「ヴォロスの果てにある砂海へ、命の芽吹きを観に行かないか」 神楽・プリギエーラはそう言って地図を広げた。 神楽の指差すそれは、山と森丘と砂漠が描かれたひどくシンプルなものだ。 サブルム=シルワ地方、と片隅に書かれていることから判るように、ヴォロス全土を書き記した地図ではないらしく――あの広大な竜刻の大地をすべて描ききれる地図がどれほどの規模になるのか、想像もつかないが――、図面は砂漠をいっぱいに描いたところで途切れている。「もっとも、それが本当の果てなのかどうかは知らん。何せヴォロスは広いからな、この砂漠の向こう側に何もないかどうかなんて、誰にも判らないわけだ」 そこで言葉を切り、肩を竦める。「とはいえ、その辺りが人の踏み込むことの出来る地域の端に位置することに変わりはない。サブルム=シルワは、広大な森とどこまでも続く白い砂漠、そして不思議な現象が楽しめる、苛烈にして幽遠なる幻想の地だ」 神楽が言うには、そのサブルム=シルワ地方を調査して来て欲しい、と知り合いの世界司書に頼まれたのだそうだ。「出発点は山の麓にある街になる。この辺りは珍しい薬草や香料、有用な効能を持った虫、それから砂海では貴重な成分を持つ鉱石などがとれるというので、麓町には各地からのキャラバンが数多く滞在している」 そもそもヴォロスには、かなりの辺境を除き、ヒトの生活圏内には大抵キャラバンの往来がある。 各地の品がキャラバンによって運ばれ、手広く商われるわけだが、このキャラバンが利用する《キャラバンの路》によって、広大なヴォロスは結ばれているといっても過言ではない。「ヴォロスの人々は、何らかの事情があって地域間を移動する時に、このキャラバンを利用するんだ。よほどの手練れでもなければ、ひとり旅には常に危険が付きまとうからな」 凶暴な野生動物、モンスター、盗賊。 夜の冷たさ、災害、自然の厳しさ、そんなものが旅人の行く手を阻むのだ。 それゆえ、ヴォロスの旅人は、キャラバンに身を寄せ、労働力や金銭などを提供することで、安全に目的地に着くという方法を取るのだそうだ。「キャラバンの方でも、護衛や労働力、それに金銭はどれもありがたいようだから、まあ、持ちつ持たれつといったところだろう。サブルム=シルワも、美しい地ではあるが、完璧に穏やかな、安全な場所かというとそうでもないようだから」 今のところ、強大なモンスターの報告はないが、危険な獣や小規模なモンスターが皆無と言うわけでもなく、よって、この地を旅するキャラバンには、大々的に同行者を募っているものも少なくないという。「要するに、そのうちの一隊に間借りして、あちこち観てまわろうというわけだ」 神楽は、すでにキャラバンの当たりもつけているらしい。「【最果ての流転 アルカトゥーナ】。そういう名前の一団だ。貴重で有用な薬草と香辛料とを扱う、三十人ほどで構成されたキャラバンだが、メンバーのほとんどは同じ氏族で、なんというか……まあ、アットホームな集団だ。皆、親切だし彼らの出してくれる酒も飯も美味い。以前、ロストナンバーの何人かはこのキャラバンとともに砕ける月を観に行った。今回は、その縁が元で向こうから声をかけてくれたんだ」 そのキャラバンとともに、山をふたつ超えて森丘を行き、海沿いに十日ほど旅をして、サブルム=シルワ地方の最奥部、《青の芽吹く砂海》ディズデオラと呼ばれる場所まで行くのだ、と説明してから、ロストナンバーたちの表情に気づいたのか神楽は少し笑った。「ああ、アルカトゥーナたちのことか? 彼らは何千年も前から世界中を行き来し続ける巡礼の一族なのだそうだ。商いはその過程で身につけたものなのだろうな。世界各地の秘境や神域、聖域を訪ねて回ることが彼らの生きる意味で、意義で、喜びなのだと聞いた」 彼らは商いも巧みだし、旅慣れてもいるが、荒事の得意な人々ではなく、扱う商品がどれも高価なのもあって、大掛かりな移動の際にはいつも腕の立つ旅人を招き入れるのだそうだ。「まあ、戦闘が不得意でも、道中の家事や諸々の採取を手伝ってくれてもいい。知り合いの世界司書、贖ノ森というんだが、そいつが言うには獰猛な獣やモンスターが現れるかもしれないというのは導きの書にも出ているらしいから注意は必要だろう。何、いざとなれば私の影竜が何とかする、要するに興味のあるものが来てくれればいい」 そこで誰かが、冒頭の言葉を思い出し、砂の海で命の芽吹きとはどういうことか、と尋ねると、「ああ、それがかの聖域の見せる不思議なんだ。アルカトゥーナの人々も、それを観るついでに諸々の資源を集めに行くようなものなんだとか」 そこだけで見られる不思議な現象なのだ、という答えが返った。「原理は判らない。魔法の、竜刻の産物なのかどうかもはっきりはしていない。ただ、《青の芽吹く砂海》ディズデオラは、五十年から百年に一度の周期で命を代替わりさせる。砂海と言いつつ、砂漠の隣には大きな森林群があるんだが、そこと『交替』するんだそうだ」 青々とした森の木々、緑、命。 それらが、たった一夜にして崩れ落ち、砂へと変わり、――同時に、つい先刻まで砂海だった場所へと広大な緑が生まれ出るのだという。 それは畏怖すら感じるほど荘厳で、美しく、神秘的なのだという。 ディズデオラは、それを永遠に繰り返す幻想の地なのだ。 そして、ちょうど今が、新たな芽吹きの周期に当たるのだ、と付け加え、「かの芽吹きに居合わせたものは、絶望や痛み、哀しみを癒すことが出来るとも聴く。己が痛みと向き合いつつ、生命の力強さに触れて、苦悩をやわらかく癒されるのも悪くない」 神楽は、その奇跡を観に行かないか、と、チケットを七枚取り出しながら、再度ロストナンバーたちを誘ったのだった。
