「ヒトウ」 きらきら光る黒い眼を瞬かせて、獣人の司書は首を傾げた。普段は自前の赤茶の毛皮だけで館内をうろついているのに、今日は何故か紺色の法被を羽織っている。「ヒトウの案内。これ着てやれと。エミリエに着せられた」 変? と引きずりがちな法被の裾を黒い爪と肉球の手で摘んで、司書はますます首を傾げる。「ヒトウ。秘湯」 法被の裾を離し、旅人たちを見仰ぐ。脇に挟んでいた資料を両手で広げて持つ。細かい文字の並ぶ資料の中、古風な日本家屋の写真と、小さな子供の画が眼を惹いた。「向かって欲しいのは、壱番世界。日本。日本の、とてもとても山奥。古い一軒宿。温泉付き。周りは山。山ばかり」 ヒトウ、と呪文のように繰り返す。「そこに、この子が居る。ロストナンバーとなった子」 丈夫そうな黒い爪で、ざっと描かれただけの子供の絵を指し示す。「狐の子」 肩までの黒髪に丸い黒眼、纏う衣は壱番世界の着物に似ているだろうか。けれど、一番目立つのは、「大きな三角耳。絵にはないけれど、ふさふさ尻尾。わたしよりもふさふさ」 法被に隠れた尻尾をぱたり、動かしてみせる。「古いけれど、大きな御宿。その御宿のどこかに居るはず、だけど」 首を傾げたまま、難しげに眉間に縦皺を寄せる。「どこに居るかが分からない。探し出して、保護して欲しいのです」 渡された資料には、司書が書いたのか、不器用そうな文字で子供の名と年齢、判明している特殊能力が書き込まれている。「名は鈴音。年は七。少なくとも外見は七つの子供。近くに居る人間の記憶を読んで、その記憶を幻にして再現する不思議な力を持っている。幻術の力。人を惑わせる幻も色々見せる」 宿の人間が何人か、被害に遭っている様子、と短く息を吐く。「詳しくは御宿の人に訊いてみてください。御宿の手配は、済み。泊まれば、宿内、捜しやすいはず」 チケットを四枚差し出し、ぺこりとひとつ、三角耳の頭を下げる。「宿泊者四名、一泊二食付き。ご案内、させてください」 何百年と磨き込まれて黒く光る樹の廊下を、旅人たちの荷物を両手に持ち、先に立って歩いていくのは、和装の仲居。結い上げ纏めた白髪交じりの黒髪を揺らし、「なあんにも、ないところでしょう」 のんびりと旅人たちを振り返る。人の良さそうな眼が嬉しげに細められている。旅人の外套の効果か、仲居には旅人たちの姿はどこか遠くの外国からの観光客に見えているのかもしれない。「でも、温泉だけはいいんですよ」 鎌倉の頃からの御宿でしてね、と続ける。「座敷童子が出るって噂もあったくらいで」 くすくすと笑う仲居の脇を、沈丁花の香りを帯びた温かな風が擦り抜ける。廊下を抜けた先には、真っ直ぐに伸びる縁側があった。何十枚もの障子で隔たれた大部屋は宴会のための大広間だと言う。 障子の向かいの硝子戸は大きく開け放たれ、中庭からの春風がふわりと流れ込む。ささやかに開き華やかに香る水仙や沈丁花、艶やかに咲き誇る椿、白く煙る雪柳の群生、大きく広がる枝に真白の鳥が集ったような白木蓮。春の盛り、中庭は花で溢れている。 その花に囲まれるようにして、ごつごつと節くれた黒い幹を地面に這うように蹲らせた古い梅の樹。散り終えた後も見えない梅の傍らには、苔生した井戸がある。「あの梅ですか?」 旅人たちの視線の先を追い、仲居がふと顔を曇らせる。「今年は咲きませんでしたねえ。明治の頃から植わっていた梅の古木なんですが……え? 井戸?」 井戸ですか、と僅かに口ごもった後、「他のお客さんには内緒にしてくださいね」 仲居は声を潜めた。「近付けないんです」 言葉を探すように、ゆっくりと喋る。「落ち武者を閉じ込めてた座敷牢があるって伝説の残る、空井戸なんですけどね。ええ、底まで行くと横穴があって。