……ゴーン……ゴーン…… 遠くで鐘が鳴っている。 一ヶ月前まで、街のシンボルでもあるこの鐘の音が楽しみで仕方なかった。それは彼が来る合図。彼女がこの街きっての歌姫となり多忙になっても、この時間の逢瀬だけは誰にも邪魔させなかった。 だが、今はその響きが胸を締めつける。 ……ゴーン……ゴーン……(お願い、もうやめて!) 耐え切れず、彼女は頭から毛布を被って子供のように震えた。自室に引き籠って、もう何日目だろうか? 最近では記憶すら曖昧だ。 彼を失い、それでも彼女には歌があった。彼が好きだと言ってくれた歌。彼が贈ってくれたペンダントを身に纏い、舞台に立つ事で彼女は救われていた。すぐ傍に彼の存在を感じる事ができたから。 だが、それも――(私は、私は……)「私はどうしたらいいの、エリック……」 絞り出した声は、朽木のようにしわがれていた。 ……ゴーン……ゴーン…… 鐘が鳴る。彼女の願いを嘲笑うように。 曇天の空から舞い落ちる雨が窓を叩く、ある日の事であった。「彼女が、暴走するであろう竜刻の持ち主、リリア・フローレンスです」 一枚の似顔絵を示し、銀髪の世界司書エリザベス・アーシュラは説明を始めた。 そこに描かれていたのは、淡い赤毛の人物。少女から女性への成長を遂げる半ば特有の、独特の魅力を感じさせる面立ちだ。「皆様には、彼女の持つ竜刻にこの『封印のタグ』を施してその魔力を安定させ、可能ならば回収して頂きたいのですが……」 荷札のようなアイテムを差し出しながら、言葉が濁る。「その竜刻は彼女の恋人だった男性から送られたペンダントに宝石代わりとして埋め込まれているらしく、平和的に譲り受けるのには困難を伴うと思われます」 声に困惑の色が見て取れる。見るからに感情より理性が先に立つ印象の世界司書からすれば、理屈としては分かっていても、その心情にまでは理解が及ばないのかもしれない。 それはともかく。恋人「だった」?「はい。既にその男性は亡くなっています。その事実が尚更、彼女から竜刻を引き離す障害になるかと」 なるほど。形見というわけだ。「しかし、既に竜刻の暴走はその前兆を見せており、彼女の体に悪影響を与えているようです。暴走そのものにはまだ多少の猶予がありますが、早く鎮めるに越した事はないでしょう」 そして実際に暴走が始まれば、竜刻の魔力は彼女を中心に周囲を巻き込み、街の一角を丸ごと吹き飛ばすだろう。『封印のタグ』で一旦安定させたとしても、またいつ魔力が暴走するとも限らない。世界図書館が回収まで依頼するのには、この懸念がある。「場合によっては、力ずくの手段も止むを得ないと考えます。とにかく、被害の出ないよう努めて下さい」 世界図書館の一員として、エリザベスは冷然と言い放った。
●翳る太陽 歌姫リリア・フローレンスのパトロンとなっている人物は、ロイズと名乗る商人であった。 「うちで働きたいというのはキミ達かね?」 どれどれ――と、恰幅の良い中年男性は値踏みするように、三人の頭の先から爪先まで無遠慮な視線で舐め回した。生理的な嫌悪感を催した春秋 冬夏は思わず悲鳴を上げそうになるが、軽く背中を叩く気配にはっと隣を見上げる。 ファーヴニールの茶色い瞳が、人懐っこそうな笑みを浮かべて目配せしていた。 (ニール兄……が、頑張らなくちゃ……!) ここで上手く気に入られ屋敷に潜り込まねば、竜刻の暴走を止める事は困難になる。 そういえば、緊張を和らげる為には、相手を人間ではないと思うと良いのだとか。 (あれはジャガイモ、大きなジャガイモ……) どこか虚ろな様子の冬夏に内心苦笑いしながら、プレリュードが口を開く。 「急な話で申し訳無いのですけれども、少々事情がありまして。何とかなりませんかしら?」 「ふーむ……」 鼻の下の髭を弄りながら考え込むロイズ。