1.あるいは眠れない夜 「竜刻の眠る丘?」 「あくまで噂でござるがな」 シフォンケーキにフォークを刺したまま、コレットが聞き返す。時光は軽く顎を引いて頷き、アインスはティーカップを傾ける手を止めた。前髪を払うような仕草で首が傾げられる。 「それは司書の予言か?」 「いや、あちらの村で聞いた噂話でござる」 時光の懐から、丸められた羊皮紙が取り出される。お茶とお菓子を満載したテーブルの谷間に広げられるそれを、口いっぱいにケーキをもぐもぐしながらツヴァイが覗き込んだ。 大雑把な筆致で描かれた、山と森と大地はヴォロスのものだ。時光の指がヴォロスに設置された《駅》から、森の中へ横滑りする。 「森の中にある故、移動手段は徒歩に限られるでござるが……何、この距離なら精々二泊か三泊。ここの所、殺伐とした事件ばかり起きているでござろう? たまには皆と共ににのんびり旅でもと思いついたのでござる」 「旅行かあ……うん、素敵! ね、皆で行こう?」 「よぉっほ! ふぉうふぇんふぁ、ふぉうふぇん!」 「口を慎め、ツヴァイ。文字通りの意味で」 「やった! 冒険だ、冒険!」と聞き取れなくもないツヴァイの歓声を押しとどめ、アインスが優雅な仕草で紅茶を一口。 「確かに今の時期なら寒さも和らいでいるだろうし、気の早い草木なら花もつけているかもしれない。旅行にはもってこいだな」 「そうでござろう、そうでござろう」 「だが時光、」アインスの唇の端に、棘がちょろりと顔を出す。「君、本当は『皆』じゃなくて、特定の誰かを誘いたかったんじゃないのか?」 「えっ!? やっ、そっ、そんなっ!」 アインスが言い終わるか終らないか、時光の顔がぼっと赤くなる。あわあわと身悶えるその慌てぶりに比例してアインスのにやにや笑いは深度を深めていき、コレットはきょとんと頭にはてなマーク。 「せっせっ、拙者はゆ、友人として健全な娯楽をっ!?」 「そうかそうか、わかったわかった」 「え? 何? 何の話?」 「……ツヴァイ、お前は人の話に首を突っ込む前に、鼻の頭のクリームを拭け!」 お茶会はにぎやかに終わりをつげ、四人は旅路支度を手分けすることに。細々と必需品を整えているうちに、あっという間にその日がやってまいりまして。 2.おいしい日 胸いっぱいに空気を吸い込む。吐く。繰り返す。身体中が新芽と土の匂いで満たされて、サイコ―に気持ちいい。 「森だー!」 「言われなくてもわかる」 アインスの無粋なツッコミに、俺はあやうくずっこけかけた。情緒のない奴! 文句を言おうと顔を上げると、アインスはとっくに俺への興味を失って、時光と進行方向を確認しあっている。ツッコミにも礼儀ってもんがあると思うんだけどな、俺。鼻を鳴らして、バスケットに手を伸ばし、最後の一つのサンドイッチをぱくり。視界の端で時光が目を見開いているが、何か驚くようなことでもあったのだろうか。ライ麦パンのサンドイッチは蒸し鶏とトマトの酸味が絡み合って劇的にうまい。 「ツヴァイさん、よかったらスープをもう少しどう?」 隣に座っていたコレットが、魔法瓶を掲げてみせる。俺はもごもごと不明瞭な返事をしつつ、スープカップを差し出した。野菜の甘味とピリッと香るスパイスが身体を内から温めてくれて、心の底からほっとする。 「コレットって、料理うまいよなー」 「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」 「嘘なんかついてねーって、マジですっげーうまかった。な、またアレ食わせてくれよ? ほたてとキュウリのハーブソースサンドイッチ! あと、あと、サーモンとマッシュルームのキッシュも! ……て言うか俺、コレットの料理なら毎日だって……」 そこまで言った時だった。 