座敷牢に通じているそうですよ。あの井戸に近付くと、何だか妙に悲しい切ない思い出ばかりを思い出して。……思い出すどころか、……いえ」 先を話すことを憚るように、一度口を閉ざし、首を横に振る。「でもね、うちの若い子が勇気出して井戸を覗き込んでみたらしいんですよ」 こうやって、と荷物を両腕に持ったまま、井戸を覗き込む仕種をしてみせる。「水が満ちてたって。水の真ん中にぽっかりお月さまが浮かんで揺れてたって。月のない夜だったそうですが。不思議な話もあるもんですよねえ」 外国の方はこんなお話、信じないでしょうかねえ、と顔中を皺にして笑う。「さ、お部屋に案内させて頂きますね。部屋からは裏山の千本桜が見えて綺麗ですよ。温泉は二十四時間入れます。お食事は大広間かお部屋、どちらでもお選び頂けますよ」 宿に起こる怪異を笑い飛ばして、仲居は旅人たちを部屋へと案内する。
「井戸に近づけた子ですか?」 クアール・ディクローズと佐藤壱、二人分のお茶を淹れながら、仲居は白髪交じりの頭を微かに傾げた。 「あそこに近付くと私なんかは悲しくなっちゃって、すぐに離れてしまうんですけど、……その子は、悲しい気持ちを押さえ込んだとか言ってましたねえ」 ぐぅっとね、と着物の胸に自身の掌を押し付ける。卓の上に二人分の湯のみを置き、お茶請けの温泉饅頭を並べる。 「頂きます」 壱が黒い眼を輝かせ、卓の前に正座する。猫眼気味な少し幼い顔を笑みで満たし、幸せそうに温泉饅頭へ手を伸ばした。 「座敷童子のお話も、聞かせて頂けますか?」 窓辺の藤椅子に腰掛けたクアールが仲居に問いかける。開いた窓から流れ込む柔らかな春風に黒髪を撫でられ、伊達眼鏡の奥の茶色い瞳が、ほんの僅か、和む。 藤椅子の傍の文机にノートを広げ、筆を走らせるクアールを見て、新鋭の文筆家と見たのか、熱心な学生と見たのか。仲居はにこりと頷いた。 「見たって記録は創業当時からありますし、今も、お客さんから話を時々聞きますね。おかっぱの」 言いながら、柔らかそうな顎の辺りに指先で触れる。 「これくらいの長さの髪だそうです。黒い髪。着物の上に桜色の半纏を羽織った、可愛らしい女の子の姿をしているそうですよ」 会うことが出来れば、幸せになれると言われています、と眼を細め、顔中を皺にして笑う。 「井戸の周りのおかしなことも、座敷童子の悪戯なのかもしれませんね」 宿に起こる怪異を笑い飛ばせるのは、座敷童子の存在あってのことなのだろう。宿の人間は座敷童子を優しい神のように思っているのかもしれない。 (私も) ノートに文字を綴りながら、クアールは感情を奥深く沈めた茶色の眼を僅かに伏せる。 (真理に覚醒して壱番世界に飛ばされた時は、魔術を行使していた) 必死に自分の身を守ろうとしていた、あの頃の自分と、狐の子と。この境遇は同じ。 (鈴音くんも恐らく、昔の私と同じ……) 司書の元で見た、幼い子供の姿が思い浮かぶ。 (いや、それ以上に悲しい思いをしているはず) 「お食事は、このお部屋でお連れの方々と、ということで宜しいですか?」 「はい、宜しくお願いします」 仲居はクアールが頷くのを確かめ、茶器を卓の端に片付けると、部屋から出て行った。襖が閉ざされ、廊下に続く引き戸がカラリと閉められる。 壱が両手を天井の梁に向け、伸びをする。座布団で正座していた足を畳に投げ出す。 窓から差し込む陽光に温められた畳が暖かくて、壱は猫のように眼を細めた。床の間に飾られた水仙の白い花を見遣り、磨きこまれた柱を見、 「鈴音ちゃん、を探すのが第一だけど、折角来たんだから楽しめるものは楽しまないと」 立ち上がる。部屋の隅の衣装箱の中に畳んで置かれていた浴衣を取る。 