ドアを開いた。 重い音を立てて開いた扉の向こう側に、闇がわだかまっているように見えた。 あなたは闇を透かしみながら一歩を踏み入れた。 それがこの店の演出なのか、薄ぼんやりとした照明しかない空間には、椅子とティーテーブルという、最低限の家具しか設けられていない。その奥つきあたりの壁に、ベルベットのカーテンが引かれている。あなたの身長よりも大きなそのカーテンの奥にある”もの”が、この店の唯一の特徴といえた。 この鏡にひととき、姿を映し出すことこそがこの店の商品なのだった。 当然、ただの鏡ではありえない。 カーテンの色はどろりとした深紅。 窓はあるにもかかわらず、鎧戸が下ろされたままであるため、部屋の調度品はすべて暗めの色に見える。 客商売だというのに、窓を開け放つことがない”店”。 もちろんそれなりの理由はあった。 ベルベットのカーテンの前に、一人の女性がしゃがみこんでいる。 エッ、エッ、と幼女のようにしゃくりあげながら。 泣いている女性をうっとうしそうに見下ろしているのは、車椅子に乗った少年だ。 まるでまとわりつく子犬を追い払うように、シッシッと手を振る。 女性は店の外へ向かって逃げるように駆け出して行った。 車椅子の少年は、やっとそのとき、店に踏み入れたばかりのあなたの姿に気づいて近づいてきた。「あれっ、もしかして今日二人目のお客さん? どうぞどうぞ、こっちだよ。」 車椅子を器用に操って少年はあなたの周囲をくるくると回りながら、矢継ぎ早に話しかけてくる。その奇妙な明るさは、猫がねずみをいたぶるときの無邪気さに似ている。「ねぇねぇ、ここのこと、誰に聞いて来たの? なぜだかみんな、お化け屋敷に来るみたいにビビりながら来る人が多いんだけど、お客さんはやけに落ち着いてるじゃない? 今までもたまーに度胸のあるお客さんもいて、いい経験させてもらったって言ってくれたけど、さ。 アハッ、けど、そりゃそうだよね? ”もう一人の自分”に会えるなんてめったにない経験だもんね。この鏡ーー”月下”って結構、すぐれモンでしょ?」 少年は得意げに、この店の”売り物”である、ベルベットのカーテンに覆われたモノーー大きな鏡をみやった。この店の鏡は、通常のそれのように現実そっくりの鏡像を映し出すのではなく、鏡の前に立った者の”もうひとつの姿”を映し出すのだという。 ある比類なき賢者がこの鏡の前に立ったところ、体中に角の生えたトゲトカゲめいた鏡像が映ったそうな。 賢者は自らの知性に驕るあまり、周囲の人々の欠点をあげつらうことに喜びを感じていた醜い自己にきづき、歎きながら店を後にしたとか。 ある輝くばかりの美女の鏡像は、がりがりにやつれ眼ばかり大きな病人のような姿だった。 欲望に忠実に生きるあまり満たしようのない飢えに取り付かれた自らに気づいた美女は、以来、大勢の情夫とも縁を切って、自らの美しさを封印するかのように、引きこもり続けているとか。 つまり、この鏡が映すものは、当人が心の奥に閉じ込めていた、あるいは眼をそむけ続けてきた『もう一人の自分』。「さっきの客も、その一人でさー。参っちゃったよ。なんでもママこわいよー、えーんえーんって泣いているちっちゃな子供が映ってたんだってさ。それを見るなり泣くわわめくわ、あれでも元いた世界では、ひとつの軍隊を一人でぶっつぶした最強の女戦士だって言うんだから、笑っちゃうよね?」 少年は耳障りな笑い声をあげたが、静かな決意のこもったあなたの様子を見るや、困ったように笑いを引っ込め、ベルベットのカーテンのかかった鏡を指差した。「決心固いみたいだから、会ってみれば? もう一人の自分に。ちなみにそれがどんなのであっても、自己責任、だからね」
