その日のコロッセオは、円形の石舞台へと姿を変えていた。 直径五十メートルばかりある、つなぎめの一切ないそこの真ん中には、ふたりの武人が佇んで向かい合っている。 「久々に見る光景だな」 奉神闘儀、そう呼ばれる奉納の戦いがインヤンガイにある。 以前、ふたりが、とある依頼で参加し、もろもろあって勝者を決定づけられなかったマツリだ。その舞台が、今回のコロッセオでは再現されているのだった。無論、対峙するふたりの要望によるものである。 「舞台としては、これ以上のものもあるまい」 目を細める飛天 鴉羽へ返し、阮 緋は猛々しい笑みを浮かべた。 「女だとて手は抜かぬ。白虎の名に恥じぬ戦いを見せようぞ」 湧き立つような闘志を滲ませつつ緋が言えば、鴉羽は親しいものにしか気づかれぬ程度の淡さで微苦笑する。 「かたや真っ向からの戦いを得意とし身上とする生粋の武人、かたや潜入と死角からの一撃を得意とする暗殺者……まともに闘って勝ち目はなし、か。やれやれ……なぜ好敵手と思われたのやら」 言いつつ、鴉羽もまた戦意を隠そうとはしていない。お互い、やるからには勝つ、その気概でいるのみだ。 「能力制限はなし。特別な決まりごともない。気を失うか、石舞台から落ちて十秒経過、もしくは降参で敗北、だ。何か質問はあるか?」 「いや。あの時とは少々状況が違うようだが……まァ、問題ない。むしろ飛行が解禁なら喜ぶべきところだろうな」 鴉羽が返すと、緋は実に楽しげに笑った。 「『龍』との再戦、心待ちにしたぞ……全身全霊にてお相手仕る!」 緋が曲刀を抜き放つと同時にはじまりの合図。 鴉羽もまた拝借した剣を引き抜き、身構えた。緋のギアによる特殊攻撃を警戒して、剣の柄は絶縁体で出来ている。 「珂沙の白虎、阮亮道……推して参る!」 高らかな名乗りとともに緋が踏み込む。 鴉羽はそれを、冷静な眼差しで見つめた。 * * * トラベルギア『封天』が高らかに鳴り響く。 いくつもの鈴をあしらった銀の輪飾り、右足と左手首を彩るそれが打ち鳴らされると、虎の姿をした雷と、馬の姿をした風が忽然と現れ、石舞台上を駆け巡った。 「……豪儀なことだ」 鴉羽の姿はすでに盤上にはない。 彼女は戦いが始まるや否や空へ飛び上がり、直線曲線を組み合わせた飛行でフェイントをかけながら緋へと接近を試みていたのだ。緋の雷虎と風馬は、空舞うすべを持たぬ彼の、龍人への対抗策とも言えた。 牙を剥いた虎が、高らかにいなないた馬が、空中の鴉羽めがけて襲いかかる。鴉羽は優美なまでの流線型の動きで滑らかにその攻撃を避けた。 噛み合わされる牙と衝撃波さえ伴った突進を、空中で回転し、わざとわずかに落下してかわし、間髪入れず横に飛ぶことで距離を取ると、そのまま再度くるりと回転して盤上の緋へ狙いを定め、勢いをつけて降下する。手の中で剣が凶悪に輝く。 斬撃ではなく、突き立てるための剣だ。 この勢いで貫かれれば、骨の髄まで届くだろう。 「なるほど、そう来るか」 速度による重さの乗った、空からの一撃を、横に構えた曲刀で受け、刃をわずかに傾けることで滑らせながら勢いを殺す。ぎぢぢっ、と耳障りな音を立てて剣が啼き、一点にかかった負荷の大きさを教える。 緋が鴉羽の剣を弾くと、この状態での接近戦は不利と理解している鴉羽も、緋の力に逆らわず我が身を載せて軽やかに後方へと回転し、距離を取った。着地と同時に身を石床につきそうなほど低くし、間髪入れず緋が放っていた雷虎と風馬をやりすごす。 二頭が頭上を行き過ぎて、さっと空に溶けて消えるとともに床を蹴り、二度三度と進行方向を変えて攪乱、緋の懐への侵入を狙う。 「なるほど、暗殺者とはかくも巧みなわざを使うものか!」 実に愉快そうに、磊落に笑って、緋は演舞の流麗さで足踏みをする。ゆったりとした、遅いとすら言える動きの中、脚の位置が変わり、体勢が変わって、飛び込みざま揮われた鴉羽の剣は空を斬った。 それと同時に、今度は神速の踏み込みで距離を詰める。一瞬で間合いを縮められ、鴉羽は呆れたように嘆息した。 「遅いのか速いのか判らぬな、お前は」 「はは、そのどちらも俺だ」 横薙ぎに揮われる曲刀を、咄嗟に切っ先を下げた剣で受ける。その速さと重さは、これでひと撫でされたら首などひとたまりもあるまい、と思わせる恐ろしさだ。 力比べでは不利と理解して、素早く力を殺し弾いて剣の届かない位置へ跳んだが、すぐにギアが打ち鳴らされ、雷と風が襲来する。 