「人目もあるから昼間は井戸には近付けなさそうですし」 温泉でもどうですか、とクアールに人懐っこく笑いかけた。 「そうですね」 クアールはノートを閉じ、座椅子から立ち上がる。壱に倣って浴衣を手に、連れ立って部屋を出る。 格子の引き戸を開けたところで、 「壱さん、クアールさん」 隣の部屋から丁度出てきたらしい、コレット・ネロとミトサア・フラーケンとに鉢合わせた。金の髪をふわりと揺らし、コレットが二人の傍に歩み寄る。 「お風呂ですか?」 「うん、露天風呂」 コレットの言葉に壱が頷く。 「見て見て、コレットちゃんに浴衣着せてもらったんだよ」 ミトサアが皆の前で嬉しそうにくるりと回る。浴衣の裾と茶色の短い髪が跳ねる。眼鏡の奥の茶色い眼を子犬のように輝かせ、露天風呂へと軽い足取りで向かうミトサアを追うように、三人も歩き出す。 磨きこまれて黒く光る板敷きの廊下の右手には、中庭に向けて開けられた大きな窓が幾つもある。井戸のある中庭は広く華やかだったが、此方の庭はささやかに優しい。庭を通り、花の香りを帯びた春風が穏かに廊下に流れ込む。 コレットの髪の色と同じ、明るい金色の菜の花が青空の下、群生している。その隣には、最近植えられたらしい桜の若木が、ほのぼのと薄紅の花弁を咲かせている。椿の古木が翠葉付けた枝を空へと伸ばしながら、鮮やかな紅の花を開かせる。 「きれいなお花……桜も素敵だわ」 中庭に咲く様々な春の花に眼を奪われ、花の香に誘われ、コレットの足はついつい遅くなる。 「壱番世界は、もう春なのね」 秘湯っていう場所に来たのははじめてかも、と陽の光に若草色の瞳を眩しげに細める。 「こんな立派な宿、高校生は中々来られるものじゃないし」 言いながら、壱が頷く。 窓から滑り込んできた桜の花弁を拾い、コレットは庭へと顔を向ける。動物さんとかもいるのかしら、と中庭の向こう、宿の瓦屋根も越えて、桜で埋まる裏山へと視線を上げる。春を喜ぶ動物さんたち。 春の景色をしばらく眺めて後、コレットは、でも、と小さく首を傾げた。 「露天風呂、ほかのみんなの背中を洗ってあげた方がいいかなあ」 壱が慌てて首を横に振る。顔が耳まで赤くなる。クアールの表情は動いているようには見えないが、心情は壱と似たようなものなのかもしれない。 「露天風呂、こっちだよー」 早く早く、と廊下の曲がり角でミトサアが浴衣の袖を揺らして手を振っている。小さく手を振り返し、コレットは二人にも手を振る。 「夜まで、宿の中とか、周りとか、いろいろ見て回りたいなあ、って思うの」 ゆっくり温まって来てね、とコレットは春風を浴びて笑う。 桜花浮かぶ露天風呂を楽しみ、古宿の建物やその周囲の庭園を散歩し、宿内の土産物屋をひやかす。 「いいもの見つけたんだよ」 ミトサアが山の湧水と地元の大豆で作った油揚げを見つけ、鈴音ちゃんが好きかも、と眼を輝かせて買い込む。 元は武家屋敷だったらしい宿の由来や、井戸底の座敷牢に閉じ込められた落ち武者と、その武者と恋仲だった姫君の伝説、井戸傍の梅の老樹でよく見かけられたと言う座敷童子の話。宿にまつわる様々な話を仲居から聞き出し、案内の看板から読み取る。陽が暮れれば、二つに分けた部屋の片方で、仲間揃って食事を摂る。 隣に座ったミトサアに、こっそりと川魚の焼き物を懐紙で包もうとしたのを見つけられ、コレットは白い頬を薄紅に染めた。 鈴音さんに食べさせてあげたいの、と小さく言う。 「たぶん、お腹も減ってると思うから」 「そうだよね」 浴衣の袂から、買い込んだ油揚げの包みをちらりと出して見せ、ミトサアはコレットに悪戯っぽく笑いかけた。明るい茶色の眼に、コレットもつられて笑む。 