暗い、くらい夜だった。膨らんだ月は粉塵の向こうだし、古い街灯は断末魔のように明滅を繰り返している。 ひび割れた街灯から霊力の欠片が這い出す。ミミズのようにのたくる蒼白は墨色の闇に入水した。バチッ。街灯は尚も不規則に瞬く。青白い明かりに緋の小袖が照らされては消える。 バチバチッ……。街灯が激しく点滅し、消えた。 青ざめた瓜実顔が暗闇に浮かび上がる。 「死んだのかしら……」 ほのかは街灯を仰ぎ、ぼんやりと首を傾げた。腰まである垂らし髪がぞろぞろと流れていく。 「死んだのね」 緋色の小袖を羽織り直し、のろのろと歩き出す。暗闇の中の緋は古い血のように黒ずんで見える。 静まり返った、細い路地だ。妙齢の女の独り歩きには似つかわしくない。ほのかの眼はどこか虚ろで、足取りも幽霊のようであった。何処に向かっているのか、誰も――もしかするとほのかさえも――知らない。「早く……」 色のない唇から掠れた哀願がこぼれる。 「早く、来て」 琥珀色の瞳が睫毛で翳る。 いつまで彷徨えばいいのだろう。いつになったら終わるのだろう? 分からない。分からない。いくら考えても答えは出ない。 それでも歩みは止めなかった。立ち止まれば願いは叶わぬ。ほのかの望みはただ一つだけ。 暗闇をまさぐるように進む。 奥へ奥へと分け入り、いつしか袋小路に迷い込んでいた。ほのか自身がそれを望んだかのように。 湿った足音が背後に忍び寄る。 「ああ」 濃厚な殺気にどうしようもなく安堵した。 「やっと会えた……」 ゆっくりと振り返る。これで終われる――。 どつり。 刃物に突き通され、体が倒れ伏した。 複数の足音がばたばたと集まる。数人の男女が忙しなく死体を取り囲む。 「怪我はない?」 女の一人がほのかに駆け寄った。ほのかは沈痛な面持ちのまま視線を上下に彷徨わせる。ほのかの足元には襲撃者の死体が転がっている。 「大丈夫?」 女が気遣わしげにほのかを覗き込んでいる。この女たちはほのかを助けてくれた。 ――余計なことを、とどうして言えよう。 「これでは何の救いにもならない……」 はらはらと、涙のように言の葉が散る。 「わたしは救われるべきではないのに……倒れるべきはこの方ではないの……」 亡霊のように黒髪を揺らし、ほのかは暗闇の奥へと消えた。青ざめた月だけが血の色の小袖を見送っていた。 インヤンガイを訪れてどれだけ経つだろう。三日目までは数えていたが、それから先はやめた。数えることすら面倒になったからだ。 もう長いあいだ夜歩きを繰り返している。場所は様々で、ビルの谷間であったり繁華街の裏通りであったりした。ほのかは盲目的に暗闇を求めた。人気のない場所を選んで彷徨った。 ほのかの振る舞いは恰好の餌食だ。儚げで非力な女など俎の上の鯉に等しい。 「いい加減にしたらどうだい」 見かねた探偵が苦言を呈した。 「危ないって言ってるだろうが。あちこちで噂になってるぞ」 「良いのです」 「犯罪者を呼び寄せるようなもんだ」 「それでも良いのです」 ほのかは緩慢に、ひどく億劫そうにかぶりを振った。琥珀の瞳が憂いで濡れている。 「わたしがそれを望んでいるの……どうかこのまま……」 「分かった、分かった。その代わり」 探偵は辟易しながら包みを押し付けてよこした。掌に収まるほどの小さな巾着だ。 「これを持っとけ。いざという時に使いな」 ほのかはぼんやりと巾着を見つめるばかりであった。 痩せ始めた月の下、今宵もまた暗闇を漂う。黒髪と小袖を引きずるように、疲弊した足取りで彷徨い続ける。行き着く先はいつだって袋小路だ。ほのかの前には無慈悲な壁が立ちはだかっている。 ひたりひたりと足音が近付く。おぞましい殺気が這い寄ってくる。 「これでいいの」 ほのかは酩酊したようにふらふらと振り返った。 「逃げる気なんか……初めから……」 ごとり。鈍器が振り下ろされる。 倒れたのはまたしても襲撃者の方であった。「大丈夫?」、「怪我はないか」。横槍を入れた男が立て続けに問いかけてくる。 「どうして……」 ほのかは真っ黒な空へと視線を這わせた。 「こんなことは望んでいないのに」 男を詰ってもどうにもならぬ。それでも吐露せずにはいられない。 「救われるべき者はわたしではない……いつになったら終わらせられるの……」 悲痛な問いに答えられる者はなかった。 次の夜も、そのまた次の晩も彷徨は続く。 「どうか……どうか」 髪が重い。着衣すら疎ましい。 「早く終わりにさせて頂戴……」 薄い月影は鳴りを潜め、周囲で揺らめくのは濃い闇ばかり。小袖の緋はやはり黒ずんだ血に見えた。 月はしなび、いくつもの夜が通り過ぎる。 ただでさえ希薄なほのかの気配は消え入りそうに霞んでいく。 