カレンダーに並ぶバツ印を指で辿りつつ、橘神 繭人は溜息をつく。眉間に皺を寄せ、表情は暗い。 「どうした、繭」 シヴァ=ライラ・ゾンネンディーヴァが、そんな繭人の様子に気付いて声をかける。繭人は一瞬体を震わせた後、振り返る。 「もう、一週間経つよね」 「ん?」 「……天撃さんが、ヴォロスに行ってから」 繭人の言葉に、ああ、とシヴァは気付いた。 一週間前、共に住んでいる天撃がヴォロスへと旅立ったのだ。ちょっとばかし、行ってくると告げて。 「やっぱり、俺も行けば良かった」 真剣な眼差しで繭人は言う。ついていくと言う繭人を、天撃は優しく諭したのだ。 すぐに帰ってくるから、シヴァと留守番していてくれ、と。 「繭……」 肩を微かに震えさせる繭人に、シヴァは手を伸ばして頭を撫でる。 少し、熱い。 「繭?」 「シヴァさん、俺」 繭人は何かを言いかけるが、ふらり、とよろめいてしまう。シヴァは慌てて繭人の体を支える。 ほんのり、頬が赤い。額に手を当てると、熱を帯びている。 「繭、熱があるんじゃないか?」 「熱? 熱なんて……分からない」 少しぼんやりとしている繭人を、シヴァは抱き上げる。 「少し休んだ方が良いだろう、繭」 「でも、俺っ」 更に何かを言おうとする繭人を、シヴァは優しく微笑んで止める。 繭人は、天撃に依存している傾向にある。だから、今回は心配しすぎて熱が出てしまっているのであろう。 ならば、繭人を安心させる為の方法は、一つしかない。 「少し休んだら、出発しようか」 「出発?」 ベッドに繭人を下ろしつつ、シヴァは口を開く。 「ヴォロスへ」 ヴォロスの、とある渓谷。そこに天撃は倒れこんでいた。 「……あ」 声を出そうとしただけで、全身が痛んだ。手を動かそうとしても、どちらも動かない。 内臓破裂と全身打撲。 (満身創痍だのう) 頭の中で天撃は思い、苦笑する。そこに、ぬっと巨大な体が現れる。 (魔獣、か) 竜刻を飲み込んでしまい、凶暴化した魔獣を討伐する、というのがヴォロスでの依頼だった。戦いの最中、誤って谷底に転落さえしなければ、何てことはない依頼であった。 その日のうちに、繭人とシヴァの元に帰れる筈だったのだ。 (今はもう、討伐もできぬのう) 魔獣が襲い掛かってくる事を覚悟していたが、魔獣はキュウン、と天撃の傍で鳴いただけだった。 目線だけを動かすと、少しはなれたところに竜刻が転がっている。 (転落の衝撃で、吐き出したか) 元は大人しい魔獣なのだろう。全長5メートルはあろうかという巨大な体を、優しく天撃に擦り付けてくる。まるで、謝っているかのように。 「そうか、ぬしの下敷きになってしまったのか」 天撃が言うと、魔獣は二つの首を何度も上下に振った。申し訳なさそうだ。 「まあ、仕方ない」 笑おうとしたが、痛みで出来なかった。魔獣は何度も天撃に顔をすりつけた後、タッとどこかへ走っていった。 (どこかへ、行くのかのう) 無事に竜刻を吐き出したのだから、何処にいっても構わない。ただ少し、寂しいだけで。 (……寂しい、か) 繭人とシヴァと三人で暮らしている今、その感情は殆ど生まれなかった。家へ帰れば、必ずどちらかがいた。もしいなくても、書置き等がしてある。 そうして、天撃を笑顔で迎えてくれるのだ。 「繭、シヴァ」 声に出してみる。痛みの所為で、大きな声は出ないけれども。 暫くすると、魔獣が大きな葉を頭に乗せて帰ってきた。天撃の傍により、葉をそっと傾ける。 ぽた、ぽたぽた、と口元に冷たい雫が落ちてきた。それを天撃は、ごくり、と飲み干す。 (水か) ありがたい、と天撃は眼を細める。 体が動かない今、水を口にする事などかなわないと思っていたからだ。 「おぬし、水を取りに行っていたのか」 こくり、と魔獣は頷く。 「何故……どこかへ行かぬのだ?」 魔獣はつい、と上を見上げる。 谷底は、想像以上に深い。いたであろう地面は、天高い位置にある。元の場所に戻るだけの力もない。 そして、水を確保できるだけの小川が、近くにあるだけのようだった。魔獣も天撃も、どうしようもない状況なのだ。 (あと、十日ほどか) 自らが置かれた状況を、天撃はそう判断する。 あと十日ほど放って置かれたら、確実に死が訪れる。 キュウン、と心配そうな声を上げる魔獣に、天撃は静かに微笑む。 「すまぬが……もう少し、水をもらえるかのう?」 魔獣は頷き、再び水を取りに向かった。 まずは喉を潤そう、と決めたのだ。 繭人とシヴァは、天撃が接触した現地民に話を聞いた。それにより、ここ一週間、魔獣の被害がなくなっている事、そして天撃の姿も見ていない事が分かった。 そうして、彼らは口をそろえて「魔獣が大人しくなったし、もう帰ってしまったのだと思った」と答えたのだ。 「帰ってなんて、ないよ」 ぽつり、と繭人は言う。「そしたら、家に帰ってくる筈だから」 「当然だ。繭のいる家に、天撃が帰らないわけがない」 シヴァも、こくりと頷く。頷いてくれるシヴァが頼もしく、嬉しい。 だが、それ以上に天撃の事が心配だった。繭人の頭に、ふとよぎってしまうのだ。 ――もし、天撃がこのまま、帰ってこなかったら。 その思いが浮かぶたび、繭人は頭を横に振る。 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら。 「……だな、繭」 「え?」 シヴァに話しかけられ、繭人ははっとして顔を上げる。シヴァは少しだけ寂しそうに微笑んでから、再び口を開く。 「天撃の行ったという場所に、行ってみた方が良さそうだな、繭」 「あ、うん、そうだね。行ってみないと」 繭人は大きく頷く。シヴァはほっとしたように頷き、歩き始めた。 「……うん」 繭人はシヴァの背を追う。 不安を払拭させる為にも、今は前へと進むしかないのだ。 ううう、と天撃は唸る。 止まない激痛に、動かない体。そのどちらともに対処する事ができない。 だが、傍にいる魔獣が水だけは飲ませてくれる。 (このままでは、割合早いうちに、死ぬのう) 天撃は、漠然と思う。あと十日ほど、とは思っている。だが、それは自分の意識がきちんと保てている状態であり、そしてまた、魔獣がずっとついていてくれて、水を飲ませ続けてくれているという条件付だ。 (魔獣も、弱っているじゃろうし) ちらり、と魔獣を見る。 相変わらず心配そうに、天撃の傍で控えている。 ふさふさの毛並みと体温が、激痛の中で少しだけ癒してくれている。 (しかし……どうじゃろうか) 天撃は、自分が酷く冷静な事に気付く。 死に対する恐怖はない。ただ漠然と、自分が死ぬだろうと理解しているだけだ。 絶望もしていない。このまま朽ちていくのも仕方がない事だと、感じているだけだ。 そうして、悲観もしていない。これが運命なのだ、と思っているだけなのだ。 「……そうか」 何故だろうか、と考えた末に、天撃は答えを導き出す。「わしは、随分長く生きておる」 長い時間、この世に留まっているのだと天撃は知っている。自分が生きている時間は、他のものに比べて長いものなのだ、と。 長く生きた。だからこそ、恐怖も、絶望も、悲観も、ない。 (ただ) 未練があるとすれば、一つだけ。 「繭のことは……心配じゃがのう」 口に出してみて、改めて気付く。自分がいかに、繭人を大事に思っているかを。 (繭……) 眼を閉じれば、浮かんでくる。不安そうに、手を伸ばす繭人を。 いつだって迷子のような様子で、それでも声をかけてやるとほっとする繭人。天撃に前面の信頼を置いてくれる。ここに、居ても良いのだと言ってやれば、心底嬉しそうに笑って。 そんな繭人の前から、もし自分が居なくなってしまったら、どうなるだろうか。 泣くだろう。悲しむだろう。いや、もしかすると……。 (……あ) そこまで考え、ふらり、と思考が崩れる。 激痛で保っていたはずの意識が、一瞬なくなったのだ。 「……まあ、大丈夫か」 ゆるりと、天撃は口にする。 (シヴァが、何とかするじゃろうて) もう一人の同居人、シヴァ。まだ繭人は怯える時もあるが、シヴァが優しい事は何より繭人が分かっている。 時間はかかるとしても、シヴァが何とかしてくれるであろう。 そうすると、もう、未練はない。 思い残す事も、ない。 (もう……良いかのう) 天撃は、静かに眼を閉じようとする。気配に気付き、魔獣が近寄って来たが、もうどうでもよくなっていた。 (さあ、行こうか……) ――ぶもっ!!!! 意識を手放そうとすると、周囲に突然金色の触手が生えてきた。 「さん……天撃さんっ……!」 「大丈夫だ、繭。大丈夫だから」 必死に泣き叫ぶ声とそれを優しく宥める声と共に、ぽたり、と水滴が上から落ちてきた。 天撃は、懐かしい声に眼を細める。 キュウン、と鳴く魔獣も、心持ち嬉しそうに尻尾を振っている。 「助かった……のかのう?」 天撃は、自分に顔を押し付けてくる魔獣の咽喉を少しだけ動く手で擽る。柔らかく、暖かい。 上から、金色の触手をロープ代わりにして、繭人とシヴァが降りてきている。 「繭……シヴァ……」 天撃はそう言った後、ぷつり、と意識を途切れさせてしまった。 再び天撃が眼を開けると、そこには繭人とシヴァが自分を覗き込んでいるのが見えた。 「天撃さん!」 「天撃!」 同時に叫ばれ、天撃は二人を交互に見る。 繭人は泣き腫らした目をしていたが、心底嬉しそうな表情をしている。 シヴァはほっとしたような表情をしているが、すぐにむっとした顔へと変わった。 「繭、シヴァ」 声をかけ、繭人へと手を伸ばそうとして、気付く。 手が包帯でぐるぐる巻きになっている。何とか動く手で確認すると、全身が包帯まみれになっているようだ。 「心配したんだよ、天撃さん」 「すまなかったのう、繭」 天撃の声を聞き、繭人は再び目から涙をあふれ出した。ほっとしたのと嬉しいのと、やっぱり心配なのとが混じっているようだ。 「駄目じゃないか、天撃。そんな状態になるとは」 「うむ、なってしまったものは、仕方なかろうて」 「事前に何か手段を取れるようにしておくとか、対策があっただろう?」 シヴァの言葉に、繭人もはっとしたように口を開く。 「そ、そうだよ、天撃さん! たった一人で、魔獣討伐に行くなんて」 「すまぬ、二人とも」 天撃はそう断ってから、改めて二人を見る。いつもと変わらぬ二人が居る。 「そういえば、魔獣はどうなったかのう? 動けぬ間、大分お世話になったのじゃが」 「魔獣なら、一緒に地上へと運んでおいたよ」 「何度もぺこっと頭下げてたよ」 「そうか……ありがとう」 自力では出られなかった谷底だった為、お礼を言ったのであろう。 それと、もしかすると天撃を宜しく、の意味も含まれていたのかもしれない。 「本当に、たくさん世話になってしまったのう」 魔獣に、繭人に、シヴァに。 「でも、本当に……本当に、無事で、良かったよ」 繭人は再び泣き出す。 「しかし、繭をこうして泣かせて。大怪我をして。命の危険もあったんだぞ? そこのところ、ちゃんと反省しているのか?」 シヴァはむっとした表情のまま、説教を続ける。 (繭には泣かれ、シヴァには説教をされ) 天撃は思う。今まで長らく生きてきて、こんなにも人から泣かれたり、説教されたりといった事が、あっただろうか。 死に対し、恐怖も悲観も絶望も無かった。それは事実だ。未練も、ほぼ無かったといっても良いだろう。 だが、それでも。今こうしてここに居る事が、嬉しくてたまらない。 「良かったよ、本当に」 「笑っている場合じゃないよ?」 泣かれても、説教されても。ついつい口元が緩んでしまう。 「わしは、いつ退院できるのかのう?」 天撃は、二人に尋ねる。 「体が治ったら、だよ」 涙を交えつつ、繭人が言う。 「つまり、まだ動けないという事だよ」 説教口調で、シヴァが言う。 「そうか……ならば早く体を治して、家に帰らねばのう」 天撃はそう言って二人を見た。 繭人がいて、シヴァがいる。それが当たり前である家に、帰りたいと思った。今居るこの状況も、勿論愛おしいのだけれど。 「うん、帰ろうね。早く帰ろうね!」 「だったら、もう無茶はやめてくれ」 天撃は二人に頷いた。 泣いている繭人と、まだむっとしているシヴァへと向かって。 <病室内に泣き声と説教が響き続け・了>
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