「ツヴァイ殿、そろそろ出立の支度をするでござるよ?」 いつの間にか背後に忍び寄っていた時光が、大きな手のひらで俺の肩をぐっと引き寄せ、 「という訳なのでコレット、私と一緒に食器を洗いに川まで行かないか?」 反対側に回り込んだ兄貴がスープカップをさっと奪ってコレットを俺から引きはがす。な、なんだこの連携プレイ!? 「か、片づけなら俺も手伝うって!」 「私とコレットだけで十分手は足りる。そうだろう?」 「そうね。それにツヴァイさん、食べたばっかの時にいきなり動くとお腹が痛くなるわよ?」 コレットに邪気はない。あるのは純粋な思いやりだけだ。でも今はその気持ちが憎いっ! ついでにさっさとコレットをつれて川まで下りて行った双子の兄も憎い。 「今日はこれから日暮れまで歩き通しでござる。あまり身体に負担をかけるのは良くないでござろう……?」 時光は普段通りの菩薩顔だが、あの、すいません、掴まれた肩がギシギシ言ってるんですけど!? 「どうしたでござるかツヴァイ殿、そんな怯えた顔をして? 拙者、最後に食べようととっておいた『さんどいっち』がツヴァイ殿に奪われてしまったことを悔やんでるなんて、そんなこと全然ないでござるよ? あとツヴァイ殿が拙者より二つも多くさんどいっちを食べてしまわれたことなども全然……くうっ」 「全然あるじゃーん!」 そんなに食いたかったら名前でも書いとけ! 思うものの口には出さない。普段温厚な時光がこんな態度をとるなんて。トマトと蒸し鶏の恨みは恐ろしいぜ。 クスクス、鈴を鳴らしたような忍び笑いが耳をくすぐる。両手に取り皿を持ったまま、コレットは肩を震わせていた。 「もう、時光さんってば食いしん坊ね」 「仕方ないさ、コレットの料理はおいしすぎるからね」 こちらはスープカップを重ねたアインスが、やれやれという目で俺を見下しながら。 「良かったら今度作りますよ? サンドイッチ」 「む、誠でござるか」 「そんなに食べたがってもらえるなら、作り甲斐があるわ」 「その時は私も是非、ご相伴に預からせてもらいたいね?」 「せっかくだし、お茶会仕立てにしましょう。紅茶とスコーンも用意して、お花がいっぱい咲いたガーデンで……」 「もう少し待てば桜も見ごろでござるよ」 和気藹々と交わされる会話の中、いつの間にか時光の手は緩んでいて。 (あ、そっか) ――トマトと蒸し鶏じゃなくて、コレットの方か。 「次のお楽しみの計画もいいけどね、そろそろ出発しないと本当に日が暮れてしまうよ?」 アインスが軽い調子で言って、コレットに目くばせする。いけない、そう言って立ち上がったコレットのスカートが目の前でかくんと揺れて、沈んだ。 抱えられていたはずの皿が、緑のじゅうたんの上を転がっていく。スカートがいくつもひだを作って、そこから伸びた白い、 「コレット!」 「コレット殿! 大丈夫でござるか!?」 「あはは、ごめんなさい。ちょっとつまづいちゃったみたい」 照れたように笑って、アインスの差し出した手に手を重ねるコレット。その白い、足が、 「コレット、」 「え?」 「足、ぐにゃってなった、今」 細い足首に指を伸ばす。春風に冷えていただろうそこから伝わる体温は、想像よりもずっと熱かった。 *** くっついた背中の温度が暖かかい。コレットは心底申し訳なさそうに 「ごめんなさい」 と、何度目かわからない謝罪をするから、俺の返事もさっきと同じ。 「友達を助けるのは当然だろ? 腹ごなしの運動にもちょうどいいんだぜ?」 数歩先を行っていた兄貴が心なしかきつい目つきで俺を振り返る。 「ツヴァイ、今日はこの辺で野宿するぞ」 「えーっ、まだ明るいじゃん。もうちょっと先まで行こうぜ」 本音を言わせてもらえば、好きな子おぶってる時間は長ければ長いほど最高だ。 