気づけば、見慣れた廊下を歩いていた。 「……はて?」 小首をかしげ、阮 緋はぐるりと周囲を見渡す。 「戻ってきた……と、いうわけではなさそうだが」 つい先刻まで、異世界シャンヴァラーラにある【箱庭】のひとつ、竜涯郷で、友となった青き竜とともに和やかなひと時を過ごしていたはずだった。 竜涯郷の季節は夏、すべての緑が明るく深く輝き、鮮やかな芳香を匂い立たせている。先だって生まれた仔竜たちもずいぶん大きくなり、世界は賑やかな生命に満ちていた。 「……そういえば、あのとき、鎮流が何か……?」 空よりも海よりも深い青を持つ竜の背に乗り、竜涯郷の風景を堪能していた緋に、 (ぬしを呼ぶ声がするな) 種を異にする友は囁いて、彼の目をまっすぐに見つめたのだ。 深海に凝る髄のような濃い青の目を見つめ返すと同時にフッと意識と視界がぶれ、何かに持ち上げられ運ばれるような感覚があって、気づいたらここを歩いていた。 肉体に現実味がないこと、伸ばした手がモノに触れられないことから、 「ふむ。これは……夢か? それとも……?」 何か不思議な力の作用でここにこうしている、と考えるのが妥当そうだ。 「……まぁ、よい」 いかなる力の働きであろうとも、再びこの光景を見られた喜びは大きい。 清潔に整えられた、簡素だが美しい城内。 白を基調とする廊下の片隅に、規則正しい配置で現れる色鮮やかな花器と、そこに活けられた赤や白の瑞々しい花は、獰猛で激情家でありながらも軽妙洒脱な君主の人柄を反映するかのように、無駄なく静謐な城内を灯明の如くに彩っている。 「……変わっておらぬな」 懐かしさに目を細め、緋は歩を進めた。 西方の一玉(いちぎょく)、烈しくも麗しき赤の宝珠。 広大な大陸に住まう人々にそう讃えられた、緋の故郷だ。 そしてここは、緋がただひとりと断じ膝を折った、君主であるのと同様、同等に親友でも同胞でも仇でもある男が座す王城なのだった。 「そういえば、誰かが呼んでいる、と……」 ――この高瑚にあって、誰よりも緋を呼ぶものなど決まっている。 緋が呼ぶものが、決まっているのと同じくらいに。 「……我が君」 彼はどうしているのかと思ったら気持ちが逸った。 これが夢でも幻でも構わない。 生涯を懸けて悔いぬと誓った男の今を見たいと足早に進んだ先で、何か、陶器の割れる甲高い音が響いた。 「!」 目を瞠る緋の視線の先にあるのは、玉座の間。 玉座の間を取り巻くように、息を呑んで成り行きを見守る人々の姿と、 「もうよい、貴様の御託は聞き飽きた!」 狂おしいほどの激情を孕んで叩きつけられる、聞き慣れているはずなのに聞いたこともない声。伽の女たちがいつまでも聞いていたいと称したその声は、しかし、今はどこか脆くひび割れているように思えた。 「……殿?」 眉根を寄せ、玉座の間へと踏み込んだ緋は――やはり実体ではないようで、誰も彼に気づかなかった――、『彼』の変貌に再び目を瞠った。 燃えるような赤金の髪、鋼のごとき黒銀の眼。 豪奢なのに悪趣味ではない、鮮やかで美しい衣装と、額を飾る白金の冠。 一片の無駄もなく鍛え上げられた美しい身体と、雄々しく猛々しい、磊落な美貌。 それらは、何も変わらない。 ――だが、その、いつも明るく豪放な笑みを刻んでいた唇は、今や憤怒に引き結ばれ、時に三十路を半ばほど過ぎたとは思えぬほど邪気のない、悪戯な少年のような笑みに細められていた双眸には狂気にも似た激情が宿っている。 眠れていないのか、目元はくすんでくまになっていたが、眼そのものはぎらぎらと輝いており、鬼気迫る表情に緋は息を呑むしかない。 君主のこんな顔を、今まで見たことがなかった。 「彼奴らは私からアレを奪ったのだ。そのどこに罪を免ずる要素がある? 首謀者は全員首を刎ねよ、ひとり残らずだ。己が犯した罪を後悔させてやる……苦しんで、恐怖して死ぬがいい……!」 「しかし雷韻様、あまりに苛烈な罰は内部を萎縮させます。どうか今一度、お考えくださいま、」 「くどい! それとも、そなたもアレの死を望んでいたのか!?」 「……ッ! いえ、そのようなことは、決して……!」 性急な物言いに違和感が募る。 元々敵対者には容赦のない男だったが、決して残虐なたちではなかった。 磊落な言動の裏には、正確な情報を常に求める慎重さも併せ持ち、一時の感情だけで他者を蹂躙するような真似は絶対にしない男だった。 それが、今の雷韻はどうだ。 「殿、いったい」 届かぬと判って声をかけようとした緋の傍らで、文官たちが密かな嘆息をこぼす。 「緋殿がいてくだされば」 「……もはやこの世におられぬ方に頼っても仕方ありませぬ」 「シッ、おふたりとも、殿のお耳に入れば処罰されかねませぬぞ!」 「しかし、このままでは。東との戦も近いというのに」 「ですが、今の殿に、我らの言葉が聞き入れられるとも思えぬ」 「緋殿なら、殴り倒してでも諌めてくださったやもしれぬが」 会話の断片から、何となく察した。 ここは、緋が覚醒したあとの高瑚なのだ。 