「仲居さんが仰っていた『井戸の不思議な話』は、恐らく鈴音くんの幻術によるものでしょう」 背筋を伸ばした端正な正座と手慣れた箸使いを見せながら、クアールが口を開く。 「やっぱり、怪しいのはそこですよね」 壱が頷きつつ、あまごの甘露煮に眼を細める。山椒の葉が載せられた筍ご飯に手を伸ばす。 井戸の中にあると言う、座敷牢。旅人たちの意見は一致していた。ロストナンバーとなった狐の子は、きっとそこに隠れている。 夕飯を済ませ、廊下の様子を伺いながら、廊下を行き交う仲居や他の宿泊客が絶えるのを待つ。窓の外の夜桜を眺める。月明かりの夜にぼんやりと明るく見える千本桜に声を上げる。声を上げてから、咄嗟に一人ひとりが唇に人差し指を当て、静かに、の仕種をして、思わず笑いあう。コレットの淹れたお茶を啜り、壱が土産屋で買った温泉饅頭を摘まむ。 ――月は、中天。白く冴えた満月が、山を埋める千本桜を照らし出す。 「ボクが先に行くよ」 人の眼に触れることもないほどに素早く移動出来る身体能力を使い、ミトサアが廊下の角ごとに先の様子を探る。人目のないことを確かめ、仲間を招く。 所々に春の花と和紙作りの灯篭が飾られた廊下を、足音を潜めて通り過ぎる。ミトサアの先行もあってか、真夜中の温泉に向かう酔客と鉢合うこともなく、井戸のある中庭に辿り着く。灯篭の温かな光が映りこむ硝子戸をそっと開けば、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。昼よりも鮮烈な花の香りが流れ込む。 音も立てず、ミトサアが風に紛れるように消えた。消えた、と驚いた次の瞬間には、井戸の傍で立ち尽くしている。動かない。動けないのかもしれない。 「ミトサアさん……?」 反射的にコレットが駆け出す。壱とクアールが後を追う。 (そういえば、井戸に近付くと、悲しい思い出を見ることになるんだっけ……) コレットは走る途中で思う。けれど、行かなくては。ミトサアが、 (泣いてる) そうして、旅人達は自らの内の悲しみを見る。 (……オレの、うち?) 壱は眼を瞬かせる。がしゃん、と背後で重たい扉が閉まる音に思わず肩が緊張する。誰の靴もない玄関。灯りもない暗い廊下。誰も迎えてくれることのない玄関の冷たさを、壱は知っている。 「ただいま」 小さく呟いて、部屋に入る。爪先に触れるフローリングの床が冷たい。人の居ないリビングを、窓の外からの夕日が紅く染め上げている。夕暮れは、寂しかった。誰も居ない家は冷え切っていた。家に帰る時間なのに、帰っても誰も居ない。おかえりなさいを言ってくれるお母さんは仕事から帰っていない。おかえりなさいを言いたいお父さんはまだまだ帰って来ない。 テーブルにはいつものメモ。三行きりの言葉だけでは、胸に固まる冷たい寂しさも、冷蔵庫の中の夕飯も、温かくならない。 ランドセルを床に投げ出す。 握り締めて帰って来た学校のお知らせの紙をゴミ箱に捨てる。一人きりのテーブルにお菓子の袋を広げる。甘いお菓子でも、美味しくない。美味しくないけれど、食べる。お菓子の袋もゴミ箱に捨てる。 部屋に溜まる寂しい夕闇を追い出したくて、電気を点ける。リビングも、お風呂もトイレも、玄関も。どれだけ明るくなっても、一人きりの家は冷たい。寒い。辛い。 (そうか、……小学生くらいのときの) 何千回と繰り返して、見慣れている光景。慣れた筈の寂しさの、過去の断片。 (あの頃は今よりも生活の時間が合わなくて、親と顔合わせられなかったもんな) 息を吐き出す。胸に沈んだ寂しさの塊をそっとなだめる。平気になったと思ってたけど、 (慣れただけだったんだな) 瞼を閉ざし、開く。あの頃の寂しさを慰めることは出来ない。でも、現在があれば、過去は思い出。 (今は少なくとも寂しくはないよ) あの頃より、周りに人が増えた。 