「ここから先は上り坂になっていて、野宿には適当でない。……君も男なら『友達』の健康を第一に考えるべきではないのか?」 ぐ、と咽喉が変な音を立てる。確かにその通りではある、あるが、交代でコレットおぶった時デレッデレに顔崩してた兄貴には言われたくないぜ。俺たちの荷物を一手に引き受けてくれた時光にならともかく。 「あれ、そういえば時光は? 兄貴と一緒だったんじゃねーの?」 「腫れに効く野草を発見したそうだ。そろそろ帰ってくる頃だとは思うが……」 アインスの言葉尻にかぶさるように、遠くからガサガサと茂みの揺れる音が近づいてくる。 それから時光はてきぱきとコレットの足首に薬草を擦り込んで、俺とアインスはその間に食事の支度に奔走した。 今日のメニューはカレーだ。基本的な材料はコレットが用意していてくれたけど、せっかく恵み豊かな森にいるんだ、その場で採れた新鮮食材も投入したいじゃん? がさごそ周囲を探し回って見つけた、赤地に黄色いドットのキノコを鍋にぽい。ついでにやわっこい花の根っこもぽいぽい。アインスが青い顔をしていたけど、食べてみれば意外に美味しかったし、美味しすぎてテンションも上がって楽しく過ごしてたまにあひゃひゃとか叫んだ気もするけどでもとても気持ち良くて、 はっと目が覚めた時、周囲はすでに真っ暗闇だった。枯れ枝のはじける音。小さな焚火がゆらゆら熱をはらんで、夜の闇を追い払っている。薪をつつく枝を、下から上に辿っていく。 「……時光……」 「気づいたでござるか。気分はどうでござる?」 夜だからだろうか、時光の声は控えめだ。ゆっくり上体を起こすと、焚火の反対側で寄り添いあって丸まっているコレットとアインスが見えた。俺もひそひそ声で返す。 「悪ぃ、俺、寝ちゃって……」 「大事ないでござる。このまま朝まで眠ってくれても良いのでござるよ?」 「う、それは魅力的な……」 一日歩き通しの身体は休息を求めているが、時光一人に見張りを押し付けるのも嫌だ。せめぎ合う思いが拮抗。ぴーん、とひらめくアイディア。努めて平静な声を作る。 「……いや、俺も一緒に見張りするよ。その間…………眠らないように話でもしようぜ?」 「おお、それは良いでござるな。してどのような」 かかった。時光からは見えない角度で小さくガッツポーズをとる。 「俺が小さい頃、別荘に遊びに行った時のことなんだけど」 「ふむふむ」 「そこには都でも評判の『出る』って噂の廃墟となった城があって」 「おおっと拙者急に眠気が!」 即行で毛布のミノムシになろうとする時光の手首をがっしり掴んで、逃亡阻止。ムズムズとわくわくがないまぜになった笑みが顔中に広がる。 「まだ話の途中だぜ?」 「ツヴァイ殿、堪忍、堪忍して欲しいでござるっ!」 時光の顔は早くも恐怖で引きつっていて、ほんのちょっぴり罪悪感が沸く。でも怯える時光は楽しすぎて、やめられないし止める気も起きない! 「俺と兄貴がそこを探検しようと柵を乗り越えた時、俺は窓から血まみれの女がこっちを見てるのに気づいたんだ」 「わーっ、わーっ!」 「……ひび割れた女の子の人形は、歩くたびにぎっちぎっちと関節を軋ませて、老人のようなしゃがれ声でこう言うんだ……」 「うう……うううう……」 「……急に部屋が真っ暗になって、俺は光を入れようとカーテンを開けた。するとそこには、窓の向こうにびっしり張り付いた『奴ら』の姿が……!」 「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」 俺は滾々と湧き出る湯水のように語り続けた。 たまにコレットがむにゃむにゃ「あ……そのクリームパン私の……」と可愛く微笑んだり、アインスが「寝言は寝て言え!」