そして、緋は死んだことにされているらしい。 当然のことだが、亡骸が出ず、当人も姿を見せないのだからそう思われても仕方がない。 「俺の『死』に……激昂しておられるか、我が君」 雷韻の憔悴に胸が痛んだ。 しかし、それは同時に絶大な喜びでもあった。 自分が彼の傍らを絶対の場所と決めたように、彼もまた自分が傍らに在ることを絶対と断じていたのだ。 「もうよい!」 不意に、鋭く吐き捨てた雷韻が立ち上がり、傍らの剣を取った。 怒りに燃える彼の眼の、その先にいるのは、先ほど恩赦を進言していた将だ。 「貴様の戯言にはうんざりだ! 王の意を酌めぬ臣は要らぬ……誰ぞ、この者の首を刎ねよ!」 引き抜いた剣の切っ先を突きつけられた将も、文官も武官も、皆が凍りついた。 雷韻の眼は、明らかに本気だった。 誰もが動けず、言葉を発することも出来ない中、 「――畏れ多くも、殿」 緋は、見かねて声を上げていた。 ざわり、と間がざわめく。 董維殿、何故、という誰かの囁きで、自分がその場にいた文官の身体を借りていることを知ったが、そんな瑣末なことはどうでもよかった。 「たかが臣下のために、己が路を踏み外されるおつもりか」 誰もが浮き足立つ場での、あまりにも静かな物言いだった。 「たかが、だと!? 貴様に、」 「――流した血、奪った命のすべてを負って歩むとあなたは仰られた」 噛み付く彼をいなし、緋は言葉を重ねる。 静謐であるがゆえの気迫に押されてか、雷韻が眉をひそめて口を噤んだ。 「数多の命を、営みを奪う理由は破壊や略奪を欲してではない、新しい、誰もが幸いを享受して生きられる国をつくるためなのだと」 小国同士の小競り合いが続き、いつまで経っても静まらぬ大陸。 力がものを言うこの世界では、弱き者から死んでいく。 それを改めたいのだと、敗北し死を覚悟した緋に彼は言った。 ――だからこそ、緋は彼に降ったのだ。 己が弱さのために喪わせてしまった珂沙の人々の命が、雷韻の目指す幸いの礎となるのなら、と。 「ご自身の負われた命の重みをお忘れか。――あの日の誓いは偽りか」 そう、彼の言う命の中には、あの日死んでいった緋の一族も含まれているのだ。 それを無駄にはしないといってくれた雷韻に惚れたからこそ、逆上し何もかもを無意味にしようとしている今の彼は耐え難い。 「答えられよ! すべてを踏み躙るおつもりか、武雷韻!」 雷鳴のごとき烈しさに、王が目を瞠る。 「そなたは、――ッ!」 それと同時に、彼は、そこに緋が『いる』ことに気づいたようだった。 失意と激情とやり場のない怒りに昏く燃えていた黒鋼に、理知の光が戻ってくる。唇に、いつもの、あの笑みが浮かぶ。 それは、潮が引くような唐突さだった。 武官も文官も、何が起きたか判らず顔を見合わせあう中で、 「……そうであったな」 王は剣を鞘へと戻した。 「済まぬ……無様な姿を見せた」 臣下全員に向けて詫び、 「……感謝する」 雷韻が、文官の『向こう側』にいる緋へと微笑みかける。 緋は微笑とともに頷いた。 それと同時に、自分が遠ざかるような感覚があって、 (ああ、戻るのか) 漠然と思う。 ふわふわと曖昧になる意識の中、踵を返そうとしたところで、 「――必ず戻れ、緋胡来」 もはや誰の身体も借りていないはずの緋をまっすぐに見つめ、雷韻が命ずる。 何事かとざわめく人々の隙間を縫うように、合うはずもない視線が噛み合って、緋は大きく目を瞠った。 確かに、今、雷韻は彼を見ていた。 これ以上の喜びが、今の緋にあっただろうか。 「そなた以外に、我が背を任せられる将などおらぬ。――よいな」 唇に浮かぶのは、磊落な――緋の心を捉えて放さぬ笑み。 緋は恭しく拱手し、頭を垂れた。 「仰せのままに、我が君」 深い信頼、親愛とともに告げたところで、視界がまたぶれる。 ふっと鼻腔をくすぐった香りは、どこか覚えのある――何故かそのとき、緋の脳裏を極東の光景がよぎった――懐かしいものだった。 今のは、そう思う暇もないまま、 「――……そなたが戻るのを、いつまでも待っている」 その言葉を最後に意識は途切れ、気づけば青い竜の背に立ち尽くしていた。 「俺は、いったい」 太陽の位置や風のにおいからいっても、それほど時間は経っていない。 (さて……夢やら幻やら、私には判らぬが。ぬしに愛と恩義を感じている何者かが、ぬしを導いてくれたのやもしれぬ) 「それは、……?」 (何、独り言だ、気にするな。さて、では友よ、もうひと飛びするとしようか) 「……そうだな」 愉快そうな青竜の鬣を掴み、緋は陽気に笑った。 (ずいぶん嬉しそうではないか、友よ) 「そうか? ――何、佳き邂逅を得ただけだ」 痛いほどに理解した。 自分が切望するのと同じくらいに、彼もまた己の帰りを待っているのだと。 「必ず……還る。必ず」 ぐんぐん上昇してゆく竜の背で、緋は独白する。 掴めそうなほど近づいた太陽に、今は遠い君主の笑みが重なった。
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