1.精髄なる森をゆく 「やあ、君たちが今回の同行者か。話は神楽から聴いている、よろしく頼むよ」 初めに旅人たちを笑顔で迎えたのは、灰色の髪に青紫の目の、四十代前半から半ばと思われる背の高い男だった。無駄な肉をすべて削ぎ落とした鋭い風貌をしているが、笑うと思いのほか愛嬌があり、その笑顔からは愛情深さが滲む。 「僕はロタ、巡礼のアルカトゥーナ氏族を率いる百二十五代目の族長だ。どうか気楽に、寛いでいってくれ」 彼はそう言って、総勢で三十二名のキャラバン隊員をひとりずつ紹介した。 族長のロタを初め、彼の妻のルネ、息子のリンゼ、その許婚のカノン、その両親、その兄弟夫妻、その更に血縁……と、ざっと聞いただけでも、彼らがどこかで血のつながりを持っていることが判る。 子どもがいないのは、アルカトゥーナ氏族の人々が巡礼の旅に加われるのは成人してから、十八歳以上だからだという。 一通りの自己紹介が終わると、今度は旅人たちがめいめいに名乗り、挨拶を交わしてすぐに出発となった。なかなかに忙しないが、出来れば、今日中に一定の距離を進み、かつ、食材や『商品』を少しでも集めてしまいたいから、ということであるらしい。 十数頭の馬や羊、彼らの曳く数台の幌馬車とともに門を出て、少し行けばすぐに森への入り口だ。 いったいどれほどの長い時間をかけて出来上がった森なのか、木々は丈高く太く、天を覆うかのようで、中へ踏み込むと空気はひんやりとした。 木々の根はあまりの大きさに地面から幾ばくかはみ出ていて、それは旅人たちを迎え入れるアーチの様相を呈している。 「すごいな。壱番世界じゃ、なかなか見られない光景だよね」 動きやすく通気性のいい服に、トレッキング用のしっかりしたブーツ、頑丈そうな背嚢……いわゆるバックパックを背負った蓮見沢 理比古が『天井』を見上げて言う。 降り注ぐ光によって葉の縁が透けるように輝く緑の『天井』、そしてわずかな隙間から地上へと差し込む陽光の金の美しさを、いまさら賢しく書き立てる必要はないだろう。 「やー、でも、来てよかった。なんか、期待を裏切らない旅になりそう。綺麗な景色と美味しい野外ご飯なんて、行くしかないじゃない?」 実年齢を聞くと誰もが驚く、細身の、驚異の幼顔をした理比古だが、実を言うと彼は、わけあって一時期外国の軍隊に入っていたことがあり、行軍などには慣れているのだ。 水と携帯食糧、医療品、着替え、厚手のタオル、ナイフにライター、防寒具……と、しっかりツボは心得ているものの、気分は遠足である。 「どんなものが見られるんだろう、楽しみだなー」 少年めいた顔を期待に輝かせながらも、しっかりした足取りで進む理比古の傍らを行くのは、クアール・ディクローズだ。 こちらも、どこか線の細い印象の物静かな青年だが、 「……キャラバンでの旅か、懐かしいな」 「あ、クアールは旅慣れたクチなんだ?」 「ああ、はい。元いた世界では、アイギルスのキャラバンで旅したことがあるので。この雰囲気、空気は、好きです。緑に囲まれて旅をするのは、気持ちが清々しますしね」 クアールもまた、幼さを残した外見に似合わぬ経験と胆力の持ち主なのだった。 彼は、十日ほどの旅なら絵を描くための道具以外にも装備を整えた方が賢明だろうということで、日にち分の携帯食料に夜間用の防寒コート数枚、解毒薬、風邪薬、ランタンにそれの燃料、更には水も多めに用意していた。 「道中では、色々な絵を描いてみたいですね」 きっと、描かずにはいられないような風景がたくさん見られそうだから、とつぶやくクアールから少し離れた位置で、アルア・ティーダがアルカトゥーナたちのもろもろに感動しながら歩いている。 「自然とともに生き、世界の秘に触れながら巡り歩く……なんてすばらしいのかしら。それは、世界の根源に触れ、世界の美しいものを見つめる、とても贅沢な生き方ですわね」 キャラバンの女性陣が笑って頷く中、アルアも極上の笑みを浮かべる。彼女は、その神秘的な美貌としなやかな四肢とを、アルカトゥーナ氏族の女性が身につける、いわゆる民族衣装のようなものに包んでいた。 「砂海の気候は厳しいわよ、心してね」 「ええ。ああ、でも私、暑さや寒さは平気なのですわ。そのどちらも、場所そのものなのだと思えば心地よいですもの」 華奢な外見とは裏腹に剛毅なことを言い、肝っ玉かあさんを体現したかのようなルネにそりゃ心強いねと感心されているアルアの前方を、周囲に気を配りつつ飛天 鴉刃が歩いている。 隙のない、明らかに手練と判る足運びからも明らかなように、彼女は今回、このキャラバンに傭兵として参加しているのだった。 とはいえ、《青の芽吹く砂海》ディズデオラに対する興味も確かで、 「……しかし、まことに不思議なことであるな。入れ替わるふたつの土地……か。大地には、竜の亡骸が二体、眠っておるのやもしれぬ。かような想像もまた、面白きことよな」 鴉刃は、永遠の循環を繰り返すかの地の根源に思いをはせ、金色の目を細めた。 水が主食……というかエネルギー源である鴉刃の荷物はそう多くない。 そもそも、普段から斥候や暗殺者としての、戦闘に適した出で立ちの鴉刃である。今回の旅も、『身の回りのもの』といえば、いつもどおりの衣装と、日よけにもなる空色のローブ、そして持てるだけの水というラインナップだった。 「まァ……私は私の務めを果たそう」 幻想の地への期待をこめた想像、美しい景色への喜びはあれど、鴉刃は何よりまず武人である。彼女が今回の旅で自らに課したつとめは、武を持ってこのキャラバンを護ること。 