ドアを開いた。 重い音を立てて開いた扉の向こう側に、闇がわだかまっているように見えた。 あなたは闇を透かしみながら一歩を踏み入れた。 それがこの店の演出なのか、薄ぼんやりとした照明しかない空間には、椅子とティーテーブルという、最低限の家具しか設けられていない。その奥つきあたりの壁に、ベルベットのカーテンが引かれている。あなたの身長よりも大きなそのカーテンの奥にある”もの”が、この店の唯一の特徴といえた。 この鏡にひととき、姿を映し出すことこそがこの店の商品なのだった。 当然、ただの鏡ではありえない。 カーテンの色はどろりとした深紅。 窓はあるにもかかわらず、鎧戸が下ろされたままであるため、部屋の調度品はすべて暗めの色に見える。 客商売だというのに、窓を開け放つことの出来ない理由とは如何‥‥ 窓を見ているあなたの背後から、きぃ、きぃ、という金属の軋む音が近づいてきた。 あなたは振り返る。「いらっしゃい‥‥だよね? お客さん、だよね?」 車椅子をたくみに操りながら現れた15、6歳ばかりに見える少年。 彼はこの店の主だと名乗った。 彼はやけにはしゃいだ様子で、車椅子を操りあなたの周囲をくるくる回る。あなたの名前や出身世界について質問を連発しながら。 あなたが誕生日に買ってもらった子犬ででもあるかのように珍しげに、嬉しそうに‥‥しっぽや毛皮をひっぱっていたずらしてみたらなんて鳴くかしらとでも想像しているように、時折残酷げに眼を輝かせながら。 あなたが【月下】を見せて欲しいと申し出ると、少年はようやく店主らしい対応を見せた。「あっごめん、お客さんなんて久しぶりだからさあ。ここへ独りで来たくらいだから、あなたって相当キモのすわった人なんだろうけど、一応注意事項だけ言っとくね」 少年は、部屋の奥に引かれていたカーテンを示した。「うちの目玉商品、世にも珍しい鏡‥‥【月下】はこれだよ。っていうか、うちの商品はこれひとつだけなんだっけ。ふふ。【月下】の効用は知ってるよね? この前にあなたが立つと、【月下】に映し出されるのはあなたであってあなたでない、『もうひとりのあなた』なんだってさー。 そのもうひとりがどんなヤツなのか、それは映してみなきゃわからない。人によっちゃ、大変なのが映るみたいだよぉ。こないだ来たお客さん、女の人だったんだけど、見た途端ぶっ倒れちゃってさあ。もう、大騒ぎ。いまだに寝込んでるんだってさ。」 では【月下】の鏡像とは、実像を怪物的に、歪にゆがめた姿なのかというと、それは違うと若すぎる店主は即座に否定した。「それは違うよ。【月下】に映るのはその人の『隠された真実の姿』なんだ。 でもそれって、人によっちゃ結構恐怖なんだよねー。 自分は強いと思い込んでる人が実は怯えて必死で鎧みたく殻かぶって強がってるだけだったりとか、優しいはずの人が見栄っ張りの偽善家だったりとか‥‥そういうのって、人って一生気づかずにいたいじゃん? っていうか、気づいてても見てみぬふり。たいていの人はそうだよ。 しかも、【月下】に映った”もうひとりの自分”は、それ自体が別の意識を持って、鏡の前に立つあなたに語りかけて来るんだから、たまらないよね。眼をそらそうと思っても、耳まで同時にふさぐわけにはいかないもの。 まさに自分との対話ってわけ、ウケるよね?」 少年はあなたを期待をこめて見上げた。「‥‥でも、あなたは敢えて知りたいんだよね? 『ほんとうの自分』‥‥もう一人のあなたを」 あなたが少し間を置いてうなずくと、少年は、暗い目をしてうっそりと微笑み、カーテンの紐をぐいと引いた。 ベルベットの布地の間から、銀に輝く鏡面が現れる。 あなたはその前に立っている。 やがて鏡面に映し出されたのは‥‥
