温かな風が肌を撫で、通り過ぎて行く。 ジャンクヘヴンは人が行き交い、賑わいを見せていた。あちこちから、物売りの呼び声が聞こえる。 少し暑いともいえる日だったが、それがまた、別の世界へ来たという実感を強め、かえって心地良い。 「カナンさん! 気をつけて」 後ろから声をかけられ、カナンは立ち止まると、振り返った。 コレット・ネロとロディ・オブライエンの姿は、思っていたよりも、ずっと後ろにあった。嬉しい気持ちで胸が一杯になり、つい早足になってしまったようだ。 目が合うと、コレットはにっこりと微笑み、小さく手を振る。カナンもつられて手を持ち上げ、少しだけ指先を動かしたが、何だか気恥ずかしくなってしまい、急いで下におろした。 そのまま二人がやって来るのを待っても、どうしても待ちきれないように片足が先に動いてしまう。 すると、突然腕を掴まれ、体が大きく後ろへと傾いた。 その目の前を、慌てた様子の男が、走り抜ける。カナンも周囲の通行人も、ぼんやりとその様子を見送った。 両肩に、大きな手の温もりを感じる。 そういえば父の手も、こんな感触だった。 ◇ 波が弾け、風を切る音が耳元で鳴る。 ジャンクヘヴンの喧騒も、その姿とともに、あっという間に小さくなって行った。 記憶に残る穏やかで、鏡のように光る美しい泉と比べ、うねりうねる海は、荒々しい力強さも秘めている。 ロディが舵を取る小船は、その波の上を滑るように進んだ。 「カナンさん、お茶飲む?」 「うん」 喉が渇いたなと思っていたら、コレットがお茶を出してくれた。そんなに自分はわかりやすいのか、それとも彼女の気遣いが細やかなのかと考えてみるが、たぶん後者だろう。彼女は誰に対してもそうだ。 その優しさに感謝しながら、カナンはお茶を一口飲む。 ひんやりとした良い香りのする液体が、暑さで乾燥した喉を潤した。 海鳥が鳴く声に、ふと前方に目をやると、陽光に、白い岸壁と青々とした木々の葉が照らされ、輝いている。その奥のほうに、砂浜らしきものも見えた。 「もう着くぞ」 ロディはそう言って、肩越しにカナンとコレットを見る。 まるでそこが、三人のために用意された特別な場所のようで、カナンの胸は高鳴った。 ◇ 「はい、どうぞ」 「美味しそう!」 砂浜の上にシートを広げ、コレットが手作りの弁当を並べていくと、カナンは嬉しそうな声を上げ、目を輝かせる。 サンドウィッチやベーグルの他、ハムのマリネやチキンナゲットにポテト、色とりどりのフルーツやサラダ。 「ああ、美味しそうだな」 そう言って微笑むロディに、コレットは水筒から黒いカップに注いだお茶を渡す。 「ロディさん、お疲れ様でした」 「うん、パパありがとう!」 二人から労いの言葉をかけられ、彼は頷いてからカップに口をつけた。 「あっ」 「どうかしたか?」 そこで唐突に指を差され、ロディは目を瞬かせてカナンを見る。 「おそろいじゃない? カップ」 そう言って、カナンは今度はコレットを見た。彼女は、微笑んで頷く。 「そう、お揃いにしてみたの。ゴミが出るようだと困るし、じゃあせっかくならって」 彼女は、淡いピンクのカップをバッグから出して見せた。もうひとつ、先ほど小船の上で使った水色のカップを取り出すと、お茶を注ぎ、カナンへと手渡す。 「パパのカップ、お酒入れても良さそうじゃない?」 「うん、そう思ってあの色にしたの」 ロディは飲酒量が多く、いつもスキットルを持ち歩いているほどだ。楽しそうに言う二人を見て、彼は苦笑する。 「さぁ、食べましょうか」 コレットは自分のカップにもお茶を注ぐと、そう言って座り直した。 「いただきます!」 カナンの言葉に続き、コレットとロディも食事前の挨拶をすると、各自好きなものを取り始める。コレットはサラダを皿に取り分け、二人へと渡した。 