輝く緑が、その瑞々しさが、全身を包み込む。 緑の芳香が鼻腔をくすぐり、胸を清々しく満たす。 「うわア……」 ワード・フェアグリッドの歓声の意味を理解できないものはこの場にはいない。 透き通った茶の瞳を輝かせるワードに、 「美しいところだ。手のくわえられていない自然に憧憬を抱くのは、ヒトのさだめなのかな」 荷馬車からたくさんの荷物を引っ張り下ろしつつ、クアール・ディクローズが静かな笑みを向ける。 普段、張り付いた仮面のような無表情をかたちづくるクアールの、年齢より幼く見える繊細な面は、今はどこか安らいでやわらかい。 しかし、楽しげなふたりとは裏腹に、 「来てよかったネ。こんな風景ハ、初めてダ。――……ベルゼ? どうかしたノ?」 「……別に?」 ベルゼ・フェアグリッドは不機嫌だった。 彼は、荷馬車に揺られ、ここまで来る間も、ぶすっとした顔で黙り込んだまま、ワードとクアールの会話にも生返事を返すのみで、ずっと外の景色を見ていたのだ。 とはいえ、ここに来るのが嫌だったわけではないことは、ワードやクアールと同じ透き通った茶色の眼が、多様な緑を映してキラキラ輝いているさまを見れば明らかだった。 今も、ベルゼの眼差しの先では、深く濃い、息吹そのものの緑が風にそよいでいる。 「ベルゼ、ご機嫌ナナメ? 何カ、いやナこと、あったのかナ」 「いや……どうかな」 不機嫌の理由を知るクアールは苦笑し、大きな荷物の中からテントの設営に必要な器具を引っ張り出した。 「さあ、寝るため、食べるための準備をしようか」 杭を打ち込むためのハンマーを手に、声をかける。 「今の季節なら気候もいいし、そのまま眠るのも悪くはなさそうだけど、せっかくだからキャンプの気分を味わいたいな、俺は」 ――広大で豊かな、美しい自然で知られるヴォロスの片隅に三人は来ていた。 ムネーメーと呼ばれるこの区域は、ヴォロスの中でも人の行き来が少なく、危険な獣もあまりいない、穏やかで安全な場所として、ヴォロス好きのロストナンバーたちの間では穴場として知られている。 三人は、ムネーメー地方の一角にある、青と緑の岩が連なって出来た美しい泉のそばで、一泊二日のキャンプを楽しむ予定だった。 とある目的をもって、ふたりをこの道行きに誘ったのはクアール。 喜んでついてきたのはワード、渋々の同行がベルゼ。 「食べ物、採っテ来なくちゃネ」 「そうだな。ガイドさんに聞いた話だと、いろいろな山菜が採れるみたいだから、探しに行こう。米と小麦粉、調味料は持ってきてあるけど、夕飯が豪華になるかどうかは俺たちの頑張りと腕前次第、かな」 「あはハ、そういうのモ、楽しいネ!」 「じゃあ、その前にテントを張ってしまおうか。ワード、ベルゼ、手伝ってくれ。俺がこっちを押さえているから、ワードはそこでロープを張って、ベルゼは杭打ちを……」 「うン、判っタ」 「おい、ちょっと待てよ、ナニ勝手に決めてやがんだ」 素直に頷き、駆け寄るワードとは反対に、ベルゼは苦虫を噛み潰したような渋面だった。 「どうしたノ、ベルゼ? そんな顔しテ……お腹痛いノ?」 「違ぇよ! 腹ならいつでも快調だよ! ってそうじゃなくてだな、……おいクアール、前に言ったはずだぜ? もうお前の言いなりにはならねぇ、ってな」 お互いによく似た色合いの、茶色の視線と視線がぶつかり合う。 片方は噛みつくような、片方は静かにそれを受け止めるような。 「……」 先に目をそらしたのはクアールだった。 何も反論せず、ひとりでテント設営の作業を始めた彼に、 「おい、なんか言えよ! 無視すんな!」 ベルゼが苛立った声を上げる。 その前に、ワードが立ちはだかって、 「……ンだよ、ワード」 片割れには弱いベルゼは、つい語調を弱めてしまう。 「喧嘩しちゃだメ、ベルゼ」 「別に喧嘩とかそんなんじゃねぇよ。俺はただ、あいつに、」 「僕ハ、ふたりに仲良クしてほしイ。ふたりが喧嘩するノ、哀しイ」 「……」 少し寂しげな空気をまとったワードの言葉に、継ぐ二の句を失ったかベルゼは黙り込み、それからふたりに背を向けた。 「ベルゼ? どこに行くんだ?」 「食い物、採ってくる」 「……そうか。行ってらっしゃい、気を付けてな」 「ああ」 「じゃア、僕モ行くヨ。いいよネ、クアール?」 「そうだな、美味しいものをたくさん集めてきてくれるか? 俺はこっちの準備をしておくから」 「うン、わかっタ。楽しみにしていてネ」 無邪気に笑って手を振り、渋面のままのベルゼとともにワードが森へ入っていく。 