鏡の中にツィーダは眼を凝らした。鏡の向こうで漂う靄が凝縮し、ほっそりとした人間の少女となった。 心細そうに、少女もこちら側に向かって眼を凝らしている。 ツィーダと鏡の中の少女があたかも一対であるかのように。いや、事実そうなのだ。 このか弱い少女こそが、ツィーダの創造主だった。 ツィーダはもともとは電脳世界にのみ存在するAIであった。病弱な肉体に反し大人顔負けの頭脳を持つ少女が、天才的なプログラミングによりすぐれた学習機能と自由度が高くかつ速度の速い並列分散処理能力を与えた電子的な”いきもの”、それがツィーダだった。 「ツィーダ‥‥なのね?」 少女の眼から涙がこぼれた。 ツィーダは心の底から少女に呼びかけた。 「ことり、ごめんね‥‥今まで君のことを忘れててごめんね」 「忘れちゃってた‥‥の? やっぱり‥‥そうなのね?」 少女は眼を伏せた。物心ついた頃から、病室のベッドで人生の大半をすごしてきたこの少女は、諦めることには慣れているのだ。 仕方ないわよね、ツィーダは飛べる。自由に好きな場所に行けるんだもの。わたしはベッドの上で、命が零れ落ちていくのを待っているだけの存在でーーと。ツィーダは強く言った。 「じゃなくて、ボク‥‥ずっと君のこと、思い出せなくなってたんだ。別の世界に吹き飛ばされて、その瞬間、たぶんボクの存在の中枢が傷ついたんだと思う。ううん、君の存在はボクの中から消えてたわけじゃなくて、ずっと心の隅っこに”居た”んだ。でも、誰なのか、どんな存在なのかが思い出せなくて、つながらなくて‥‥そこにファイルがあるのに、アクセスを拒否されているみたいな感じで‥‥」 それでも、ことりのすべてを忘れたわけではなかった。ぼんやりと粗い画像がツィーダの記憶にときおり浮かび、そのたびに心が波立った。面白いことに出会うたび、これを聞かせてあげたい誰かがいたはずと、焦燥に似た気持ちが浮かんだ。 ロストレイルに乗る旅人となったツィーダは、そのあいまいな記憶を抱えたまま、ロストレイルを敵視する世界樹の旅団との戦いに臨むこことなったのだが、その前に、ある人物がツィーダに魔法をかけてくれた。記憶の修復を促進するその術のおかげで、記憶が甦った。 樹木の塔に幽閉された時、感じた寂しさも、その引き金になった。 ---このまま出られないのかな? そんなのは嫌だ。ボクはーー誰かに”必要とされたい”。 その思いが電流のようにツィーダの中を駆け巡り、やがて入力キーが押されたかのように記憶の蓋が開いた。おそらく”誰かの為に何かしたい”という思いが、ブロックを解除するパスワードの役目をしたのだろう。 ーーそうだボク‥‥ことりに会わなくちゃ‥‥今までの冒険を全部話してあげなくちゃ。ボクは、独りじゃないんだ‥‥ 「早坂ことり」。ボクを創ってくれたひと‥‥思い出した瞬間、あたたかいものが胸一杯に広がった。 魔法をかけてくれたのは、竜の姿をした不思議な友達。 まるで冒険ファンタジーそのままのツィーダの問わず語りに、ことりはいつしか惹きこまれていた。もとより彼女がツィーダを生み出したのは、自分の代わりに広い世界を探検してくれる友達が欲しかったためなのだから。 「その戦いって、ツィーダ達が勝ったの?」 ことりは熱心に尋ねる。 「まだ、決着はついていないんだ。でもね、戦うたびにみんなも、強くなってるって感じる。だからきっと、平和を取り戻せると思うんだ」 ことりが頷く。ことりが信じてくれているから、絶対勝てる。ツィーダの心にファイトが湧いてくる。