あの頃より、身体も心も大きくなった。 (だから、大丈夫) 拳が振り下ろされる。爪先で蹴り上げられる。何度も、何度も。折れそうな身体を丸める。床に叩きつけられる身体。撲たれる頬。小さな両手で必死に頭を庇う。背中に圧し掛かられ、ライターの火を背に押し付けられる。肌を焦がす痛みと熱に泣き叫んで、うるさいと髪を掴まれる。 「おとう、さん」 小さな声でどれだけ呼んでも、 「おかあさん……」 両親には届かなかった。 がまんすれば、と思っていた。私ががまんしていい子でいれば、お母さんもお父さんも叩いたり蹴ったり、痛いことをしなくなる。ジッとがまんして、殴られても何を言われても、私ががまんしていれば、いつか、―― どうして、お母さんもお父さんも、私を痛くするの? いいこにしてるのに、どうして? 殴られても蹴られても、火を押し付けられても、ジッとがまんするのに、こんなにいいこにしてるのに、だめなの? 私、まだ、わるいこ? いらないこ? お母さん、お父さん。私、生まれて来なければ良かった……? 身体中に刻み込まれた、火傷の痕や傷痕が、脈打つ。痛む。息が詰まる。涙が滲む。愛されたかった。大好きよと抱きしめて欲しかった。あなたがどんな子でもいいと眼を見て欲しかった。許して欲しかった。頬を撫でて、頭を撫でて欲しかった。 お母さん、お父さん。愛して欲しかったのに。 (でも、……) 自らの腕で、コレットは自分の身体を抱きしめる。 (今は、だいじょうぶ) 今は、兄と呼ぶ家族が出来た。大切な人も、いる。 (だから、前に進んでいける) 言葉が通じなかった。周りの誰にも。クアールがどれだけ話しかけても、不審げに見られ、意味も理解出来ない言葉を返されるばかり。 踏みしめる大地も見上げる空でさえも、自らの知るものとは、生きてきた世界とは違った。帰属世界を失い、ディアスポラ現象により全く見知らぬ世界に放逐されてしまったのだ、と。その時は知る由もなかった。 直前まで、名を呼んでくれていた親友の名を呼ぶ。どれだけ呼んでも、返事はない。見知らぬ人々が怪訝な視線を返す。 彼とはもう二度と会えないのではないか、そう思った途端、心臓を掴まれたかのような悲しさに襲われた。こんな自分の手を取り、立ち上がらせてくれた、大切な大切な、親友。 言葉も通じず、自らの居場所さえ分からず、――ひとりきり。 大事な友も、世界さえも失い、 (どうすればいい) これからどうして生きていけばいい。ここで。名も知らぬこの世界で、全てを失って、どうやって自分を保てばいい? カタカタと、クアールの腰にブックホルダーで吊るした絵本が震えた。それは悲しみの記憶に呑まれて動けなくなるクアールを叱り付けるようでもあり、励ますようでもあり。 「……あ」 光を取り戻したように、クアールは息を吐き出した。 (ウルズ、ラグズ) 腰に吊るした絵本に触れる。 「大丈夫だ」 孤独に沈むクアールを救ったのは、クアールの駆使する召喚術だった。召喚術に必要な絵本を見つけ出し、絵本の住人を呼び出した。話相手を作り、孤独から逃れた。 「ありがとう」 (この子達が居てくれたから、だから、) 肌が熱に巻かれる。仲間と繋いだ指先にも焔が捻じ込まれる。 「離せ……ッ!」 キミまで燃えてしまう、と叫んだ口にも、焔が入り込む。喉を灼く。 仲間だから、と。焔に巻かれながら、仲間が柔らかく微笑んだのを、ミトサアは見た気がした。 「死ぬ時は一緒に」 視界が焔の色に染まる。熱くて眼も開けていられなくて、それでも、仲間から、――身を投げ打つようにして自分を助けに来てくれた大切な仲間から、眼を逸らしたくは、ない。 「ミト、」 仲間の最期の言葉は焔に焼かれた。