客が訪れて、ニコ・ライニオは気軽く応対に出る。 「いらっしゃーい」 「あ? まだ居んの、お前」 この住処の女主人目当てにきた客は、いまだにニコを見るや露骨にがっかりしやがるのだが。 彼女の用意した薬包や薬のびんを、客に合わせて差し出すのがニコの役目。 「この塗り薬でよかった、セイラム?」 「ええ。ふたつ包んであげてね」 奥の部屋で薬草を煎じる作業をしながら、おっとり応えるのは、ニコの雇い主にしてニコが居候している家の女主人で、恋人でもあるセイラム・カロン。 「ちっ、俺たちのセイラムといちゃいちゃしやがって‥‥くそうっ」 泣きながら走り去る客もいたりして。 セイラムとニコ・ライニオがであったのは三ヶ月ほど前。 昼寝のために降り立った山の上で、蜂に刺されて難儀していたら、偶然彼女が訪れて、持っていた薬で助けてくれた。その山には時折、薬に使う植物を集めに来るのだと彼女は言った。 「私、セイラムっていうの。そんな、命の恩人だなんて」 薄青色の髪はきっちりと束ねて、地味な服装。それでもセイラムの笑顔は染み入るようだった。 ニコはお礼がしたいと家の場所を聞き出し、早速花束をもって押しかけた。 すぐに妹のフリッカに引き合わされた。フリッカはベッドの上に起き上がるのがやっとのようで、上体だけを起こしてニコをじーーっと見つめる。 「ニコみたいに綺麗な男の人、初めて見たんだもの」 えーと。この子、素直すぎ。 「ねえ、ニコを描いていい?」 言われて気がついた。 少女の部屋の壁は、驚くほど緻密な肖像画で埋め尽くされていた。 暖炉の前で物思いにふける姉。笑顔で収穫した野菜を抱える老女。 横で笑顔のセイラムが頷く。 ーーなーんだ。であってすぐ家に招いてくれるからその気かと思ったら、妹さんのモデル兼話し相手、かあ。 ちょっとした空振り感。でも悪い気はしない。フリッカの痩せた顔にほんのり紅が差す。 枕元から筆を取り出したフリッカの腕は、やつれているのに虫こぶのような腫瘍が二の腕の途中で膨れ上がっていた。 「これ‥‥気にしないでね。時々痛むだけだから。それにお姉ちゃんがいつかきっと治すって約束してくれたもん」 フリッカは言った。その「時々痛む」の本当の意味を知ったのは、フリッカの話し相手を務めるうちに帰りそびれ、そのまま泊まることが多くなっていた、ある日。 「いいいっーーー痛いーーっ!! こんな腕、切り落としてーーっ」 真夜中につんざく悲鳴。フリッカの三日ごとに起きる発作だと、飛び起きたニコにセイラムが謝る。--何か僕にできることは‥‥ 口に出してすぐ、後悔した。薬師であるセイラムですら、できることはただひとつ。 「っいたい痛い痛いーーっ」 「フリッカ! 絶対治してあげるから‥‥」 ただ必死で、痛みに暴れのけぞる少女を抱きしめることだけが。 体力の消耗で妹が気絶するまで。 「治してやりたいの。絶対に」 燃え尽きたように気を失ったフリッカの腫れ上がった腕を撫でながら、乱れた髪の間から、セイラムの碧の瞳が光る。 その夜、フリッカの発作はしだいに、間隔が短くなっているのだと、セイラムはニコに打ち明けた。 先々月は半月に一度だった。それから十日に一度になり、今は三日に一度。 セイラムは妹の命が削られてゆくさまを、日々見つめざるを得ないのだ。 セイラムの家に泊まることが増え、やがて一緒に暮らし始めたニコは、少しでもセイラムとフリッカの心に明るいものが灯るように必死で笑顔を振り撒いた。 それなのに時折、セイラムがなにを思っているのか、図りかねることがあった。 たとえば夜中に散歩に行こうと誘われて、夜の湖に、寒さに震えながら出かけたこと。 「なんでこの寒みーのに‥‥」 「深夜の水鏡は真実の姿を映すって言うでしょう」 恋する女の常で男の心のうつろいを心配しているのか‥‥それ以上の何かが瞳に潜んでいる気がして。 ‥‥真実の姿なんて‥‥知られたくないんだけど。 ニコの本当の姿は、赤い鱗を持つ竜なのだ。 けれどその姿を現したとき、人は恐れ、時には嫌悪さえする。