そして、そんなツィーダを見て、ことりは頬にほんのり血色を取り戻し、生き生きとした瞳になる。 いつもこうして、お互いに元気をもらってきた。ふと、ことりが眉をひそめた。。 「ツィーダががんばってるのがわかって、とっても嬉しい‥‥でも‥‥つらくない‥‥?」 戦のさなかにある異世界に弾き飛ばされてしまったツィーダを、創り主である自分が元の世界に呼び戻してあげられないことが心苦しいのだ。ことりは何度もそれを試みたが、どうしても出来なかった。 「もっちろん! 楽しいことだって山ほどあるんだからね!」 ツィーダは翼の生えた両手で身振り手振りを交えて、語り始めた。 零世界にいる人々、とりわけ世界図書館の司書たちのこと。 「ーーそのシド・ビスタークって人、いじめっこなの?」 「ううん、いつもは優しいンだけどさ。こないだのシドさんったら、ひどいんだ。おいツィーダ、身体に糸くずついてるぜ、なんて言って、ボクの羽を引っこ抜いてさ。知らん顔して自分の頭飾りに挿してるんだもん」 青白い頬をゆるめてことりは笑いころげる。 モフトピアに出現した温泉に浸かりに行って、さまざまな世界からの旅人達と会えたこと。 湯気のむこうにいたさまざまな姿の旅人たちと、冷たいアイスティー‥‥ ことりの表情は見違えるほどに明るくなっていた。 が、そのとき、また、鏡の向こうに靄が立ち込め始める。別れの時が迫っていると二人は悟った。 【月下】は時空を超えて真実の姿に対面させてくれる。が、対峙できるのはわずかな時間だけ。 「身体に気をつけて、たくさん冒険してね。わたしの代わりに‥‥わたしと違って、ツィーダは強いもの」 「ことりだって、強いよ。ボクの魂は、ことりにもらったんだ。ことりが自分の中の、”負けないぞ”って気持ちを、ありったけボクの中に吹き込んでくれたから‥‥戦ってこれたんだよ」 この【月下】が映すのは、鏡の前に立つ者の本質‥‥つまり、鏡像=隠された真実の自分は何処まで行っても自分でしかない。 ツィーダのもうひとりの自分‥‥真実の姿こそが早坂ことりなのだ。 ツィーダの言葉に、少女はしっかりと頷いた。 たくさんのステキなモノにも、人にも出会えたよ。ことりに全部、見せてあげたいけど‥‥ああ、この鏡ごと、ことりを連れて歩けたらいいのに‥‥ いいの。わたしもこっちの世界でがんばらなくちゃ‥‥でも、約束よ。また、会いに来てね。ううん、わたし、ずっとツィーダと一緒にいたのね。そしてこれからもずっと一緒‥‥だって、ツィーダはもうひとりのわたしで、わたしはもうひとりのツィーダなんだものね。 二人は急いで、口早に互いを気遣った。 そして、ことりの姿は靄に包まれ、かすかなシルエットが見えるのみとなった。 さよなら‥‥ 少女の姿が靄の中に消えても、ツィーダはずっと佇んで、見送っていた。 「あれー? やけにご機嫌だけどちゃんと鏡見た? まさか、眼ぇつぶってたわけ?」 出口に向かうツィーダに、少年店主が毒を吐く。鏡の中の真実の自分と対面して、うろたえたり嫌悪したりする人々の方が彼にとっては面白く、むしろ落ち着いたツィーダの様子が不満らしかった。 ツィーダは無邪気に、ルビーのような眼を少年に向けた。 「ありがとう」 「え?」 「会えたんだ、ボクを創ってくれたひとに。君もいつか、誰かの夢を背負って飛べるといいね」 「へん、うらやましくなんか‥‥ないけどね」 少年店主のぼやき声は、まっすぐ前を見て店から出たツィーダに届くはずもなかった。
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