車椅子の少年店主は、ひどく不機嫌だった。客人たる青年が、問いかけた一言のせいだ。 「店主殿は、ご自身でこの鏡をご覧になったことはあるのですか?」 少年は応えない。ムッと客人を睨みつけ、乱暴にカーテンに手を掛けている。 客人ヴィヴァーシュ・ソレイユは薄暗がりに慣れてきた隻眼で室内を見回し、絨毯の精緻な刺繍に眼を留めた。良い趣味だと褒めようとしたが、少年は眼を合わせようともせずタッセルを引いた。 カーテンが開いた。 鏡の中には靄が立ちこめており、ゆっくりとそれが晴れると、一人の優しげな青年が現れた。 彼はあっさりとしたシャツとズボン姿で、公園で犬でも散歩させているのが似合いそうな服装。 ヴィーはきっちりとしたスーツ姿。 「や‥‥やあ、初めまして」 鏡の青年は片手をあげて、人なつこい笑顔を向けてきた。 ヴィーは無表情なままに軽く会釈した。 現し身のヴィーと鏡の青年は、何から何まで対照的だった。だが、髪の色は同じく銀色、瞳の色は同じく翡翠。そして鏡から響く声が自分の声と同じ響きを持っていた。鏡像と現し身は互いに、互いを己の分身らしいと認めた。 「その眼帯はどうしたのですか?」 尋ねられて、はたとヴィーは驚きから我に返った。 「事故です」 短く応えて、逆に問い返した。”そちら側”では父と兄、そして姉は健在でいるのか、と。鏡の青年は、微笑のまま、ふと視線を落とした。 「いいえ。父は戦で亡くなりました。兄様は病で‥‥姉様は産褥で身罷られました」 やはり、”もう一人の自分”もまた、肉親との縁が薄いさだめであったかとヴィーは安堵とも落胆とも知れぬ吐息をついた。 それにしては、なぜ鏡の青年はこんなにも人懐こく、明るい笑みを浮かべているのか。 遠い昔、兄たちと共に肖像画を描かれたことを思い出す。描かれる間、姉と兄に挟まれて、退屈に身じろぎするたび両側からほほを突かれた。その肖像画の中の自分に、鏡像の青年の笑顔は似ていた。 ーーあくまで”似ている”であって、”そのもの”ではない。なぜだろうとヴィーは沈思した。 「そんな哀しい顔をなさってはいけませんね。兄様たちが安らかに眠れぬではありませんか。兄様たちに先立たれた以上、残された僕たちは一族の”希望”を託されているのです。誇らかに、明るく強くあらねばならない、そうではありませんか」 鏡の青年の言葉に、ヴィーの碧の瞳が揺らいだ‥‥かに部屋の隅で息を殺して見守る少年店主の眼には、見えた。 ーー亡き兄上が今の自分を見たとしたらどう思うだろうかと、ヴィーは想像していた。夢想家ではないヴィーにとって、そんな想像は空論にしか思えなかったがーー確かに兄ならば、無邪気な頃の弟と比べてどうしたのだと心配するような気はした。かといってーー 「誰かに見せるために自分の感情を作る気にはなれない、それだけです」 ヴィーの返答に、鏡のヴィーは言いつのる。 「先ほどから見ていると、貴方はまったく感情を面に表しませんね。貴方はヴィヴァーシュ・ソレイユの”影の部分”なのではありませんか? 人生の暗い側面ばかり見ているから、笑えないのでしょう? だとしたら”私”はきっと、本来貴方があるべき姿なんですね。だって兄さまは私に‥‥つまりは貴方に、生きてゆくことを望んでいたはずだから。貴方のように自分を抑えて否定することは存在否定つまりは死につながる。そんな風であってはいけないんです、きっと」 ヴィーは無意識のうちに自らの眼帯に触れていた。この傷がない自分の顔は、このようであったかと鏡を見つめる。 否、とヴィーは思う。たとえ無傷であっても、私はこのような笑みは浮かべまい。 