「邪魔するぞ」 まるで石を鉄で叩いたような冷たい声とともに部屋に入ってきたのは褐色の肌が美しいハーデ・ビラール。ほっそりとしたその無駄を一切排除した見事な筋肉のついた肉体。それを包む青を主にした動きやすい戦士の服装……で、なぜか片手には猫じゃらし、片手にはネコブラシという奇妙な姿だ。 誰もが食事と休憩をとろうという時刻。 それは司書も例外ではなく、この部屋の主――黒猫にゃんこ。現在は30代後半のダンディな男性の見た目にスーツ姿で執務机に齧りついてせっせっと書類と戦っていた黒も例外ではない。 なんとか明日中に提出の書類をまとめあげ、完成のお祝いにと執務机の引き出しに隠してあるウィスキーで酒盛りをしようとして――動きを止める。 「……なんだ? どうかしたか」 昼間からの内緒の酒盛りを他司書にチクられたらやばい黒は何気なさを装いつつウィスキーのはいった瓶を引き出しに戻した。内心は滝のような冷や汗を流しながらもそれをおくびに出さずにそっけなく問いかける。 「黒、いいからさっさとにゃんこになれ」 「は?」 「はやくなれ」 「……いや、仕事が」 「ウィスキー」 「ぎくっ……」 冷酷……まるで氷の雨が身を突き刺す、いや、喉にナイフをあてたような鋭い眼差しに黒はじりっと後ずさる。 「……っ! わかった。すぐににゃんこになります!」 思わず机に突っ伏して降参した黒は指をぱちんと鳴らす。 ぽん! 変身を解いた二頭身の黒猫のにゃんこは金平糖のようなつぶらな瞳で不思議そうにハーデを見つめると瞬きする間もなく、ぎゅう。――アポーツでハーデの腕に抱きしめた。 「にゃあ?」 にゃんこが目をぱちぱちさせる。その間にハーデは無駄のない動きでソファににゃんこを座らせると、手にもっていたブラシをまるで扱い慣れた得物のように音も気配もなく猛烈な勢いブラッシングしはじめた。 その動きの無駄のなさと、的確さ! にゃんこ本人はぽかんとしていたのは一分ほど。すぐに顔が蕩けた。 「にゃあ~、きもちいいにゃあ」 「そうか? ここはどうだ」 細心の注意を払い、痛くないようにと、けれど的確なブラシ使いでハーデは攻めていく。 「みぃ~。ハーデ、うまーい」 「毛がいっぱいだな」 「そーなの。最近、お仕事がんばってね、毛の手入れする暇もないの、いっぱい毛が抜けるのにぃ~。お外もでれなーい。もうつまんないんだよぅ」 「猫じゃらしがあるぞ」 「にゃあ?」 ブラッシングを終えたあとは、お楽しみタイムとばかりににゃんこの前で猫じゃらしがひらひらと揺らすハーデ。 「にゃ、にゃあ! け、けど、おしごと……がぁ」 ひらひらひら~。 「あ、あうううう~~」 我慢の限界は早かった。にゃんこは耳をぴこぴこと動かし、猫じゃらしをパンチを繰り出すが、絶妙なタイミングで逃げられる。にゃんこはむぅと唸ると両手を伸ばて掴もうと試みるが、すぐにやはり逃げてしまう。 「にゃううう!」 本能が疼いたにゃんこは狩りのポーズをとる。 四本足を床につけ、顔は低く、お尻は高くあげて……金色の目がじぃと獲物を睨みつけると、タッと駆ける。 ハーデはさっと手をあげて猫じゃらしを持ちあげる。 「みぃああ!」 にゃんこは床を蹴って飛ぶ。見事なジャンプと前足のパンチのコンボ攻撃に猫じゃらしが床に落ちる。にゃんこは素早く駆け寄り、がしっと前足と後ろ足で猫じゃらしをしっかりと掴み、かみかみと噛みついてじゃれる。 しかし、気が付くと猫じゃらしがない。 「にゃあ!」 見ると、ハーデの手のなかで猫じゃらしが存在し、ひらひらとまた揺れている。 「にゃう!」 再びにゃんこが飛びかかる。 逃げる猫じゃらし。 そんな攻防戦が……ハーデが一方的ににゃんこを弄ぶ戦場は永遠と続くかと思われたが 「……邪魔したな」 15分後、ハーデはブラシについた毛をティシュに包んでゴミ箱に捨て、猫じゃらしとブラシをもって無情に去って行った。 