闇に占められていた空に、暁の光が零れだす。地平より溢れて、世界を金色に染める。 「災禍の王はこの私が討ち取った」 アイギルスが宣言する。少年は地にくずおれたまま、その言葉を聞く。炎に根こそぎ抉り去られた数多の命を探すように、焼け焦げた土をその小さな手で掻き毟る。未だ熱持つ土塊に、掌が、爪が、痛みと共に焼ける。 喉は嗄れている。涙は尽きている。立ち上がり、再び歩き出すことなど、赦されるはずもない。 ――人間族と魔獣族との戦争があった。戦争は幾度となく繰り返された。 その世界に、少年は生まれた。絵本を読むことが大好きだった。物語描くことが大好きだった。可愛らしい妖精獣達が遊ぶ世界を創造した。 描いた物語を現実化させる力を持っていた。魔法に満ちた世界でも、稀有の力だった。 その力を戦争に使った。 絵本の中の平和な世界で暮らしていた妖精獣達は、世界を滅ぼすためだけに繰り返し召喚された。 幾つもの森を焼き、山を砕いた。国を滅ぼし、街を破壊した。 少年が絵本の住人として生み出した妖精獣達は、いつか『災禍の従者』と呼ばれた。彼らは世界の敵となった。 『災禍の従者』率いる少年自身は、『災禍の王』と呼ばれ、恐れられた。 その『災禍の王』と戦い、長く続いた戦争を終わらせたのが、狼族であるアイギルス。 暁の獣王、と称されるに相応しい金色の毛が、朝陽を真正面から浴びている。輪郭が太陽の色に縁取られる。黒い焼け野原の中で、雄々しく立つ。 「クアール」 アイギルスは背中丸めうずくまる少年へと手を伸ばす。命失くしたように動かぬ少年の名を幾度も呼ぶ。顔を上げさせる。 「戦争は終わった」 静かに、言い聞かせる。 「災禍の王は斃れた」 少年は自らに伸ばされる手を見詰める。朝の風が少年の夜の色した髪を撫でていく。絶望に惑わされ、いっそ感情を失ったような茶色の幼い眼が瞬く。光さえ映さない硝子玉のような眼を、アイギルスは覗き込む。 「斃れたんだ。今のおまえはもう何者でもない」 身動ぎもせずに見仰いでくる少年に、根気強く手を伸べ続ける。 ふと、少年のひび割れた唇が動いた。 「……全てを、……」 細い膝の上に転がる本を両手で拾い上げる。小麦色の子犬と、白色の子猫が表紙に描かれた絵本を胸に抱き締め、少年は呻く。 「黒へと塗り潰せと、……命じた」 その言葉のまま、『災禍の従者』達は暴走した。地平までを破壊した。命満ちる地を、焦土へと変えた。 アイギルスは少年の肩を掴む。血を吐くように、言う。敵であろうと、もう誰一人とて死なせたくなかった。 「私が赦す」 幾千の命奪った少年を、自らの仲間をその力で殺した少年を、『暁の獣王』は赦すと言う。受け入れようと言う。 「だから、」 『暁の獣王』は少年の細い身体を揺する。魂呼び戻そうとするかのように半ば無理やり引き摺り上げ、立ち上がらせる。宿敵であった少年を、怒りと絶望に捕われ全てを滅ぼそうとした少年を抱き締める。 「生きろ」 『災禍の王』であった少年を生き延びさせる。祈るように、囁き続ける。 「償い続けろ」 戦争が終わり、『災禍の王』が討ち取られた。 繰り返される戦争に疲弊していた世界に安堵が満ちる。爪痕残る世界に再興の声が上がる。戦争の傷跡癒えぬ人々が、痛み抱えて苦しみ続けながらも、支えあい、立ち上がろうとし続けている―― 戦争の英雄である『暁の獣王』アイギルスの一族に保護され、仲間として受け入れられた、元『災禍の王』クアール・ディクローズは、その世界を旅して歩いた。折に触れ、狼族の郷であるラルヴァローグの地に戻った。 「最初はひどく警戒された」 固く閉ざされていたクアールの心を開いた『暁の獣王』は、そう言って屈託なく笑う。 「あなたのお蔭だ」 クアールは物静かに、感謝を伝える。 自らが世界につけた深い傷に怯え、自らの内にある傷を憎悪し、自らに高く厚く築いた壁の一角を、アイギルスは根気よく削り続けてくれた。焼け爛れた森を歩き、新しく芽吹く花を共に探してくれた。一族に伝わる物語を聞かせてくれた。街に出回っている本の話をしてくれた。