ぬちゃ。三日月灰人は一瞬にしてぬるぬるまみれになった。 「おお……神よ。未熟な私めに叱咤の鉄槌を与えたもうたのですか」 祈りの姿勢で跪く灰人の頭には鉄槌ならぬタコが乗っかっている。八本足の、あのタコである。その先には「引っかかったー」と笑う子供たちの姿。灰人が扉を開けた途端、挟まれていたタコが落ちてきたというのが真相だった。 「普通、こういう場合はタコではなく黒板消しなのでは……」 「先生ニブーい。今週だけで三回目だよ」 「はは……次からは気を付けましょうかねえ。じゃあ、授業を始め」 ずるり、がたがた。教壇に立った灰人の姿が一瞬にして消え、子供たちの笑い声が弾けた。 「また引っかかったー!」 教壇の陰に仕掛けられた生イカに足を滑らせた灰人はしたたかに腰を打ちつける羽目になったのだった。 「おお神よ。遥かなる頭上より己が足許に目を向けよとの思し召し、しかと受け取りました」 「先生、そればっか。神様なんかいるわけないじゃん」 「な、何をおっしゃるのですかポール君」 「どうした? 何かあったのか?」 そこへ現が顔を出す。ただならぬ物音を聞きつけてやって来たのだが、くすくす笑う子供たちとタコを戴いてへたり込む灰人を見比べてすぐに事態を察した。 「おめぇら、ほどほどにしとけ。怪我でもさせたらどうすんだ」 「カンケーないもん」 「お、いいのかよ? 大怪我したら灰人先生はしばらくお休みになっちまうぞ。悪戯に引っかかってくれる相手がいなくなっちまうんじゃねぇのか、ん?」 飄々とうそぶく現の前で子供たちの口がへの字に曲がる。現は呵々と笑い、場を仕切り直すように手を打った。 「さ、分かったらとっとと席に着け」 「はぁい……」 子供たちは渋々と、しかし素直に自分の机に戻っていく。灰人はずれた眼鏡を直しながら感嘆した。 「相変わらず先生ですねえ、現さんは」 ターミナルの一角に佇むエスポワール孤児院のいつもの光景である。 ◇ ◇ ◇ 昼休み。まどろむような、優しい陽光。併設された教会から流れる讃美歌をBGMに、中庭で歓声が広がる。 「先生おっそーい!」 「はは……速い、速い……」 ここでも灰人は子供たちの標的となっていた。引きずり込まれるまま鬼ごっこに付き合わされている。だが、顔色の悪いひょろひょろの牧師が子供たちと渡り合えるわけもない。 「お疲れさん。大丈夫か?」 昼食を取りに戻ってきた灰人に現は紅茶を差し出した。灰人の目の下に貼りつくくまはここ数日で濃さを増したようだ。 「ありがとうございます。最近、不眠気味でして」 乳色の湯気が眼鏡を曇らせ、あっという間に灰人の目を隠してしまう。 「神が与えたもうた試練と苦悩の根深さに悶々と悩み……教会に泊まり込んでひたすら祈りを。おかげで夜な夜な歩くマリア像の奇跡を目の当たりにしましたよ。マリア様を追ううちにいつの間にか外で寝ていたこともあったほどで」 「何ー? 子供達が言う七不思議が八不思議に増えたのはおめぇのせいだったのか!」 0世界に昼夜はないが、チェンバーの中に建つこの孤児院は別だ。子供たちに健やかな眠りを与えるためにも暗闇の安息は不可欠だった。 「すみません。マリア像の傍に居ると心が安らぐものですから」 のろのろとサンドイッチを齧る灰人の眼鏡は曇ったままだ。現は軽く眼を眇めた。 「おめぇ、初めてここに来た時もマリア様んとこに居たっけな」 「そうでしたねえ」 二人の脳裏にあの時の光景がまざまざと再生される。 灰人がこの教会に迷い込んだのは必然だったのかも知れない。求めていたのだ、全てを包み込んでくれるようなあの微笑を。 (ああ) 恍惚とも悲嘆とも知れぬ溜息が漏れる。窓からひそりと差し込む月光。その楚々としたスポットライトの下、聖母子像が静かに佇んでいる。 「神よ、我らに御加護を。……この世界の皆にお導きを」 跪く。十字を切る。祈りを捧げる。 幾度となく繰り返してきた動作、流れるように執り行われる筈のそれは奇妙にぎごちない。震えていたのかも知れなかった。群れを見失った子羊のように。――病を患う者のように。 聖母子像は何も言わない。柔らかく微笑みながら灰人を見下ろしているだけだ。 「――――――」 この世で最も芳しい名を唱えた途端、一層震えが増した気がして…… 「……さん……」 「……あ……い……」 だが、背後から忍び寄る声ではっと我に返った。 