まずはそれをまっとうしよう、と、周囲への警戒を怠らず進む鴉刃の斜め前では、 「おお、そなたは性(しょう)のよい馬だな」 鴉刃と同じく生粋の武人とでも言うべき阮 緋が、キャラバンから借り受けた栗毛の馬にまたがり、まるで生まれながらの兄弟か親友のような親密さで触れ合いながら幌馬車を先導している。 『天井』を見上げた彼の目は、空からの光をはらんで輝く瑞々しい葉を映しつつ、 「世界の果てに広がる白い砂漠、か」 この先に待つ生命の循環点と、今は遠い故郷の地を見ていた。 (嵐に荒れ狂う砂が、時に雪の如く見るのもまた、同じだろうか?) 彼は、その白が、好きだった。 今は、触れることも出来ないが。 「……まあ、よい。先述の通り俺は砂漠には慣れている、見回りや戦闘なら任せるがいい」 言葉通り、馬を手足のように自然に扱いつつ――馬も心なしか嬉しそうだ――、自由にあちこちを行き来する緋は、いつもより軽装だ。砂を避けるための大布を巻いているほかは、トラベルギアと曲刀のみという武装だった。 とはいえ、それさえあれば他者に遅れを取らぬと知っての装備でもあるのだが。 「ふむ……ここはまだ、それほど日差しが強くなくていい」 ロウ ユエは、軽快に馬を駆る緋よりかなり後方を行きつつ、今ばかりはとフードを外した。 人より持って生まれた色素が少ない彼にとって、強い日差しを浴び続けることは自殺行為なのだ。それゆえ、日差し対策として、フードつきの分厚いローブにきっちりした手袋をはめ、肌の露出は極限まで抑えてある。 「用心に越したことはないからな」 彼は、こういった野外生活に適した大ぶりのナイフと水筒を持ち込んでいた。 充分とは言えないが、そもそもは豊かな土地であるし、他面子が用意周到に様々なものを持ち込んでいるのもあって問題はなさそうだ。 「しかし、一晩で森が崩れて砂になり、逆に砂が森に変わるのか……想像もつかないな」 それを見たとき、いったいどんな心地がするものだろうかと、それはどんな思いを運んで来るのだろうかと、期待と興味、半々の気持ちで歩むユエの傍らには、アウトドアそのもの、といった服装に身を包んだ有馬 春臣の姿がある。 彼は、帽子、軍手、首にタオル、長袖ジャージ上下、その下にTシャツ、理比古と同じようなトレッキングシューズ、そして念のための杖という、一般人が長距離の旅に参加するに相応しい出で立ちをしていた。 彼は、ヴォロスの美しく厳しい自然や命の芽吹きに興味があってこの依頼を受けた。 「ふむ……すさまじいとしか言えないな。この森でさえこうであるならば、かの秘境にはどんな風景が待っているのだろうな」 とはいえ、恐らくこの中ではもっとも残念な運動神経の持ち主たる春臣である。彼の、第一の目標は、『無理をして迷惑をかけない』だった。 体力のなさを鑑みて、春臣の荷物は控えめだ。 彼は、必要最低限のものを的確に持ってきていて、飲料水、糖分などを補給するための飴、簡単な医術道具、旅の記録を撮るためのデジタルカメラ、そして着替えが今回の荷物だった。 「では私はお礼に皆の健康管理を担当させてもらおう」 『出来ることを各自でやる』のが、大人数での旅のよいところだろう。 「まあ、有馬さんはそんな素敵なことがお出来になりますのね。頼もしいですわ」 「それはどうも。何、その代わり私は君たちの出来ることが出来ないだけだ。そちらはそちらで頼りにしている」 「ええ。適材適所、といいますものね」 艶やかなアルアの微笑みに頷き返しつつ、春臣は光といのちのエネルギーをはらんで輝く緑に目を細めた。 「……悪くない光景だ」 まだまだ、旅は始まったばかりである。 2.輝く白砂の海にて 一行が砂漠に踏み込んだのは、森を三日と半分ばかり行ってからのことだった。 永遠に続くかのように広がる白砂の海にあるのは、照りつける太陽、高い気温、乾燥、夜の冷気。わずかな水分でも生きられる砂蜥蜴や砂兎、砂地でも成育する毒樹を餌にする岩角鹿、その岩角鹿を糧にする灰狼と砂豹。体内に水を溜め込むことの出来る奇妙で愛嬌のある虫たちや、その虫を食べて生きている鳥、鼠などの小動物。 「お腹すいたー!」 この日の拠点として野営地が設置された岩陰に――照りつける太陽は痛いほどの暑さだが、日陰に入ってしまうと驚くほど涼しい――、大きな籠を抱えて戻った理比古が開口一番そんなことを言い、 「しかしそなたはよく食うのに腹が減るのも早いのだな。朝餉をあんなに食してももう空腹か。……まァ、それだけ働けば道理かも知れぬが」 砂漠行のひそかなご馳走と言われる砂蜥蜴を担いだ緋が面白そうに目を細めた。 「どこで使っちゃってるのか判らないんだけどね。じっとしてるの苦手だし、力仕事も大好きだけど、働けば働くほどお腹がすくのは当然っていうか。お昼ごはんまだかなー」 植物と鉱物が半分ずつつまった大きな籠を幌馬車へと運びつつ、理比古は昼食を心待ちにしている様子である。 「ん、帰ったか。なかなかの収穫のようであるな。しかし理比古、お前は見かけによらず怪力だ、よくその身体でそんな重いものを運んだな」 「あー、うん、持久力はないけど筋力はあるからなんとか? 実は案外力持ちなんだよ俺。鴉刃くらいならたぶんお姫様抱っこできるよ?」 「……遠慮しておこう」 理比古に姫抱きにされる自分を想像したのか、周辺の警戒に当たっていた鴉刃が微妙な顔をしつつ籠を覗き、ガラス状の破片を含んだ鉱物を手に取った。 「面白い光沢だな」 「砕いて粉にして魔術道具の材料にするらしい。これで描いた魔法陣はすごく扱いやすいんだって」 「ほう……その魔法陣とやら、是非一度見てみたいものだ」 「俺もそう思う。