辺りを見回してみる。 今まで居た世界とは全く違うようでいて、どこか似通っているような錯覚を受けるのは何故だろう。 僅かにたなびく風が虚月の長く鮮やかな髪を揺らしていく。何だかそれが余計に侘しい。 空気は美味しい。暖かい冬の日のように、ほのかな冷気とまどろみのぬくもりが口から入って身体全体に行き渡る。 ロストナンバーとなることを自らの意思で決め、覚醒したは良いものの。 「……はてさて」 扇で仰ぎながら、見慣れぬようで見慣れた気もする世界を眺める。 「どうすればよいのじゃ~……」 これからは住む所を確保しなければならない。 昨日覚醒し、無事に保護されたのはいい。早くて助かったくらいだ。適当なところで一泊できたのも助かったが、まさかこれから先ずっとあの場所に厄介になるわけにも行かない。 身一つなのは身軽でいい。これから先のことも、のんびり考えてゆける。 だがそれは、守るべき者がいた方がこれからの行動をキッチリしっかりと考えなければならない場合よりも、ある意味身動きがとりにくい。 けれど……誰も虚月の出自を知らない世界というものは、不安も多くあるが新鮮でもある。 子どものようなワクワクするという気持ちからは随分と長い間離れていたような気もして、悲観はしていない。 風が吹く。 髪がなびく。 遠くから土のにおいがする。 たとえどれだけ世界が改変しようとも、住まうべき世界が変わろうとも、それだけは決して変わらないのだ。 「……夢か」 誰に言うでもなく、紫雲霞月は呟いた。 丁度一月に一度の眠りを経て、予兆とも言うべき出来事に遭遇したわけだ。 夜人族である霞月は基本的に夢を見ない。例外として夢人族が近くにいるときにだけ、夢を見るという少々変わった特質を持っている。 「私が夢を見たと言うことは……夢人族の誰かが“こちら”に来たようだね」 柔らかく微笑む。 寝起きで少しだけ肌蹴た肩をゆったりとした動作で着物を戻す。 ロストナンバーとして目覚めてからこちら、何度か眠りについたことはあるが、一度たりとも夢を見たことはなかった。それはつまり故郷の世界を同じくする夢人族が覚醒していないということだったのだが。 「しかしまた懐かしいひとの夢を見たものだ」 夢に出てきた相手は、太陽の光のような色の長い髪を持つすらりとした肢体の女性――因縁深い相手であった。 千年以上経ってもまだ何も忘れることは無い。 彼女がいるのだとしたら、なんと詩的な夢だったのだろう。 今までのいた世界に居たときにも、夢人族が夜人族の夢に出てくることもよくあったのだが、その時の感覚とは違う。あの頃は「ああ、夢人族が出てきたな」という程度のものであったのだが、今見た夢の感触というべきものは、いやにはっきりとしたものがあった。 予知夢など曖昧なものを信用するのは時と場合によっては危険だが、この際、予感を信じても良いかもしれないし、求める相手でなくとも同じ世界の出身者だ。力になれるものならなりたいし、久しぶりに故郷の話も聞きたい。 顔を洗い身支度を整え、とりあえず世界図書館に向かうために、世界を同じくする長い長い付き合いのある五行長の一人にふと止められる。 「どちらへ?」 「ちょっと世界図書館までね。 ……夢でめぐり合った人と出会うために」 青い布の向こう側で、目をぱちくりとしたようだ。彼がこういう反応をするのは珍しい。しかしすぐにいつもの雰囲気を纏う。 「なるほど。それではお気をつけて」 くつくつと笑いながら、霞月は片手を挙げてそれに応える。 なにやら最近の彼はどことなく様子がおかしい。 正面きって尋ねても彼ははぐらかすだろうし、搦め手で問うても同じことだろう。 いつか話してくれるのを待つ……というのも、妙に落ち着かない。 だからこそ彼女であれば、彼の復帰をともに支えてくれた彼女であればこそ、また助けることが出来るのではないかと、期待を持ってしまう。助けるということはおこがましいかも知れないけれど。 いつだって望むのは親しい、大切な人の心の平穏なのだ。 ※※※ 虚月はフラフラと街中を散策していた。 故郷の世界より更に豊富な人種に満ち溢れ、目も飽きない。大きな視野で見ていれば個人を特定して見ているとは間違われずに済む。 ヒトとは全く違う容姿を持つもの、野に住まう自由で誇り高い獣の姿をしているのにヒトと同じ言語を解すもの。 虚月の故郷では昼人族と呼ばれていたヒト達によく似たヒトが一番多いようだ。夢人族の自分にも雰囲気が似た者も居て、異世界であることは判っているが、故郷に居るようで安心する。 画廊や仕立て屋の前を通れば、恐らくロストナンバーであろう者達の姿絵が軒を連ねている。 