ヒトというささやかな生き物にとって、己の身長の倍を越す竜など、日常を壊す異形の来訪者でしかないのだと、思い知ることがあまりにも多かった。 そんなある日。 「お姉ちゃんも絵がうまいのよ」 フリッカのモデルを務めるため、シリアスな横顔を保つのに疲れたニコに、フリッカが自慢げに差し出した。 それは薬草調合のレシピをかきとめた、セイラムの覚え書きだった。 薬草の調合法、村人ひとりひとりへの処方。丁寧な絵図入りで、セイラムの几帳面な字で説明が書き込まれている。 セイラムの健気さを改めて思い知る気持ちで、ニコはページをめくった。 ーー手が凍りついた。 最後のページに粗い線で竜の姿が描かれている。 ○変身能力? ○竜族の変身を見分ける、もしくは確かめる方法→水鏡? ○竜の血ーーあらゆる病に有効? 最後の行に傍線が引いてある。 ニコの胸に苦しい予感が横切る。 ひたひたと背後から迫る足音に気づくように。 偶然だろ? セイラムは僕の正体なんて知ってるはず‥‥ 否。あの日、昼寝をしに舞い降りた山頂で、蜂に刺されて難儀していたところにセイラムは現れた。まるでニコが誰かに助けを求めるのを待っていたかのように。 セイラムがそっと影から見ていたのかもしれなかった。竜から人へ変じる姿を。 予感の解答を持ってきたのは、セイラムの薬を求めてやってくる常連客の鍛冶屋のおかみさんだ。 おかみさんは目薬の代金がわりにと、皮袋に包んだものを差し出した。 「これ、セイラムに頼まれてたナイフよ。折り返しで鍛えてうんと切れ味鋭くしたやつ」 当然セイラムから聞き知っているだろうと言いたげに、おかみさんは言う。 「たとえば龍でも斬れるくらい鋭いかってしつこく聞くから、多分ねーっって答えといたけど。いったいなに料理するつもりかしらねぇ、あの子。ニコちゃんもセイラムが優しいからって、あんまり甘えちゃダメよ?」 ーーセイラムが、僕を刺すために‥‥ 万病に効くと信じて竜の血を絞り取るために‥‥着々と準備を進めてたなんて。 「なんでだよっ」 傍にあった立ち木の幹に拳をぶつけた。 姿かたちが竜なだけで、いたって傷つきやすい普通の男なんですけど。 「おかえりなさい、ニコ」 フリッカの声で我に返った。 ずきずき痛む胸を抱えて歩いていたら、勝手に足がセイラムの家に身体を運んでいたらしい。 見てみてとせがまれ、うつろな心のままでフリッカの差し出すキャンバスを見た。描きかけのニコの横顔。 そのすんなりのびた鼻筋のラインを、嬉しそうにフリッカが指差す。 腕がうまく動かなくて、どうしてもこの線が綺麗にできなかったのだけど、口にくわえて左手を添えて筆を動かしたら、出来たの。 この腕がなくなっても、私、描けるかもしれない。ニコが描かせてくれたおかげよ。 「どうしたの?」 心配そうにフリッカがニコの潤んだ瞳を覗き込む。 そりゃそうだよな。こんな子、一秒でも長く生かしてやりたいよね。 ニコはフリッカの肩を抱いて、できるだけ明るい声で褒めた。 「この肖像‥‥仕上がったら宝物にするよ」 ニコから見ればどんな人間もはかない生き物だ。その中でもこのフリッカは、風に折れんばかりの花みたいなもので。 この子が部屋の窓に小鳥が訪れたらどんなに喜ぶか。ニコが薬草を取るついでに気まぐれに持ち帰った野の花が枯れるまでフリッカは大事に枕元に飾り、眺めていた。 ニコが見飽いた、聞き飽いたすべてが、フリッカにとっては宝石よりも貴重だった。 それに比べて、僕は。 北から南まで旅したし、恋だって出来た。 あかぎれの手で薬を混ぜるセイラムを思った。 ーー一世一代の、大芝居といきますか。 胸の奥でニコは呟いた。 満月だというのに、黒雲がその光を塗りつぶした夜。 フリッカは発作の後の深い眠りに落ちていた。 セイラムの頬はそげてもともとの愁い顔が凄艶なまでに陰影を濃くしていた。 「少し飲まない?」 セイラムがこわばった笑顔で差し出したワインを、ニコは何も言わずに飲んだ。 少しでも痛みが和らぐのではと、セイラムが薬種を混ぜていたことを知っていたから。 