改めて視線が三人の上を巡り、目の合ったファーヴニールは無言で折り会釈を返した。 何やら熱の籠もった瞳で見つめてくる少女に、陰のある印象の婦人。そして、女性のように整った容姿を持つ青年。この珍妙な組み合わせに彼が何を思ったのか。 「ま、良かろう。試用期間という事で働きぶりを見させてもらうから、頑張ってくれたまえ」 その言葉に、ファーヴニールが折り目正しい一礼で感謝の意を示す。 「有難う御座います。御期待に沿えるよう、頑張ります」 「実のところ、最近歌姫が御機嫌斜めでね。使用人に当たり散らし、暇を願い出る者まで現れる始末だ。キミ達のような新しい人間と話す事で、気分転換になれば良いのだが……」 困り果てた表情でぶつぶつと漏らすロイズを尻目に、三人は顔を見合わせた。道のりは、思った以上に険しいのかもしれない。 静けさに満ちた屋敷に呼び鈴の音が響き渡る。 「コレットちゃん……」 思わず素の口調に戻ったファーヴニールの前で、コレット・ネロの小さな体が折り曲がる。 「あの、リリアさんに会わせて頂けませんか?」 「……少々お待ち下さい」 本来ならば、熱心なファンを追い払う為にも、身分や目的を精査した上で通すよう言われているのだが。ファーヴニールは周囲に他の使用人がいないのを確認すると、コレットを客室へと案内するのだった。 「あなたが、エリックの姪御さん?」 傍らのテーブルに手を掛けながら振り向いたリリアは、真実を探るように目を細めた。 その視線を真正面から受けながら、コレットは淀み無い口調で告げる。 「はい。リリアさんの事は、叔父から聞いています」 「……そう」 やがてプレリュードが紅茶を運んできて、二人は向かい合わせに腰を下ろした。「声を出すのが辛いの。悪いけれど、この先は筆談で」、煩わしそうに紙とペンを取り出すリリア。その胸元に光る竜刻の輝きに、コレットの表情が曇る。 手を伸ばせば届く距離だ。奪って逃げてしまえば、多くの人間の命が助かる。リリアには後で事情を説明すれば、きっと分かってくれる―― そんな衝動に駆られるが、コレットは心の中で首を横に振ると、誘惑を振り払った。彼女の心も救うと決めて、ここへ来たのだから。 「叔父の事は、本当に残念でした――」 哀しみに揺れる瞳に胸の痛みを覚えながらも、コレットは語り掛けるしかない。それが、自分の戦いだと言わんばかりに。 コレットが去り、自室で休んでいたリリアに立て続けの来客を告げたのは、見た事の無い顔の執事だった。そこでようやく、彼女は最近入ったという新しい使用人達の存在に思い至る。 (私が随分と追っ払ったからね) 自然と自虐の笑みが口を歪めた。最近はこんな事ばっかりだ。哀しみと苛立ちに心を掻き乱され、冷静になってからも自分の浅はかさに後悔を重ねる。あまりにも慣れ過ぎて、こういった生活を当たり前だと感じ始めている自分が恐い。 実際、この屋敷で働く使用人の事に頭を回したのも久し振りな気がした。 「彼が言うには、『私は死者を蘇らせる秘薬を売って歩いている商人だ。こちらに大切な恋人を失った歌姫がいらっしゃると聞いて、こうして訪問させて貰った。よろしければ取り次いで貰えないだろうか?』との事なのですが……」 有能な執事を演じる為にも淀み無く伝えたファーヴニールだったが、内心「あっちゃー」と頭を抱えていた。少しでもまともな人間なら、こんな荒唐無稽な話は鼻で笑うだろう。リリアの機嫌を損ねなければ良いのだが。 だがその一方で、「切羽詰まっている彼女なら……」という考えも無いではない。 恐る恐る様子を伺う彼の視線の先で、リリアは隈に縁取られた瞳をすっと細めた。 「通して下さい」 「は?」 意外な言葉に、思わず訊き返してしまうファーヴニール。 「でも、最初に一言だけ言っておいて。私はロイズ様に援助して頂いてこんな生活をできているけれども、個人的なお金はほとんど持っていないの。