「美味しい!」 「美味しいな」 カナンとロディが同時に声をあげ、目を合わせる。コレットは「良かった」と言って嬉しそうに笑ってから、サンドウィッチを一口食べた。 ◇ ぱしゃっ、と水を切る音がし、カナンがそちらを向くと、ロディがちょうど魚を釣り上げている瞬間だった。 陽光に晒された銀の鱗が、きらりと一瞬まぶしく光る。 ロディは慣れた手つきで針を外し、海水を入れた袋へと魚を移した。カナンはそれを見て羨ましくなり、自分も絶対に釣ってみせると意気込みを新たにすると、釣竿を握り直し、海面へと再び視線を落とす。 するとしばらくの後、また水音がし、はっとして目を向けると、またロディが魚を釣り上げたところだった。今度は赤みがかった魚だ。 魚を針から外したロディが、視線に気づいたかのようにこちらを向いたので、カナンは慌てて視線を逸らすと、ゆらゆらと動く波を睨む。 ロディが魚を沢山釣れば、それは自分達の食事になるわけだし、パパと慕う人が、カッコよく魚を釣るのは、嬉しくはある。 けれども、少し悔しくもあった。 「ほら、釣りって根気が勝負とか言うじゃない? のんびりしてれば、きっと釣れるわ」 少し意気込みすぎて硬くなっているカナンを見て、コレットが穏やかに話しかける。 「いや、海釣りだと必ずしもそうではない。居ない所には居ないからな。移動してみたらどうだ?」 ロディがいつの間にかそばに来て、そうアドバイスする。カナンとコレットは顔を見合わせると、きょろきょろと辺りを見回した。 「あそこにしようよ!」 「あっちね。行ってみましょう」 そうして荷物を抱え、別の岩場へと移動する。 袋を置いたり、シートを敷いたりして居場所を整えると、腰を下ろし、糸を海の中へと垂らした。 待つこと少し。 小気味良い水の音とともに、恰幅の良い魚を釣り上げたのは、またもロディだった。 二人の不満気な視線に晒され、彼は一瞬言葉に詰まるが、またいつものように落ち着いた口調で、諭すように言う。 「餌の深さを変えてみろ。魚によって居る場所が違う」 それを聞き、また二人で顔を見合わせると、言われた通りに竿を動かしてみた。 日は徐々に傾き、三人の影を少し長くする。 「あっ」 少し気持ちが焦れ始めたころ、コレットが小さく声を上げた。釣竿の先がしなり、確かな手ごたえを感じるが、いざとなると戸惑い、慌ててしまう。 「ママ、引っぱらなきゃ!」 「そ、そうね」 「おい、おまえも引いてるぞ」 コレットを手伝おうとしたカナンに、ロディが横から声をかけた。 「あっ、ほんとだ!」 慌てている二人を見ていられなくなり、ロディは釣竿を置くと、手伝いへとやって来る。 「僕は大丈夫だから、ママを手伝ってあげて!」 カナンはそう言うと、力を込め、竿を持ち上げる。 思ったよりも引きが強かったが、自分ひとりでやり遂げてみたかった。 しばらくの格闘の後、ふっと力が緩む瞬間が訪れる。 「えいっ!」 気合とともに、竿が持ち上がる。 まばゆい光を背に負った銀の魚が、細い糸に引かれ、するりと空を上った。 ◇ 「大漁ね」 コレットはそう呟くと、釣った魚たちを見る。 彼女とカナンは結局一匹ずつしか釣れなかったが、ロディが五匹も釣っているので、十分な量だ。 「でもカナンさんが釣ったのが、一番大きいわね」 そのことは、彼にとってとても嬉しかったようで、繰り返しそのことを話していたし、ロディも「筋がいい」と褒めていた。 自分も繰り返し釣りをしていれば、ロディのように釣れるようになるだろうかと考えてみるが、魚を釣りまくる自分の姿というのが、どうも上手くイメージできなかった。 料理をしている自分の姿や、完成した料理の様子は鮮明にイメージできるから、結局、向き不向きもあるのだろう。 