濁った夜空へ向かい、幾重にも屋根が重なる。軒が伸びる。月が、遠い。 絢爛で猥雑なネオン街通りから路地一本逸れれば、生温かな闇が狭い道を占める。古びて砕けた舗装の砂利が靴底を削る。 黒ずんだ煉瓦壁を粘性帯びた何かよくないものが汚している。得体の知れぬ臭気が鼻を突く。固く閉ざされた扉の奥から、何ものかの眼が覗く。低く潜めた声が囁き交わされる。怯えきった声の主の応えを求めて視線を扉へと向けた途端、声は途絶えた。木製の何かを石床に蹴倒して、幾つかの足音が必死の風で家屋の奥へと走る。 私は、と喉を震わせかけて、やめる。あなたたちに害なすものではございません、そう言ったところで、暴霊に怯えきった彼らはおいそれと信じまい。 狭い道の最奥に棲みついた暴霊を恐れ、それでも此処より離れる術持たぬ住人達は、唯家の扉を固く閉ざし、光を消し、息を潜める。そうしていればいつか、暴風雨が去るように暴霊も去ると信じている。信じるしかない住人達の心中を、属していた世界で政治家であった細谷博昭は慮る。 (……心を、抉る……) 眼鏡の奥で、柔和な黒の眼が僅かに細くなる。 ――心、抉る。そうして精神、食べる。 インヤンガイの暴霊退治を依頼してきた世界司書の言葉を脳裏に辿る。精神を『食べられた』者は、その場で息絶えるか、心を失いただ呆然と空を見据え、ゆっくりと衰弱死していくと言う。 暴霊と言うのは、我が国に言う外道と似たものか、とロストナンバーとなって間もない彼は思う。 現の世を穢れで覆わんとする外道と、叶わぬ念抱えて世を害する暴霊と。 細谷は地獄の閻魔に仕え、力を賜っている。閻魔は世の穢れを一手に引き受け、世を清浄に保つ地獄の神。その神に仕える細谷が拝する使命は、現世に現れた外道を地獄へと送る事。 此処が異世界であろうとも、その使命を違えてはならぬのだろう。それは辿ってゆけば、いつか元の世界へ続く縁になるやもしれぬ。 故郷は今、反政府グループによるクーデターが勃発し、未曾有の危機にある。先だっても、反政府勢力に細谷の所属する与党第一党本部が襲撃され、同胞が戦死した。彼を銃撃したのも、外道だった。故郷の一大事に、党幹事長の職にある自分が穴を空けるわけにはゆかぬ。 一刻も早く、我が国に、皇国に、帰らねばならぬ。 その為には、世界司書のもたらす様々の依頼を受け、様々の異世界を渡り歩いて、見失った自らの世界を見つけ出さねばならぬ。遠回りのようでいて、おそらくは、これが今出来る最善の策。その結論に至るまで、ロストナンバーとなって暫しの時を有した。 その結論を得ても、気は逸るばかり。一刻も早く、我が国に戻らねば。自らの責務を全うせねば。党重鎮を一人喪ったとしても、なすべきことをなし、我が国を平らに治めるその一助とならねば。 (彼を喪ったとしても) 腹にその呟きが落ちた途端、息詰まる悔恨に身を喰われた。迷いなく路地の奥へ進めていた足が緩まる。固まって止まってしまいそうになる足を、けれどほんの僅かの躊躇の後に踏み出す。 (……そう、彼を喪ったとしてもです) 腹に蹲ろうとする悔恨を、その腹の中で押し潰す。身を断つ悔恨など、足を止める役にしか立たぬ。膝を屈してはならぬ。前を見据えねば、先に進まねば、―― ネオンの光に濁る夜空から、濁った月の光が降る。 路地の最奥、行き着いた先は、そびえ立つ無秩序な建造物の塊に囲まれた歪な円形広場。汚物に塗れた道の果てには、足元を白の野花が埋める静寂。磨きこまれた靴先が小さな花弁を揺らす。艶やかな葉の緑から零れた水珠が青褐色のスーツの裾を濡らす。 真上の月光を一身に浴びて、背広の背中がある。 自分よりも少し低いその背中を眼にして、細谷は息を忘れた。 胸に二発。腹に三発。骨を砕き、内臓を掻き混ぜ、彼の体に撃ち込まれた銃弾はその背中に大穴を開けた。自らの血に塗れながらも、彼は、財務相は、 ――あの時。 あってはならぬ襲撃があった。あってはならぬ外道の侵入を、あろうことか党本部まで許した。 