大したお返しはできないけれど、それでも良ければ」 機嫌が良いのか、掠れた声ながらも言葉を続けるリリア。ファーヴニールは畏まった様子で一礼すると、玄関へと向かった。 「代金に関しては、そのロイズ殿にお願いしてみてはどうだろうか。私とて鬼ではない。安くはないが、逆立ちしても払えない額を要求しても仕方ないからな」 改めて自身の生業と秘術について説明した旅の商人――という設定のアインスは、リリアの視線を真正面から受け止めながらそう語った。 が――問題はそれだけはない、と続ける。 「秘薬を作るためには死者の生前の思いが入った物品が必要だ」 「それならいくらでも。手紙のやり取りもしていましたし」 こう返されて、アインスは心中で唸った。確かに恋人同士ならば、こちらの目的の品以外でも思い出の品は沢山あるか。ならばもう一押し。 「一つだけでは、術に使えるだけの念が得られるか分からない。可能な限り集めて貰えないだろうか? もちろん、預かった物品は後で全て返す」 自然と目が向いてしまったのか、リリアははっと自分の胸元のペンダントを見た。そして今度は、皮肉混じりの笑みを浮かべて嘆息を漏らす。 「……やっぱりそういう事なのね」 「どういう事だ?」 こちらに向けられる感情が急に変わったような気がする。アインスが訝しんでいると、彼女はすっくと立ち上がり、 「エリックをダシにして一儲けするつもり!? その上、彼の遺品から金目の物を洗いざらい巻き上げようなんて……帰って!」 「違う、私は――」 「いいから帰って!!」 部屋の出入り口を指差しながらこう言われては、もうどうしようもない。アインスは「連絡先を執事殿に渡しておく。もし気が変わったのなら連絡をくれ」と告げると、憎悪すら籠もった視線を背に感じながら屋敷を後にするのだった。 「――というわけなのだ」 樫のテーブルにコップを置くと、アインスは大きく息を吐き出した。呼気に僅かながらアルコールの匂いが混じっている。 「大変だったね。お疲れ様」 対面に座るコレットもホットミルクに口をつけ、すっかり冷たくなった身体を温めた。独特の風味は蜂蜜だろうか。まだまだ朝晩は冷えるこの季節、こういった飲み物は身体に染みる。 リリアの住む屋敷をそれぞれに訪れ、それぞれに辞したコレットとアインスは、下町の酒場で落ち合っていた。 丁度夕食時という事もあって、酒場の中は人々の喧騒に満ち溢れ、吟遊詩人の奏でる音色が華を添える。 「私の方法では、竜刻を手に入れるのは難しそうだ」 アインスは潔く、そして冷静にそう結論づけた。あの様子を見る限り、おそらく自分と同じ事を言った輩が過去にもいたのだろう。そいつの目的は、リリアの言うようなものだったというわけだ。ならば嫌われても仕方が無い。 彼女の持つ竜刻が、金額の面でも貴重品だと分かったのが収穫だろう。つまりは、竜刻の回収がより一層困難になったという事だ。 「それで、その……」 コレットが躊躇いながらも尋ねる。 「心を、読んだの?」 「あぁ」 当然だと言わんばかりに、アインスは頷いた。生まれながらに持った能力だ、彼にとっては息をするのに等しい行為。 コレットの表情が曇ったままなのに気がつき、彼は苦笑いしながら付け加える。 「安心してくれ。レディに対する礼儀は心得ている。必要以上に心を荒らすような真似はしない」 彼女が亡き恋人エリックの事を語ったその瞬間。心の奥底では何を願っていたのか。 「……読めなかった」 正しくは、彼女の思考に明確な言葉が浮かんでこなかった、と言うべきか。そこから考えられる事はただ一つ。 「彼女自身、迷っているのだろうな。自分の心に」 女心は難しい。いや、この場合、女性かどうかは関係無いのかもしれないが。自分には理解し難いものという事で、同じくくりにしてしまっても良いだろう。 