三人で寛いだ時間を過ごせるようにと、キャンプ用のテーブルセットを持ってきたので、浜辺から少し離れた草地まで運び、セッティングした。ここなら見晴らしも良く、海を眺めることも出来る。 後ほどここで夕食をとろうということになり、料理をするための台や道具なども用意してある。 空は澄み切っていて、雨が降りそうな気配もなかった。 「よし」 作りたい料理をイメージ出来たところで、彼女は調理に取り掛かる。 「あれ? 上手く行かないや」 一方、カナンとロディは、砂浜で砂の城作りを始めていた。 しかし、カナンが積み上げた砂はどろどろと溶けて崩れてしまう。ロディはそれを見て、カナンを手招きした。 「水の量が多すぎるな。こうやって」 ロディはそう言いながら、集めた砂に、バケツで水をかけて行く。 「少しずつ水を加えていくんだ」 そして、片手で混ぜてから、さらに両手で捏ねるように混ぜた。 「あっ、固まってきた!」 すると、さらさらだった砂は、適度な粘りを持った硬さになる。 同じ砂を使っているのに、ロディの大きな手が触れると、まるで魔法のように変わっていくのが不思議だった。 「僕もやりたい!」 そう言ってカナンも再び挑戦してみるが、砂はぼてっとした塊になってしまった。 「バケツを一気に傾けすぎなんじゃないか?」 「うん」 表情には出さなかったものの、どこか面白くなさそうに砂を弄るカナンを見て、ロディは静かに言った。 「では、こうしよう。俺は砂を作る担当で、おまえは城作り担当だ」 そうして、カナンのそばに置いてあったバケツを持ち上げると、砂を捏ね始めた。 「えっ、パパが砂を作るのが好きならしょうがないなぁ……じゃあ、僕はカッコいいお城を作ってあげるね」 「ああ、頼んだぞ」 嬉しそうにしているカナンに、ロディは微笑んで応える。 二人の共同作業は、夕方近くまで続けられた。 「ロディさん、カナンさん、そろそろ夕食ですよー!」 コレットの呼び声に、カナンは大きな手招きで応えた。 「え? 何?」 コレットは少し戸惑いながらも、近寄ってくる。 そして二人の近くまで来ると、視線を砂浜に落とした。 「すごい! 素敵ね」 コレットが思わず声を上げると、カナンは得意げに胸を張る。 そこには荒削りではあるが、絵本に出てくるような城が作り上げられていた。そびえ立つ塔や、小さな窓なども、きちんと作られている。 「僕とパパで作ったんだよ! ……結構、パパに手伝ってもらったけど」 「いや、俺は仕上げを少ししただけだ」 そう言い合う二人を見て、コレットはくすりと笑うと、もう一度砂の城に目をやった。 「でも、結局二人で一緒に作ったんでしょう? それならどっちがどのくらい作ったかなんて、関係ないと思うわ」 コレットの言葉に、ロディは口元を綻ばせると、カナンに向かって言った。 「ああ、コレットの言う通りだな。……では、夕食に行くか」 「うん!」 コレットも二人の後についていきながら、ふと後ろを振り返る。 夕日に照らされた城は、オレンジ色の輝きを放っていた。 ◇ 魚とトマトとバジルのパスタ、魚ときのこのグラタン、魚自身の味を生かした塩焼き、海辺で取れた海藻とナッツのサラダに、ミネストローネ。 花柄のクロスをかけたテーブルに、次々と料理が並べられる。 ロディの前に置かれた黒いカップにはワインが注がれ、残りのカップはフルーツジュースで満たされた。 コレットも腰を下ろすと、二人を見て言う。 「じゃあ、温かいうちに食べましょう」 「うん、おなかすいた! ね、パパ」 カナンがそう言うと、ロディも頷く。そして、カップを静かに掲げた。 「三人で過ごす時間に祝福を。――乾杯」 「乾杯」 「乾杯!」 磁器の触れ合う軽やかな音が、少し遠ざかって聞こえる波の音に溶ける。 「いただきます!」 