会議室の扉が蹴り開けられるまで、通路は沈黙に満ちていた。今思えば、あれは不自然な沈黙だった。 扉が破壊されると同時、襲撃者達が雪崩れ込む。上座の首相に銃口を向ける。誰何よりも速く細谷は首相を庇う。財務相が床を蹴る。銃持つ襲撃者へと飛び掛る。 「幹事長!」 財務省が背中で後を頼む。その背中が弾かれたように跳ねる。銃声が耳を貫く。財務相の背広の背中が血の色に爆ぜる。銃声が重なる。財務相の胸の議員バッジを銃弾が掠める。血と共、飛ぶ。 「――あの時、」 細谷に血みどろの背を向けたまま、彼は掠れた声を落とす あの時、銃声に耳を貫かれた時そのままに、細谷は眼を見開く。 「あなたがすぐに相手が外道だと見抜いていれば」 あなたの役目は外道を地獄に送る事でしょう、と柔らかな笑みさえ含んだ声音で、彼は囁く。周囲の壁に反響するのか、囁いているだけの彼の声が、まるで地より湧き天より降る大音声のように聞こえる。 「なぜすぐに見抜けなかったのですか?」 細谷の身が強張る。 あれはあまりにも瞬間の出来事だった、反射的に首相を庇うので精一杯だった、言葉は、けれど言い訳にしかならぬ。否、言い訳にもならぬ。 「相手の銃を落としにいかなければ、総理もあなたもろとも蜂の巣になっていたでしょうに」 彼は息を零す。 幾つもの風穴開いた背中を揺らし、首を捻じ曲げる。頭を巡らせ、細谷を肩越しに振り返る。その眼が三日月の形に笑う。 「あなたのせいです」 断ずる。 胸に受けた弾丸の痕から、鼓動と共に鮮血が噴出す。見る間に背広の胸が赤黒く染まる。 「あなたに代わって、」 唇から血を零し、彼は剣呑に笑う。 「あなたのせいで、死んでしまいました」 身構えていてさえ、あれは暴霊なのだと理解していても尚、心を抉られた。細谷にとって財務相の死はそれほどに悔恨の極みだった。あの時、彼の言うように誰よりも速く動けていれば。外道が混ざっていると見抜けていれば。地獄に外道を送る力持つ刀を抜けていれば。襲撃者が銃を構えるよりも速く、誰よりも速く動けていれば。敵を斬れていれば。 暴霊を倒す為のトラベルギアの刀さえ抜けずに、細谷は立ち尽くす。身動き忘れる細谷に向かい、財務相の姿模した暴霊は血に塗れた靴を踏み出す。歩みを進める毎、傷口から血が飛沫いた。足元で咲き乱れる白い花が朱の斑に染まる。 「あなたは、」 眼鏡の奥の瞳を動揺に歪ませ、唇から苦しい息を吐き出し、細谷は呻く。 「暴霊です」 確かめるように、自らに言い聞かせる。奥歯を食いしばる。身を食む後悔に固まって動かぬ指に満身の力を籠める。細身の体を包む筋肉が軋む。 「そうですね」 彼は笑みを深くする。後悔に苛まれ息さえ忘れがちになる細谷のすぐ前に、立つ。血に濡れた指先を伸ばす。 「けれど、この死は事実です」 丁寧に締めたタイごと襟首を掴まれて、ようやっと腕が動いた。指が動いた。トラベルギアの二対の刀の柄に手が届いた。 間近に彼の顔がある。襲撃の直前、言葉を交わした時の顔をして笑っている。 息苦しさに喘ぐ。彼を、死なせてはならなかった。全てはこの身の力の及ばぬ故。自らの至らなさ故。自分より十も若い命を奪われるのを目前に、何も出来なかった。 「皇国が危機に瀕しているというのに……」 財務相に刀を向けることは出来ない。 「あなたはここで何をしているのですか?」 その通り、と思う。つくづく、思う。我が国を護る為の刃を、私は一体何に、誰に向けようとしている? 「もう皇国はおしまいです」 細谷の抱く見えぬ傷口を抉ることに歓喜覚えて、彼の顔で、暴霊は唇を震わせる。重大な責務を負いながらそれを果たせずにいるこの精神を食むのは、どれほどの悦楽か。もう一押しすれば、この強靭な精神は崩れる。自らを苛む後悔に押し潰され、膝を屈する。その瞬間の、その心を舐めたい。悔恨に溺れるその精神を啜り、殺したい。 財務相の姿のまま、暴霊は細谷の眼鏡の奥、苦しげに歪むその眼を覗き込む。 