「お、来たか」 ナルヴィクの姿に気付いた現はナチュラルにそう言った。現のことだ、ナルヴィクが現れることを予期していたのかも知れない。だが、さらりとした口調からは押し付けがましい厚意も刺々しい拒絶も感じられなかった。 「……何やってんだ?」 横に長い流し台と、これまた横長の角テーブルが複数。それぞれの卓には子供用の背の高い椅子がしつらえられている。ぴかぴかに磨き上げられた流し台には野菜や包丁を手にした子供たちが並んでいた。 しかし、何よりもナルヴィクの注意を惹いたのは匂いだった。 室内に充満する心地良い刺激臭はスパイスと思われる。しかし、香辛料にしては些かまろやかだ。角の取れたようなとでも形容すれば良いのか、辛いようで甘い香りは空気のようにナルヴィクを抱擁した。 「カレーライスっていうんだよ。知らないのー?」 人参を手にした女児がおしゃまに言う。ナルヴィクが「カレー」と復唱すると、エプロン姿の子供たちがうんうんと肯いた。 「初めて見る奴には不思議な料理かも知れねえがな。そら」 現が何やら投げてよこし、ナルヴィクは反射的に受け取った。じゃがいもの袋だった。 「とりあえず、そいつの皮剥いてくれ」 「何で俺が」 「ん? 手伝うために来てくれたんじゃねえのか?」 「……それは」 見透かしたような言葉に口をつぐむしかない。現はからからと笑い、ぱんと柏手を打った。 「ナルヴィク兄ちゃんが来てくれたぞ。もう一人前追加だ、いいな?」 「はーい!」 子供たちの返事が揃い、ぶきっちょな調理実習が始まる。ナルヴィクがこの孤児院に来てからいくつかの月が過ぎようとしていた。 ◇ ◇ ◇ 追い詰められ、逃亡し、ただ熱い感覚だけがあった。銃弾なのか刃物なのか、もはやそれすらも分からない。骨を焼くような灼熱は血液となって溢れ出し、あっという間にナルヴィクの意識を剥ぎ取った。 ――……な……熱……下が……。 ――医者……て……。 遠くで声が響いている。うっすらと目を開くと、柔らかな白の天井が見えた。簡素なベッドに寝かされているようだ。やがて、水底で聞いているようにぼんやりした声が徐々に輪郭を持ち始めた。 「もう少し様子見かの。若いし、大丈夫とは思うが……」 「今夜は俺がつきます。何、脈はしっかりしてますわ」 高熱に滲んだ視界の端で二人の男が喋っている。ナルヴィクはゆっくりと眼球を移動させた。たったそれだけの動作で激痛が全身を貫き、小さく呻いた。 呻き声に気付いたのか、男たちが振り返る。着崩した作務衣姿の男と、神父服に身を包んだ老人だ。 「目が覚めたか。分かるか?」 作務衣の男に問われるままナルヴィクは肯いた。その拍子に額に乗せられた濡れタオルが滑り落ち、老神父の手がそれを拾った。 「俺……何……ここは……?」 山のような疑問は喉で掠れ、一つも言葉になりはしない。神父はタオルを濡らしてくると言って席を外し、室内には二人だけが残された。 「さて。何から話せばいいのかねえ」 作務衣の男はがりがりと襟足を掻いた。 「まずは初めましてか。ここはエスポワール孤児院ってんだ。俺は職員の現、さっきの神父は創設者な。おめぇ、うちの敷地で血まみれになって倒れてたんだぜ。で、俺たちが運んだわけだが……」 なぜだろう。言葉を探しているような様子に、ナルヴィクの胸はどうしようもなくざわつくのだ。 「落ち着いて聞いてくれな。ちぃと込み入ってるんだけどよ――」 「せんせー!」 という声で現は我に返った。その途端、ボールが視界に飛び込んでくる。間一髪片手で受け止め、気を取り直すように笑った。 「そらよ」 軽やかに投げ返す。ドッジボールに興じる子供たちの歓声が上がる。だが、外野を守る現の視線は味方陣営ではなくグラウンドの外へと向けられているのだった。 日陰にしつらえられたベンチでナルヴィクが脚を投げ出している。 元居た世界で特殊な仕事でもしていたのか、ナルヴィクの体力と回復力は並々ならぬものだった。包帯と松葉杖こそ取れないものの、今となっては外を歩き回れるようになっている。だが、真の問題は体の傷ではなかった。 覚醒、真理、ディアスポラ現象、ロストナンバー等々。お定まりの説明文句はどんな深傷よりも手ひどくナルヴィクを打ちのめした。