カナンはジュースを少し飲むと、コレットが小皿に分けてくれたグラタンをスプーンですくって一口食べる。 熱さに少し口をはふはふとさせながら、ゆっくりと噛むと、ホワイトソースの甘みと、具材の旨みがじわりと口の中に広がった。 「美味しい! ママって料理の天才だね!」 カナンが素直に賞賛すると、コレットは曖昧な笑みを浮かべる。 「ありがとう。……でも私、最初からそんなに出来たわけじゃないわ。どうしたら美味しくなるだろうって悩みながら、毎日やってたら、いつの間にか慣れてて、レパートリーも増えてたの」 「それは才能と言うな。パスタもいい味だ」 「そうだよ! すごく美味しいもん!」 ロディもそう言うと、カナンがさらに畳み掛けるように言葉を重ねた。 コレットは少し恥ずかしげに目を伏せると、ミネストローネをスプーンでかき混ぜる。 「ありがとう。少し自信になった」 そうしてスープを口に運ぶと、にっこりと微笑む。 「うん、今日のは上出来かも」 彼女の言葉に、二人とも思わず笑みをこぼす。 ずっとこんな日が続いたらいい。 カナンは、そう思った。 優しいママがいて、頼れるパパがいて、あたたかい会話があって、美味しい料理があって。 三人のための楽しい場所。一緒に過ごす大切な時間。 どこからか、虫や、鳥達の声が聞こえる。 周囲から、さざめく波の音が、呼吸のように絶え間なく、この特別な場所を包み込む。 それらはまるで、三人を祝福する音楽のようだった。 その音楽に包まれて、楽しい夕食の時間は、夢のようにふわふわと過ぎていく。 「綺麗……」 ふと空を見上げたコレットが呟く。 つられて顔を上げると、そこには一面を覆いつくす星々。 その光の粒は、お互い何かを伝え合っているかのように時折、ゆっくりと瞬く。 街の明かりに暴かれることのない彼らの姿は、より一層輝きを増し、まるですぐそこの天井に飾り付けてあるかのように、手を伸ばせば届きそうだった。 「あっ」 同じことを思ったのかもしれない。空に目を奪われたまま立ち上がったコレットが、不意にバランスを崩した。 危ない――! カナンがそう思った時には、彼女の体はふわりと優しく、ロディの腕の中に収まっていた。 そのまま、静かに時が止まる。 それが、とても嬉しくて。――でも、羨ましくて。 「パパとママだけずるい!」 気がつけば、カナンもそこに飛び込んでいた。 その夜は、そのまま三人で寄り添い、星空を見ながら眠りについた。 暖かなブルーインブルーの気候は、それを許してくれる。 最高の、夜だった。 ◇ 翌日、名残惜しさも胸に抱きながら、三人が島を離れようとした時のことだった。 「あっ……!」 カナンは思わず小さく声を上げ、砂浜の方へと急いで向かう。 昨日作った砂の城は、消えていた。 近づいて見てみると、そこに城があったことを思わせる砂の盛り上がりが、少しだけ残っている。 その上を、無情な波が薙ぎ払うように滑り、また引いていく。 あんなに誇らしげに建っていた城は、もうしばらくしたら、痕跡すら残さずに消えてしまう。 せっかくロディと一緒に作った城がなくなってしまうことが残念で、ぼんやりと立っていると、後ろから肩をぽん、と叩かれた。 振り向くと、ロディのアメジストのような瞳が、優しくこちらを見ている。 「また来て作ればいいさ」 そう言って、今度は優しく頭を撫で、ロディは船の方へと向かう。 カナンの胸に、じわりと温かなものが広がり、さっきまでの気持ちは、あっという間にどこかへ行ってしまった。 そうだ。 カナンはもう一度、砂浜の方を見る。 またいつだって来ることが出来る。 三人で、この喜びに満ちた素敵な島に。
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