紫雲 霞月が訪ったとき、黒藤 虚月は一心不乱と称するのがふさわしい熱心さで、黙々と手を動かしていた。褐色の、細い、しなやかな手が、たくみに筆を操ってはさまざまな記録を紙束に書きつけてゆく。 流れるような、とはこういうことをいうのだろう。 緩やかな、優雅ですらある動作で筆が紙面をゆったりと踊れば、独特の光沢のある黒で、流麗な文字がしたためられてゆくのだ。それは、夢人という美しい種族の、容色に関する感覚以上に、霞月の美意識を刺激する。 鼻腔をくすぐる、墨の香が清々しい。 霞月はしばしそれに見惚れ、ややあって小さく咳払いをした。 自身の所属する、長命種強硬派和平組のお偉いさんの真似などしてみたのだが、若干二十六歳の霞月では、貫録というものとはほど遠かっただろう。 しかし、書き物の世界に没頭していた虚月に、自身の存在を気づいてもらうことには成功した。 「――霞月かえ。久しいのう」 紙面から顔を上げ、筆を硯に置いて、虚月が振り向く。 淡い橙の色をした長い髪がさらりと流れ、少し薄い唇には華やかな笑みが咲いた。 夢人族換算で十代半ばから後半の、凛々しく整った面立ちの娘だ。ふっくらとしたやわらかい身体つきは、未だ成長途中の彼女に、女性らしいやさしさの発露を思わせる。尖った、長い耳は夢人族の特徴である。 「そうだね、半年ぶりくらい、かな」 「そうじゃの。……まったく、つれない男じゃ。恋文のひとつも寄越さぬとは、野暮の極みぞ」 「ああ……それは、すまない。離れていてもつながっているものと思えば、距離もまた味わい深いものかと」 「ふむ、我が背子(せこ)どのは、鈍いのやら夢想家なのやら判らぬのう」 いたずらっぽく笑い、虚月は夜人族の罠師を見上げる。 特に怒っているわけでもないことは、銀の双眸に邂逅を喜ぶ光が揺れているところからも判る。そもそも情に厚い、懐の深い娘だし、双方が長命種であることもあって、逢えないせいで心が離れるということにはならない。 「して、急に何用じゃ」 「おや、よく用があると?」 「おぬしがここを訪(おとの)うてくる理由が、他に思いつかぬ。無論、逢引の誘いのほうが、嬉しいがの」 ちなみに、虚月の言う『ここ』とは、長命種静観派が記録した、戦争に関するありとあらゆる資料が作成され保管されている役所である。虚月はここで、記録官として、戦に関わるさまざまな物事を調べ、記録し、残す職務に就いている。 その職務ゆえ、彼女はあちこちに伝手があり、情報にも精通しているのだ。 「調べ物を頼みたくて」 隠さず率直に言うと、虚月はやれやれとばかりに息を吐いた。 「やはり野暮天じゃのう、そこは嘘でも逢引の誘いと言うがよい」 「君を相手に飾っても仕方ないだろう」 苦笑し、彼女に会いに来るに当たって持参した土産を手の中へ落とし込む。 李ほどの大きさをしたそれに、虚月がぱちぱちと瞬きをした。 「おや、これは」 「“香姫”芳麗(ホウライ)の手になる香珠だ」 「随一と名高いつくり手の、かえ。ほう……佳き薫りじゃ。高貴で清々しく、それでいて深い。これを、妾に?」 「これを手に入れたとき、贈る相手と言えば君以外には思いつかなかった。質の高い香珠は、大切に扱えば千年でも二千年でもその香りを減ずることがないというよ。これが、長い間、君を飾るよう祈ろう」 「……まったく……」 切なくなるような夕焼けの色の、鮮やかな朱の珠を掌に遊ばせ、虚月は顔をしかめてみせる。 「おぬしはほんに性悪じゃ、背子殿」 「そうかな?」 「それで無意識というのじゃから、さらにたちが悪いわえ」 言いつつも、虚月は笑っている。 香珠を鼻先に近づけ、嬉しげに目を細める様は、とても可愛らしい。 「して、調べ物とは何じゃ?」 「頼まれてくれるかい?」 「かような賄賂を受け取っては、しかたあるまい」 虚月が、ころころと、銀の鈴を転がすように笑う。 霞月もいっしょに笑い、それから、 「先だって、久間黒冬殿を護衛したのだけれど」 「おお、あの気の好い御仁かえ。彼のような御仁が増えれば、戦もはよう終わるやもしれぬのう」 「私もそう思うよ、そのために護るのだからね。その、久間殿を狙って、暗殺者が送り込まれたんだ」 「ほほう。おぬしのことじゃ、人相書きなど用立てておろうな?」 「話が早くて助かるよ」 懐から、くだんの暗殺者の似顔絵が描かれた紙を取り出した。 細かいいきさつを語って聞かせ、何か彼に関する情報がないか、尋ねる。 「なぜかな、どうにも、彼のことが気になってね。君なら何か知っているんじゃないかと」 「ふむ……見たことのあるようなないような顔じゃの。