「黒は悪い男だな」 不意に落ちてきた意地の悪い声に黒猫にゃんこ――現在は三十代のダンディな男性姿の黒はぎくっと動きを止めた。 彼の右手には琥珀色の液体のはいった瓶、もう片方にはグラス……ちなみに時刻はようやく昼にさしかかったところである。 いつものごとく午前中は健全に書類と格闘し、書類完成のお祝いと称して執務机の引き出しに隠してあった瓶に手を伸ばしたのだが。 「……その声は」 胡乱な視線を黒は向ける。 まったく気配はしなかった。が、彼女ならば納得できる。 戸口に背を預けて、くすくすと口元に笑みを浮かべているのはハーデ・ビラール。 琥珀色の肌を包むのは紺色が主な戦士服、夜色の長い髪の毛を一つにくくった、見た目はほっそりとしているが、しかし、戦場で会えば悪魔とまで言われるほどの生粋の戦士である。そんな彼女ならば気配を殺すのも、気がつかれずに部屋に入ることも容易いだろう。 「……またお前か」 顔を引き攣らせつつ、黒は言い返す。 実は一度、仕事の合間に酒を飲もうとしたのを見咎められたことがある。今更隠すことも無駄だろうが、このままは……グラスに注いだ液体を見つめて、顔だけは平然を装いながらも頭を無駄にフル回転させる黒にハーデは足音もたてずに近づいた。 「黙っててやるからグラスを寄こせ」 黒が眉根を寄せる。 「言っておくが私は出身世界では既に成人済だ。飲酒経験もあるぞ」 「なんのことか。これはただのお茶だ。お茶! 昼間からお酒なんて飲んでない。ええ、真面目な司書ですから!」 「ほぉ……ならば」 ハーデは黒の手にあるグラスを奪い取ると並々と注がれた琥珀色の液体を一気に煽った。 「あ~!」 「うまいお茶だな。本当にお茶だったのは意外だが」 少し意外そうにハーデは呟く。 「ハーデっ! お、お茶はお茶でも俺の午後の楽しみのお茶だぞぉ! 高級なんだからなぁ! そういうお茶にウィスキーを淹れて飲むのが楽しみなんだよ!」 多少、いや、かなり子供じみた言動な上、怨みがましい目で黒はハーデを睨みつける。ハーデの月色の瞳は悪戯ぼく揺れる。 「器の小さな男だな、お前も」 「食べ物と飲み物の恨みは深いんだぞ。……わりと味はわかるクチなのか?」 「まぁ、ほどほどにな」 空っぽのグラスを手のなかで弄び、ハーデは呟き、挑発する眼差しを向けた。 「昼だ。こういうとき、どうすべきか黒はわかっているだろう?」 「飲ませないからな。高いんだからな……まさか、昼をたかるつもりできたのか!」 「ウィスキーのことを他の司書に告げてもいいんだぞ」 黒が押し黙る。 「ほら、美人の客を楽しませたらどうだ? 私は、うまい食事を出す才覚を黒に期待しているんだが」 自らソファに腰掛けて、黒を招く姿はどこかの女王の如く。 ハーデは美醜でいえば、本人も言うように美人の分類にはいる。 そんなハーデがふわりと羽が浮いたように口元を綻ばせ、目元を緩めると見る者がはっとするほどに美しい。 「仕方ねぇなぁ」 黒はわざとらしく肩を揺すって笑い、猫足のテーブルに瓶、グラスを一つ、そのあと部屋の棚をごそごそと漁りだした。 皿に盛られた小さな山芋を薄くスライスして焼いたステーキ、揚げた鳥肉にとろりとしたタレをかけたもの、ほうれん草と大根をあわせたサラダ……手のこんだ料理がいくつか出てきてテーブルに並ぶ。 最後に、自分の前には塩を盛った小皿を出した黒はにやりと笑った。 「俺自身は酒を味わいながら、塩だな」 「まさか、全部、私が食べるのか?」 ハーデが片眉を持ちあげた。 「美人が飯を食ってる姿がツマミとは、オツだな」 「不味かったら容赦しないぞ」 「俺の料理がまずいわけねぇだろう」 「まぁ試してみるか」 ハーデは素直に箸をとると、盛られた料理を食べ始めた。 「どれもなかなかのものだな」 「作った奴がいいからな」 「自分で言うな」 「いい男は真実しか言わないんだぜ」 グラスのなかにある液体をちびちびと飲みながら黒は言い返す。ハーデは悪戯ぽく笑って山芋のステーキを差し出した。 「お前も食べろ。……見てみろ。