ヴォロスって文化が一律じゃないから面白いよね」 「まったくだ」 「――それで鴉刃よ、そちらは変わりなかったか」 「ああ、今のところ賊の類の気配はない。所帯が大きい分、取り囲まれでもしたら厄介だが、私の他にクアールの妖精獣やユエ、神楽の影竜も警戒・護衛要員として周囲に気を配っている。まあ、どうとでもなろう」 連れ立って戻ると、岩陰にござを敷き詰めてつくった食事場所にはすでに皆が集まっていた。 「アルアのおかげでいつもの倍以上の植物が採集できたよ。ありがとうね」 「何よりですわ。砂漠とは言っても、ここは豊かですわね。砂や暑さをものともせずに繁栄している植物たちを目にすると、生命の力強さを思わされますわ」 「そうだね、その力強さに色んなものを分けてもらってるのが人間なんだろう。アルアが見つけてくれたヨシズメ草の群、あれのおかげで何人の子どもが熱病から救われるか」 「まあ……そうでしたの。お役に立てて嬉しいですわ」 ホッとした顔のルネに、アルアが慈母のごとき微笑を浮かべる。 植物と会話の出来るアルアは、自然や大地の『声』を聴き、有用な植物を見つけることに一役買ったのだ。それが苦しむ人々の役に立つのならこんなに素晴らしいことはない。 そこへ、 「待たせたな、皆、お疲れさん」 大きな鍋を掲げ持ったユエを先頭に、今日の昼食係たちが様々な料理を持って現れ、理比古に歓声を上げさせた。 「皆、お疲れ様だ。まずはこの薬草スープで疲れを癒してくれ」 年配のアルカトゥーナたちと行動をともにしている――そこには、多分に、彼らの健康・体調を気にかけるという医師としての視点がある――春臣は、彼らに教えてもらったハーブの有効活用法であるスープを配り始めている。 二十数種類のハーブとスパイス、滋養のある野菜を使ってつくられるこのスープは、独特の芳香があって食欲が増進され、身体に染み渡るのだそうだ。効能としては疲労回復と免疫力治癒力の上昇が挙げられるという。 「一昨日緋さんが仕留めてくださった山鹿をソテーしてハーブオイルに漬け込んでおいたものが食べごろになりましたよ。薄切りのたまねぎと一緒に、パンに挟んで食べてください」 大きな皿に、いい匂いのするハーブがまぶされた角切りの肉をこんもりと盛り付けたものを、クアールが運んでくる。 「こっちは鴉刃が捕まえてくれた兎肉と太陽柑の煮込みだ。兎肉と柑橘の甘酸っぱさのハーモニーが絶妙、らしいぞ」 ユエは、アルカトゥーナの女衆に教わりながらつくったという煮込み料理を配りつつ、どうにも懐かしい光景だと目を細めた。 (あいつら、どうしてるんだろうな) 強大な力を持つ人外の存在、人間を糧や力の増幅アイテムとしか思っていないような連中と戦うためのレジスタンス……といいつつ、親や家族を失った人々の集まりでもあった組織においては、好きな材料を持っていくと美味いものにして出してくれる料理上手が何人かいたものだ。 予断を許さない状況下ではあったものの、仲間たちと食う飯は確かにうまかった、とユエが思い起こすうち、皆に料理の入った皿とパンとスープ、サボテンの実という色鮮やかな果物や飲み物が行き渡り、そろっていただきますとなる。 「あっこれ、一昨日の湖で釣った魚? 焼いたのをワインビネガーでマリネしてある……のかな。この香味野菜との相性も抜群だし、すっぱいおかずってなんか元気出るよね」 エシャロットを髣髴させる香味野菜と人参、イタリアンパセリに似た芳香のハーブを刻んで混ぜ、一度煮立てたワインビネガーに、焼き干しにした細身の魚を漬け込んだものを旺盛な食欲で平らげている理比古に、クアールがいっそ感心したような視線を向ける。 「爽快なくらいよく食べますね、理比古さん」 「緋さんにも言われたな……エンゲル係数高いからね、俺。ここの食費を圧迫しないようにしっかり身体で返したいけど、働いて身体動かしたら余計にお腹減るわけだから堂々巡りだよねこれ……」 「えんげる……? まあでも、砂漠といいつつ食材採集に苦労しない程度には豊かですし、理比古さんはよく働いてますし、いいんじゃないですか?」 「だといいんだけどねー」 溜息をつきつつも口はしっかり雑穀パンを咀嚼している理比古に微苦笑し、クアールは近くに腰を下ろして革の水筒を傾けている鴉刃に視線を向けた。 「……鴉刃さんは本当に水しか要らないんですね」 「うむ、龍人とはそのようなものだ。美味い酒と水があればそれでよい」 「なるほど。あ、そういえば、鴉刃さんにはいつもうちのものがお世話になりまして、ありがとうございます」 「うちのもの?」 「猫です」 「猫……? ん、ああ、判った、彼か。いや何、私も世話になっておるゆえ、こちらこそ、と言うべきであろうな」 心なしか目元を和らげて鴉刃がうなずく。 クアールはそうですか、と笑って、皆が食べ終えた食器を片付け始めた。 「これが終わったら、絵を描こうかな。それとも、ウルズとラグズの毛繕いでもしてやろうか……ああ、そうだ、余った食材でお菓子をつくれないかな?」 「お菓子、いいな! っていうか俺、次の食事当番だし、デザートとか考えようかなー」 独白に近い、クアールのつぶやきの中から、お菓子という言葉を聴きつけた理比古が、二十枚近い木皿を積み重ねたものを抱えて(彼の名誉のために言っておくが、その大半は他の人たちが食べた皿だ)飛んでくる。もうさすがと言うしかない。 「太陽柑の皮と白ぶどう酒でマーマレードなんてどうです?」 「砂ベリーってあったじゃない、あれを焼き込んだケーキとかどうかな」 「岩南瓜のしっとりパイとか」 「日照芋のほくほくキッシュとか?」 