「私も話してみたけれど、とても苦しそうだった……」 「ふーむ……」 食事を取りながら、明日からの事を話し合う。 そんな二人を少し離れた席からじっと見つめる存在がある事に、本人達は全く気がついていなかった。 「……………………」 彼女はおもむろに席を立つと、外套を翻しながら店を出た。 空には煌々と光る月。吐いた息が白く漂っては儚く消える。 ――さあ、仕事の時間だ。 ●欠けた月 影が一つ、ロープを使って高い塀の上に悠々と登った。 (不用心だね) 深夜にもかかわらずサングラスを掛けたままのディーナ・ティモネンは、心の中で独り呟く。 流石に商家の屋敷だけあって正門と裏口には門番がいたが、それ以外の部分の警戒はおざなりなものだ。まぁ、こんな高い塀、普通の人間にはまず越えられないだろうから、無理の無い話ではあるが。 昼間の聞き込みや、時間を空けて何度も行った下見で準備は充分に済ませている。地面の柔らかい部分を選んで着地すると、ディーナは身を隠した茂みの中で大きな屋敷を見上げた。 (これだけ恵まれた暮らしを享受しておきながら、何を迷うんだろう?) どうするのが最善なのかは、火を見るより明らかだ。たった一つの選択肢で、多くの人間の命と未来が左右される事になる。そして、決断までに残された時間は多くない。 だから、真実を届ける。現実は時に残酷だけれども。傷を恐れて迷うのは終わりだ、お互いに。 二階にあるリリアの部屋の真下にまでやってきたが、やはり屋敷の主が大事にしている歌姫らしく、庭に面した壁は凹凸(おうとつ)が極めて少なく、近くに背の高い木も無い。登れない事もないだろうが、鍵が掛かっているであろう窓の突破、そして万が一登攀に失敗した場合が心配だ。 (勝手口か、あるいは意表をついて正面玄関から……?) 考えながらも、物陰を移動する足は忙しなく。闇と一体化したようなディーナは、忍び込めそうな隙を物色する。 そして、再びリリアの部屋の下に戻ってきた。 (…………あれ?) 確か、警戒の薄い侵入口を求めて、全く逆の方面に向かったはずなのだが。 (えーと……) 動揺を隠せない心を鎮めつつ、自らの胸に問い掛ける。どうしてこうなった? (まさか、迷った?) ――ホーゥ¬¬―― 途方に暮れる彼女を小馬鹿にするように、梟が一匹、闇夜に鳴き声を響かせるのだった。 大きな窓から差し込む月明かりに、対峙した二人の影が大きく絨毯の上に延びている。 「よく気がついたね」 「それはまぁ、あれだけ時間を掛けて侵入してきたら、ねぇ?」 頭を掻きながらのファーヴニールの一言に、真剣な表情のディーナの頬に赤みが差した。 色々言いたい事はあるが、今は時間が惜しい。それに、ファーヴニールは厳密に言えば敵ではないのだろう。おそらく。 「そこをどいて貰えないかな?」 「それは貴女の目的によると思うけど……少なくともこんな時間に忍び込んでくるっていう事は、通すわけにはいかないんじゃないかな?」 こうして話している間も、二人の足下はじりじりと間合いを測り、静かな攻防戦を繰り広げていた。ディーナの手には、既に抜き身となった肉厚のナイフ。ファーヴニールも、いつでも腰の剣を抜けるようそっと片手を添えている。 だがそれは、最後の手段だ。ここで騒ぎを起こせば、ファーヴニールとてここにはいられなくなるかもしれない。 「もう少しだけ、時間をくれないかな」 ディーナは是とも否とも答えない。ただ静かに、紫水晶を思わせる澄んだ瞳がサングラスの向こうで鋭く光っている。 「竜刻の暴走を防ぐ。俺達の最終的な目的は同じはずだ。その方法が違うだけで」 「別に、無理矢理奪うわけじゃないよ? 竜刻が暴走しそうな事を教えて、納得して貰ってから手放して貰うつもり」 忍び込むような手段に訴えたのは、時間を惜しんで彼女に決断を迫る為。そしてほんの少しの気紛れだ。