的な、まるで天なるもののように美しく、なぜか慕わしいそれに、歪は確信を抱いていた。
「お前、が……?」
 すぐに判った。
 自分を呼んだのは『彼女』だと。
 『彼女』を追いかけなければ、という感覚があって、歪は紫銀の虎の尻尾を掴んで引っ張った。乱暴な扱いだとは思うが、信頼ゆえの行動でもあるので仕方がない。
「なあ、ついてきてくれないか。お前がいると安心するんだ」
 他の獣とは違って、虎が誰を表した記憶かは判っている。
「しかし……猫じゃなく、虎なんだな。これはつまり、出世したということか?」
 ともに覚醒してディアスポラし、先日めでたく再会した親友が聞いたら、俺は出世魚じゃねェし、そもそも猫じゃねェんだぞ、と呆れそうなことを口にして首を傾げる。全身全霊でのツッコミを得意とする親友とは違い、紫銀の虎はくわあああ、という大きな欠伸とともに伸びをするばかりで応えなかった。
 ただ、歪の呼びかけは聞こえているのか、よっこらしょとばかりに起き上がり、彼の横へ並ぶ。
「ありがとう」
 微笑み、虎と連れ立って美しい光景の中を歩く。
 蝶はふらふらふわふわと、夢守の記憶で出来た野原を飛び回り、あちこちを舞っては、そこにいったいどんな甘い蜜があるというのか、鮮やかな色の花にとまり翅を休めた。
 花から花へと飛び回るフローライトの蝶を追い、しかし特に急ぐでもなく歪は歩いた。記憶からなる花々は、一衛にとってよい感情から生まれたものだからなのか、どれもが清らかな香りを発している。
「いや……違うか。そもそも一衛に悪い感情というのは、あるんだろうか?」
 覚えていないけれど懐かしい、今は歪のするように任せて、自分は茶の用意をしている夢守にも思いをはせる。
 この【箱庭】が危機にさらされるときには、無慈悲な暴虐と化す夢守が、しかし悪意の塊だなどとは思えない。むしろ、逆に、悪意によって何かを行う夢守など、歪には想像が出来ない。
「……まあ、いい」
 今突き詰めるべきことでもない、と戻した意識の先で、伸ばせば手が届くほど近くに、蝶がゆったりと羽ばたいている。
「お前は誰だ? 俺に、何を伝えようとしている……?」
 知りたい、答えてほしい、触れてみたい。
 常の、自律的でストイックな彼には珍しいほど強く思い、手を伸ばすと、蝶はふわりと翅をたわませて彼の掌へ舞い降りた。懐かしい、甘い香りが鼻腔をくすぐり、意識の隅を、決してあの時には見ることが叶わなかった花の色彩が過ぎ去ってゆく。

(花を、見に行きたい。あなたと、わたしとで)

 声が聞こえた気がして、蝶を見つめれば、

 わたしを殺して
 神は嘆き
 少女のように泣き
 剣は揮われ
 天がくだけて
 魔物が
 命が
 斃して、拾い集めて、つないで
 修羅と呼ばれ、狂人のごとく扱われ
 忌み嫌われて、孤独で、恐れられ
 それでも
 役目を果たす
 償いを
 縛りつけてしまった
 けれど
 愛していた
 今でも
 たとえ最後に
 滅びだけが待ち受けているのだとしても
 すべてを受け入れる
 ただ、愚直に歩む
 砕けた空の下を

 いくつもの断片、そのままでは何のことかも判らないものが、歪の脳裏をざあざあと横切っていく。
「あれは……俺は」
 ざあざあ、ざあざあと、耳の奥で風の音が響き渡る。
 銀の髪に薄緑の眼をした、神代細工のように美しい少女が、こちらを見て笑った――ような、気がした。
「そう、か……」
 世界は廻っている。
 くるくる、ぐるぐると、滞りなく。
 生命は、万物は流転し、営みは繰り返されてゆく。
 ああ、では、空はつなぎ直されたのだ。
 わけもなく安堵が込み上げて、歪は息を吐いた。
「俺は、もう、必要ないんだな」
 そこには、晴れやかな哀しみがにじむ。
 世界は再生され、新たな命が生き始め、日常という営みが続いてゆく。そんな『当たり前』が、再び始まったのなら、これ以上歪が望むことなど何もなかった。
 自分の犯した罪が償えたのかどうかは判らない。そもそも、いったいどんな罪だったのかさえ、今の歪には判らないのだ。
 しかし、

(ねえ?)

 やわらかい声が、蝶を通して響き、

(あなたが生きていてくれたら、私は幸せよ)

 無上の、とさえ言える言葉は、歪のすべてを許していた。
「ああ……」
 微笑みが唇をかすめる。
 覚えていないけれど知っている。彼女が歪を送り出してくれたのだと、今は判る。歪への愛ゆえに、彼女は彼を手放すことを選んだのだ。(そばにいて、私を自由にして、お願いだから)幼い、頑是ない感情を乗り越えて、ただ歪のために。
「もう……居場所などないと、意味などないと、思っていたが……」
 天を砕いた償いに、命をかけて空を繕った。そしてその役目が終わった時、彼もまた消えるはずだった。人々の記憶からも消え去り、まったくの『なき者』となるのだろうと思っていた。
「だが……お前は、覚えていてくれたのか。もはや、意味のない俺を」

(そうよ、当然じゃない。――愛しているわ、ずっとずっと。だからあなたは、生きて。ね?)