微笑ましいお菓子談義の向こう側では、緋とユエ、そして鴉刃が、簡単な地図をござの上に広げ、今後の警備について話し合っている。 「……そなたらはどう見る?」 「そう言うからには、同じことを考えていそうだな。俺たちの進行方向はここから――こうだ。この岩場の辺りが怪しい。特にこの辺りは有用な鉱物群が多いと聞く。待ち伏せをして、採掘が終わるのを待ち、夜の間に襲ってしまえばこんなに楽なことはないだろう」 「お前もそう思うか、ユエ。……明日の早朝、上空からの偵察に行く。何者かの足跡が見つかるようであれば、早急な対策を練らねばなるまい」 「では、俺とユエは鴉刃が出ている間の周囲の警戒を。日の昇る前ならばそなたも問題あるまい?」 「ああ。むしろ、夜間の見回りはすべて任せてもらってもいいくらいだ。クアールのところの妖精獣や、神楽の影竜にもご出座を請うとしようか」 「それがよかろう。アルカトゥーナのものたちは戦闘に不向きだ。私やお前たちのような戦闘要員がいるとは言え、それですべてを把握し切れるものでもない」 「――では、そのように」 美味な食事ににぎわう人々の隅で、静かに取り決められる物騒な工程。 とはいえ、それを話す三人の表情も口調も、ごくごく普通の、なんでもない仕事をこなすようなものでしかなかったが。 「先生、先生」 それを見るともなしに見ていた春臣は、アルカトゥーナでも最年長の老夫婦に呼ばれて振り向いた。純朴な、どこかおっとりした雰囲気の小柄なふたりは、族長の妻ルネの祖父の弟夫妻であるらしい。 「おや、リドさんユカさん、どうなさいましたかな」 淹れたての茶を勧めつつ尋ねれば、老夫婦はとても嬉しそうに笑い、 「先生のおかげでひざの痛みが和らぎましてな。これはお礼を申し上げねばなるまいと」 「私は息切れがなくなりました。先生は魔法使いでもないのに奇跡のわざをお持ちなのですね。本当にありがとうございました」 そういって、この数日で春臣が行った簡単な医療行為が自分たちを痛みや苦しみから解放してくれたのだと、何度も何度も頭を下げた。 春臣は苦笑して首を横に振る。 「いや、大したことはしておりません。どうか頭を上げてください。とはいえ、患者が安楽を得て健やかになることは、医師として純粋な喜びです。あなたがたの役に立てたようで、よかった」 身体から辛さの消えた人々が笑顔を見せてくれる。それこそが、彼が医者として生きてもっとも幸福を感じると言って過言ではない瞬間だ。 「春臣さん、とても嬉しそうですわね」 しっかりした足取りで午後からの採集の準備に向かう老夫婦を見送りつつ、春臣が冷めた茶を啜っていると、お茶のお代わりとともにアルアがやってきて物静かに微笑んだ。 「……そうかね」 「ええ。あなたのその穏やかな喜びが、私に健やかな安らぎをもたらします。自然の、人の営みは美しい。当たり前でありながら普段は見えづらいことを、こんな風に実感出来る、この旅をとても貴く思いますわ」 「そうだな……そうかもしれない。ごくごく自然な、あるがままの事実を、私を含めた人間はたやすく見失い忘却してしまう。それを責めることは出来ないが、しかし、この原初のごとき旅が、それを思い起こさせ浮かび上がらせてくれることに関しては、素直に感謝せざるを得まい」 目を細めて、どこまでも突き抜けて高い空を見上げる春臣の手には小ぶりのデジタルカメラがある。 空と、白い砂海と、涼しい陰を提供してくれる峻厳な岩場とをそのカメラに収めてから、春臣は肩をすくめた。 「どうなさいまして?」 「いや。同郷の連中に土産話を、と思ったが……恐らく写真は、この世界の美しさ、砂海の厳しさ、空の青さの真実の、十分の一も伝えられはしないのだろうな、と思っただけだ」 「あら……それは、役得というものですわ、当然のことかと。幸せのお裾分けですもの、十分の一でも、受け取る方は嬉しいのではありませんこと?」 「……なるほど、君はとても素敵な感性の持ち主だな」 「まあ、ありがとうございます」 いつもの不気味・変態オーラを消した春臣は、面立ち・言動ともにずるいほどの美壮年というやつで、にっこり笑うアルアの後方では、年頃のお嬢さんをはじめいい年をしたご婦人までが頬を赤らめている。 ここに例の女子高生がいたらまた違った道行にはなっていたのだろうが、ひとまず、波乱の予兆を含みつつも旅は穏やかに続く。 3.不幸な来訪者 正直言って、赤子の手をひねるようなものだった。 「野郎ども、やっちま……ぇぶッ!?」 積荷はいただき、若い男女は捕らえて遠方の奴隷市に売り飛ばし、年寄り連中は皆殺し……と思っていたであろう盗賊たちは、 「……いっそ清々しいほど定石通りの輩だな。まァ、やりやすくてよい」 曲刀を手に、最初のひとりを昏倒させた緋が呆れる通り、ごくごくスタンダードな位置で待ち伏せを行い、『皆が寝静まる夜半』というごくごくスタンダードな時間帯を選んでいっせいに襲撃をかけてきた。 ――のだが。 「兄ちゃん、あんたも綺麗な顔してんな。どうだい、南の娯楽市場で金持ち相手に商売でもひとつ。贅沢な暮らしをさせてもらえるかもしれねぇぜ? ――まあ、仕事は身体で、だけどな」 「えー、毎食豪華なデザートが出るとかならちょっと惹かれるけど、家の仕事をこれ以上サボったら家人が怖いから遠慮する」 持久力がないなりに抜群の運動神経と技巧を持つ理比古は、どこかずれたことを言いつつも、組み合った盗賊のバランスを自らの体軸をずらすことで崩させるや否や懐に飛び込み、トラベルギアで『雷』の力を発動させて一気に片をつけた。 「こっちは終了ー。