クアールの綴る物語を興味深げに聞いてくれた。 「俺は、――」 クアールは一つの言葉を呑みこむ。そうして別の一言、心からの、 「ありがとう」 それだけを伝える。 満月の夜、ラルヴァローグの地では宴が催される。白々と明るい光浴びて、白銀の狼族が舞う。漆黒の狼族が樽酒抱えて笑う。焦茶の狼族が弦楽器掻き鳴らし、朱の狼族が空樽叩いて即席の太鼓とする。様々の色持つ狼族達が、明るい声で言葉交わし、互いの肩抱いて笑いあう。 その広場を避けて、クアールは歩く。月明かりの路地抜けて、街外れの小さな森を過ぎ、冷たい泉に映って揺れる満月を横目に、辿り着いたのは巨大な石版の前。 クアールの背丈よりもずっと高い石版は、丁寧に磨きこまれ、月明りを集めて静かな白銀色に輝いている。そこに刻み込まれているのは、クアールが起こした災禍によって死んだ人々の名。死んでしまった人々の、生きた痕跡示す墓標。 遠く、宴の歓声が聞こえる。 クアールは息を忘れる。草と泥の上に膝を突く。両の掌を冷たい大地に付ける。深く深く、額が泥に汚れるのも構わずに頭を地に押し付ける。言葉も述べられず、祈りも出来ず、自らの力のせいで死した人々の名に押し潰される。ただ跪く。 この場所にこの石版が作られて以来、クアールは幾度となくこれを繰り返して来た。詫び続けなければならないと信じた。けれどどれだけ泥に塗れて詫びようとも、死した人々は誰ひとりとして帰っては来ない。 (アイギルス) あの時、アイギルスが言ってくれた言葉を思う。 ――災禍の王はこの私が討ち取った そう宣言し、クアールの命を助けた。 (俺は) 「……あなたに大きな嘘をつかせてしまった」 大地に伏せたまま、呟く。泥の味が口に広がる。 ――私が赦す 『暁の獣王』は、『災禍の王』の罪を共に背負おうと、そう言ってくれた。立ち上がらせてくれた。けれど、アイギルス。あなたは俺を赦すと言ってくれたけれど。一人きりだった俺を一人ではなくならせてくれたけれど。 泥に汚れた顔を上げる。石版に刻み込まれた一人ひとりの死者の名を辿る。俺はこれだけの人々を、否、きっとこれ以上の人々を殺した。きっとたくさんの人を一人きりにしてしまった。 自らの力で以って生み出した、愛しい、心優しい妖精獣達に命を奪わせた。 世界を巡り、自らの起こした災禍の痕を目の当たりにした。人々は苦しみながらも立ち上がろうとしていたけれど。 (赦されるはずがない) (赦されてはならない) アイギルスにまで罪を負わせてはならない。 忘れていた息を吐き出す。息苦しさに心臓が暴れている。肩が震える。 (どうあっても、贖わなければならない) (何をしても贖いきれるとは思えないけれど、それでも) 例え、どんな禁忌を犯しても。 よろめくように立ち上がる。腰のブックホルダーに吊るした白紙の本を毟るように手に取る。石版のすぐ前で、再び押し潰されるように膝を突く。携帯の絵描き道具を、草の上、ばら撒くように広げる。迷いの無い動作で、本の表紙を描き始める。 使うのは全て優しい色。草の緑、空の青、花の黄や赤や紫、健やかな樹や命満ちる大地の茶。 描くのは、どこまでも穏かで優しい世界。災禍など起こらず、災厄で死ぬ者も居ない。空は澄んで鳥が舞い、大地には樹や花が溢れ、人が獣が、種族関係なく、争いもせずに暮らす世界。炎も煙も、誰の血も流れない歴史。 憑かれたように筆を走らせる。悲しみのない世界描きながら、その作者は心の底から浮かぼうとする悲しみを沈める。辛さを押し込める。感情を殺す。冷たい石版に刻み込まれた人々の名を見詰める。指先でなぞる。 俺は、彼らから泣くことも笑うことも奪った。笑う権利などない。泣く資格などない。ああでも、それでも。 (ウルズ、ラグズ) いつも傍に居てくれた妖精獣を描く。『災禍の従者』と恐れられた、クアールが創造し、描くことで生み出した愛しい子供達。 (何処へ、行きたい?) 彼らを描くその時だけ、辛い気持ちが僅かに和らぐ。一筆一筆、優しい気持ち籠めて子供達を描く。 (辛い思いをさせた) 「すまない」 どこか辺境の地がいい、と思う。花や実のなる樹がたくさんある場所。柔らかな草の丘があって、小さな家が少しあって。あの子たちが転げ回って遊べるところ。あの子たちがいつまでも平穏に暮らせる世界。 くすり、小さく小さく、笑みが零れる。 (林檎の樹も、たくさんある場所がいい) 泣いてはならない、と眼を歪める。 その世界のどこにも、『災禍の王』クアール・ディクローズは存在していない。存在していなかったことにする。この忌まわしい力の全てを賭けて、あの愛しい子達を生み出した愛しい力の全てで以って、世界を、世界の過去を、『描き変える』。 禁忌だ、と本能に近く思う。 それは、赦されざる禁忌だ。 (それでも) 絵本を描ききれば、世界は変わる。クアール・ディクローズの存在は抹消される。 (それでも、構わない) 金色の毛並みの美しく凛々しい狼族の男を描く。彼も、仲間の誰ひとりとして戦争にも災禍にも奪われたりせずに、故郷の地で穏かに暮らすのだ―― 『災禍の王』はあの戦いで本来の死を迎えるべきだった。クアールはそう断じる。 ――災禍の王はこの私が討ち取った アイギルスに吐かせた嘘を、強く後悔している。 (この儀式さえ終えれば) それは彼のどこまでも優しく強い気持ちではあるけれど。これから為す禁忌の儀式は彼のその気持ちを踏みにじるものかもしれないけれど。 (あなたの言葉も一夜の内に真実となる) そもそもの災厄の本人が消える。あなたは傷付いたりしない。 (アイギルス) 祈るように、額を石版に押し付ける。絵筆握る手に力を籠める。震える手に、冷たい涙が幾つも落ちる。 (別れの言葉くらい言っておけばよかったかな――) 絵本が終わりの頁に近付く。魔力籠められた絵本から、抑えきれない力が零れ始める。ほろほろと黄金の光の粒子が零れる。堰切れたように溢れ出す。全てを押し流す奔流となる。石版が、クアールが、光に呑まれる。 クアールの意識は光に掻き消される。 世界変える魔法の光が、のたうつ龍のように空へと翔け昇る。風が唸り、樹々が喚く。墓標の森の天空に、光の柱が立ち上がる。立ち上がり、―― 唐突に、砕け散る。音も無く降る雪のように、光の粒が空に散る。森に降り注ぐ。 月明りの森に降る万の光の粒子は、樹々の葉に、石版に、触れて消える。地面に散らばった絵の具や、最後のページの半ばで強引に砕かれた本の上にも、光は満遍なく降る。草の上に倒れるクアールの黒髪に寄り添い、消える。 世界を変える禁忌の魔法、『災禍の王』の痕跡を世界から消し去る魔法の儀式は、その力の媒体である本が砕かれた瞬間に途絶えた。 「クアール」 本砕いたアイギルスは気を失ったクアールの肩を掴み、引き起こす。ここまで駆けて来て、乱れる息のままにクアールの名を呼ぶ。 抱き起こそうとするクアールの体が、溶けて消える魔法の光と同じように透明度を増していく。『災禍の王』であった青年の体は、消えようとしている。 「待て」 金の狼は怒鳴る。 禁忌の儀式は未完成のまま発動した。『災禍の王』は、この世界に痕跡残したままに、この世界から消えようとしている。 「クアール」 消えいくクアールの腕を掴むことで、名を呼ぶことで、この世界に留まらせようとしながら、アイギルスは牙を剥き出し、吼える。 「行くな!」 応える言葉は無い。きつく腕を掴んでいたはずの手が、不意に空を掴む。周囲に舞っていた光の粒はいつか見えなくなっている。満月の光だけが静かに森を照らす。 クアールの腕を掴んでいた手を見詰め、アイギルスは固く瞼閉ざす。立ち尽くす金色の狼族の毛を夜風が撫でて過ぎる。 どれほど、そうしていたか。 アイギルスは眼を開く。石版を見、足元に散った儀式の残骸を見、真上の満ち月を見仰ぐ。クアールをこの世界に留められなかった手を拳にする。体中に渦巻く思いを吐き尽くすような、悲しい息を吐き出す。 「……また逢おう」 祈るように、囁く。 終
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