「おいしいワインだね」 わざとスキだらけの背を向けて、ワインを注ぎ足す。 「ニコ‥‥ごめん、なさい!!」 セイラムがぶつかってきた。 ‥‥熱い? 冷たい? 重い衝撃が、背中に走った。 体が急に重くてがっくりと膝をつく。 ごめんね。セイラムは呪文のように呟いていた。殺したくなんてなかった。 生まれて初めて手を血で染めて怯えているセイラムを、ニコは振り向いて抱きしめた。 膝まづいた状態では腰しか抱きしめられないけれど、恨んだりしないよと伝えたくて。 「まだ‥‥死んでないってば‥‥へへ」 ゆがんだ笑みを浮かべた。死んでる場合じゃないじゃん、マジで。せっかくの竜の血、ほら。傷からあふれた血を、ワインを飲んだ後の杯にできるだけあつめようとする。 自らの血が万病に効くものなのかどうか、ニコは知らない。でも、セイラムとフリッカの心に希望を灯せるならば、それだけでも価値はあるはずだ。 「あなた‥‥」 セイラムが目を見開いた。ニコがセイラムに刺されることを、その目的を、既に知っていたと今気づいた表情だった。同時に、薬師であり、癒し手でもある自分に返ったのかもしれない。震える手で、自らの着ているブラウスを引き裂き、ニコに血止めを施そうとする。 「だ‥‥め‥‥だ、血‥‥止め‥‥ちゃ‥‥」 ニコがその手を振り払っても、セイラムはその矛盾だらけの行動を進めようとした。 「ごめ‥‥僕にしてあげられるの‥‥これくらいしか‥‥なくて」 血の入った杯を差し出すと、セイラムは「もういいのっ」と叫んだ。 「私が悪いの、妹一人救えない薬師なんて。私が死ねばよかったのに」 「お姉ちゃん‥‥?」 いつにないセイラムの激した声に、疲れ果てて眠っていたフリッカが目覚めた。 ニコははっと崩折れかけたからだを引き起こした。 --フリッカには見せられない 僕の本当の姿を見たら‥‥発作で弱った心臓が震えるだろう。 血にまみれた姉の手をみたら‥‥自分のせいだと苦しむだろう。 っていうか、さすがの僕もちょっとヤバいかも。目がかすむ。血が思いのほか流れてるんだ。ダメだ、セイラムに死に顔は見せられない。 セイラムに自らの罪を眼前に突きつけるようなものだから。 「ニコ? お姉ちゃん?」 かぼそいフリッカの足音が近づいてくる。ニコは血の痕と匂いがごまかせるよう、ワインの瓶をテーブルから払い落として壊した。 呆然としているセイラムに、そっとキスをした。 扉から、なんとか外へよろけ出た。間に合った。もう人の姿ではいられなかった。 一瞬燐光に包まれ、戻った。炎色の鱗持つ赤竜へ。 翼を広げ、夜空に向かいーー 頼むよ、神様。伝説とやらを真実に。 お願いだから。 竜は啼いた。 そしてはばたいた。できるだけ遠くへ。 血が流れしたたるのもかまわず、竜はひたすらに飛び続けた。 そして神様、願わくばセイラムに心の平安を。悪いのは僕だから。 神様の遣いなんて言われてる竜なのに、なんでこんなにも無力で。 ごめんねフリッカ、肖像画が完成するまでモデルになるはずだったのに。 多量の血を失った竜ははるかかなたへ飛びーー時空の裂け目へと落ちていった。 ◆ その村の奥山に住む女性は、「竜の聖女」と呼ばれている。 病や傷を癒す薬を求めてやってくる村人に無償で薬を与え、あとはひっそりと祈りを捧げて暮らす。 村の人々の言い伝えによれば‥‥かつてセイラムと呼ばれていたその女性は、伝説の竜の血を手に入れ、不治の病に苦しむ妹に与えた。 病が癒えることはなかったが、竜の生命力によるものか妹の発作と痛みはウソのように治まり、妹は微笑んで短い命を終えた。 妹の最期の微笑を小さな灯火にして、聖女はひたすらに祈り続ける。 ーーQUI TOLLIS PECCATA MUNDI、MISERERE NOBIS. 期せずしてそれは、傷つけてしまったかつての恋人が心に抱くのと同じ祈りであった。
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