俺、疲れたし、あとはキャラバンの人たちの護衛のほうに回るんでよろしくー」 びりびり痺れて地面に転がる盗賊を向こう側へ押しやってから、焚き火の傍で身を寄せ合っているアルカトゥーナの人々の前に立ち、理比古が戦闘要員たちに手を振る。 「……何、心配は要らない、彼らにとっては他愛もないことだ」 トラベルギアである三味線を手に、同じく護衛につく春臣が静かに笑ってみせると、尊敬する『先生』の落ち着きぶりを見てかアルカトゥーナたちから不安感が薄れていく。 「万が一にも彼らが敗れるようなことはあり得ない、安心しているといい」 いざとなればトラベルギアの力で水を操り、盗賊たちを遠くまで押し流すつもりでいる春臣である。 更に、ユエが空間を歪曲させるかたちで彼らの周辺に防御壁をつくっているし、足元には神楽の影竜が潜んでいるため、何の変哲もない、ごくごく一般的な盗賊である彼らにそこを突破するだけの技量は存在しないだろう。 「……ふむ、無効は心配無用だな、ならこちらに専念しよう」 クアールは災禍の従者とも呼ばれた妖精獣たちを呼び出し、攻撃と補助の双方を行っていた。 「ガルズ、ビュイク、前方は頼むぞ。俺は銃で援護する」 クアールが召喚したのは、『壱番目の災禍』ガルズと『弐番目の災禍』ビュイクだった。 ガルズは、強靭な腕で巨大な戦斧を振るう、橙色の犬獣人。 ビュイクは、鋭い眼差しと翼を持つ黒毛の猫獣人である。 ガルズの、鋼をも叩き割る戦斧の一撃に盗賊のひとりが木っ端の如く吹っ飛び、忍び寄る闇のごとき迅速さで揮われるビュイクの双鎌に手足の筋を傷つけられた盗賊が地面をごろごろと転がって泣き喚く。 「力尽くで人をどうこうしようなどという人間の末路としてはお似合いだ」 冷ややかに落とされるクアールの言葉。 ロストナンバーたちは通常業務の範囲内で戦闘を行っているに過ぎなかったが、一方的な『狩り』を行うつもりだった盗賊にとっては不測の事態であったようで、 「て、てめぇらはいった……いいぃ!?」 スタンダードな物言いで詰問しようとした盗賊の襟首を、アルアがつくり出した砂ゴーレムがつかみ上げ、驚愕する彼をまるでゴミでも放るような容易さで遠くへと投げ捨ててしまう。落下して腰を打ったらしい盗賊は、声もなく悶絶するのみだ。 「いけませんわ……奪われる人の哀しみに思いを馳せなくては」 どこか寂しげに微笑むアルアに、状況も忘れて見惚れる賊が続出。 その背後を吹き抜けてゆく黒い颶風……と思いきや、それは鴉刃だった。 「まったく……面白いほど標準的な連中であるな」 あえて武器は使わず、見事な手刀の一撃で次々に脱落者をつくりつつ、鴉刃は呆れたような面白そうな声でつぶやくと、 「てめッ、この、ちょろちょろすんじゃね……ッ」 「貴様が遅いだけのことであろう」 盗賊の振り下ろした武骨な剣をするりと避け、瞬時に彼の背後に回り込むと、また鮮やかな手つきで手刀を決めた。 ぐったりと地面に崩れ落ちる盗賊を尻目に、次なる獲物を求めて暗闇に紛れ込む龍人の暗殺者とすれ違いざま、 「まったく、愉快な連中だ」 緋は峻烈かつ獰猛に笑い、つぶやく。 「……単純でよかろう」 「まったくだ。不殺というのが少々面倒ではあるが、な」 「我々の在り方においてはそれも道理。だが、野営地に死体がごろごろ転がっていては彼らが気の毒ゆえ」 「ああ。――それに、この美しい白砂を無粋な赤で穢したくはない」 ふたりが言うとおり、キャラバンを襲撃してきた三十名ほどの盗賊たちは、怪我をしたり意識を失ったりはしていたが、誰も命を落としてはいない。せいぜいが、歯や指の一本二本を失っている程度だ。 緋は流麗な曲刀を手にしているものの、それで首を刎ねるようなこともなく、相手の武器を叩き落したり、柄の部分で打ち据えて戦意を喪失させたりするくらいのことしかしていなかった。 油断などはないにしてもあまりにも『仕事』が容易すぎ、平和を愛するアルカトゥーナたちに残虐な光景を見せたくなかったのと同じくらい、予想外の相手に蹂躙される盗賊に憐憫の情が湧いた、というのもあるかもしれない。 要するに彼らは、規格外のロストナンバーを相手取るには気の毒なくらい『普通』の盗賊だったのだ。 「……それで、まだやるのか? 実力差は充分に理解しただろう?」 息ひとつ乱さずに緋が言い、曲刀を掲げてみせる。 月光を浴びて三日月のように輝くそれに、どうにかまだ立っている盗賊たちが――戦いが始まって三十分も経っていないのに、すでに半数に減っている――顔を引き攣らせた。 「今退くならひとまず見逃すが、どうだ? 俺たちとしても、面倒は避けたい。――要するに、君たちの死体の後片付けはご免こうむる、ということだ」 こちらも乱れのない呼吸のユエが、どこまでも静かに淡々と告げると、そこに言外の圧力を感じ取ってか、盗賊たちがごくりと咽喉を鳴らした。 「仲間を連れて退くがよい。さすれば、今宵は不問に処そうぞ」 ユエの傍らには、いつの間にか鴉刃がいて、炯々と輝く金の眼を細めて盗賊たちを見据えている。そこにある余裕、威圧感は存分に伝わったことだろう。 更に、その背後からは戦斧や鎌を手にした災禍の従者たちが顔を覗かせ、無言のままめいめいの得物をずずいと突き上げた。 怖じて一歩退いた盗賊たちに、 「俺は気が短い、三秒で決めよ!」 落雷のような激しさで緋が言い、 「……ッ!!」 たたきつけられるそれにびくりと跳ね上がった彼らは、武器を放り出すや否や戦闘不能に陥った仲間たちを担ぎ上げ――仲間を見捨てなかっただけ立派とここは誉めてやるべきか――、ほうほうの体で逃げていった。 