騎士(自称)アルウィン・ランズウィックは使命に燃えていた。 同居人であり、現在親代わりでもある作家から言い渡された重要な使命ーーそれすなわち、『るすばん』である。 『るすばん』とは、アルウィンの見解によれば、≪ひとりでおうちにいること≫なおかつ≪泣かないこと≫≪あそんだらおかたづけをすること≫かつ≪とけいをみて、時間がきたらおひるねをすること≫だ。現在、アルウィンがほっぺを膨らませて遂行しようとしているのは、二番目である。もうひとりの同居人がアルウィンのおやつであるべき”ちょこれーと”を人知れず平らげてしまったことに気づいたため、アルウィンの寂しさと空虚感は限界に達していた。 しかも次の瞬間。アルウィンの緊張もまた、極限に達した。 誰かがドアをノックしている。 アルウィンはドアノブに手をかけ、ドアの隙間から闖入者を観察しようとしたのだが、外側からぐいとドアが開いたため、彼女の顔面は闖入者の脚にめりこんだ。 「ふあ!? もぶっ!!」 アルウィンは身構えた。 「失敬。一歩後ろに下がっていただきましょうか」 聞き覚えある冷たい声。すなわち天敵の来訪である! 顔を上げてアルウィンは来訪者を睨みつけた。が、来訪者の方は意に介することもなく、すいすいとアルウィンの体をよけ、家の奥へとすすんでいく。 「こっこら、勝手に入るなー!」 体当たりで押しとどめようとしたアルウィンを、来訪者は手を挙げて制した。 「まずひとつ申し上げておきますが、私は『勝手に』入ってきたのではありません。たとえ反射的にであるにせよ、貴方は私が申し上げたとおりに一歩下がって私を迎え入れる体勢をとっていました。 そしてさらに言い添えるならば、そもそも私が来たのは、この家の主からの依頼によるものです。念のため、正式な委任状も所持しております」 ぴらりと来訪者ーーヴィンセント・コール、アルウィンの親代わりたる作家のエージェントだーーは、一葉の書類を突きつける。その委任状は見覚えのある流れるような字体で、親代わりたる作家のサインが記されている。 「--では私がここへ来た理由は納得していただきましたね。では」 もう一枚、ぴらり。 作家にとって、そしてその周辺の人々にとって、これが名だたる恐怖の「ミスター・コールのTO DO リスト」である。 もちろん常に作家との相談の上で作られるとは言うものの、ヴィンセントの完璧すぎるエージェントぶりを反映するそれは、時に作家に地球より重いプレッシャーをかけ、出版社の編集者をコマネズミのごとく駆けずり回らせる。 いわく、「著者近影」担当の女性カメラマンには理想の父親のごとく振舞うべし、次回作の参考資料は執筆開始の一ヶ月前にはすべて揃うべし、文学賞受賞式に臨む際の服装は国内カジュアルブランドをまとうべし、エトセトラエトセトラ。 今回のそれは、アルウィンの名が書かれているところをみると、アルウィンに対し何らかのアクションを求めるものらしい。”~らしい”としかいいようがなかった。文書のほぼ過半数を占める、スペルがいっぱいある単語はアルウィンにとって難しすぎたので。 まず課題の壱番目は、これです。 とヴィンセントが取り出したのは、短い棒と謎の液体が入った小瓶。この棒に謎の液体を少量浸し、宝石のように美しい球体を作れるよう腕を磨くこと。 それが宿題です、と。短い棒は空洞になっており、そこから息をふきこめば、謎の液体は棒の先から美しい珠となって噴き出してくるのだそうな。 「ふーッ! あれえ? こわれた‥‥」 「呼気の吹き込み方が強すぎるのですよ・ゆっくりと、力強く、このように」 もう一本の棒で、ヴィンセントが美しい球体を作ってみせる。ビー玉の硬い輝きもいいが、こちらはやわらかでふわんふわんと弾む。おもしろい。 負けじとアルウィンもまねをする。 ようやく作ったのはヴィンセントのとは違い、虹色に輝く球体は棒から離れ、ふわふわと飛ぶ。が、ふと風が吹くとはじけて消えてしまった。 