何となく、心から通じ合って――というのは彼女の柄ではない気がする。 「彼女がそれを信じればね」 そう前置きしてから、ファーヴニールは昼間のアインスの話をした。聞いている内に、ディーナの顔に苦々しいものが広がっていく。 「……騙して金目の物を奪おうしていると思われても仕方ない、という事?」 嘆息混じりの言葉に、ファーヴニールは静かに頷いた。「その宝石は実は爆弾だから、早くこっちに渡してくれ!」と言われて、果たしてどれだけの人間が従うだろうか? 「でも、もし竜刻の暴走が近くなったら――」 「その時は仕方ない。むしろ、頼りにしているよ」 音も無くナイフが鞘に納められた。一寸置いて、ファーヴニールも警戒を解く。 「お帰りはこちらから」 蝋燭の灯りと新たな声に、二人は同時に振り向いた。廊下の奥の闇から滲み出るように、プレリュードが姿を現す。 去りながら、ディーナがぽつりと漏らす。 「現実ってままならないものだよね」 何に対してだろうか。それとも全てに対してだろうか。 しかし二人は黙って頷き、明け始めた空に想いを馳せるのだった。 「げほっ、がっ、かはっ……!」 リリアは激しく咳き込みながら喉を掻き毟るような仕草を見せ、テーブルの上の水差しから貪るように生温い水を自らの喉へと流し込んだ。 「ぐ、ごほっ、ごほっ……!」 今度は水にむせ返り、飛び散った雫が床に染みを作っていく。 ここ数日、特に喉の痛みが酷い。このままでは、歌う事はおろか、話す事も…… 「歌姫様ともあろう者が、無様なものね」 嘲りを含んだ声に、涙を浮かべた瞳が向けられる。 そこではプレリュードが、朝食の載った盆を置きながら薄い笑みを浮かべていた。 「どういう、意味よ……!」 態度からしてまず違う。自分の知る彼女は、考えている事が分からない部分はあったけれども、礼儀正しく物静かな女性だったはずだ。 「自分だけがさも不幸であるかのように悲劇のヒロインぶっている姿がおかしいだけよ」 プレリュードは距離を置いて立ち止まると、冷たい瞳でリリアを見下ろし、 「こんな女と二股掛けられていたなんて、我ながら情けないわ」 「……何を……言っているの……?」 視界がぐらりと歪んだ気がした。それが眩暈である事にも考えが及ばず、リリアの頭の中はプレリュードの言葉を理解しようと一心不乱に働き続ける。 「エリックよ、エリック。まさか死んでしまうなんて思わなかったけれど、それも自業自得でしょうね。地獄で悔いるといいんだわ」 叩きつけるように言い捨てると、プレリュードは混乱から立ち直っていないリリアに背を向けた。肩越しに一言だけ告げる。 「遊ばれた女同士、一言だけ忠告させて貰うわ。あんな男、さっさと忘れた方が身の為よ。私も貴女の顔を見たかっただけだから、近い内にこの仕事を辞めて田舎に帰るわ」 バタリ、と扉の閉まる音が、いやに耳触りに聞こえた。 「……………………」 エリックが死んでから片時も外した事の無いペンダントを握り締め、リリアは何を思うのか。 彼女はただ床に跪き、胃の中のものを全てぶちまけた。 扉の向こうから聞こえる嗚咽に、プレリュードはそっと瞳を閉じた。 (どうなるかしら……) これは一つの賭けだった。たとえそれが怒りや憎しみであっても、生きる活力になればそれで良い。少なくとも、過去にすがって心が凍りついてしまうよりは。 だが、リリアの心が自分やエリックに対して憤怒する事すらもできないまでに弱ってしまっていいるのならば…… (……やめましょう。悲観的な考えは) ディーナも言っていたが、ままならないものだ。特に人の心は。 なおも続く嗚咽を受け止めながら、彼女は心で語り掛ける。願わくは、この想いが天に届きますように。 (私を恨みなさい。そしてそれを糧とし、立ち上がるのよ) 生きて、歩み続けていれば、別の形で幸せをつかみ取る事もあろう。