と謎寝言を吐いたりするのを聞き流し、あることないことないまぜに、ひたすらしゃべり続ける。 その内に夜も明けて、俺はすがすがしい気分で朝を迎えることができたのだった! 3.胃、鹿、跳 ほう、と鳥が鳴く。 からみつくような濃密な山の闇夜の中、ぬらり、人影が立ち上る。 影は手に細長い武器のようなものを携え、動く。 静かに、静かに。 這いずり向かう先には、人。規則的に聞こえる呼気に乱れは一切なく、かの人物が深い眠りについていることは、影には手に取るようにわかった。 ――元はと言えば 影は呟く。音にもならないかすかな声で。武器を取り上げ、音を頼りにそこへ伸ばす。 ――全て君が悪い……! 呼吸を続ける、締まりのない顔へ。 なぜ影はそんなことをしなければならなかったのだろう? 話は十二時間前に遡る。 *** 蛇行しながら伸びるけもの道の脇で、アインス達は昼食をとっていた。がくりがくり、先ほどから危なっかしく首を前後させている友人に、アインスは今日何度目かの言葉を投げる。 「時光、君、そんな状態で大丈夫か?」 「大事ないでござる、全く問題ないでござる」 「そうは思えないから聞いているのだが?」 振り返った顔には憔悴が色濃く張り付いていて、私は見せつけるようにため息を吐く。 閑寂を破り、木槌を打つような音が木霊する。時光の身体が大げさに跳ねた。音のした方に頭を巡らせれば、遠く木々の間に、雌鹿の跳びはねるシルエットが覗いている。 「……ただの寝不足で、そこまで神経過敏になるものか? ……大方、私たちが眠っている間に、あの愚弟がまた何かやらかしたのだろう?」 「否、断じて否! 全ては拙者の心胆の弱さ故!」 「ではその顔は一体……!」 「コレット、今日の昼飯ってこれだけか?」 堂々巡りの問答は、ツヴァイの馬鹿っぽい大声で遮られた。 「ごめんなさい、帰りのことを考えるとちょっと食材が心許なくて……」 「うーん、俺的にはこう、もうちょっとガッツリしたもんが欲しいんだよなぁ」 「ツヴァイ、コレットを困らせるな」 しゅんと肩を落とすコレットが哀れで、愚弟をじろりとねめつけても、奴はうんうん唸っては気づきもしない。空っぽの頭には食べたいものが乱舞して、私の言葉を受け入れるスペースは存在していないようだ。 ちなみに今日の昼食は、薄くスライスした黒パンに炙った干し肉とチーズをはさんだサンドイッチだ。少し硬くなったパンが食べ応えを演出する一品に仕上がっている。だというのにまだ食い足りないとは…… ややあってポン、と手が打たれる。 「俺、狩りしてくる」 「狩り?」 「鹿がいたんだ。まだそんな遠くには行ってないと思う」 脳裏で、木の葉の陰から垣間見たシルエットが跳ねる。 「あれ獲って食おうぜ! 余った分は夜に回して、豪勢な夕飯作るんだ! じゃ、早速……」 「待て」 弾丸のように飛び出そうとするツヴァイの首根っこを引っ掴む。ヒキガエルの潰れたような声。 「何すんだ馬鹿兄貴!」 「君に任せていたら、昼食が夕食になる可能性が限りなく高い。この兄が手伝ってやろう。さっさと感謝して跪き今の言葉を訂正してさらにもう一度感謝しろ」 「兄貴の手なんか借りなくたって別に兵器だっつーの!」 「どうかな? と、まあそういう訳だから」 ぎゃいぎゃいわめくツヴァイを無視して、コレットと時光に向き直る。騒がせて申し訳なかったね、と言う気持ちと、安心してくれという意味を込めて優雅に微笑んで。 「愚弟がすまないね。すぐに戻るよ。二人はここで待っていてくれないか?」 時光の薬草のおかげでコレットの足はすっかり良くなっていたが、安静にしておくに越したことはない。 「でも、あまり長い間離れ離れになるのは危なくないかしら?」 「二時間くらいで戻るよ。