耳に届くことはなかった。けれど、唇の動きを見た。心に、言葉が届く。 光さえ呑み込む闇の中、焔が噴き上がる。 身体が燃え上がったあの瞬間を、覚えている。 足が止まる。心が凍る。あの時の心の痛みを、身を焦がす業火を、思い出す。忘れる訳がない。あの時、あの覚醒の瞬間、―― 心を締め付ける、あの記憶。 (でも) でもボクは、とミトサアは眼を上げる。 (新しい世界で前に進むよ) あの世界には、仲間が焔に巻かれ、ミトサアが覚醒する原因となった敵がまだ居るはずだけれど、 (判ってる) 他の仲間が残りの敵を倒してくれる。だから、 (だから、ボクも立ち止まらない) ――だから、歩き出せる。 壱が、コレットが、クアールが、ミトサアが、 足を踏み出す。 「……あれ?」 ミトサアは、一筋だけ頬を伝った涙を手の甲で拭う。心配げな眼差しのコレットに照れたような笑みを向ける。 「悲しいけど、大切な記憶だったんだ」 空の真ん中に白く浮かぶ満月を見仰ぎ、眼鏡の奥の茶色い眼から涙を追い出す。 悲しい記憶を乗り越えさせてくれたのは、各々が大切に思う人達との絆。 旅人たちは井戸に近付き、冷たい石の縁に手を突いて、中を覗き込む。空の筈の、暗闇がうずくまっているだけのはずの井戸の中には、中天の満月がゆらゆらと揺れていた。手を伸ばせば届く程に、水が満ちている。 クアールが月光の揺れる水面に手を伸ばす。指先には、何も触れない。 「幻です」 水に濡れてもいない手を仲間に示し、クアールは表情を動かさず、小さく頷く。腰に下げた絵本の表紙に描かれた、犬の獣人型した妖精ウルズを召喚する。 現れたウルズは、大きな懐中電灯を両手で掲げ、井戸の中を照らし出す。光に払われるように、霧が晴れるように、月を写す水の幻が消える。井戸の底までは人の背丈の三倍ほどだろうか。然程深くはない。人が二三人並び立てる幅の余裕もありそうだ。 「ボクが先行するよ」 ミトサアが井戸の縁に足を掛けた。 「一人なら抱いて底まで飛び降りれるかな」 井戸を覗き込んでいた壱とクアールが揃ってコレットを見る。 「あ、じゃあ、私……」 お願いします、と頭を下げるコレットに、ミトサアは手を差し出し、笑いかける。 「任せて」 コレットを両腕で抱き、体重を感じさせない身軽さでミトサアが井戸の底に足をつける。礼を言うコレットを離す。ウルズの懐中電灯の光に照らされたぐるりを二人で見回せば、座敷牢に続くらしい横穴は簡単に見つかった。大人の男でも、腰を少し屈めれば通ることが出来そうだ。 「あったよー」 ミトサアは井戸の底から上を見仰ぐ。懐中電灯の光と共、空に浮かぶ丸い満月が見えた。 続いて、ウルズが身軽く飛び降りる。犬の姿した小柄な妖精は、下で待ち受けていたミトサアの両腕で抱き止められ、楽しげな笑い声を上げた。横穴に三人が移動して後、男二人は積み上げられた石を掴み、降りる。どうにか底まで辿り着き、井戸の底から丸く切り取られた夜空を見上げる。 「こんなところに……」 壱が呟く。世界司書から見せられた資料に描かれていた狐の子の姿を思い出す。小さな子供が、こんな冷たくて暗いところに一人きり。空っぽの部屋で両親の帰りを待っていたあの頃の自分と同じで、 (寂しいよな) 「記憶の再現は、子狐の孤独や不安感が生み出す力かな?」 横穴を埋める暗闇を見据え、ミトサアがどこか痛ましげに口を開く。 「人間を怖がっていたのかなあ」 コレットがそっと息を吐き出す。 見知った者も居らず、言葉も通じず、自らの世界さえ見失って。 「だから、誰も寄せ付けないように、幻を見せていたのかしら」 そうかもしれませんね、とクアールが頷く。狐の子が感じているだろう寂しさや恐怖を、彼はよく知っている。 