「あなたが死ねば良かったのですよ」 胸を衝かれたように、細谷はよろける。息のあがる、その間際のような息を吐き出す。彼の眼から離せずにいた視線が外れる。血に濡れた胸の襟に留められた議員バッジが眼に入る。 ――あの時。 銃弾に撃ち抜かれた財務相の体から、議員バッジが外れて宙を舞った。数発の銃弾を浴び、財務相は膝から崩れる。崩れようとする膝を拳で殴る。再度、床を蹴る。銃を構える襲撃者の腕を掴む。拳を腹に捩じ込む。諸共に倒れる。 首相の警護人が首相を取り囲み護る。細谷は飛んだ。地獄の閻魔より授かりし二振りの刀を鞘走らせる。襲撃者の間を駆け抜ける。斬られた襲撃者達から悲鳴とも怒号ともつかぬ声があがる。 乱戦は瞬く間に収束した。不意を打つことに失敗した襲撃者達は呆気なく制圧された。 財務相の死がその場で確認された。 浮き足立つ現場で、床に落ちていた議員バッジを拾い上げる首相を、細谷は見ている。 あの時、議員バッジの留針が掌に刺さるのも構わず、首相はバッジを握り締めた。固く閉ざした瞼に、引き結んだ口許に、深い皺が刻まれていた。 『なすべきことを粛々となしなさい。そう言っていたのはあなたです』 絶え難い痛みと悔しさを、人知れず鎮めようとする首相の横顔に、財務相の笑みが重なる。 「彼は」 細谷の喉が震える。屈しようとしていた膝に、力が籠もる。悔恨に呑まれ曇ろうとしていた瞳に強い光が満ちる。暴霊にされるがまま、力なく垂れていた腕が持ち上がる。あの時財務相がしたように、拳で膝を殴りつける。もう片方の手で、襟首掴む暴霊の手首を掴む。 今までに食い殺してきたどの人間よりも強い力に、暴霊はたじろぐ。あの一言で、この細身の男の心は砕けたのではなかったか。どうしてその眼に力が戻っている、どうしてその体に力が満ちている、どうして、 「彼は、そのようなことは決して口にしません」 どうして、過去を信じられる? どうして、自分を置いて死んでいったものを信じられる? 「彼の死を、穢さないでいただきたい」 折れ曲がっていた背中が伸びれば、細谷の眼は財務相に化けた暴霊を見下ろす。眼鏡の奥にある眼の感情は、けれどあの時、財務相を見ていたものではない。 暴霊は財務相の姿で呻く。その顔が恐怖に歪む。細谷の襟首を掴んでいた手が離れる。一刻も早く細谷の傍から離れなければ、距離を取り、隙を突いて逃げ出さなければ。 財務相の顔が醜く歪む。財務相の形を取ってはいられなくなる。墨流し込むように、姿を変える。屈強な男に、華奢な少女に、枯れ枝のような老女に、今までに喰らったものの姿に、化けたものの姿に、次々と姿を変える。様々の姿した唇から零れるのは、自らの敵に対するせめてもの意趣返しの言葉。変えられようのない過去を恨み憎み、未来への希望を自ら打ち消す言葉。 「おしまい」 「おわりだ」 「お前の国は、もう終わりだ」 「――いいえ」 希望断つ言葉を、細谷は否定する。僅かにずれた眼鏡の位置を直す。トラベルギアの刀『紫電』を抜き放つ。青紫の雷光まとう刃を、姿変える暴霊のその胸に、寸分の迷いなく滑り込ませる。 暴霊の身を包んで、小さな雷が幾つも爆ぜる。刀に胸貫かれ、雷に身を焼かれ、暴霊は膝を突く。細谷の知らぬ青年の姿で、月の空を仰ぐ。 「終わらせはいたしません」 月を背に、蒼白い刃這う紫電の光を眼鏡に反射させ、細谷は静かに宣言する。 「お前がか」 霊力のみでその形を作る暴霊が、血走った眼で細谷を睨む。嗄れた声で叫ぶ。 「お前が、終わらせないと言えるのか」 「その一助となるべく、奔走しております」 暴霊の身を貫く雷光の刃が一息に引き抜かれる。暴霊が月に喉をさらして断末魔を上げる。月光に白く咲いていた足元の花が、夢から覚めるように花でなくなる。広場に散らばっていたのは、花ではなく、砕けた真白の人骨。 暴霊の消えた広場に、細谷は一人、祈り捧げて立ち尽くす。 終
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