振り向けば、信徒席の下で小さな影が蠢いている。子供だ。 「お母さん。お父さん。会いたい……」 「パパ……お姉ちゃん……どこ……」 それは泣き声。あまりに悲痛な、心の叫び。この子供らもロストナンバーなのだろうか。 「もし」 できる限り穏やかに声をかけると、子供たちはびくりと体を震わせた。 「どうか怖がらないで下さい。私は牧師です。いえ、この教会の人間ではありませんが、怪しい者ではありませんので……」 子供たちは固く身を縮めてしまう。青白く痩身の灰人が月明かりを背に近寄って来る様は不気味ですらあったのだ。 「怖がらないで下さい」 それでも、手を触れるとほんの少しこわばりが解けた。 「うええええん」 「うわあああん」 「大丈夫、大丈夫ですよ。貴方たちも聖母の温もりを求めていたのですね……」 堰を切ったように嗚咽する子供たちを纏めて抱き締め、灰人はひたすら彼らの頭を撫でる。 その時だ。 「ここか? 先生探しちゃったぜ」 泣き声を聞きつけたのか、ばたばたという足音と共に礼拝堂の扉が開いた。 入って来たのは眼鏡をかけた作務衣姿の男である。男は目の前の光景に目を見開くや否や俊敏に床を蹴った。 「何してやがる!」 「あ、何を」 男と灰人は期せずして同じようなことを口にした。灰人を不審者と勘違いした男は素早く子供たちを抱き取ったし、目にも留まらぬ勢いで子供たちと引き離された灰人は目を白黒させるしかなかった。 「おめぇ、どこのどいつだ。子供らに何をした?」 「私は何も……迷い込んだらこの子たちが……」 「今、こいつらを泣かせてたじゃねぇか」 男は素早く灰人の姿を検分した。眼鏡の奥の瞳は職務質問に臨む刑事のように油断がない。 「先生、違うよ」 「この人、牧師さんなんだって」 「ん? そうなのか?」 子供たちが声を上げると、男はやや警戒を解いたようだ。たどたどしい説明に丁寧に肯く彼の姿に灰人は理屈を超えた感銘を受けた。 「……信用してもいいんだな?」 やがて灰人に向けられた目には先刻までの猜疑はなかった。 「勝手に入り込んで申し訳ありません。私は三日月灰人、コンダクターです。元の世界では牧師の仕事を……失礼ですが、ここはどこですか?」 「孤児院だ。俺は職員の現」 「ということは、もしや子供たちの先生」 「まあ、そんなとこだ」 「私もここで働かせてもらってもよろしいですか?」 「何ー?」 自然かつ唐突に滑り落ちた言葉に男――現は素っ頓狂な声を上げた。 灰人は教育者としての現の姿に一目で感じ入ったのだった。実際にこの孤児院で働くようになってからは剽悍な人柄に触れ、尊敬の念をますます深くしていった。 「あの時はずいぶん狼狽しましたがねえ」 サンドイッチを齧りながら緩やかに苦笑する。現はきまり悪そうに頭を掻いた。 「済まねえ。薄っ気味わりぃ青瓢箪があいつらを泣かせてるように見えたもんでよ」 「いえ、無断で入り込んだのはこちらですから。故郷で営んでいた孤児院に雰囲気が似ていたもので、つい……」 「孤児院って、夫婦で経営してるっていう?」 「ええ、私と妻の二人で。じきに三人になるのですがねえ。妻ときたらそれはもう優しくて美人で芯が強く料理も上手で天使のように素晴らしい女性で。そんな妻から生まれてくる子供が可愛くないわけがありません。ですがそれが目下の悩みでしてね、だってそうでしょう、天使のような妻から生まれる天使のような子供にどんな名を贈れば良いのか簡単に決められるわけがないじゃないですか。ねえ現さんはどの名がいいと思います?」 妻子のこととなると灰人は熱に浮かされたように饒舌になるのだった。繰り返し示される妻の写真にも、幾度も見せられた手帳――子供につける名前の候補がびっちりと書き込まれている――にも現は丁寧に肯く。その度に彼の胸元のネックレスが鈍く陽光を跳ね返した。見えているのはチェーンだけで、トップは作務衣の下に落としてあるようだったが。 「家族、なぁ」 「何か?」 「いや、実はな」 現がネックレスに手をかけた時、子供たちが駆け込んで来た。 「先生。ポール君がどっか行っちゃった」 「かくれんぼしたまま出て来ないの」 教師と牧師は互いに顔を見合わせた。 