うまいせいでほとんどを私が一人で食べてしまっているじゃないか」 「太れ、太れ。女はもう少し太っているほうが魅力的なんだぞ」 セクハラすれすれの言葉にハーデの目が研いだナイフのように鋭くなるが、黒は気にせず付けくわえた。 「それに、そういうのはにゃんこのときにしてやれよ……そうだ、にゃんこになるか?」 黒は今更気が付いたように小首を傾げた。 いつもならば部屋に来るなり「にゃんこになれ」が第一声だというのに、今日は珍しくその台詞を聞いていない。 一瞬、ハーデの笑顔が曇り、ゆっくりと首を横に振った。 「……いや、止めておく」 「ハーデ?」 「下手に会ったら、いけなくなりそうだ。悪いがお前から当分会えないと伝えておいてくれ」 ハーデの言葉に黒はどこに、いつまで、なぜと疑問は口にしない。 かわりにハーデの顔の前で黒い尻尾を軽く振った。 カンが鋭いゆえに何かがおかしいと黒自身は本能的に理解するが、それがなんなのか掴みきれずにいた。 「尻尾があるのか」 ハーデが尻尾に興味深そうに眼を向ける。まるではじめて夜空に星を見つけた無垢な子供のように瞳がきらきらと輝く。 「ああ、猫のときは耳もついているが、俺は尻尾だけだ」 「全身猫ならいいのにな。ふわもこで魅力的だぞ」 「きぐるみ姿になれってか」 「きぐるみはふわもこではない」 きっぱりとハーデは断言する。 「あれは邪道だ」 「お前なぁ」 「あれをふわもことは断じて認めない」 二人は睨みあい、すぐにどちらともなく笑いあった。 「触ってみるか?」 「いいのか」 ハーデが身を乗り出す。 「尻尾はとても敏感なものじゃないのか?」 ふわもこを愛するハーデはそういったことについては大変詳しい。たとえ相手が黒であっても、唯一のふわもこな場所には配慮してくれるつもりらしい。 「ハーデはひどく扱わないだろう」 信頼の言葉にハーデは僅かに目を見開き、恐る恐る手を伸ばす。まるで壊れやすい硝子を扱うように尻尾に触れる。ふわふわ、さらさらの毛がハーデの肌をくすぐった。 「お前がよく手入れしてくれたおかげで、俺もふわふわだ」 「そうか」 「また、ブラッシングしてくれよ」 「……ああ、いつか、戻ってきたらな」 「いつか、な」 黒は夢中で尻尾を撫でるハーデを見つめた。 「今日は珍しいくらい素直だな……笑っていろよ。そのほうがメシはうまい」 「そうか?」 「俺も食べるか……今度来たときは手料理を食べさせてくれよ。ハーデ」 「私のか?」 ハーデが眼をぱちぱちさせる。 「当たり前だろう。俺がこれだけ手料理をふるまったんだ。今度はお前だ。そもそも気になったんだが、お前、いつも買ってきてるよな。女は料理もできないともてないぞ~」 「そんなこと……考えたこともなかったな。私には不要なものだ」 ハーデが肩を竦める。 「今からでも遅くないから、学べばいい。料理も……手作りしたものを誰かが食べてくれるのは嬉しいものだぜ? お前、確か、他の世界に親しくしてるやつがいるんだろう? だったら、そいつに美味いもの食わせてやりたくないか?」 「そうだな」 曖昧にハーデは笑って答える。 「仕方ねぇから俺が実験台になってやる」 「ふん、そう言って私がはじめて作る料理を食べる特権がほしいということか? ひどい味かもしれないぞ?」 「ばれたか。美人の手料理は興味あるぜ、俺は」 軽口をたたいて黒はグラスの中身を煽る。ハーデはまだ残っている料理に手を伸ばす。 言葉を探り、投げて、掴んで、再び投げて。繰り返し、繰り返す。まるで砂のように意味はなく、形もなく、けれど積もりに積もって。 「お前には世話になった」 あらかたの皿を空にしたハーデは真っ直ぐに黒を見つめて微笑む。 「なんだよ、今更」 「さぁてな。……いざとなるとわからないものだな。一番会いたい相手には直前まで会っていたし、止めてやりたかったアレには声が届かない。ふとお前の事が浮かんだ。謝りたかったのかもしれない」 「……なんで謝るんだよ」 黒が眉根を寄せて、尻尾でソファをぽんぽんと不満げに叩く。 