「行きましょう」 灯りを持つウルズを先に立たせ、旅人たちは足を進める。 「鈴音くん、迎えに来ましたよ」 ひと一人ほどの幅の横穴は、鈴音の名を呼べば、よく響いた。石で囲まれた横穴の所々に、古びた燭台が掛けられている。錆びついた燭台には、溶けて崩れた古い蝋燭の欠片がこびり付いていた。ここ最近に火が灯された気配はない。 狐の子が井戸底に隠れるよりずっと以前から、ここに人が降りることはなかったようだ。 横穴を抜けると、天井が急に高くなった。柱が整然と並び立ち、太い梁が渡され、切り出された石が積まれて壁となっている。暗闇で占められた空間に、木製の格子で仕切られた一角がある。そこにぽつり、蝋燭のような小さな火が揺れている。 「鈴音くん?」 クアールが呼びかけ、ウルズが光に向けて懐中電灯を振り回す。ぴょこぴょこと跳ね、尻尾を振り、両手を振り、愛嬌ある仕種で歓迎の意を身体全部で示す。跳ねる懐中電灯の光と、座敷牢の中で揺れる小さな炎が交差する。 光の隙間に見えたのは、狐の子の姿ではなく、桜色の半纏を羽織った少女の姿。 手を振るウルズの姿に慌てたように立ち上がり、おかっぱの黒髪を揺らして暗闇の濃い方へと走り去る。着物の裾から白い裸足が覗き、暗闇に溶ける。消える。 「今の……」 壱が息を呑む。 「座敷童子、でしょうか」 クアールが無表情に呟く。 蝋燭の炎が揺れ、消えた。懐中電灯の光だけが石床に伸びる。けれど、周囲を暗闇が押し包んだのはほんの一瞬。 ボッ、と横穴の入り口に炎が音立てて灯る。続けて、石壁に備え付けられた燭台に次々と火が点いて行く。朱色格子の座敷牢の傍にも炎が灯る。 橙色の光が揺れる座敷牢の真ん中、古びた畳の上にちょこんと正座して、小さな子供。蝋燭が揺れ、光と影が躍る。子供の頭には、金茶色した大きな三角の耳。正座の足元を覆うように、くるりと丸められたふさふさの尻尾。 「鈴音さん」 コレットが狐の子の名を呼び、朱色格子の前に駆け寄る。掛けられた言葉の意味が聞き取れることと、その言葉が自らの名を呼ばわるものだと言う事に気付いて、狐の子は丸い黒眼を大きく見開いた。 「鈴音ちゃん?」 格子の前に跪き、ミトサアが持って来た油揚げと共に狐の子へと手を伸ばす。 「ボク達はキミの新しい仲間だよ」 油揚げの匂いに釣られてか、仲間という言葉に釣られてか、狐の子は首を傾げた。小さな鼻がひくひくと動く。喉がこくんと上下する。 「おいで」 「そこに一人は寂しくはないの?」 山の中だと、今の時期はまだ冷えるだろうし、と壱も呼びかける。座敷牢の格子の戸は閉まっている。頑丈そうな錠前が掛けられ、鍵がなければ開くことは出来なさそうだ。けれど、それならば、 (どうやって中に入ったんだ?) 同じことを考えたのか、クアールが錠前の傍に立ち、どうにかして開けられないか調べ始める。 「ボクもキミとは違う『ちから』をもってるよ」 ミトサアは狐の子ににこにこと話しかける。 「ボクはキミと、友達になりたいんだ」 「鈴音さん、怖がらないで」 重ねるように、コレットがそっと話しかける。 「私たちは、鈴音さんを仲間がたくさんいる場所に、連れて行きたいの」 ひとりで、寂しかった? と再度問われ、狐の子は首を横に振る。何かを言おうとして眼を伏せる。こちらの世界で、誰にも言葉が通じなかったことが尾を引いているのか。 「あったかいご飯もあるから、こっちに来てくれたら嬉しいな……」 「折角こんなところまで来たんだ。温泉にくらい入っていかない?」 コレットが優しく呼びかける。壱が穏やかに微笑む。おいでおいでとミトサアとウルズが手招きする。 眼を伏せ、正座の膝に小さな拳を作って、狐の子はしばらく迷う。誰かを探すように座敷牢の中を見回す。