八歳のポール少年がチェンバーの中で隠れられる場所などたかが知れている。だが、捜索は空振りに終わった。 「こちらにも見当たりません」 教会の中を探していた灰人が息を切らして戻って来る。現は小さく舌打ちして時計を睨みつけた。既に二時間が経とうとしている。他の職員たちもターミナル内を探しているが、発見の報は未だ入らない。 「夜になったらもう一度探してみます。どうせ眠れないのですし。……日が暮れる前に出て来てくれれば良いのですが」 「そうだな、俺も今夜は泊まり込むわ。よっし、おめぇら」 現は殊更に明るく子供たちを振り返った。 「騒がせて悪かった。授業再開だ、教室に戻れー。灰人先生もすぐに行くかんな」 だが、子供たちと灰人が立ち去った後にも数人の少年少女が現の元に残った。 「どした。おめぇ達も一緒の教室だろ?」 頭にぽんと手を置くと、子供たちは無言で現の腰に抱きついた。 「怖い。怖い」 「先生、怖い」 「大丈夫だ。ちゃんと見つけっからよ」 「違う。怖い」 ふるふるとかぶりを振り、子供たちは意外な言葉を口にした。 「八不思議、知ってる?」 「……灰人先生、怖い」 ◇ ◇ ◇ 夜の帳が孤児院をくるむ頃、暗闇と同じ色の牧師服を着込んだ灰人は教会の扉を開いた。 窓からひそりと差し込む月光。その楚々としたスポットライトの下、聖母子像が静かに佇んでいる。 「ああ……」 恍惚とも悲嘆とも知れぬ溜息。跪く。十字を切る。祈りを捧げる。 「神よ、迷える我らをどうか導きたまえ。……そうですね?」 ゆっくりと振り返れば、信徒席の辺りで子供の影が蠢いた。 「怖がらないで下さい。叱りに来たのではありませんから」 いらえはない。 だが、やがて固い長椅子の下からポール少年が這い出て来た。青白い月明かりの下、少年の顔は紙のようにこわばっていた。 「……先生、どうして」 「隠れているところを無理に引きずり出しても意味がありません。……隠れんぼは見つけてもらうためにするものなのですから」 昼間、教会の捜索を行った灰人は少年の姿を発見していたのだった。少年のほうは見つかったことに気が付かなかったようだが。 「何か事情がおありと思い、直接話せる機会を待ったのですが」 “神様なんかいるわけないじゃん”。事あるごとにそう繰り返す少年を灰人は殊更に気にかけていた。 「良かったら聞かせて下さいませんか。きっと、神も耳を傾け――」 「神様なんていないもん」 幼い感情が甲高く弾けた。 「ポール君、そんなことは」 「じゃあどうしてパパとママは殺されたんだ! パパもママも悪いことなんかしてないのに! 毎週教会に通ってたのに! “けいけん”な“しんじゃ”だったのに……!」 父母は神に祈ったのに、神は父母を守ってはくれなかった。少年は絶望のどん底で覚醒し、彼の時間は停まった。 聖母子像は何も言わない。柔らかく微笑みながら二人を見下ろしているだけだ。 「神様なんていないもん! 絶対ぜったいいないもん!」 灰人の顔が決定的に歪んだ。 それは泣き声。あまりに悲痛な、信仰ではどうにもできない心の叫び。 けれど、目の前の子供はこんなにも激しく抱擁を求めている。 「大丈夫……大丈夫ですよ」 「来るな!」 「どうか怖がらないで下さい。大丈夫ですよ、ポール君……」 我が子を慈しむようにして名を呼んだその時だった。 「あ」 ぷつりと、何かが切れた気がした。 「……ああ」 何かが壊れる。崩れていく。 「ああ……アンジェ……」 胸元のロザリオをよすがのように握り締める。万華鏡のように回る視界。脳髄に錐を揉み込むような痛み――。 意識が途切れる寸前、あの時と同じように扉が開く音を聞いた気がした。 うっすらと目を開ければ、作務衣姿に眼鏡の男。 「わりぃが、ドクターストップだ。心意気は買うがな」 灰人を抱き止めた現は飄々と片目を瞑ってみせた。 「本当に……貴方という人は……」 安堵した途端、灰人の瞼は急速に閉ざされていった。 保健室のベッドに灰人を運び、現はようやく一息ついた。灰人の意識は未だ戻らないが、漏れ出す呼吸は規則的だ。 (先生。八不思議、知ってる?) (灰人先生はマリア様が歩くって言ってるけど) (歩いてるのは灰人先生のほう) (ぼく達、教会の近くで見たんだ) (ふらふらって……幽霊みたいに……) 子供たちからもたらされた噂の真偽を確かめるために現は教会に張り込んでいたのだ。 (しかし、まさかぶっ倒れるとはな) 灰人が頭痛に悩まされているらしい事には現も薄々気付いている。今回の件と関係あるのだろうか……。 「っと、いけね」 つい推理に耽りそうになって、指先の行き場を求めるように胸元のネックレスを弄ぶ。 やがて灰人が目を覚ました。 「覗き見みてぇな真似して悪かった。子供たちが八不思議を怖がってたもんで、教会を張り込んでてよ」 慌てて起き上がろうとする灰人を制しながら現は適切に言葉を濁した。 「申し訳ありません。……実はまた家族のことを。もしポール君が私の子供だったら、もし私が彼のように家族を失ってしまったらと……」 現は無言で目を眇めただけだった。灰人は「申し訳ありません」と繰り返して目の間を強く揉んだ。 「いけませんね、懺悔に耳を傾けるべき牧師がこの有様では」 「いいってことよ。……家族のことは誰だって気になるもんさ」 無造作にネックレスを引き上げてみせると、灰人の目が大きく見開かれた。 チェーンに通されて揺れているのはシンプルな指輪――恐らく、マリッジリングだ。 「よく分かんねえんだが、覚醒した時に左の薬指にはまってたんだ」 「分からない、とは」 「覚醒のどさくさで部分的に記憶喪失になっちまってな。俺も結婚してたのかね?」 入口の扉が鳴った気がして現は言葉を切った。 振り返れば、細く開いた扉からポール少年が顔を覗かせている。 「俺が呼んだのさ」 灰人が口を開く前に現が立ち上がり、少年を保健室に迎え入れた。 「な。灰人先生に言いてえことがあるんだろ?」 ぽんと背中を押され、少年はベッドの前に進み出る。 重苦しい沈黙。 「ポール君」 半身を起こした灰人はそこで言葉を切った。 ――灰人の胸に抱きついた少年が、わっと声を上げて泣き出してしまったのだ。 「ポール君……」 灰人は戸惑いつつも優しく少年を抱擁した。 「今はお泣きなさい。そして、できれば心の中に信仰の対象をひとつ……神に祈る代わりにご両親に感謝し、ご両親を慕い続けるのですよ。ご家族と貴方との間にある愛は絶対的なものなのですから……」 少年の頭を撫でる灰人の姿を現が目を細めて見守っている。 泣き疲れた少年が寝入ったのを見届け、灰人は疲れたような苦笑をこぼした。 「少しは名誉を挽回できたでしょうか」 「立派なもんだ」 「迷える人々の懺悔を聴くのが牧師ですから。……牧師の懺悔は誰が聴いて下さるのでしょうね」 半ば独り言のような述懐。現は呵々と笑った。 「俺がいるじゃねぇか」 「はっ?」 自然かつ唐突にもたらされた言葉に灰人は素っ頓狂な声を上げる。 だが、やがて緩やかに微苦笑した。 「貴方って人は本当に……骨の髄まで先生ですねえ」 「おうよ。先生に任せとけ、ってな」 「では、先生の懺悔は誰が聴けば良いのでしょう」 「あん?」 現は目をぱちくりさせる。灰人はそっと十字を切った。 「よろしければ、またこうしてお話しさせて下さい。貴方と貴方の大切な方達に神のお導きを」 牧師と教師の胸元で、ロザリオとネックレスが静かに煌いた。 灰人は少年と共に眠り、現はひとり窓辺にもたれた。 「家族、か」 ふと思い出したように呟く。 「記憶にねえから何とも言えねえが……子供たち見てっと、やっぱ家族っていいなとは思うよな」 月に向けたかのような独白は灰人の耳に届いただろうか――。 ◇ ◇ ◇ 夜が明ければ孤児院の日常が戻ってくる。いつもと違う点と言えば、現のネックレスの指輪が作務衣の下ではなく上で光っていることくらいだった。 「おはようございます、現さん。昨晩はとんだご迷惑を……」 「いいってことよ。具合はどうだ?」 「おかげさまで気分爽快です」 「先生」 「先生!」 談笑する灰人と現の元に子供たちが駆けて来た。早く来てと腕を引っ張られ、連れて行かれたのは教会だ。礼拝堂に入った二人は思わず顔を見合わせた。 容易に動かせる筈のない聖母子像。その足許に、重い家具を引きずった時にできるような傷が残っている。 (了)
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