顔いっぱいに広がった驚きが猜疑に変わり、それが絶望へと移り行く様が現にもはっきりと見て取れたのだ。どうして此処で倒れていたのかと尋ねることはできなかったが、覚醒して0世界に飛ばされ、彷徨ううちに孤児院の敷地に入り込んでしまったのだろうと見当をつけた。 ナルヴィクは寡黙だった。覚醒のショックで声を失ったのではないかと危惧するほどに。だが、そうではないとすぐに分かった。 「うわあああああああ!」 怪我による熱のせいばかりではないだろう。ナルヴィクは何度もうなされ、悲鳴と共に目を覚ました。その度に額の濡れタオルが落ち、傍についていた現が拾ってやった。時にはタオルを濡らし直してナルヴィクの額に乗せてやった。白いタオルの下から揺れる瞳が現を見上げていたが、それだけだった。ナルヴィクは何も言わなかったし、現も何も尋ねなかった。 ナルヴィクはそこにいた。現もただそこにいた。そうやっていくつかの夜が過ぎていった。 「せんせー!」 子供たちの声と一緒にボールが顔の脇を飛び去っていく。ころころと転がるボールはベンチへと向かう。そこに腰かけたナルヴィクは無関心な一瞥を投げてよこしただけだった。 「わりい。先生ちょっと休憩な」 拾ったボールを投げ返し、現はベンチに座った。 ナルヴィクは何も言わない。現もまた黙っている。二人ともただそこに座っていた。きゃあきゃあと、快活な歓声ばかりがせせらぎのように流れる。 「……何も言わないのか」 沈黙を破ったのはナルヴィクの方だった。現は「ん?」と声を持ち上げ、腕と脚を組んだ。 「顔色、だいぶいいな。さすが若者、生命力が違わあ」 飄々と応じると、ナルヴィクの瞳が険を帯びた。しかし現は気付かないふりをした。 「どうだ。ちったあ慣れたか」 「慣れる?」 ぎりっと、歯軋りの音が聞こえた。 「ここの連中はみんな同じこと言いやがる。心配ない、すぐに慣れる、困ったことがあったら何でも訊けってな」 「ああ」 「慣れるってどういうことだよ。ここでずっと暮らせってのか」 声が荒くなる。咳込むような口調だ。 「俺は……俺は! 元の世界に……っ」 切れ切れに吐露した後で、ナルヴィクの顔がくしゃくしゃと歪んだ。“元の世界”。その言い方自体が、故郷から遠く離れてしまったことを認めているように感じたのだろう。 「おめぇと同じように思ってる奴は沢山いる。いつか元の世界に帰る方法を見つけるために世界図書館に所属してる連中も多いぜ」 「いつか? いつかって何だよ。いつかっていつだよ! 今は帰れないってことか!」 「そうなるな」 「てめえ!」 ナルヴィクは左手で乱暴に現の胸倉を掴み、右手で拳を作った。顔面に打ち込まれそうな位置で震えている拳に現はひょいと眉を持ち上げた。 「待ちねえ」 だが、現は静かに手を伸ばしただけだった。胸倉を掴む左手ではなく、子羊のようにわななく右手にそっと掌を重ねたのだ。 「場所変えようぜ。子供たちには暴力沙汰を見せたくねえんだ。――頼む」 ナルヴィクの顔がかっと紅潮した。 「……放せ!」 やがてナルヴィクは現の手を振り払った。放すも何も、先に手を出したのはナルヴィクの方であるのだが。しかし現は意に介さずにからりと笑った。 「そろそろメシ食えっかね。リクエストとかあるか? ここの伝統みたいなもんで、新入りはそいつの好きな料理で歓迎することにしてんのよ」 「勝手にやってろ」 ナルヴィクは松葉杖をがちゃがちゃと鳴らしながら立ち去った。 「晩までには帰れよー」 遠ざかる背中にその声が届いたかどうかは分からない。だが現はそれ以上口を開かず――そう、どこに行くのかさえも尋ねず――、ただナルヴィクを見送った。 ◇ ◇ ◇ ざく、ざく、ざく。子供たちの包丁が野菜を不揃いに切り分けていく。ナルヴィクは内心で「ヘタクソ」と呟き、じゃがいもと包丁を手に取った。 「ヘタクソー」 不器用な手つきのナルヴィクに子供たちがくすくすと笑う。おまけに落ちる皮は短く、分厚い。悪戦苦闘しながら皮を剥き終える頃にはじゃがいもは一回り小さくなっていた。 カレーライスという料理はナルヴィクも知っていた。本格的なものになるとスパイスの調合から始めると聞いたが、今回はポピュラーな固形ルーを用いるようだ。