あとに残されたのは遊びすぎて野生化してにゃう、にゃうと鳴きながらソファに爪をたてて遊ぶにゃんこが一匹。 翌日、ハーデは再び時間ぴったりに司書室にやってきた。執務室で食事をとっていたのは10代の青年姿の猫が眉根を寄せた。 「ハーデさん? どうかしたんですか?」 昨日と同じ装備を見た瞬間、猫は警戒にじりっと後ろに下がる。しかし、ハーデは容赦なく切り込む。 「猫、にゃんこになれ」 「い、いえ。あの、仕事が」 ハーデの冷酷な眸に見つめられ、猫の頭上に存在する猫耳がしゅーんと下を向く。これは猫でいうところの「こわいよー」「負けたよー」の意味である。 猫は無言の威圧にさっさと敗退した。 「にゃあ!」 にゃんこはまた不思議そうにハーデを見つめ……またしても腕のなかに抱きしめられていた。 にゃんこの耳が垂れているのに、ハーデは優しく頭をなでなで。 「みぃ?」 さらには喉もなでなで。 「にゃにゃう~」 とたんににゃんこの耳は嬉しそうにピンッと立ち、ごろごろ~と喉が鳴る。 ハーデの細い指が毛に覆われた耳の後ろを重点的に攻めていく。 「にゃう~」 にゃんこはもっと撫でてと顔をあげて、ハーデの手に自らすりすりと頭をすりつけ……見事な撫でぷりに翻弄されている。 にゃんこはソファに座らされ、丁寧なブラシングによって身も心も蕩けて、くてーんとハーデの膝の上でだらしなく蕩けている。 「にゃあん」 よほどに気持ちよかったらしく、にゃんこは目を細めてうとうと船を漕ぎながら、両手をむぎゅむぎゅさせる。 猫は大好きな人に甘えると両手をにぎにぎするのだ。 喉を撫でるハーデの手をにゃんこは両手で掴んで、にぎにぎ。無意識だろうが、少しだけ長く伸びた爪がハーデの指をぎゅううっと締めつける。 「爪も切っておかなければな」 「にゃう~」 15分後、眠りに落ち始めたにゃんこを起こさないためにハーデは気配を殺し、動きも最低限のものにして部屋を出ていった。 さらにその次の日。 珍しいことににゃんこが執務机に向かっていた。腰には虎の敷物の「りちゃーど」を巻いている。 「あ、ハーデ!」 「今日はにゃんこなのか」 「うん。そーだよ! 書類にハンコ押してるの!」 「ハンコ?」 にゃんこの手でハンコが握れるのか……見ると、にゃんこのピンクの肉球が黒色になっているのに気が付いたハーデの顔を険しくさせる。 「どうしたんだ、それは」 「インクだよー。ハンコしてるから、ほら、これー」 にゃんこが自信満々に見せる書類の端っこには、肉球印――これがハンコらしい。 「ちょっとまってねー。あとちょっとだけで終わるにゃあ!」 今回、ハーデは珍しく、何もせずに黙ってソファで待機する。 ぴこぴこぴこ。にゃんこの耳と尻尾が忙しく動きながら書類を一生懸命にめくり、真剣な顔をしている。 それが、不意にぴーん! と真っ直ぐに立つ。これは猫でいうところの「機嫌のよい」という証だ。 「おわったにゃーん! ハーデ、ごめんね。今日はなに?」 腰に巻いたりちゃーどを引きずりながら、とてとてととにゃんこは寄っていく。 「手が汚れているぞ」 「あう」 ハーデは持っていたハンカチでインクまみれの手をきれいに拭ってやる。 「ありがとうっ!」 「がんばったな。ケーキがあるんだが、食べるか?」 「ケーキ!」 もふぅ。とにゃんこの黒い尻尾が歓喜に膨らむ。 「たべるー! ハーテ、だっこー」 ここ数日、いつも膝に乗って、甘えているにゃんこは怖いもの知らずにもハーデの膝の上に乗ろうと両手を伸ばすのにハーデはにゃんこを抱き上げる。 にゃんこは嬉しそうに抱っこされて、両手を机に置かれた箱を伸ばし、チーズケーキを見て目を輝かせる。 