後ろを振り向くことすらしない、いっそ見事な撤退を見送った後、アルカトゥーナたちからわっと歓声が上がる。 「よかった……ありがとう、旅人さんたち!」 焚き火に新たな薪が放り込まれ、火がひときわ強く明るくなると、誰かが大きな樽をひとつふたつと持ってきた。 「旅人たちへの感謝と、ディズデオラ入りの前祝いだ、今日はとっておきのやつを開けるぜ!」 木の実、干し肉、干し魚、干した果物。 酒が飲めないものには理比古とクアールがつくった果実のジュースと菓子。 そんなものが振舞われ、つい先ほどまで戦場だったそこは、あっという間に酒宴会場へと様変わりする。 「おお、酒か! それはよい、では早速いただくとしよう」 実は参加理由の半分が酒宴目当てという緋が嬉しげに輪に加わり、赤ぶどう酒で満たされた銀杯を一息に空ける。わっ、と、囃す声が大きくなった。 「緋は酒豪なんだな。俺はちびちびやらせてもらおう」 ユエはさわやかな甘みのある白ぶどう酒に砂ベリーを浮かべたものを楽しみ、 「一仕事終えた後の酒というは格別の味だな」 「本当に。この赤ぶどう酒は濃厚なのに飲みやすいですね、菓子ともよく合います」 並んで腰掛けた鴉刃とクアールがナッツや菓子をつまむ。 「あら……美味しい。素敵な雰囲気ですわ、だから余計に美味しく感じるのかもしれませんわね」 ほんのりと頬を染めたアルアの美しさをアルカトゥーナの男たちが誉めそやし、下戸の有馬先生と飲むと寝る理比古は砂ベリーを絞って蜂蜜と合わせた濃厚な生ジュースを楽しむ。 酒が入って気が大きくなった緋が、部族一の吞み助と肩を組んで笑い、興の乗った人々が楽器を取り出して奏で始める。 春臣の三味線が彩りを添え、神楽のパラディーゾがそれに倣って、音楽で場が満たされる。アルアが透き通るような美声で歌を重ねると、曲刀と銀杯を手にした緋が立ち上がり、輪の中心で流麗な演舞を披露した。 緋の長い髪が、曲刀が閃き、月と焚き火の光を受けて輝くたびに、わあっ、と、歓声が上がる。 「はは、愉快愉快!」 磊落に笑う緋に惜しみない拍手を送り、ロストナンバーもアルカトゥーナも関係なく肩を組んで笑いあう。 にぎやかな酒宴は、夜更けまで続いた。 4.根源と循環の伝承詩 秘境へと辿り着いたのは八日目の午後。 《青の芽吹く砂海》ディズデオラは、比喩ではなく輝く緑に満たされた森と、まぶしいほどに白い砂の海によって構成されていた。 太古を思わせる深い森には、宝石めいた輝きの翅を持つ蝶や、七宝を思わせる翼の鳥たち、背に苔や草、果ては樹木を生やした大きく旧い獣たちがいて、一行を恐れるでもなく悠然と闊歩している。 足を踏み入れたときからここに危険がないことは感じ取れ、人々は自由に森を歩き回ったが、そこは、小石ひとつ、土くれひとすくい、葉の一枚、風のそよぎひと時すら美しく、心安らぐのだった。 「不思議な場所であるな。今まで、見たこともないような……そのくせ、なぜか懐かしい」 鴉刃のつぶやきには共感の視線が返る。 動物たちが、一斉に果ての砂海へと移動し始めたのが十日目の夕方だった。 『その時』が近いのだと気づくに時間はかからず、一行もまた砂海へと急ぐ。 心なしか、緑が震えているようにも見える。 別れへの哀しみなのか、再生への喜びなのかは判らない。 ――そして、それは、唐突に訪れた。 鈴の打ち震えるような涼しい音が聞こえてくる。 それが、木々の葉が擦れ合って立てる音なのだと気づくより早く、金の月と銀の星が地上を静謐に照らす中で、輝石めいた森が震え、ざわめき、崩れ落ちてゆく。 樹木が崩れると、緑色にきらめく光の粒が舞い上がり、辺りを照らす。 「すごい……」 誰かの、息を呑む音。 鮮やかな木々が、大小さまざまな石が、それらを受け止めていた土が、流れる宝石のようだった水が――あっけないほど一瞬のうちに砕け崩れ落ち、光の粒になって天を舞う。 辺りは、静謐でありながらまぶしく、色彩豊かな光によって賑やかなほどだった。 その、天舞う光が砂海上空で消えた、そう思った瞬間、大地が震えた。 ごおぉん、というそれを、誰もが祝福の鐘のようだと感じるとともに、最初の芽が、白き砂海から顔を出す。 と、芽はものの数秒で樹齢二十年程度まで伸び、更に更に伸びてゆく。 後から後から無数に芽は生え出て伸び、気づけば、砂だったはずの地面にはやわらかい土が現れている。 木々が育ってゆく。 それらは恐ろしいほどの速度でありながら、『その時』を待っていたキャラバンや動物たちのひとつとしてその生長には巻き込まず、まっすぐに天を目指して伸びてゆく。 葉が茂り、光を宿す頃には、あちこちで川が流れ始めた。 小さな泉がそこかしこに生まれている。 ――鮮やかな生命の色を持った森が、人々を取り囲む。 濃厚な緑の、水の匂いが鼻をくすぐった。 滅びの後の、凄絶なまでの再生が、人々の周囲で繰り広げられる。 「すごい」 理比古は呆然と――否、むしろそれは陶然と、かもしれない――、育ち行く緑を見つめていた。 頬を涙が伝っていることにも気づいていない様子だった。 「命って、綺麗だね……」 単純明快な摂理の、その、なんと力強く美しいことか。 「……ああ」 静かな呼気が漏れる。 彼の胸の奥にある痛みは、もちろん、最後まで愛を得られなかった義兄たちのことだ。 「何故、どうして、は消えないけど」 泣き笑いの顔で、理比古は笑った。 「……今は俺、護りたいものがあるんだよ。そのために頑張ろうって思ってる」 最近、ほんの少し、前へ進んだと思う。 緑の、生命の鮮やかさに、それを、強く実感した。 「……言葉もないな」 クアールは小さく溜息をついた。 