あんなにも明るい笑みを浮かべることは、大切なものを奪ってゆく残酷なさだめに媚びへつらうことにはなるまいか? それを確かめるための、ヴィーの質問は短かった。 「卒爾ながらーーそこは居心地がいいですか?」 少し戸惑ってから、鏡像が応える。鏡のヴィーは少しいらだっているようだった。 「ええ。とても。確かに肉親はいなくとも、きっと魂は僕の傍にいてくれます」 ヴィーの瞳が、ひたと鏡に向けられた。射抜く程にまっすぐに。 「今の言葉で確信しました。やはり貴方は私ではない。まして私のあるべき姿でなど在り得ない。所詮貴方は鏡に映った投影に過ぎない」 現世のヴィーの言葉に、鏡のヴィーの爽やかな顔が一瞬歪む。 「な‥‥なぜ? 貴方のように過去に囚われた生き方が正しいとでも? 失われたものを追い求めたところで仕方がないではありませんか! 二度と手に入らぬと分かりきっているものに、いくら思いを募らせたところで時間の浪費でしょう!?」 「確かに私は過去に縛られて生きている。私はこの傷を、兄姉を喪った痛みを抱え続けるでしょう。しかしだからといってそうしたものが自分の人生を阻害しているとは思いません」 むしろ、この悲しみ、苦痛を背負い続けることこそが私を”私”たらしめるのだと。 兄姉を愛すればこそ、喪った痛みは深い。 だとすれば。 ヴィーの苦痛も傷跡も、愛の証に他ならぬ。今はもう届かぬ相手に手向ける愛だとしても、いやそれ故にこそさらに深い愛。 鏡のヴィーに決定的に欠けているものがあるとすれば、まさにそれだった。鏡のヴィーはどこか皮相なのだ。 鏡像は虚像に通じるのかもしれぬ。いずれにせよ、鏡像のヴィーの笑顔は崩れて、焦燥と屈辱を浮かべていた。 「もとより”思い””偲ぶ”ことは結果を出すためにすることではありません。それとも貴方は兄がいなくとも、代わりの愛で埋められると思い込もうとしているのですか? 失った愛が、自分にとって唯一無二であること、それが二度と得られぬという現実を認めるのを恐れてーー」 兄のために命を投げ打つつもりで生きてきたヴィーは死の恐怖など当の昔に乗り越えていた。 今やこの身は、失われた愛する者への喪に服するためにのみ存在するのだとある意味諦観さえしていた。人生の暗い側面を恐れて眼をそむけている鏡の世界のヴィーの問いかける皮相の陽気さなど、そんな現し身のヴィーにはガラス球ほどの輝きも感じられなかったのだ。 鏡像の美しい顔が歪んだ。そして顔だけではなく、像全体がくしゃくしゃに丸めた画用紙のように縮み、見えない手で握りつぶされたかのように小さくなり、やがて消えた。 鏡の面には、元通り白い靄が立ち込めるのみ。 ヴィーは深い息を吐く。あの”明るく爽やかな”ヴィーは、ヴィーが心のどこかで、幾度か願った姿かも知れぬと。 ふと気づくと、傍らからニヤニヤと車椅子の少年店主が見上げている。 「さっきの失言、許してあげてもいいよ。アンタがあの妙に爽やかなヤツ、やりこめるところ、結構面白かったから。‥‥でも、言い負かされなくてよかったじゃん。あの鏡、時々‥‥食っちゃうらしいんだよね。”こっち側”を」 「興味深いお話ですね」 ヴィーはゆったりと一礼し、扉へと脚を向けた。いかにそれが残酷なさだめであろうとも、この身は今や失われた愛する者たちへの喪に服するためにあるのだと、改めて得心する思いで。 が、またも少年は会釈を返さず、フンとそっぽを向いた。 客人のあまりに典雅なしぐさが、まるでこの館の主導権を彼に奪われたかのように感じられたのだった。
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