「おお。なんと見事な!」 画廊の壁に張り付いて無数といってもよい姿絵に見入っている。 それこそ先ほど街中で見た様々な人種より更に様々なロストナンバーが揃っている。 「妾もいずれ寄ってみるとするかのう」 生活をしていくには、大人であるのだから働かなくてはならない。今は悲しいかな無職である。 どこで生活基盤を築くか、どこで認可を受ければいいのか。これだけ多くのロストナンバーが生活をしているのだから、行政もそれなりに……むしろかなりしっかりとしているだろう。 できれば子どもを相手にできる仕事があれば。もしくは託児所でも作ることがいいのだが。学習塾というのも良いが、無数の世界から集まっているから、習うべき科目も倫理も違うだろうからこれは難しいだろう。 故郷にいたとき、今は亡き夫とともに孤児院を経営していた。子どもに関わる仕事は楽しいし大好きだ。無限の可能性と未来を垣間見ているような、そんな気持ちになれる。 他の職業を経験したことがないせいもある。 折角だからカフェでウェイトレス、というのも今までと全く違って楽しそうである。そんな自分を夫はどう思うだろうか。 きっとびっくりした後、大笑いをするのだ。そして虚月がそれに怒れば、取り繕ってごめんごめんと謝るのだろう。 今はもう想像することしかないが、間違った想像ではないだろう。 思い出にしか生きない夫が隣に居ない寂しさは消えない。けれど思い出はいつだって暖かい。覚醒して唯一の心残りは墓参りができないことだろうか。二人の間に出来た子どもも、孤児院で預かり育て上げた子達もみな立派に成人し、独立している。あの子達ならもう大人という指針は大丈夫だと信じている。 ふと思い出すのは、千年以上も前に縁を結び、今では良き友人である夜人族のことだ。 嫌いあってわかれた訳ではない。原因は昔のことすぎて忘れてしまった。 しばらく会って居なかったが、彼は元気にしているだろうか? 夜人族の彼だけではない。 故郷の世界に居た五行長と呼ばれる彼ら彼女らのことも気にかかる。 故郷では昼人族よりずっと神と呼ばれるものに近かったが、そんな自分達も中身は普通なのだ。 家族や友人との一時が掛け替えのないものと知っていて、世界には多くの種族が住み、誰もがそう思っていることも、ちゃんと知っている。 彼らと会いたいときに会えないということはいささか寂しさを感じさせられる。 世界図書館というところで、トラベラーズノートなるものを預かったが、顔と名前が一致しているロストナンバーならコンタクトがとれるようだが、まさか覚醒しているとは思えない。しているのであればもっと感覚に呼びかけるものがあるような気がするのだ。 「妾にも、夜人族のような予知めいたものがあれば良かったのじゃがのう」 予知とは違うことはわかっているのだが、一人ごちて嘆息する。 弱気になることはもう随分久しく無かったが、知己が誰もいないという状況は心を少しは揺らすようだ。 ふっと視線を前にやれば、小さな女の子しょんぼりとしている。 「どうしたのじゃ?」 「……」 人見知りをしているわけではなさそうなのだが、随分と落ち込んでいる。女の子は俯いたまま空を指し示す。 「?」 つられるまま同じ方向を見上げれば、背が高く立派な枝振りの木の枝に、真っ赤な風船が引っかかっていた。うっかり手を離してしまったのだろう。 「良かったのう」 「……よくないよ。とどかないもん…」 「じゃが、この木が無ければ空へ行ってしまったぞ? ……さあ、もう手を離さぬようにな」 優しい声で女の子に話しかけながら、虚月はすっとこともなげに引っかかっていた風船を取り、目線を合わせるように屈んでから手渡す。 女の子はすぐにパッと輝くような笑顔と、元気な声で「ありがとう!」と礼を言う。虚月も優しく手を振って答える。 母親らしい女性の元に駆けていく。その女性が女の子から話を聞いたのであろう、穏やかに微笑んで深々と一礼する。 その姿を見ていると、子ども達全員のことを思い出し、暖かな気持ちに包まれ穏やかになれる。そして何より、気持ちが引き締まる。 もしもいつか再び遠いどこかで出会ったときに、「あの時は狼狽えてて格好悪かったよ」なんて言われてしまっては立つ瀬がない。 木陰近くにあるベンチに腰掛ける。 日差しがかなり遮られて、穏やかな風が頬を撫でていく。瞳を閉じると心地の良さが増す気がする。 巾着から柘植櫛を取り出してひと撫でする。 随分と前、夫が生前虚月に贈ってくれたものだ。 当時から今まで大事に大事に使ってきた。大切なものではあるのだが、使わないほうが夫にも櫛にも失礼だと、手入れをしっかりとしてきたのだ。