「まったく、せわしない」 「せっかちとはよく言われた」 避けきれぬと判断して剣を揮い、雷虎を薙ぎ払いつつ、突っ込んでくる風馬を手刀で貫き、散らす。雷は楽しげにちらちらと瞬いて消え、風は笑うようにたわんで鴉羽の鬣を揺らした。 「彼奴らを散らすか、非常識なことだ!」 「……お前には言われたくないと心底思うんだが」 緋はどこまでも楽しげだ。 幅の広い、重量もありそうな曲刀を軽々と扱い、長身からは想像もつかないような俊敏さで間合いを詰めてくる。身体の大きさゆえの死角は速度でカバーされ、攻め込む隙は面憎いほどの的確さで打ち消される。攻撃の手を緩めないのは奇襲・奇策を封じるためだろう。 パワー型に見えて技巧も充分という緋は、暗殺者としての鴉羽が、本気で命を狙うとして、真正面からのぶつかり合いになった場合、もっとも戦いにくい、戦いたくないタイプだと言えた。 「不利以外の言葉が見つからぬが……まァ、な」 しかし、勝機が見いだせないわけではない。 圧倒的不利な状況から、起死回生の勝利へと持ち込む、そんな戦いならいくつも経験している。そして、そうでなければ、暗殺者として危険な任務に携わるなど出来るはずがない。 「これもまた鍛錬か」 いずれ故郷へ戻る日が来たとき、または別の激しい戦いに身を投じることになったとき、この経験は大いに生きることだろう。生きることが、『何が起きるか判らない』の連続であると覚醒以降何度も経験してきた彼女の、偽りのない実感だ。 ギアが鳴り響くたび、吼え猛り、いなないてあらわれる虎馬を牽制しつつ、鴉羽は静かな眼差しで戦局を見極める。 「……何ごとも、まずは自分を保つしかない」 それはおそらく、緋も同じだ。 豪放な戦いかたをみせつつ、根っこの部分では、的確に、冷静に状況を見つめ、その場その場において最善の判断をしている。それが、生粋の武人というものだ。 戦場においてそれが発揮されるとき、この男の剣はいったいいくつの命を奪うのだろうと、そしてそれは激しくありながら演舞のごとく美しくもあるのだろうと、益体もないことを考えてから、鴉羽は再度身構える。 視線の向こうで、緋は少年のような闊達さで笑っている。 * * * 鴉羽からあふれ出し彼女を覆う、潤沢すぎる魔力の流れを、緋は正確に読み取っている。あれが一点に凝るときを警戒しているのだ。 今のところ鴉羽はずっと剣を使っていて、トラベルギアのグローブによる攻撃すら仕掛けて来ないが、そこに思惑があることも緋は察していた。気を抜けば死ぬ場所で生きてきたのだ、お互い、ひたすら全力でぶつかっているように見えて、どこかで出かたを探り合っている。 「……それにしても」 下段から薙ぐように揮った曲刀を、縦に構えた剣が受け止める。力で押せば、ゆるりと流れるようなやわらかさで剣が傾けられ、ぢぢぢと音を立てながら刃の勢いは殺され、逃がされる。 そのまま踏み込んでギアを鳴らすと、鴉羽は後方へ跳ぶと同時に空へ舞いあがり、虎馬の猛攻を紙一重の巧みさでかわしてくるりと上下を変えた。重力に従って降下し、緋の頭上へ剣を叩きつける――と見せかけて、彼が一撃を受け止めるべく曲刀を掲げる寸前で直角に方向転換、身体をまわして軽やかに着地するや否や、上半身までつきそうなほど身体を低くして石床を蹴り、一気に緋へと肉薄する。 脚を狙った斬撃を、緋は後方へ跳ぶことで避けた。 抑えきれない笑みが、また浮かび上がってくる。 「なんともまァ、世界というのは広いものだ!」 猛者と刃を交えるとき、緋の魂は獰猛な喜悦の声を上げる。 警戒は緩めず、隙は見せず、一歩も譲らずに向き合いながら、緋はやんちゃな少年のようにこの戦いを愉しんでいた。 間髪を入れず踏み込み、一閃二閃と揮われる剣を避け、または曲刀で受け流し弾きつつ鴉羽の出かたを伺う。 彼女の剣には迷いがない。そして鋭い。 それが、彼女の生きかたそのものを物語るようで、興味深くもある。 言葉にして尋ねるつもりは、緋にはまるでないが。 無駄なく揮われる剣を、身体をわずかに左右にそらすことで避け、もしくは曲刀で受け、撃ちあいながら、互いに決定的な隙を探して、じゃれあうように剣戟の音を響かせる。 もしもそこに見物客がいたのなら、ふたりのやりとりを、まるで熱い風がたわむれるようだと称しただろう。 本気の、当たればただではすまないやり取りを繰り広げながら、ふたりは活き活きと楽しげだ。表情の読みにくい鴉羽ですら、充足を感じていることがはっきりと見て取れる。 