平凡な物でも手をかければ驚くほど美味くなるとは現の弁である。 大鍋に油をひき、野菜と肉を炒める。角張った野菜がごろごろと音を立てながらぶつかり合う。この段階だけ眺めている分にはまともな料理になるとは思えない。 「な。喧嘩してるみてえだろ」 見透かしたような現の言葉にぎくりとした。 視線を上げれば、いつも通りの飄々とした笑みが返ってくる。 「この後よーく煮込んでやるのさ、ゆっくり時間をかけてな。そうすっと野菜も肉もまーるくなって、みんな一緒に美味くなるんだ」 「……何が言いたいんだ?」 「ん? 料理の話だぜ」 「分かってるよ」 からからと笑う現にナルヴィクは軽く舌打ちした。現はいつだってこうなのだ。ただそこにいて、笑っている。 ◇ ◇ ◇ 勢いに任せて孤児院を出たナルヴィクはターミナルを彷徨った。返ってくる言葉はやはり同じだった。「みんなそうさ」「気持ちは分かる」「すぐに慣れるよ」「親切な人が多いから大丈夫」……。だが、ナルヴィクが欲しているのはこの場所での安息ではなかった。 ターミナルには昼も夜もない。日中のように明るい広場の時計を仰ぐと、時刻は既に深更だった。そろそろ帰ろうかと考えた後で、唇を歪めた。 帰る。どこに。エスポワール孤児院にか。 「……クソッ」 現の笑顔が脳裏にちらつき、思わず舌打ちした。どのみちこの体では満足に動けやしない。傷が癒えるまでの辛抱だと己を納得させ、松葉杖を鳴らしながら孤児院へと戻った。 「………………!」 ふ――と暗闇が全身を押し包み、ナルヴィクはその場に立ちつくした。チェンバーの中に建つ孤児院にはきちんと昼夜があるのだと悟るまでには若干の時間を要した。 ちかりと、何かが鈍く光った気がする。目を凝らすと、昼間ナルヴィクが腰かけていたベンチに現が腰かけていた。 「お、帰って来たか」 現はナルヴィクの姿に気付いて立ち上がった。作務衣の胸元で、ネックレスのチェーンが揺れながら瞬いている。 「……何してるんだ、こんな時間に」 待っていたのかと言いかけて、ナルヴィクは続きを呑み込んだ。もし待っていたからといってそれが何だというのだ。現は「星が見たくてな」と夜空を顎でしゃくった。チェンバーの魔法なのだろう、均一に塗り潰された天球には動かぬ星々が張り付いていた。 ナルヴィクの右手に現の掌の感触が甦る。あの時、場所を変えようと現は言った。その後はどうするつもりだったのだろう。あんなに穏やかに手を重ねてきた現が拳の応酬をする気だったとはどうしても思えない。 「いいぜ、今なら」 見透かしたような現の言葉にぎくりとした。 視線を上げれば、昼間と同じ飄々とした笑みが返ってくる。 「殴りてえんだろ? いいぜ。子供たちは中で寝てるからよ」 現は無防備に、受け止めるように両手を開いてみせた。 ナルヴィクの右手が震える。拳を握り、開き、もう一度握って……しかし、その拳が放たれることはなかった。 ここで殴ったら終わりだ。必ず後悔する。――昼間、感情にまかせて不満と不安をぶつけた時のように。 現は小さく息を吐き出した。 「遠慮すんなよ。めちゃくちゃに騒いで暴れて、それで気持ちが軽くなることもあらあな」 手加減はしてくれよと付け加えられる言葉がちくりちくりと胸に刺さる。 「……なんで」 やがてナルヴィクは呻くように問うた。 「あん?」 「なんで……そんなこと……」 掠れた声は無機質なしじまの中に溶け、消える。 現はいつかのようにがりがりと襟足を掻いた。 「デジャヴってやつかねえ。……倒れてるおめぇを見た時、俺がそこにいるみてえな気になってな」 自分も大怪我を負って覚醒したのだと明かす現にナルヴィクは目を見開いた。 「けどよ。正直、おめぇの不安とかはよく分かんねえんだわ」 「当たり前だ。分かってたまるか」 声が荒くなる。現はぎゅっと眉根を寄せ、軽く唇を噛んだ。 「だよな。おめぇの不安は俺には想像できねえほどでけえんだよな」 覚醒の時に部分記憶喪失に陥ったこと。そのおかげで、新しい環境に馴染むまでにはそれほど時間はかからなかったこと。覚醒前の記憶がきちんとあるナルヴィクにとって、現在の状況がどれほど受け入れ難いものであるかということ……。淡々と羅列される告白にナルヴィクは息を呑んだ。 