お陰で今も現役で活躍してくれている。意匠や見た目は大分流行からは遅れているが、それはそれで趣があって良い。 今ではお守りのような意味合いもかねている。 夫が今でもずっと近くに居てくれるような、そんな心強さと心地よさに包まれる。 「……実時。妾はここで生きておるよ」 ※※※ 霞月が最初に訪れたのは、当然とも言うべきだろうが、世界図書館であった。 ここで保護されたばかりのロストナンバーを調べれば、夢人族が着ているのがすぐ判る。知人であればトラベラーズノートで連絡をすぐに取り合える。 縁を結んだ彼女――虚月であれば、顔や名前どころか刺青の位置まで把握している。 虚月であれば五行長達も喜ぶだろう。 申請をして、最新のロストナンバー達の名前を調べて行く。 「しかし毎日毎日、こんなに覚醒するもの達が多いのか……」 以前からたくさんのロストナンバーがいたようだが、ここにきてやたらと顕著に思えてならない。何かの始まりなのか、それとも終わりの合図なのか。 「まあこの際、二の次だね」 気になることがないわけではないが、今は友人かも知れない故郷の同胞とコンタクトを取るほうが優先される。 と、霞月の繊細な指先に見知った名前が止まる。 ―黒藤虚月 故郷を同じくする夢人族で、霞月、五行長達と深い縁を持つ彼女だ。そして今日の夢に出てきた、夢人族だ。 今の彼女に抱く感情は、友愛だ。それは向こうも同じだろう。 霞月のこころは今暖かな思いで満たされている。 最初に五行長の一人と再会したときと同じだ。 故郷に残してきてしまった大切な人を思うと心が痛くなるが、同胞に会えるのはその痛みが唯一取れる瞬間でもある。 「ふふ、驚くかな、虚月は」 早速トラベラーズノートを開き、エアメールを送る。 あまり使ったことがないから、いつ反応が来るか判らない。 こんなにワクワクしているのはいつ振りだろうか? ※※ 「……ん?」 ベンチで一息入れたままの虚月だったが放り出したままのトラベラーズノートからなにやら気配を感じ取り、適当に開くと。 『やあ、虚月。元気かい?』 ……。 ……何度も目を瞬かせる。 『どうしたんだい、私の声を忘れてしまった? 酷いなあ、虚月』 「な、な……ななな、何じゃあ!? って、霞月!?」 思わず立ち上がるほどの衝撃だった。 『ああ、トラベラーズノートで連絡が取れるのを知らなかったかい?』 「う、うむ。そんな便利の機能があるなどとはゆめゆめ思わなんだ……」 覚醒して間もないのをすぐに察したらしい霞月が、 『では待ち合わせをしようか。世界図書館の場所は判るかな』 「うむ、そこならば判るぞ」 『色々と説明するのは、直接の方が捗るだろうからね』 そこでプツンとメールは途切れる。 素っ気無いとも思えるが、先程霞月本人が言ったように、直接の方が早いからであろう。 「さて世界図書館か……」 ぐるりと街並みを見渡す。 穏やかな気候と風に包まれた明るい街並みだ。 「……しまった。どちらの方向に向かえば良いのじゃ」 ほんのちょっぴり迷子になったのは内緒だ。 ※ 周りの人に道を尋ねつつ、なんとか世界図書館にたどり着いた虚月の前にいたのは、着流しに羽織の懐かしい霞月だった。 「久しゅうのう。随分間があいたような気がするが……」 「そう、だね。思っている以上に間があいているのかもしれない」 あまり時間の概念がないけどね、と笑いながら霞月が付け足す。 お互いの覚醒してからのことを、道すがら話し合う。 「なんじゃ、五行長達もここへ来ておるのか?」 「全員ね。皆、一緒に住んでいるよ」 「そうか、それは重畳」 良く知った者たちがともにいるということは、この上もなく安堵感があり、尚且つ楽しみでもある。 「けれどね」 歩く速度は緩めずに、霞月はわずかに顔を曇らせる。 「彼の人の様子が、おかしいのだよ」 五行長の一人、張り付いた笑顔を持つ彼のこと。それだけが今は気にかかる。 「……まあ、焦ることもなかろうて」 変わらぬ調子で、虚月が僅かに霞月を見上げて、落ち着いた笑みで、言う。 「妾たちに与えられた時間は、今までよりもずっとずっと長い。ゆっくり、進んでいけば良かろう」 虚月が空を見上げると、どこかから風に乗ってきたのであろう薄紅色の花びらがくるくると舞っている。 霞月の手のひらに一弁流れてくる。 「ああ……そうだね、大丈夫だ」 我等は一人ではないのだから。 いつでも、どれだけでも、前へと進んでいけるのだ。
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