「……なるほど。自分の力を計り、的確に用いるとは、心地よいものだな」 どこか朴訥につぶやき、鴉羽が仕掛けたのは次の瞬間だった。 膝の柔軟さを活かしてステップを踏むように緋の死角へ回り込み、剣の切っ先を突き入れるが、思惑に気づいた緋が軽やかに身をひねり、刃を弾くほうがはやかった。 ヂィン、と甲高い音がして、勢いが強かったのか鴉羽の手から剣が飛ぶ。 得物を失っても顔色ひとつ変えず、無言のまま後方へ跳び、剣へと手を伸ばす鴉羽へ緋は追い縋った。 ――が、それこそ、彼女の狙いだったのだ。 剣を拾い上げると見えた鴉羽の手が地面へつき、両手を軸に身体を回転させる。ぐるりとまわりざま、鴉羽のつま先が剣を蹴り飛ばした。それは勢いよく飛び、狙いあやまたず緋へと向かう。 「……ほほう」 緋はある種の感嘆とともに、飛来した剣を曲刀で弾いた。 そこに生じる一瞬の隙、そして体勢の乱れ。 鴉羽がそれを見逃すはずはなく、 「飛天鴉羽、押し通る。……と、言えばよいのか?」 いつの間にかトラベルギアのグローブを装着し、魔力をみなぎらせた彼女が、水の流麗さ風の俊敏さで、一足飛びに緋の間合いへと忍び入る。 わざと甘い箇所を狙い、緋に剣を受けさせたのも飛ばさせたのも、すべてはこのための布石だったのである。 彼女の鋭い爪の先から、高濃度の魔力がしたたらんばかりにあふれるのを緋は『見』た。あれを叩き込まれれば、いかな緋とて無事ではいられない。内部破壊技『破内爪』……追い詰められた鴉羽が編み出したというそれこそ、緋がもっとも警戒していた、彼女の『切り札』だ。 ひゅっ、という低い呼気とともに腕が揮われる。爪が、あふれだすエネルギーでたわんですら見える。 ナイフよりも恐ろしい鴉羽の爪が、激烈な決定打を緋に叩き込もうとする。 ――しかし。 「見事な仕込みと言わざるを得ん……が」 緋には、そこまですべて、予測の範囲内だったのだ。『破内爪』を最初から、徹頭徹尾警戒していた彼にとっては。 ゆえに緋は、あえて懐へ踏み込み、曲刀を手首の力だけで薙ぐ。腕を使っての斬撃ほどの速さも威力もなかったが、『流れ』の遮断を狙ってのそれは功を奏したようだった。 「む」 我が身を護って後方へ退かれるより、危険を承知で懐へ飛び込んで来られるほうが実はやりにくい。それはお互いさまだ。 距離感がずれたうえ、曲刀を避けながら無理な体勢で揮われた手は――爪は、緋の腕をかすめるにとどまった。それでもそのエネルギーたるやすさまじく、彼の腕は武装の服地ごと抉られ、大きく弾けて血を噴き出したほどだ。 しかし緋は痛みに頓着するたちではない。それよりも、拳を揮った――揮いきった鴉羽の身体が、一瞬ではあれ無防備になったことのほうが大きい。 しゃりぃいん、と封天が鳴り響く。 あふれ出るように現れた雷虎と風馬が、今度こそ回避も出来ぬ至近距離から鴉羽を襲い、吹き飛ばす。漆黒のしなやかな身体が、石床へと叩きつけられ、転がる。緋はそれを追って地面を蹴った。 「ッ!」 衝撃に息を呑み、しかし闘志は折れさせぬまま跳ね起きようとする鴉羽に、曲刀の切っ先が突きつけられる。ぴたり、と彼女の動きが止まった。 ややあって、 「……降参だ。虎との闘い、堪能した」 息を吐き、身体から力を抜いて、鴉羽が宣言する。 リュカオスが緋の勝利を告げた。 緋は得物を腰に戻し、舞台へ転がったままの鴉羽へと片手を差し出した。 「また、手合せ願えるか?」 勝っても負けても禍根を残すつもりのなかった緋がからりと笑い、言えば、上体を起こした鴉羽は軽く肩をすくめて彼の手を取る。 「次は、勝つ」 「……俺とて、負けぬ」 笑って握った手は、しなやかで力強かった。 勢いをつけて引き上げると、鴉羽は吹き飛ばされたダメージなど微塵も感じさせぬ様子で立った。 「では、いずれまた」 「うむ、そのときを楽しみにしておくとしよう。それまでに、さらなる精進をしておかねばなるまい」 「まったくだ、俺とて後れを取るわけには行かぬ。一度勝ったからには、勝ち続けねばな?」 「次にその台詞を口にするのは私だがな」 淡々と、飄々と軽口を交わし、共感と感謝をこめて拳を打ち合わせたのち、ふたりはコロッセオをあとにする。 ――残滓のような熱い風が吹くと、石舞台はいつもの闘技場へと変わっていた。
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