「にゃう。いただきまー」 「ブラッシングが先だ」 「にゃうっ」 お預けににゃんこはぷくぅと頬を膨らませ、尻尾はぱたぱたとソファを叩いて不満をアピールする。 ハーデは頭を撫でて機嫌を取りながらブラシを動かしていく。 「すぐに済む」 「いっつもブラシしてるから、もう大丈夫だよ」 「こんなにとれたぞ」 「にゃう」 ブラシには抜けた毛がいっぱいついているのににゃんこはうーっと唸った。 「……けど、ハーデのおかげで、さらさらになったんだよ」 「さらさらか?」 「うん。おなか触ってみて!」 その言葉にハーデの手がぴくりっと止まった。 ここ数日、通い詰めてブラシをしているハーデであるが、まだおなかに直接触れたことはなかった。 「いいのか」 「いいよー」 「では」 ハーデの手が恐る恐る伸びて、触れる。 むにゅん。 柔らかくも、適度なかたさと、重み……生きたクッションがあるとしたら、こんなかんじだろうか。 抱っこされているにゃんこは見てないが、もにゅもにゅとおなかを撫でているハーデの顔は春の優しい風のように……ありえないくらいに蕩けていた。 「ケーキー」 「よ、よく我慢したな。ほら……あ、あーん」 ケーキをひと口サイズに切ったものを刺したフォークをハーデはどこかぎこちない動きで差し出す。 「あーん!」 ぱく。 がりがりがり。 フォークを咬む音がするがハーデはそれを無作法とは咎めない。かわりににゃんこが好きなだけ齧るのに任せた。 「おいちぃー! しあわせぇ!」 嬉しげに笑顔を見せるにゃんこはハーデを見つめる。 「口元についてるぞ」 「にゃう?」 そっとハーデの指が口元についたケーキのカスをとる。にゃんこはぱくりっとその指に反射的に噛みついた。 傷つけないように力を抜いてカミカミと甘く噛み、仕上げにぺろりっと舌で舐める。 「ハーデの指、あまーい」 「……」 「はい。あーん」 にゃんこは得意げに笑って置かれているフォークをとると、ざくっと残っているケーキを刺してハーデに差し出す。 「……」 「ハーデ?」 ハーデは黙ってケーキをひと口食べたあと、ふらりっと立ち上がり、若干よろめきながら部屋を出ていった。 「あれ? いつも15分居るのに……今日は早く帰っちゃったや」 その翌日も、また翌日も……ハーデはブラシとともに、ささみジャーキー、ねずみの玩具、鳥肉の串焼きと手を変え、品を変えてやってくるたびににゃんこを弄び、賄賂でぷくぷくに肥えさせ、べろんべろんに甘えさせていった。 しかし、いつも15分すると去っていく。 そんな摩訶不思議なことが一週間も続き、そろそろ習慣になりつつある日。 いつものようにソファに腰掛けたハーデ、その膝の上で抱っこされたにゃんこはブラシタイム。 「お前……にゃんこ以外にももふもふになれるのか?」 ぼそり、と何気なさを装ってハーデは問うが、その目にはなにかしらの覚悟と勇気の光がともっていた。 「にゃあ?」 にゃんこは不思議そうに首を傾げる。 「もふもふ?」 「そ、そうだ」 やや声が上ずっている。 「まかせてー!」 ハーデの膝から立ち上がったにゃんこは両手をかかげて 「にゃにゃあーん!」 叫ぶと、もふんもふんな白い毛に包まれた――アルパカに変身する。 「……」 「どう?」 「……すまん、忘れてくれ」 失望に満ちた目でハーデはぼそほぞと呟く。 「違うの? あ、こういうことかー! にゃーん」 カピパラにゃんこは叫ぶと、ぽん! 音をたてて、ころころとそれが落ちる。 「!」 ハーデの足元にころころ~と転がったのはまん丸い――ひよこだ。それも掌サイズ。黄色の手を軽くあげて 「ぴよ!」 「!?」 その姿がまたぽんっ! と音をたてて変わると今度は座ったハーデの膝の高さほどの大きさの耳を垂らした真っ白いうさぎだ。 