「まぁ……いろいろとお前にはひどいことをしたからな」 ハーデの言葉を黒は鼻で笑った。 「俺はされた覚えはねぇよ。それによ、ハーデ」 黒は頭をかきながら苦笑いを零した。 「そんな態度、お前らしくなくて困っちまう。お前はいつもみたいに俺が思わず「死神女王さまぁ~、にゃんこになりますからお命だけはとらないでください」ってひれ伏すように睨んでりゃあいいんだよ」 わざとテーブルにひれ伏してみせる黒にハーデは吹きだした。 「ひどい言いようだな。私はそんな顔は……あまりしたことはないぞ」 あまり、というのは何度か意図的にやったことはあるということだ。 「真冬みたいな眼差しを向けるやつがなにをいう」 ハーデがバツ悪い顔をした。 「お前は、変わったよ。ハーデ」 「……黒?」 「旅のなかでいろんな経験をして変わった。はじめは人と関わることが出来ずに閉じこもっていたが……人を知り、生きることを学んでいった。だから、お前が死神女王さまや、にゃんこにとろとろ蕩けたふわもこ好きなところもいいと思うぜ」 戦うことしか出来ない自分はどこにもいけないと思いこみ、敵が欲しいと戦場を求めた。いつか敵をすべて殺し尽してしまい、自分自身が世界の敵となることを恐れながらも。 けれど、 ハーデは変わった。 世界に従うだけではなく、己が選び、進み、踏みしめ、知り、手を伸ばすことを知ったから。 だから、ここにいる。 ハーデは何かを言いかけてやめて、微笑む。 「いい女になった」 「……戯言だが、褒め言葉として受け取ってやろう」 「おう。褒めてる。褒めてる。……じゃあ、せっかくだ。女王さまにお供えするか」 「お供え……もう食べ物はやめろよ。とても食べられないぞ」 ハーデが文句を言うのに黒は立ち上がり棚から何かを取り出したと思うと、――そっと手を伸ばした。 真っ白い花がハーデの、左耳を飾る。 「女には花だろう。ここで食いものを差し出すほど俺は野暮天じゃないぜ?」 にやりと黒が笑うのにハーデは戸惑いがちに肩を竦めた。その顔からこの部屋を訪れたときから浮かべている優しい笑みが崩れることはない。 「口がうまい奴だな、お前は」 「ふふん。そういう男は信用するなってな。お、そろそろ昼休みが終わるな」 黒がふと気が付いたように顔をあげて壁にかかった時計を見ると眉根を寄せた。 「そろそろ片付けないとな。お前も手伝えよ」 腰を浮かせる黒にハーデは笑ったまま首を横に振った。 「……その必要はない。黒」 「ん?」 「少し立ってみてくれないか」 ハーデの奇妙なお願いに黒は尻尾を不思議そうに振るったが、反論はせずにソファから立ち上がる。 ハーデは立ち上がり、黒に近づくと、両手を伸ばした。 それは深い信頼と感謝、親愛をこめた優しい抱擁だった。 「いつか、またな……お前も元気で」 ぽんぽんっと背を叩く手は優しくて、黒は黙って、ハーデの頭を、やはり深い親愛をこめて撫でた。 「俺たち、司書はここにいる。ずっとな。……いつでも帰ってこい。ずっと、ずっと待っててやるから」 「……ああ」 水が砂に沁み込むように、ハーデは答える。 「そしたら、料理を覚えて、一番大好きなやつに食わせてやれよ。お前の自慢や惚気話や我がままに、また付き合ってやるから」 「ありがとう。黒」 ハーデは感謝の言葉を最後に抱擁を解き、笑ったまま背を向けて部屋を出ていった。 「ん、もう午後……って、しまった! いま何時だ!」 ソファで眠っていた黒は、飛び起きた。 「俺、眠っていたのか? ハーデがここに……いたはず……?」 しかし、テーブルにはグラスも、皿もなく、きれいに片付いていて、人がいた気配もない。 「ハーデ?」 ふと手にくすぐったい感触を覚えた。 そこにはいつもハーデがブラシのあとにゃんこを遊ばせる猫じゃらしに白い花が添えられるようにして存在した。 「……ハーデ?」 そのあとすぐに黒はハーデが「朱い月に見守られて」の依頼において生死不明の状態で消息を絶ったことを知らされた。
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