そう思えばこそ、自分は敢えて賭けに出たのだから。 異変に気づいたのか、廊下の先から誰かの駆けてくる音に、プレリュードは静かにその場を去ったのだった。 「だ、大丈夫ですか!?」 異変に気がついた冬夏は部屋の惨状に一瞬怯んだものの、すぐにリリアに駆け寄って背中をさすった。 「と、とにかく、横になって下さい」 彼女をベッドに横たえ、自分はモップを取りに慌てて走る。 数十分後。バケツをひっくり返すといった失敗を繰り返しながらも、冬夏は何とか掃除を終え、窓を開け放つと部屋を換気していた。 ようやく落ち着いた様子のリリアに、一杯の水と、湯気の立ち上るカップを差し出す。 「気持ち悪いでしょうから、まずは口の中をゆすいで下さい」 「……ありが……とう……」 答えるのも億劫そうなリリアだったが、カップの中身を口にすると幾分かほっとした表情になったようだ。瞳にも理性の色が戻っている。 「……甘い」 「紅茶にカリンシロップを入れてみたんです。喉に良いって聞いた事があるので」 しばし、カップをすする音だけが部屋の中に響く。ふと、リリアは幼さの残る少女の顔をまじまじと見た。 「ええと……ハルアキさん、だったかしら?」 「あはは、冬夏でいいですよ」 「じゃあ、トーカさん。もう少しだけ一緒にいてくれないかしら?」 すぐ隣をポンポン、と示され一瞬躊躇う冬夏だったが、思い切って腰を下ろした。そんな彼女を眩しそうに見ながら、リリアは何を語るでもなく。再び静寂の時間が過ぎる。 「……私ったら、何をやっているのかしら……」 ぽつり、ぽつりと、彼女は語り始める。 「彼の事が好きで、でも歌う事も好きで……忙しさにかまけていたら、エリックは死んじゃって……未練たらしく、こんな物を肌身離さず身に着けて……」 首から下げたペンダントをぎゅっと握り締める。その様子を見ながら、冬夏は口を開いた。 「そんなに大事な物なんですか? 高いから?」 次の瞬間、ベッドのスプリングが激しく揺れた。 「違うわ! あの人が贈ってくれたからよ! 浮気なんてするわけないわ! あの人の事は、私が一番よく知っているんだから!!」 喉の痛みも忘れて一気にまくし立てたところで、こちらを見つめる視線の穏やかさに気づく。一人激昂していた事が恥ずかしくて、リリアは所在なさげに腰を下ろした。 冬夏の顔には、少しだけ大人びたように見える微笑みが浮かんでいる。 「答えはもう、出ているじゃないですか」 きっぱりと、そう告げた。「私はエリックさんの事はよく知りませんけど……」、考えながら喋っている、という風に青い瞳が宙を泳ぐ。 「リリアさんは知ってるでしょう? どんな人だったんですか? 今のリリアさんの姿を見たら、どう思う人でしたか?」 紡がれる言葉に、リリアははっとなる。 「これは私の想像ですけど、リリアさんが幸せである事が、エリックさんにとっても一番の幸せなんだと思うんです。――そのペンダントだって、きっと喜んで貰いたくて贈られたに違いありません。でも、ペンダントの存在がリリアさんを苦しめているのだとしたら……それはとても悲しい事です」 とつとつと語っていた冬夏だったが、今度は逆の立場でリリアにじっと見られている事に気がつき、照れ笑いを浮かべた。そんな彼女に、リリアは真剣そのものの表情で声を掛ける。 「トーカさん、コレットさんに連絡は取れるかしら?」 「は、はい。それは大丈夫ですけど……」 「行きたい場所があるの」 ●歌姫はもういない 「ここは……」 リリアに連れられて訪れた場所に、コレットは思わず言葉を失っていた。 町の郊外に整然と並んだ石碑達。陽射しは柔らかく穏やかな雰囲気だが、かえってその静けさが寂寥感を生む。 彼女等の目の前にある粗末な石碑の表面には、こう刻まれていた。 