故郷でも、自身の描いた本の中でも目にしたことのない、あまりにも圧倒的な光景だった。 「いや、ただ知らなかっただけか……知る前に、俺自身の力で黒に塗りつぶしてしまったか、か」 無邪気にそれを喜ぶ、小さな妖精獣たちにそっと触れ、 「ごめんな……俺の身勝手で、お前たちには辛い思いをさせた」 絶望と狂乱が振りまいた、数々の痛みと災厄を思う。 「すべてを償うことは、きっと出来ない……けど」 彼は、あまりにもたくさんのものを奪ってしまった自分を知っている。 それが許される日など、来るのかどうかも判らない。 「……せめて、少しでも」 繰り返される命の力強さの中に折れないものを感じ、自分もまたこのしなやかさで前へ進めたら、とクアールは思うのだ。 「綺麗……とても、綺麗」 アルアは感動に目を見開き、すべてを見届けようと身じろぎもせず見つめていた。 命の営みの美しさ、そしてその美しさを自分が司っているのだという思いに、心がいとしさで満たされる。 「私はティターニア……使命を負うもの」 使命の重さを嘆いたことはない。 ただ、自らを高めたいという思いと、最上が難しいという実感を抱えていた。 しかし、この緑を見て、それらが少し、吹っ切れた。 「これまでも、これからも」 なすべきことをなすのだという気持ちが強く湧く。 いい思い出、いい経験をした、と、アルアは微笑んだ。 「代々受け継がれる命ではなく、命の交代、か」 鴉刃は瑞々しい葉に手を伸ばしながら呟いた。 「……国の滅亡と誕生。それを自然に当てはめたような縮図か?」 生まれ、生きて、滅びる。 何もかもが、そういうものなのだろうと目を細める鴉刃の脳裏を、懐かしい乙女の顔がよぎる。傍にいてくれなければいやだ、と駄々をこねる可愛い娘の顔だ。 それを思うたび、彼女の胸はしくりと痛む。 「そうだな……私の痛みといえば、お前をおいて他にはおらぬ」 故郷で思い残したことといえば、彼女を除いてない。 彼女を忘れられぬ限り、鴉刃はずっと憂い続けるのだろう。 「だが……お前との思い出があるから、今の私がいるのだ」 痛みもまた、鴉刃にとってはギフトにすぎない。 だからこそ忘れてはいけないのだと、再生を続ける緑の中、そう、強く思った。 私がいるから貴方の眼は国を見ない。 緋の脳裏に木霊するのは、喪った妻の声だ。 遠い西に待つとつくにより来った、異彩の、純真で繊細な少女めいた女は、珂沙が高瑚の猛攻に落ちた後、緋の荷になりたくないと自ら命を絶った。そのときの光景が、あの赤が意識を染める。 あの頃、緋の眼は、目の前に広がる世界をすり抜けて、まだ見ぬ彼方の国へと向かっていた。 その浮ついた心が故郷を危うくし、妻を喪わせたのだろうと、緋は今でも己が至らなさを責めている。 「だが……」 位置をただ変えただけに見える、砂海の白と森の緑に、妻の色彩を重ね合わせ、 「愛する者が生まれた国ならば、見てみたいと思うものだろう」 そんな、子どものような己を、やさしくしかめた顔でまた笑ってほしい。もはや叶わぬ願いに目を細める。 融けてまた生まれる地の、鮮やかな命のように、 「そなたも……同じように、こうして生まれているのか。なあ……瑞姫よ」 彼女もまた、どこかで違う生を得ていればいい。 そう、緋は希う。 「夢のような光景だ」 痛む胸を押さえ、ユエはつぶやく。 仲間がひとりまたひとりと喪われてゆく。 普段弱みを見せない仲間が、大切な人を亡くして泣いている。 手の施しようのない仲間を看取った。 ユエの持つ治癒能力を万能だと誤解した仲間に罵られた。 ――処分対象にすらなりかねない虚弱体質ゆえに、一門の務めを果たせない己が不甲斐なさに絶望すら思った。 力及ばず護りきれなかったものの記憶が、ユエに痛みを強いる。 それでも、 「判っている……必ず、帰る」 果たすべき約束と務めを忘れてはいない。 木々が芽吹き天をさして伸び行くように、ユエもまた我が身を惜しむことなく前へ進むだろう。 春臣は、芽吹く砂海にただ圧倒され、撮影すら忘れていた。 移ろいゆく景色に、引き継がれる命が重なる。 (患者とだけ向き合っていればいいわけじゃない) (人を救うためには、多少の汚れを覚悟するしかないんだ) (独り身のまま、好きに生きるやつには判らない) 脳裏に罵声が木霊する。 春臣は苦笑した。 「……そうだな。今なら、お前の言うことが判る」 大きな大学病院に勤めた、数少ない友人のひとりだった。 ありがちな派閥争いの中、彼はどちらにも属さない春臣から離れた。 彼は、やがて春臣が嫌うタイプになり、最後は上司の代わりに逮捕された。 面会に行ったときの彼の言葉は今でも春臣に突き刺さったままだ。 無論、頭では判っていた。 ただ、敬意すら抱いていた友人の失墜が哀しく、受け入れられなかったのだ。 しかし、芽吹きの奇跡が春臣の心に風を入れてくれた。 「そうだった……お前もまた、最後まで現場にいたんだ」 誰かを救いたい、癒したい、その思いに変わりはなかった。 彼もまた、どこまでも医者だった。 ただ、春臣とやり方が違っただけのことだった。 ごくごく当たり前のことまで否定しかけていた自分を恥じると同時に、わだかまりが和らいでゆく。 いつになるかは判らないが、帰ったら彼に会いに行こう、会って謝ろう、と春臣は吹っ切れた顔で笑った。 ――やがて、地平線の向こうから太陽が顔を出し、世界が光に包まれる。 あふれる緑の中、穏やかな光と緑の香に満たされ、去来する様々な思いと向き合いながらも、生命の循環に触れるひと時はもうしばらく続く。
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