ジッ。ジジッ。青白い誘蛾灯に羽虫が焼き殺される。ジジッ、ジッ。虫は次々と飛び込み、焼かれていく。彼らは狂っているのだろうか。だから死ぬと知って灯明に近付くのだろうか。 あるいは灯が虫を吸い寄せるのか。蒼白な明かりは危うい美しさで闇に焼けついている。 青白いほむらはあかあかと燃えるものより熱いのだ。 月もまた蒼白だ。痩せ衰えた月光がほのかの頬に陰影を刻みつける。少し痩せたほのかの姿は病的な風情すら匂い立たせていた。人助けという名の邪魔に幾度も見舞われ、望みはなかなか成就しない。おまけにほのかの噂を聞きつけた変質者が後をつけるようになっていた。邪魔が増えたのだ。 「まだなの」 死人のような嘆息が暗闇を揺らす。 「いつ終わるの……」 引き寄せた小袖に爪が食い込む。小袖は血のようにべったりと背に貼り付いている。 ほのかは足音すら立てずに路地を辿った。すえた臭い。換気口から吐き出される食い物の蒸気。夜が深まっても街は眠らない。しかしそれも表通りの話だ。猥雑な喧騒は輪郭を失い、遠くでぼんやりと揺れるのみ。 細い道を、暗い路地を選んで歩を進める。油っぽい活気から徐々に遠ざかっていく。 今宵もまた袋小路だ。 聳え立つ塀の前でほのかはのろのろと目を伏せる。今夜もこのまま終わるのか。願いはいつ満たされる? 諦めたように嘆息した時、ひたひたと足音が近付いてきた。 「ああ」 ほのかはうっとりと息を吐いた。 「来て下すった……」 間違える筈はない。この殺気の色はとうに覚えた。 ゆっくりと振り向くと、真っ黒な――闇をそのまま凝らせたような――人影が立っていた。 「一体どなたなの……?」 人影は答えない。嘲笑の気配だけが返る。ほのかもまた薄く笑んだ。誰なのか、なぜなのかは初めから問題ではなかった。 ジジジッ! 悲鳴を上げて街灯が事切れる。 投網のように闇が降ってきた。折れそうな月は叢雲の彼方だ。 「さあ。早く」 だらりと腕を垂らし、俎上の魚のように抵抗を放棄する。 「わたしはここ……」 両のかいなを無防備に開き、求めるように指先を伸ばす。 「嬉しいのです。とても。とても」 色のない唇を甘やかに弛ませ、 「ようやく巡り合えたのだもの……早く……早く――」 身を委ねるように瞑目した。 鈍器が振り上げられる気配。 脳をつんざくような悲鳴。 ごとりと凶器が落ち、どさりと体が倒れ伏す。 ほのかはゆっくりと目を開いた。泡を吹いた男の死体が転がっている。ほのかは細く長く息を吐き出した。 何とかなったようだ。 「御苦労様」 ゆっくりとカタシロを拾い上げる。この身代わり人形の悲鳴を聞いて立っていられる者は少ない。 依頼を受け、ほのか一人でも大丈夫だと司書に言われた時は不安だった。案の定なかなかなかなかうまくいかず、ほのかは少々疲弊していた。 「みえるのはあなただけではないの。慣れているから……」 死体の上の虚空を見つめ、懐から巾着を取り出した。中には探偵がよこした鍼が入っている。この鍼を打ち込めば目の前の暴霊は消え、死体に憑依を繰り返して殺人を重ねることもなくなる。 恐怖は感じなかった。死体は悪さなどしないからだ。 差し当たっての問題は鍼のほうで、ほのかはおっとりと頬に手を当てるばかりだった。 「どこにどう打てば良いのかしら……?」 包丁なら慣れているが鍼を扱ったことはない。目打ち――アナゴなどが暴れぬよう、太い錐状の道具で頭部を俎に固定する――ならば経験がある。 いま困るのは依頼を完遂できないことだ。この場から逃げられることだ。 ならば目打ちで良いのではないか。 「できるだけ努めるけれど……」 振り上げた鍼は氷柱のように尖っている。 「痛かったら、ごめんなさいね」 おぞましい悲鳴が上がり、緋の小袖が返り血を浴びた。死体が跳ね、痙攣し、びちびちと逃れようとする。ほのかは恐ろしい迅速さと正確さで彼の毛髪を掴み、引きずり倒した。俎から逃げる魚を捕まえる時のように。 「ごめんなさい。目打ちは一度で済むものだから」 もう片方の眼に鍼を振り下ろす。丹念に。静謐に。血のような小袖を肩に貼り付かせ、ほのかは黙々と仕事をこなし続ける。滑らかな額に汗の玉が浮かんでいた。何せ相手は大の男なのだ。 青白い頬に返り血が飛ぶ。埃でも除けるように頬を拭い、尚も鍼を打ち込み続ける。 そこへ探偵が駆け付けた。どうやらほのかを心配していたらしい。 「……大丈夫か?」 凄惨な光景に探偵の声が震える。ほのかは垂れた黒髪をぞろりと持ち上げて応じた。 「血など魚にも流れているもの……」 ぬるい風が叢雲を剥ぎ取り、怯えた月が顔を出す。 「人の血だって同じ色」 仄暗い微笑が浮かび上がった。 (了)
このライターへメールを送る