『エリック・ベルダン ここに眠る』 言うまでも無く、それは墓石であった。 持ってきた水を掛け、周囲に生えた草を抜いたりして一通りの掃除を終えたリリアは、墓石を背に立ち上がる。そして、こう、口を開いた。 「教えてくれないかしら。あの人がくれたこのペンダントに、どんな秘密があるのか」 視線の先にはコレット、そして名指しで同行するよう言われたファーヴニール、プレリュード、冬夏の姿が。 「……何故、そう思うのですか?」 コレットはリリアの真意を探りながら、慎重に言葉を選んで口を開く。 「あなた達が来てからなのよ。あの人が死んでから凍りついたように止まっていた時間が、急に動き出したのは」 リリアは過去に想いを馳せるように遠くを見る目をしてみせ、 「もちろんそれまでも、私のファンだっていう人や、お金目当ての人が近づいてくる事はあったわ。でもそういう人達は、もっと分かり易かったもの。あなた達とは違う」 小さく頭(かぶり)を振りながらの言葉は、全てを悟ったかのような確信に満ちていた。 「私は歌う事しか知らない、ただの小娘よ。あなた達みたいな人達が近づいてくる心当たりといったら、このペンダントくらいしかないわ。エリックは、冒険の最中に見つけた竜刻を宝石代わりにして拵えて貰ったって言っていたけど……そんなに価値のある物なの? それとも、まさかどこかから盗んで……?」 一転して怯えの混じった表情を見て、ロストナンバー達はほっと胸を撫で下ろすというか、拍子抜けしたというか、何とも微妙な心境になってしまった。竜刻に詳しいわけではない彼女が推理できるのは、やはりこの辺りまでなのだろう。 振り返ったコレットに、他の三人も静かに頷く。今ならば、きっと自分達の言葉を信じてくれるに違いない。 再びリリアに向き直り、コレットは胸に手を置きながら訴え掛けた。 「私達は――」 その時だ。 「えっ、なに!? あ、熱い……!」 リリアが急に顔を歪めたかと思えば、胸元を押さえて座り込んでしまった。 慌てて駆け寄ろうとする四人の目を、彼女を中心に放たれた強烈な閃光が焼いた。反射的に閉じる瞼の裏に焼きついているのは――吠え猛る竜の姿。 「始まってしまったというの!?」 「リリアさん!」 サングラスを掛けてなお眩しい光に汗を滲ませるプレリュード。不可視の魔力に体を押されながらも必死に手を伸ばす冬夏。 そこへ、一陣の漆黒の風が舞い降りた。 影は閃光の中を駆け抜けると、リリアの体から浮かび上がっているペンダントへと手を伸ばす。反射的に避けようとする彼女を、鋭い声が押し止めた。 「逃げないで! 今何とかするから!!」 ディーナだ。その手には、ロストナンバー達がそれぞれに預かっている『封印のタグ』。光り輝く竜刻にタグを持った掌が重なると、じゅっ、という肉の焼ける嫌な音がした。 「うううぅぅぅぅっっ!」 だが、それでも。ディーナは手を離そうとはしない。 すると、竜刻の光が和らいだ気がした。 「一枚では足りないのか。とんだじゃじゃ馬――いや、じゃじゃ竜だな」 こんな状況でも落ち着き払っているのは、ディーナに遅れて現れたアインスだ。彼もまた、つかつかと歩み寄ると、無造作に『封印のタグ』を竜刻に重ねた。彼をもってしても苦痛は耐えがたいものらしく、いつもは涼しげな表情を浮かべている顔を脂汗が滴り落ちる。 また、光が弱まった。 「私達はただ、あなたを助けたいの」 アインスの手を包み込むように、コレットの掌が。 「嘘をついた事は謝るわ。でも、あなたには何としてでも生きて欲しい。それが、私の考える幸せの形なのだから」 確固たる信念を乗せたプレリュードの掌が。 「生きて、死と向き合って、それでも歌い続けるリリアの姿を見たいんだ」 穏やかな微笑みを浮かべたファーヴニールの掌が。 「大丈夫! リリアさんはもう、分かっているはずです。本当に大切なものが何なのかを!」 