金の眼に、瓶覗色の髪、か」 「髪色の系統からして、木行天人であることは確実なのだけれど」 「うむ。それにしても……珍しい色じゃの。普通はもう少し濃いものじゃろうに」 「確かに。木行天人でこの色というのは、なかなか見かけない」 「しかし、はて……この髪、どこかで同じ色の記述を見たことがあるような……?」 何ごとか考える風情でひとりごち、文机の前から立ち上がる。それから、仕事部屋とつながった、無数と言って過言ではない書架が並ぶ区画へと歩み寄る。そこには、世界中から集められた戦争の記録が、あますところなく書き込まれ、残されている。 「ふむ」 虚月の細い指先が、みっしりと詰め込まれた資料の背表紙をなぞった。なにせ、恐ろしい量の資料が陳列された書架である。しかも、ひとつやふたつではなく、若くして有能と称賛される虚月も、さすがにすべてを完全に記憶することは困難であるはずだ。 そしてそれは、結局のところ、この戦争の複雑さと長さを示すものに他ならない。 そのまま、十分ほど、書架区画を行ったり来たりしていた虚月は、 「どこじゃったかの……」 ややあって、 「ああ、これじゃ」 一冊の紙束を探り当て、開いた。 それは、暗殺組織『名も無き月』に関する資料だった。 「ここの、頭領に関する記述を見るがよい」 指し示されるままに見てみれば、『名も無き月』の頭領は木行天人で、彼もまた瓶覗色の髪色であることが書いてある。また、中央都にある遊郭『絹』に籍を置く天人との間に一男をもうけ、その男児を引き取っている、とも。 「では……その、男児が?」 「そう考えるのが妥当であろうな。あの色は、血縁でもなければ考えられぬ」 「この、名前がないというのは……?」 「届が出されておらぬのじゃ。戸籍なんぞというものは、今の乱れた世においてそれほど確実な意味を持つものでもないが、の。しかし、少なくとも、我らの記録にこれ以上のことは残されておらぬ」 乱世と呼ぶにふさわしい、決して生きやすいとは言えぬ世の中である。 すべてのものごとがぶつぶつと途切れた世界において、誕生日が判らないなどはごく普通のことで、長じてのちも正確な年齢が判らない、出身地や種族の詳細も確かではない、といったことも決して稀ではない。 それゆえ、記録の上では名前がない、要するに名付けてくれる存在がいなかったということも、不幸な事実ではあるがありえない話ではないのだ。 「しかし……実の父親じゃないのか? 我が子に名も与えず、暗殺者としての危険な任務に従事させるなど……」 「さてのう。なんぞ、ややこしい事情があるのやもしれぬ。そういった確執は、別段珍しいことでもあるまいよ」 それには霞月も頷かざるを得ない。 「……そうか。次に会うときには、というのは……そういうことだったのか」 「どうしたのじゃ?」 「いや……ああ、彼がね、別れ際に気になることを言っていたものだから」 『勝負』に負けた暗殺者が退く際、名を尋ねた霞月に、彼は言ったのだ。 次に会う時までにつくっておこう、と。 そこに含まれたわずかな感情の発露、幼子のように無邪気な楽しみを思い出し、霞月はほおを緩めた。 「これは、ぜひ、もう一度会いたいものだな」 瓶覗色の彼が、いったいどんな名前を自らにつけるのかへの興味と、それはきっと美しいに違いないという確信が、霞月に笑みを浮かべさせる。 「妾も、一度その男を見てみたいと思うわえ」 「おや……そうかい?」 「なに、霞月が気にしておるからの。きっと、面白い男なのじゃろうと思うゆえ」 無邪気な好奇心とともに資料を書架へと戻す虚月へ、 「さて、妹(いも)どの。もしも時間が許すというのなら、だけれど、よければ茶の一杯でも?」 手を差し伸べ、問う。 問いといっても、確認のようなものだ。差し迫った『仕事』がないことは、彼女のこれまでの言動からも推測できる。 案の定、虚月はゆるりと振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。 「ようやく、逢引らしゅうなってきたの」 「私も、少しくらいは頑張ってみないとね」 おどけた仕草にくすくすと笑う虚月の、滑らかで美しい手を取り、霞月は、夢人の娘を仕事部屋から連れ出すのだった。 ――それは、のちの世に『戦時の長命参月』などと呼ばれ語られることになる三人の、それぞれのえにしがつながった遠いはじまりの話である。
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