さっさと終わらせて、今夜のディナーにコレット手製の鹿肉のソテーを作ってもらうことにするさ」 そう言って、アインスは見事なウインクを決めてみせた。 ――これが十二時間前の出来事。 ――この後おおよそ数十分、現在から数えて十一時間と半分ほど巻き戻った時が、これからの出来事。 *** 「いたな」 「ああ」 茂みの上から顔を出して、頷き合う。鹿はのんびりと草を食んで逃げ出す様子はない。 (好機だな) こちらは風上、相手も勘付いていない。これ以上ない絶好のチャンスに、アインスは唇をゆがめた。さっさと仕留めてしまおう。トラベルギアの短銃を構え、鹿の横腹に狙いを定める。 「ちょっと待った」 銃口の前にツヴァイの顔が割り込む。私は嫌な顔をしていただろう。 「死にたいのか」 「おかしいだろ」 「何がだ?」 ツヴァイがきりっと眉を吊り上げ、真面目な顔になる。 「俺が最初に鹿狩るって言ったんだから、仕留める権利は俺にあるだろ」 ……苦虫をまとめて十匹噛み潰した顔になるのがわかった。藪を蹴立てて立ち上がる。 「君は馬鹿か! 別にどっちが仕留めようが変わらないだろう!」 「いーや、変わるね! 主に俺への尊敬とか『キャーツヴァイさん素敵! かっこいい!』ってコレットに褒めてもらえるとか!」 ツヴァイが胸を張る。額がくっつきそうな至近距離で、相似の色の瞳が激しく火花を散らす。 「安心しろ、マイナスにいくらプラスしたところで答えは0以下だし、お褒めの言葉を賜るのは私に決まっている!」 「安心できる要素一個もないんだけど? もういい、兄貴なんかにつきあってらんねー!」 「それはこっちの台詞だ! 後でほえ面かくなよ!」 鏡写しの動きで鹿をねめつける。 ねめつけた、つもりだった。 草原は陽だまりの中でさわさわと揺れていた。濃いピンクの花が、ワンピースのドット模様のように咲き乱れている光景が、何に遮られることもなく目の前に広がっている。 そう、何も光景を遮るものはない。 鹿の姿は消えていた。影も形も、木槌のような足音さえ。 「……お前が馬鹿なことを言いだすから!」 「……兄貴が最初に音立てたじゃねえか!」 本日三度目の兄弟喧嘩は延々と延々と続いた。帰りの遅い二人を心配したコレットが、時光と共にドングリフォームセクタンで二人の位置を探し、迎えに来るまで、ずっと。 *** ……さて。 時は進み十一時間の後、野営地では一つの影が――アインスがうごめいていた。 あの後。 結局、二人揃って時光にあきれられ、コレットには子供のようによしよしと慰められて。見えを切ったアインスのプライドはちょっと危なっかしいくらい揺らいでいた。 「元はと言えば、全て君が悪い……!」 握りしめるは細く長い武器。ぐーすか呑気に寝息を立てるツヴァイの顔に過たず狙いをつけ、 「くっ、ふふふふふ」 アインスはそれを――……マジックペンを、ツヴァイの頬に押し当てた。 顔面をキャンバスに見立て、丸書いて四角書いて三回ひねって斜め四十五度に後方宙返り。好き勝手めちゃくちゃに走らせる。もちろん、ペンはこんなこともあろうかと持ってきていた自前の油性ペンだ。 (あの時こいつが馬鹿な真似をしなければ、確実に仕留められていたんだ。これくらいの罰は甘んじて受けるべきだろう) きゅっきゅきゅっきゅ、景気のいい音が夜の静寂を駆逐する。 やがてペンの動きが止まり、アインスは近づけていた顔を離す。自らの芸術の出来栄えを確認、満足そうに数度頷き、そしたまた静かな動きで見張りへと戻っていった。 六時間後には、時光とコレットに大爆笑されたツヴァイが自らの顔面に施された前衛的アートを目撃し、何回目かもわからない兄弟喧嘩が勃発するのだが、今はまだ遠いお話。 夜が明けるまで待たなければいけないお話。 