黒い眼で真っ直ぐに旅人たちを見る。揺れる蝋燭の炎を映した眼に、ひとりひとりを映す。悲しい記憶を見せた自分を、彼らは罰しようとしているのではないのか。 けれど、自分を見詰め返すどの眼も、掛けられる言葉と同じに優しい。 「今、出ます」 狐の子が言うと同時、かたん、と音立てて錠前が外れる。尻尾を揺らして立ち上がる。狐の子の足元には、きらきらと光るおはじきやお手玉が転がっていた。立ち上がった爪先に当たり、しゃらしゃらと音立てて転がるお手玉を見下ろして、ほんの僅か、泣きそうな顔をする。 格子戸の傍に居たクアールが手を伸ばす。伸ばされた手を掴み、狐の子は座敷牢の中から出る。 「……お腹が、空きました」 そうして、泣きそうな笑顔を浮かべた。ミトサアが油揚げを、コレットが懐紙に包んだ川魚を差し出す。 「ありがとうございます」 ゆっくりと、肩から力を抜くように、息を吐き出すように、狐の子は微笑む。 「教えてください。ここがどこか。どうしてこんな、……おれ、どうして急に知らないとこへ来ちゃったんだろ」 油揚げと川魚を口にし、自らの状況を旅人たちから教えてもらい、狐の子は動く力を取り戻した。旅人たちと共に、座敷牢を出る。 「どうしてここに隠れていたの?」 コレットの問いに、狐の子はちょっと困ったように尻尾を振った。 「最初に気付いた時、井戸の上の大きなお屋敷の部屋に居たんですが」 知らない言葉を喋る大人に見つかって、慌てて逃げ出して、逃げ込んだ小さな部屋に、小さな子供が居たのだと言う。桜色の半纏を着た、黒髪の子供。 「その子にここを教えてもらって」 互いに言葉は分からないものの、親切にしてくれた。お菓子をもらい、おはじきやお手玉で遊び、笑みを交わした。井戸の底も座敷牢も、訳の分からない状況も、怖かったけれど、その子が居てくれたから寂しくはなかった。他の人に見つかることを恐れて、幻術を使い、精一杯の罠を張った。 「ごめんなさい」 悲しい思いをさせて、と狐の子は頭を下げた。 井戸の底から上がった旅人たちを待っていたのは、月明かりに照らされる梅の古木。その梅の樹の傍ら、小さな子供がひっそりと立っている。 「あ……」 何か言いかける狐の子と旅人たちを遮り、自らの唇に人差し指を立て、首を横に振る。地を這うように枝を伸ばす梅に小さな手を触れさせる。 旅人たちの見守る中、小さな手に包まれた枝にぽつり、小さな蕾がひとつ生まれ、ゆるゆると開いていく。夜闇に、優しい梅の香が広がる。 それは、老いた梅の樹からの、古い宿に棲まう優しい妖怪からの、心からの手向け。梅の花ひとつ、奇跡のように咲かせ、子供の姿した妖怪は満面に笑みを浮かべた。狐の子を迎えに来た旅人たちに丁寧に頭を下げ、狐の子に向けて手を振る。くるりと踵を返し、桜色の半纏を翻す。 またね、か、さよなら、か。春風に散る梅の香と共、走り去る子供の背中は夜闇に溶けて、消えた。 「ありがとう」 小さな背中に追い縋るように、狐の子は泣き出しそうな声を上げる。震える背中をコレットが撫で、ミトサアが抱きしめる。 「きっとまた、逢えるよ」 「夜が明けたら、裏山の桜も見ましょう」 背中を撫で、頭を撫で、コレットが微笑む。 「きっと、気に入ってくれると思うわ」 「壱番世界も、……この世界も、いい所だろ」 壱番世界の住人である壱に笑いかけられ、狐の子は大きく頷く。 「座敷童子、初めて見たな」 「幸せになれる、と仲居さんが仰ってましたね」 壱の言葉にクアールが応える。無表情な眼鏡の奥の瞳が、微かに微かに、笑んでいるようにも見えるのは、月明かりのせいだろうか。 春風に連れられ舞い降りた桜のひとひらが、ふわり、梅の花の傍らに寄り添う。 終
このライターへメールを送る