「なんでだ? せっかくきれいに”くつった”のに‥‥」 ショックを受けるアルウィン。沈着冷静な表情をくずさず、ミスタ・コールは告げた。 「美とは常に創造するに難く、保つに難い、はかないものです。そのことをよく学ぶようにとの、ミスタ・カルヴィネンの仰せです」 アルウィンは目をまるくして漂う球体を見つめた。作家がたった一行の文章をつむぎだすために頭を抱えて呻吟している様子がふと思い出された。 ーーつまり、あれだ。なにかいいものを”くつる”のはむずかしいんだ。で、こわれるのはかんたんーーそんなの、ずっとまえからしってるぞ。 なぜそんなかんたんなことをいまさら知らねばならぬのかーーとアルウィンは悩んだ(約一秒)。しかし次の瞬間、ヴィンセントが慎重に息を吹き込み巨大な珠を作り出すにおよび、すべてを忘れてその中に入ろうと試みた。 「あれっ!? ない? どこいった、きらきらだま!?」 「ですから美とは常に創造するに難く」 壱番世界でいわゆるところの「しゃぼんだま」であるとは夢にも知らぬアルウィンは、大真面目に格闘する。そしてヴィンセントの話は当然ながら聞いていなかった。 (理屈の通らないーーいや、そもそも話を聞かない相手との同居は、ミスタ・カルヴィネンにとりかなりのストレスとなることでしょう) 新作の執筆(気の早いプロデューサーが早くもその映画化権を買い取ろうと画策中である)に妨げとなるまいかと、以前からヴィンセントは案じていたのだ。だがその一方で、アルウィンが飽きずにしゃぼんだまを追っかける姿に、ミスタ・カルヴィネンの作品の登場人物であるウサギの冒険家をイメージしていた。そのウサギの冒険家は、噂話を真に受けて見当違いの場所にばかり首をつっこみ、おまけに道端に新鮮な草があると、寄り道しておやつにせずにいられないひょうきんなキャラクターで、読者の中では絶大な人気がある。 (もしかすると、あのキャラクター造型はこの子供からインスパイアされたのでは。とすると、まったく無駄な存在でもないと言うわけですかーー) ついでに言うなれば、イタリアンブランドのスーツに身を包んだ一部の隙もないヴィンセントがしゃぼんだまを吹いている姿も結構シュールである。 気づけば、シャボン玉液が尽きるころ。 ヴィンセントは「TO DO リスト」の次の項目を読み上げた。騎士として狩猟能力をきたえるべし、とある。そして取り出したのは金属性の四角い甲虫のようなもの(ラジコンカーである)と、触覚のようなものがついたよくわからないもの(リモコンである)。 ヴィンセントが触覚ぽいものをいじると、金属の甲虫は突風のように走り出した。 「あの●△×※(アルウィンには聞き取れなかった)を捕まえることが出来たら貴女の勝ち。制限時間は15分間です」 甲虫ーーラジコンカーが走り出し、これはいかなる魔法かと目をまんまるにしてヴィンセントの手元をのぞきこむアルウィンの脚の間をからかうようにすりぬけて、部屋の中をぐるぐる回りだした。 アルウィンの見解によれば、誇り高き騎士をからかうヤツは磔刑に処せられるべきである。 ‥‥しかし、遺憾ながらこの機械に弄ばれるのは結構たのしい。 「まてまてまて~~!」 アルウィンは夢中でラジコンカーを追っかける。真剣に追いかければ追いかけるほど、ラジコンカーはくるくるくるとすばしこく円を描いて走り回る。 まるでアルウィンがおもちゃを追っかけているのか、おもちゃがアルウィンを追っかけているのか、わからない状態。 もちろんラジコンを操作しているのはヴィンセントである。手元を見ずに、しかも目にもとまらぬ速さで、家具や壁にラジコンとアルウィンのいずれもがぶつからぬよううまく空間を使って両者を走り回らせている。 ようやっと少女はラジコンを本棚の下に追い詰めた。アルウィンの顔がにににこ勝ち誇る。 ‥‥が、それも、ラジコンカーを捕まえようと棚の下に頭をつっこみ、顔をあげた途端におでこをしたたかぶつけるまでのことだった。 