4.乙女と泉 青く透き通る鏡のような湖面に手を伸ばし、あまりの冷たさにうあっと呻いて引っ込める。暦の上では春だというのは、湖には存ぜぬ道理だったらしい。もう少し日が高くなれば少しは温められるのだろうか。ちらりとそんなことを考えながら指先を振るう。露が丘に飛び散った。 目的地である丘の真ん中には泉がわいていた。あった。泉と言ってもつつましやかなもので、どんなにのんびり歩いても数分経てば元も場所に戻ってこれる、そんな大きさである。 「時光ーぅ、そっちはどうだー?」 丘の右からツヴァイが声を張る。 「何も! アインス殿はいかがでござる?」 「右に同じ、かな!」 今度は左側から、アインスが服に着いた草を払いながら立ち上がった。泉の向こう側では、コレットがほとりに膝をついて草をかき分けている。 噂で聞いたのは確かにこの場所だったのだが、竜刻は一向に見つかる気配がなかった。 「どうやら拙者は、妄説を掴まされたようでござるな」 「司書の予言じゃねーもんなあ。ま、こんなこともあるって。な?」 ぽん、と背中を叩かれる。ツヴァイの顔は慰めるような表情を作っていたが、顔中にめちゃくちゃに走る例の落書きのせいで、拙者としてはぐっと咽喉に空気が詰まった返事しかできない。 「では、少し休んで帰るとしようか。なかなか楽しめる数日だったよ……コレット?」 「あの、帰る前にちょっと……水浴び、してもいいかしら?」 昨日はシャワー浴びられなかったから、と少し恥ずかしげにうつむくコレット。流れ落ちた髪の間から、ほっそりしたうなじが覗いていて、……湧き上がりかけた不埒な妄想を首を振って打ち消す。 「承知したでござる。この時光、不甲斐なき働きを取り戻すべく、コレット殿の入浴を万全の態勢でお守りするでござるよ!」 ……で、結局。 「これなんて仲良しさん?」 「相互監視体制と呼んでほしいでござる」 男三人、しっかり手をつないで、湖に背を向けて座るという、よくわからない状況ができあがった。 「時光、見んなよ」 「なっななな何を申されるかツヴァイ殿! それを言われるならツヴァイ殿の方こそ!?」 「お、俺に限ってそんな真似するはずねーだろ! どっちかっつーと兄貴の方だっそれは! 兄貴結構むっつりだし」 「根拠のない批判は許さないぞ、ツヴァイ!」 「……なんだか楽しそうね」 水に腰まで浸りながら、コレットは時光たちがいる方角に目を向ける。下り坂になっているせいで彼らの様子はわからないが、同じ年頃の男の子同士仲良くしてるのだろうと、微笑ましい気持ちになる。 ぶるりと身震いが起きた。水は冷たかったが、その分汚れも洗い落とされていく心地がして気持ちいい。もう少し浸かろうかと、湖の中心に向かい……足の裏を何かが押し返す。 「……?」 なんとなく気になって、取り上げる。白い石のような、流水に翻弄されて角のとれたその形は、見慣れたそれとは遠かったけれど。力を秘めた輝きだけは見間違えるはずもない。 「……竜刻?」 呟きはコレット自身でさえ意外なほど大きな響きを持っていた。 「何だって!?」 「誠でござるか!」 「一体どこに!?」 丘の向こうからツヴァイが、続けて時光とアインスが顔を出す。三人の視線はコレットの手の平に乗せられた竜刻に、そしてコレットの一糸まとわぬ裸身に降り注がれ……。 ――こうして。 「きゃああああああああああああああああっ!?」 「す、すまない、本当にすまない!」 「ぐっはあ!」 「わあっ!? 時光が鼻血吹いて倒れやがった!」 ――がやがやと計画された小旅行は、最後までがやがやと楽しく行われたのでした。
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