「多分、誰にもどうにもできねえんだ。だから殴りてえなら殴ってもらうかと思ってよ。それでおめぇの気が楽になるならめっけもんだろ?」 作り物じみた月だけがひっそりと二人を見下ろしている。 ナルヴィクは松葉杖を鳴らして現に近付いた。左手で胸倉を掴み、右の拳を固める。現は動かない。だらりと腕を下げたまま、ただナルヴィクを見つめている。 ナルヴィクの右手が繰り出される。 次の瞬間、とすんと、気の抜けた音が響いた。ナルヴィクの拳は現の胸板を軽く打っただけだった。両手で現の胸倉を掴み、ナルヴィクはずるずるとその場に座り込んだ。 「冷えちまうぞ」 現はナルヴィクの前に膝をつき、抱くようにして肩を叩いた。 「来月、調理実習があるんだ。昼間言った歓迎会さ。希望あったら聞かせてくれな?」 「……勝手にやってろ」 現の手に包まれたまま、ナルヴィクはわずかに声を震わせた。 ◇ ◇ ◇ 大鍋がくつくつと音を立てている。 「ただのごった煮じゃん」 ナルヴィクは相変わらず素っ気ない。現はニッと笑った。 「だから美味えのさ。そらおめぇら、そろそろ仕上げだ」 「はーい!」 子供たちの手によってぱきぱきとルーが割られ、鍋に投入された。その上から更に食材が加えられる。蜂蜜、ヨーグルト、すりおろしたリンゴにバナナ、チョコレート等々。「ごった煮じゃん」と繰り返すナルヴィクに現がまた笑う。 「嬉しいねえ、おめぇのほうから話しかけてくれるなんざ」 ナルヴィクは口をへの字に曲げた。 新しい仲間は料理で歓迎するのがエスポワールのならわしだ。しかしナルヴィクからはとうとうリクエストを聞き出せず、現と子供たちの協議によりカレーに決定した。カレー粉をかければ大抵の物は食べられると言われているからにはカレーは万人に愛される味である筈だというのが理由である。 やがてカレー皿が皆の前に並べられた。浮島のようにこんもりとした白米の上にとろりとしたルーがかかっている。 「いいか、せーの――」 「ようこそ、ナルヴィク兄ちゃん!」 現の音頭に子供たちが唱和する。ナルヴィクは鼻白んだように唇を引き結んだが、現は構わずに続けた。 「よし。いただきます」 「いただきます!」 かちゃかちゃと、スプーンと皿が触れ合う音が一斉に響いた。 ナルヴィクは黙って皿を見つめている。野菜も肉もやはり不揃いで不恰好だ。あれだけぶち込んだ隠し味はことごとく溶けてしまったのか、どこにも見当たらない。 香りに誘われるようにスプーンを差し込み、口に運んだ。一口。また一口。丸みを帯びた具が優しく舌に当たり、潰れて、ほどけていく。更に一口。もう一口……。 頬いっぱいにカレーライスを詰め込みながら、ナルヴィクはいつしかぼろぼろと涙をこぼしていた。 「拭きねえ」 不意に目の前にティッシュペーパーが差し出される。現だった。 「あったけえもん食うと鼻水が出るよな。おめぇの鼻水は目からか?」 「う、うるさい」 「え、兄ちゃん、泣いてるの?」 「うるさい!」 「いいねえ、賑やかで」 現はからからと笑った。 ◇ ◇ ◇ 「たっだいまー」 「おかえりー!」 スーパーの袋を抱えて帰ってきたナルヴィクに子供たちが飛び付く。現ものんびりと顔を出した。 「帰ってきやがったな、万年居候」 「ひどいや。愛する弟妹達、そして現さんの為にこんなに身を削って働いてるのに」 頬を膨らませつつもナルヴィクは茶封筒を差し出した。アルバイト代だろう。現は小さく息をついた。 「ありがてえが、いい加減出てけよ。いつまで居座る気だよ」 「いつまででもいていいって言ってなかったっけ?」 「いやまあ、言葉のあやっつーか、何事にも限度があるっつーか」 「あのー、こんにちは……」 不意に別の声が割り込む。振り返ると、見知らぬ少女がおどおどと孤児院を覗き込んでいた。 「表の張り紙を見て……覚醒したばかりの人を保護してくれるって、それで……」 少女の後ろから数人の子供たちが顔を出す。現とナルヴィクは顔を見合わせ、笑った。 「こりゃあ歓迎パーティーかな、ナル」 「そだね。メニューはもちろんカレー!」 エスポワール孤児院のいつもの光景である。 (了)
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