「うっ‥‥く‥‥」 でも、泣かない。なぜならアルウィンは騎士だから。騎士は強いのだ。泣かないったら泣かないのだ。泣か‥‥ ぺたりと冷たいタオルがおでこに押し当てられた。 「打撲による痛みを和らげるには冷却が第一です」 こともなげにヴィンセントが言う。 アルウィンはタオルの上からたんこぶをさすりつつ、上目遣いにヴィンセントを見つめる。 こいつ‥‥意地悪でえらそうだけど、困ってる子供をほっとくタイプではないってことか。 ん? そういうところはイェンスに似て‥‥る? ぷるぷるとアルウィンは首を振った。 ツンツンだし言葉つきが優しくない。ぽい、とタオルを洗濯籠に投げようとすると、厳然と告げられた。 「レディとして、役に立つ手が差し伸べられた時にはひとこと、礼を言うべきです」 アルウィンは考える。これは作家が時折口にするやつである、なんだっけ? (せ・い・ろ・ん‥‥だ。) ちなみに”せいろん”とは、反論不可能なまでに正しい言葉を指す。 アルウィンの見解によれば、服のしわを伸ばすのにも用いられるらしい。 「あ、ありがと、う」 アルウィンは騎士らしく片足を引いて深々とおじぎをした。 「どういたしまして」 ヴィンセントと決定的に違うのは、笑顔がほとんどないってことだ。 二人は項目のナンバー3にとりかかった。 それは、小麦粉・バター・牛乳・タマゴ・バニラエッセンス、その他少々の材料を要する科学実験のごときものであるらしい。 「遺憾ながら、項目3は実現不可能なようですね」 ヴィンセントの端正な眉が少々曇ってるようだ。アルウィンは小首を傾げた。 聞けば、実験のキモであるメープルシロップが見つからないのだという。かといってこれから買い物に赴いていては、アルウィンの昼寝の時間に差し掛かってしまう。 「めーぷるしろろっぷ‥‥! アルウィン、知ってる!」 アルウィンが敢然と立ち上がった。メープルシロップという単語には聞き覚えがあった。 正確にいえば、作家のもう一人の同居人と奪い合った貴重な代物である。子分の分際でやけに知恵のまわるその同居人は、その味を愛するあまりアルウィンと所有権をめぐって争い、するうちにどこかに隠してしまったようなのだ。 「ごうじんがだいじなもの、かくしそうなばしょ‥‥」 アルウィンはきりりと目じりを吊り上げて住居を見回した。 「あれ、あそこだ! ヴィンセント、すわれ」 「は?」 「すわれ!」 意味不明なままにヴィンセントはひざまづかされ、するとアルウィンがちょこんと肩にのっかった。 「立って、もっとこっち、ちがう、そっちじゃなくてあっち!」 さらに意味不明なアルウィンの指示で、おぼつかない足取りで肩車のままうろうろさせられる。 アルウィンは腕をいっぱいにのばすと、天井近くの間接照明の影にある飾り棚にある小瓶をつかみとった。 「めーぷるしろろっぷ!」 アルウィンは腕を誇り高く高々と突き上げた。 正体のせいか、同居人は灯りの灯る場所の傍が好きなのだ。 「メープルシロップ、です」 「わかってる、めーぷるるしろっぷ」 アルウィンの発音を正したくてたまらないヴィンセントであったが、相手の年齢を考慮して不問に付すことに決めた。彼にとっては破格の譲歩である。 アルウィンを肩車したことによる髪の乱れをすばやく直したヴィンセントは、持参のエプロンを身につけると、シロップ以外の材料をボールに入れて泡だて器でかき混ぜ始めた。 あまい香りが漂いはじめ、アルウィンは無意識のうちにしっぽをぱたぱた振っていた。 「これ、なんだ?」 ヴィンセントが鉄鍋の上で完璧な円形にパンケーキを焼き上げはじめると、アルウィンのテンションはお星様よりも高くなる。 みごとなきつね色に焼きあがったケーキをひっくり返すヴィンセントの手つきに見とれるまではよかったが、自分もやりたいとアルウィンはだだをこね、缶詰がはいっていた木箱を踏み台にして鍋をのぞきこみ、フライ返しをあぶなっかしい手つきでつかんだ。 