満面の笑みを浮かべた冬夏の掌が、リリアを励ますように勢い良く振り下ろされる。 そして、今まさに縛を逃れようとしていた暴れ竜は、再び眠りの底へとついたのだった。 彼女は歌う。 生きている事の喜びと悲しみを。 彼女は歌う。 返らない昨日への後悔と、訪れんとする明日への憧憬を。 彼女が歌う。 廻(めぐ)る廻(めぐ)る、月と太陽。 彼女の歌う。 それは、人生という長い一大歌劇。 まだ空が白み始めたばかりの早朝。町の出入り口にて、ロストナンバー達はリリアと向かい合っていた。 「決意に変わりはないのね?」 「えぇ」 プレリュードの問いに、リリアは迷い無く応えた。その声もそうだが、何よりも瞳の奥に宿る光が彼女本来のものに戻ったのであろう事実に、ロストナンバー達は安堵する。 「しかし、あれだけ惚れ込んでいるパトロンを袖にするとは。勿体無い話だ」 言葉とは裏腹に、アインスの顔には感心するような笑みが浮かんでいる。 墓地にて、竜脈の暴走を食い止めた後―― 全ての事情を理解したリリアは、ロストナンバー達に竜刻を渡す事を承諾してくれた。 そして、ここから先がロストナンバー達の予想外な展開だったのだが。彼女は復帰の舞台を最後のステージとし、この町を出ると言ったのだ。 「キミの歌を楽しみにしている人がこれだけいるというのに」 そう漏らすディーナの手には、山のような手紙の束が。別の目的があって集めたものの、今となっては無用の物だ。餞別とばかりに手渡すと、彼女は少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、 「声は戻ったけれど、まだ歌う事に集中できないの。その方が、聴いてくれる人に対して失礼だと思うから」 「それで、どうされるんですか?」 コレットが尋ねると、彼女は遥か彼方の地平線に目を凝らした。 「彼の見た風景を、私も見てみたいなって思って。いつになるかは分からないけれど、心に決着がついたら戻ってくるつもり」 「リリアさんがそう思ったのなら、それが一番だと思うんです! エリックさんも、元気なリリアさんの姿を天国から喜んでいると思いますよ」 「そうだといいんだけど」 向かい合った二人の顔は、瓜二つの笑顔だ。 割って入るのは悪いな、と思いつつも。ファーヴニールは懐を探り、取り出した物をリリアへと差し出した。 「あのペンダントの代わりにはならないだろうけど、こんな物を作ってみたんだ。良ければ貰ってくれないかな」 「わぁ……!」 エリックが贈った物に似せた、銀細工のペンダント。素人仕事のお粗末な物だが、リリアは心から嬉しそうに喜んでくれた。 「その傷も、上手く隠せると思う」 一同の視線が、リリアの胸元に集中する。 竜刻が暴走を始めた時の名残であろう。白い肌が痛々しく火傷を負い、消えない痕となって刻まれていた。 「あんまり見られると恥ずかしいんだけど……」 リリアは頬を染めながらも、どこか愛おしげに傷跡をなぞる。 「でも、これを見る度に思い出せると思う。エリックの事、そしてあなた達の事」 ロストナンバー達は何とも言えない表情を見合わせるしかなかった。この地を去れば、彼等の存在は曖昧なものとしてしか残らない。それは人々の記憶の中でも同じく。彼女は本能的に運命を察知しているのだろうか? ――否。そんな事はどうでも良い。今、こうして抱いている温かい気持ち。それこそが大事だと、彼女も自分達も気づく事ができたのだから。 「――それじゃあ」 外套を頭からかぶり、華奢な身体で荒野へと踏み出す彼女の笑顔は、どこまでも晴れやかで。 ……ゴーン……ゴーン…… 新しい人生の旅立ちを、鐘の音が祝福しているような気がした。 (了)
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