「そうだな。俺も――いつまでも、ずっと、愛している」
 くすくすという悪戯っぽい笑い声。

(私を? 私の世界を?)

「両方だ」
 それが、蝶から伝わってくるのか、それとも記憶から響いてくるのか、歪には判らない。しかし、不自然さのかけらもなく響くそれは、己が魂の底に彼女が根ざし、自分をかたちづくっていることを教えてくれる。
 そのことにも、深い喜びが込み上げた。
 もはや会うことは叶わずとも、分岐し二度と交わらない位置まで分かたれてしまった道の向こう側で、彼女と世界がいつまでも幸せであればいい。
 そう、心の底から、深く願った。

 * * *

「あんたの見る世界は美しいな」
 湯気を立てる茶を供されながら、朴訥に微笑み、言うと、端的にそうかと答えが返った。
「見ることのありがたさを改めて感じた気がする」
「お前は、その眼を治そうとは思わないのか? それは、不可能なことのか?」
「さあ……考えたこともなかった。鈴兼村に記憶と光を捧げたとき、覚悟はしていたから。特に、不便もないしな」
「そうか」
「ああ、それに」
「?」
「こうして、暗闇に閉ざされていたほうが、今日見た光景をはっきりと思い出せる。だから、このままでいいんだ」
 すでに、『見る』ことは彼のものでなくなって久しい。
 いつか、いずれ、そんな局面が来るのかもしれないが、歪が光と記憶を取り戻し、以前の『歪』に戻る日は、今のところまだ訪れる様子はなかった。歪自身、必要性を感じてもいない。
 あの後、蝶や獣たちと別れ、一衛の記憶を覗かせてもらった。
 黒い夢守の複雑怪奇な視界の中で、【箱庭】は奇妙に、摩訶不思議に、しかし活き活きと、気の遠くなるような日々を繰り返しながら続いている。盲目ゆえ、護るべき世界を見つめ続けることのできる一衛に、歪は憧憬に似た感情すら抱くのだ。
 そして、
「なあ、一衛?」
 ひとつの気がかりを問いかける。
「どうした」
「あんたは言ったな。変質してきていると。それは……なんだ? 電気羊で何が起きる? 何が起きようとしている?」
「ずいぶん矢継早だな、珍しい」
「あんたは俺にとって、大事な友人だ。覚醒前のことも、後のことも、どうでもいい。俺にとってなくてはならないもののひとつだ。それが異変にさらされるというのなら、見過ごすわけにはいかないだろう」
 真摯でまっすぐな歪の言葉に、一衛は少し黙った。
「『電気羊の欠伸』に何が起きるというわけでもない。ゼロ領域に最後の夢守が生まれた……何を心配する必要もない」
「しかし、変質とは」
「私は固定され続ける存在のはずだった。揺らぎの少ない、安定した兵器として。それが少し変わってきている。それだけのことだ」
 淡々とした口調ながら、何かの予兆を感じずにはいられないその言葉に、仔犬のような不安が漏れたのだろうか。ふ、と、一衛が微笑む気配が伝わってきた。
「お前たちは貴いな。ヒトとは……心とは、なんと貴いものなんだろうと、今になって判る」
 手触りのよい茶器から、馥郁たるあおい香りが立ち上る。甘く香ばしい香りを漂わせる菓子は、先日ここを訪れたロストナンバーが焼いてきたものだという。
「何、心配は要らない。私は変わらず、お前や、旅人たちが好きだよ。それだけは、もう、揺らぎようがない」
 茶と菓子を勧められながら、一衛の声に温度が宿るのを聞きながら、なぜか、奇妙な胸騒ぎが止められない自分を、歪は感じている。
「――そうだな。なら、俺は、あんたが本当に困ったとき、力になろう。そうしよう」
 無論、どんなことがあったとしても、示すべき己が意志に、何の変りもないのだが。

クリエイターコメント企画オファー及びご参加ありがとうございました。
遠い日の、別の『歪』さんの、その記憶の一端を担うノベルをお届けいたします。

この不思議な邂逅は、歪さんを幸せにすることが出来ましたでしょうか。そしてそれは、歪さんをどう変え、どう整え、どう護りどう進ませるのでしょうか。

もしも許されるなら、記録者はそれらを見守り続けたいと思います。

今回(も)こまごまと捏造させていただきましたが、それらも含めてお楽しみいただけましたら幸いでございます。


それでは、どうもありがとうございました。
またご縁がありましたらぜひ。
公開日時2012-08-29(水) 22:50

 

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