ふたりの背中を見送って、地面を平らにならしてテントの設営をしやすくしてから、クアールはふっと息を吐いた。 「……難しいな、謝るとか、やり直すって」 本の世界、箱庭のようなあの穏やかな場所にはなかった大自然に圧倒されているふたりの姿を思い起こし、唇の端に微笑する。無垢ですらあるふたりの様子に心が安らいだなどと言えば、ベルゼはまた怒り出すのかもしれないが。 故郷での自分は、彼らにいったい何をしてやれたか、何を与えてやれたか、考え始めるときりがないけれど、 「今度こそ、間違えたくない」 そろって覚醒し、別の世界で再会できたことが運命だというのなら、――運命の神の慈悲だったというのなら、クアールは今度こそ、最善の、十全の道を選択しなくてはならないのだ。 ひとつの『世界』の創造者として。 ――そして、いくつもの命の『親』として。 「もう、あんな顔は、させたくない」 かつて自分が引き起こした災禍の傷を今でも覚えている。 絶望と哀しみと憎しみに狂って変質し、世界に死と苦痛を撒いた。 苦悩と後悔が尽きることはおそらくないだろう。 償うべき罪が消えることも、おそらくないだろう。 運命が――『英雄』が彼を生かしたことに意味があるとしたら、奪った命、壊したすべてに対する罪を贖い続けるためと、それと同等の位置づけで、自分の生み出した命への責任を果たすためだ。 クアールは、彼らを幸せにしなくてはならない。 狂って災禍の王となり、彼らの声も聞こえないまま破壊の化身へと変貌したクアールを見つめ続けた従者たちがどれだけ心を痛めたか、――彼らがどれだけクアールを思って泣いたか、今なら狂おしいほどに理解できるのだから。 「謝らないと、な」 ロープをきりりと絞り、杭を打ち込んで固定する。 小ぢんまりとした簡素なテントだが、夏も近いこの地方の夜は穏やかと聞いているから、毛布があれば快適に過ごせるだろう。 「よし、テントはこれでよし、と」 額の汗をぬぐい、傍らの泉で顔を洗う。 水を一口含めば、清冽でどこか甘い。清らかな水の芳香が鼻腔をくすぐりながら咽喉を滑り落ちていく。 再臨の泉。 このあおい泉は、昔からそう呼ばれているのだとガイドが言っていた。 竜刻でも埋まっているのか、ここでは時々不思議なことが起きるのだという。そして、その不思議は、人の心を癒す力を持っているのだという。 終末の日に救世主が現れるような、仰々しいものでなくていいから、と、あおい水を見つめてクアールは思う。 「どうか俺に、再びの力を」 水は、彼の言葉を飲み込み反芻するかのように、揺らめいた。 * 「……判ってんだよ、ホントは」 ナイフでヤブカンゾウを摘み取ったベルゼからぽつりとこぼれたそれを、ワードはヤマモモを採取かごに入れている最中に聞いた。 晩春から初夏といった趣を見せるムネーメーの森は、さまざまな恵みで満ちていた。 水場のクレソン、ワサビ、バイカモ。 ノビルにミツバ、ウドにタラノメ、クサソテツ。 ネマガリタケ、コシアブラ、シオデにオオバギボウシ。 どれも、昔から親しまれてきた野草ばかりだ。 そのほか、金色に輝くモミジイチゴ、甘酸っぱいコケモモ、少し渋みのあるナツグミ。ヒラタケにムキタケ、甘い香りのハナイグチなど、木の実やキノコも豊富だった。 「これだケあれバ、三人デおなかいっぱい食べられるネ」 はしゃぐワードと裏腹に、ベルゼは心ここにあらずといった様子で黙々と採集に勤しんでいたが、唐突に前述の言葉をこぼしたのだ。 それは自問自答にも等しく、ワードを意識してのものではなかった。 「ベルゼ?」 「なあワード。素直になるって難しいよな」 相棒の、途方に暮れた表情に、ワードは眼を瞬かせる。 「……うン、そうだネ」 ワードはクアールやベルゼとは別の苦悩を持っている。 自分が消えたせいでクアールを狂わせ、ベルゼを災禍の従者にしてしまったという苦悩だ。 運命とかいうものの慈悲によって覚醒し、0世界で再会出来てからは、わだかまりを捨て去って昔のように笑いあいたい、皆に幸せで、睦まじくいてほしいと思うワードだが、ベルゼとクアールの間にある壁、本当は必要のない確執をどうすればいいのか未だ判らずにいる。 どうすれば仲直りさせてやれるのか、双方が歩み寄れるのか、方法を見いだせずにいる。 (だけド……僕モ、本当ハ、判ってるんダ) これでジャムをつくってもらおう、と、張り切ってモミジイチゴを――要するに、キイチゴのことだ――集めつつワードは思う。 (ベルゼはクアールのことガ好きだシ、クアールもベルゼを大切ニ思ってル。