「えい!」ぺたり。 アルウィンのひっくり返したパンケーキは壁にべったりはりつき、凝固していなかった生地がはねとんでヴィンセントの前髪に付着した。 途端にへそをまげた。 ‥‥ヴィンセントではなく、アルウィンが、である。 ヴィンセントみたいにうまくできなかったという失望、恥、言うこときかないパンケーキへの怒りで。 いじわるヴィンセントがにらんだ、わざとじゃないのにヴィンセントがにらんだと叫びながら部屋のすみっこでいじけるアルウィンを、ヴィンセントはこんこんとさとした。テロリストに立ち向かうFBIの交渉人もかくやと思われる真剣さと根気をもって。料理は奥が深いのです、最初からうまくできる人間などおりません。まして前髪に生地がはねたぐらいでなぜ私が睨んだりいたしましょう。かなり熱かっいやなんでもありません。 そして何より、貴女がこのおやつを召し上がらなかったなら、ミスタ・カルヴィネンはさぞかし失望することでしょう。 アルウィンは作家の名前を出されて、観念したという感じでテーブルにつく。その様子が「おあずけ」される子犬の表情と酷似していたので、ヴィンセントはらしくない言い間違いをした。 「お手」 「?」 「いや違った、フォークとナイフをしっかり持って」 アルウィンはメープルシロップをたっぷりかけて、パンケーキを口に運んだ。 「おかわり!」 「まだ一口目を食べたところでしょう。まずお皿にある分をすべて召し上がってからですよ」 たちまち元気よく、アルウィンは次々ケーキを平らげる。 いったいどのような思考を経てこんなに速く立ち直ったのかとヴィンセントは驚嘆したが、なんのことはない、何も考えてないだけである。 (「‥‥ようやく静かになった‥‥」) ヴィンセントはようやくソファにすわり、作家から依頼された仕事の達成度合い、を比類なき正確さと精密さで報告書に仕上げていた。 アルウィンはお昼寝中。今日ここへ来てはじめての静かな時間である。アルウィンとの時間は想像通り、いや想像以上に騒がしく、予測不可能で、気力も体力も消耗が激しいものであった。 この小さな同居人は作家の大きな負担ではないかと懸念するヴィンセントであったが、いささかアルウィンの資質については認識を新たにしていた。 アルウィンが作家にほとんど崇拝ともいえるほど敬愛していることは今日一日でも存分に感じ取れたし、もうひとりの同居人が隠したシロップのありかを発見した洞察力には、正直なところヴィンセントですら舌を巻いていた。 --磨けばかなり有用なものになりそうな予感がする。そうだ、たとえばミスタ・カルヴィネンの秘書として。ボスに対する尊敬と周囲への気配りと洞察力が秘書としての大きな武器になるだろう。 この子供に礼儀作法を仕込み、教養を身につけさせる。そんな作業はなかなかやりがいがありそうな気がした。人材育成はビジネスマンにとっての必須課題である。 アルウィンがお昼寝からさめたころ、作家が帰宅し、ヴィンセントはいとまを告げた。 「また来ます。今度はアルファベットブックを持参しましょう」 なんだかわからないが、そう告げるヴィンセントの眼はいつもよりきらきらしていると作家は思った。‥‥が。 何でお前がここにいるんだ。 目覚めた途端に天敵の顔を見てしまったアルウィンはもともとよくない寝起きがさらに悪くなってしまった。 キッとばかりににらみかえし、言い放った。お昼寝を経た子供の脳には結構たのしかった一日の記憶がもはやリセットされているのである。 「もう来るな! ぜったい! ぜーーったい! お前とはもうあそんでやらない!」 今日一日の自分の努力はすべて水の泡だったのか。そしてなぜ上から目線。 ヴィンセントは子供というものの扱いの難しさと解析不可能な自由さに憂いつつ、作家の仮の住居を辞したのだった。
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