「きゅう?」 こてん、と小首を傾げるうさぎにゃんこ。 ハーデは無表情で、はたから見たら怒っているの? と問いたくなる表情で停止する。 「……」 そして。 ふら。 それは、それは幸せな顔をしてソファに倒れた。――あまりの可愛さの連続に彼女は卒倒したのである。 「ハーデ! ちょ、どうしたのぉ! い、いそいでお医者さんっ!」 そして、また翌日のこと。 ハーデがいつものごとく部屋にやってくると「誰もおりません」の札がドアにかかっていた。だが、そんなものでハーデの有能な探索能力を退けようなど笑止千万。 ハーデは獲物を捕えた蛇のごとく、ドアを開ける。 部屋のなかでは黒がむすっとして立っていた。なぜか黒猫のきぐるみを着て。 それにたいしてハーデは戦士らしい顔つきで向き合う。 「にゃんこを出せ」 「にゃあ!」 「なんのジョークだ」 「今日のにゃんこは売り切れだ。ブラッシングしたければ俺をすればいいだろう。せっかくにゃんこのきぐるみを着てるんだ。どうだ!」 「……」 ハーデの目が一段と鋭くなるが黒もまた退かない。 「いないといったら、いない。ええい、帰れ! ここ最近、お前がくるのについにゃんこのまま遊び倒して書類の提出が遅れたり、部屋を荒らしちまったり、寝ちまったりと……!」 ぷるぷるぷると拳を握りしめて黒はハーデを睨みつける。 「昨日はなんか知らんが倒れやがって! 今日こそは午後もまともに仕事をするからな! 理由を言わないと閉め出すぞ!」 「……黒、お前にわかるか、朱の月にいけない者の悲しみが!」 「はぁ?」 「わからないのか? そうだな、お前はその気になればいつでもふわふわのにゃんこを撫でられるものな」 ふっとハーデは悲しげに笑う。 「おい、まて、にゃんこは俺だぞー」 「……理由を言わねば、ここに来ることを禁止するなどと言うならば、わかった言おう」 「きけー。にゃんこはおれだぞー」 半ば自棄になってハーデは叫ぶ。 「ここ最近、猫成分不足なんだ! だが、朱の月にはいけない。とはいえ本物のふわもこ司書をブラッシングし始めたら、時間を忘れて魅了されてしまい、迷惑をかけてしまう! だが、お前なら黒だと己に言い聞かせ、理性が働く。……そうだ。こんなふわもこでも、にゃんこは黒になってしまうんだとな! 悲しみながらも癒される私の心がお前にわかるのか!」 ふわもこ不足をなんとかするべく、しかし、司書の仕事に迷惑をかけてはいけないと彼女なりに真剣に悩みに悩んで、ここに落ちついた、ということだ。 「おい、まて、こら。にゃんこのほうが理性がぶちきれてるだろうが! 俺が迷惑をこうむってるぞ!」 「それはお前がどうにかするべき問題だろう」 しれっとハーデは言い返す。 「にゃんこのとき優しいくせに俺相手には冷たいな、ハーデ!」 「ふわもこでないものになぜ優しくしなくてはいけない!」 あまりにもすがすがしいまでの断言ぷりに、まるでその言葉が正しいと思えてくるから不思議だ。 「さぁ理由を言ったぞ! ……これから毎日お前の時間を10分よこせ!」 褐色の肌を薄らと紅く染めたハーデはブラシをびしっと前に出して黒を睨みつける。 その目はぎらぎらと輝く真夏の太陽のように――飢えていた。ふわもこに。 「……15分じゃないのか」 「5分は折れる。……お前とて毛をきれいにされて、リフレッシュ出来るだろう」 「……~~っ、仕方ねぇなぁ」 そのあと、二日置きに猫ブラシと玩具や御菓子をもって昼にハーデがいそいそと黒猫にゃんこの部屋に訪れるようになった。 なんでも二日に一度、午後の10分間だけ、にゃんこをブラッシングする権利がハーデに与えられているそうだ。
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