たダ、僕ト同じク、どうすれバいいカ判らないだけデ) かけ違えたボタンに糸が絡まって身動きが取れない。細くてやわい糸は、実をいうと気の持ちよう次第でいつでも切れるのに、何故かどうしてもなかなか踏ん切りがつかない。 結局はそういうことなのだろう、と思う。 「なんでかなァ」 ため息とともにベルゼが言葉を吐き出す。 「つい、意地張っちまうんだよなァ」 棘に気を付けつつ、タラノキからやわらかい芽を切り取り、ベルゼがつぶやく。 「本当はさァ、『親父』って呼べる仲に戻りてぇって、ずっと思ってンのになァ」 どこか遠い、独白めいたそれに、ワードは頷く。 「うン……クアールも、同じようニ思ってるよネ、きっト」 「昔みてぇに、って?」 「うン」 「……だよなァ……」 ベルゼも、本当は理解している。 ――誰が悪かったわけでもない、災禍のきっかけを。 誰もが、誰かを思って狂い、壊れ、変質したあの苦い日々の意味を。 「どうやったら、素直に呼べるのかなァ」 少年のような頑是ない独白に、ワードは静かな眼差しを向けるのみだ。 * 焚火の中で枯れ木が爆ぜる。 ぱちぱちと音を立てるそれは、夜に沈む周囲を明るく浮かび上がらせる。 火の暖かさ、枯れ木の燃えるどこか懐かしい香り、食欲をそそるさまざまなにおい。そんなものが、テントと泉の周辺には満ちた。 「クアール、コレ、何? 爽やかデ、ほろ苦くテ、美味しいネ」 「ん? ああ、クレソンライスだ。微塵切りにしたクレソンと、すりおろしたにんにくと塩を白米に混ぜただけだけど、シンプルでなかなかいけるだろう?」 「うン、何だカ身体がきれいニなるみたいダ」 「そうだな、クレソンには血液をきれいにしてくれる効果があるらしいから」 ミツバ、ヤブカンゾウ、オオバギボウシのほろ苦いお浸し。ネマガリタケは醤油味で簡単な煮物に。ノビル、タラノメ、コシアブラは軽く衣をつけて天ぷらに。ワサビは細かく刻んで塩昆布や酢醤油と和え、クサソテツやシオデはさっと茹でたあと胡麻ペーストと和えてある。 キノコはシンプルなスープに。どのキノコからも素晴らしいうまみが出て、ダシが何も要らなかったほどだ。 木の実は半分を生で食べ、半分はのちほどクアールがジャムにするという。 甘いものが大好きなワードがそれに大喜びしたのは言うまでもない。 思いのほかオリエンタルな食卓になったが、どれもすがすがしい味わいで、身体の隅々が清められるような感覚があった。 「クアールのごはん、美味しいネ。なんだか懐かしいナ……」 皆で囲む食卓は、それがどんなに貧しい内容だったとしても、何より美味に感じる。 「……そうだな」 先ほどからずっと何かを考えている様子のベルゼが、反抗的な態度も見せず素直に頷いたので、ワードはクアールと顔を見合わせ、かすかに笑った。 それが、ベルゼの素直な気持ちだと判るからだ。 「やっぱ飯は、皆で食うに限るよな」 「うン、本当ニ、そうダ」 ワードの微笑む横で、ベルゼはコシアブラの天ぷらを口に運び、 「さくさくしてて、ほろ苦くて甘くて、うまいな。なんか……生きてる、ってエネルギーを感じる味だ」 いかつい、凶暴そうな顔を、少しほころばせた。 少年と見まがう童顔とはいえ、クアールもれっきとした成人男性だし、ベルゼもワードも食欲旺盛なので、山菜尽くし、心づくしの夕飯はあっという間に彼らの胃袋へとおさまった。 あとは、採ってきた木の実をつまんだり、クアールが持ってきた熱いアップルティを楽しんだりしながら、焚火のひかりのもと、穏やかなひと時を過ごす。焚火番のクアールが火の中へ枯れ枝を放り込むと、火の粉がぱっと舞い上がり、きらきらと光の欠片を散らして、幻想的な光景をつくりだした。 見上げれば満天の星空。 夜の深いあおと、金銀の星の共演には、ただただ息をのむばかりだ。 「すごイ……空ガ、星ノ海みたいダ」 湯気の上がるカップを手に、ワードがため息をつく。 澄んだ茶色の双眸に、星の金銀が映り込み、光を放つのを、ベルゼがじっと見つめている。 と、 「あッ……流れ星!」 ワードの指差す先で、星が銀の尾を引きながら落ちてくる。 それは一直線に彼らのもとへと落下し、 「ちょ、こっち来……うわあッ!?」 思わず声を上げるベルゼの横をすり抜けるようにして、青と緑の岩でできた泉へと沈んだ。 「え……?」 何事かと三人が顔を見合わせるうち、星の落ちた部分から、淡い光が広がっていく。
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