寝台の上、情事を終えた後の軽い倦怠をも愉しみながら、男――ウィーロウは自分の胸にしなだれかかる女の髪を撫でた。「前々からひとつ訊きたかったんだ」「ええ」 ウィーロウの問いかけに視線を上げて、女――ランファが微笑んだ。ウィーロウはランファの額にやわらかなくちづけを落とした後、ゆっくりと問う。「愛しいランファ。君はいつ僕を”ウィーロウ”ではなく”ウィー”と呼んでくれるのかな」「だって、恥ずかしいじゃないの」 ウィーロウは自分のの眸をちらりと見上げつつ頬を染めるランファの細い肩を抱きよせた。そのまま再び押し倒し、ランファの耳元でささやく。「ウィーという呼び名を許したのは君だけなんだよ、愛しい僕のランファ」「ウィーロウ」「ランファ」 睦言を交わし合うように笑い合う。「そういえばこの間、僕をウィーと呼んできた少年がいてね」「知っている子?」「いいや、初めて会った少年だ。好い少年だったよ」「それで?」 訊ねたランファにウィーロウは笑った。ランファの首にくちづけを落とし、思い出したように低く笑う。「僕が愛しているのは君だけだよ、愛しい僕のランファ。はやく僕たち二人の実験を成功させよう。そうすれば」「永遠に一緒にいられるのね、……ウィー」 女は艶然と笑う。男もまた女の笑みを見て嬉しそうに目を細ませた。くちびるを重ね、再び波に身を委ねる。 ◇ 現在、インヤンガイに台頭する有力なマフィアは全部で五つ。 フォン・ユィションが率いる鳳凰連合。かつては英雄とまで称された軍人だった彼も、紆余曲折の後にマフィアのボスに坐すまでに落ちぶれた。 エバ・ヒ・ヨウファが率いるのは美龍会だ。美龍会は古くからインヤンガイの一郭に根付いてきた組織で、”アヤカシ”と呼ばれる仮面をつけることで身体能力を飛躍的に高める術を持っている。 黒耀重工は武器密売組織としての側面も持っている。率いていた神曲煉火は鳳凰連合のフォンとの殺し合いをしていたが、つい先ごろ、まったく別の勢力――否、たったひとりの男の手で殺害されたという。 ハワード・アデルを筆頭とする総会屋・ヴェルシーナ。武力を放棄した組織であるとして知られているが、有力者を脅迫し、強制的に意に添わせる手段を有してもいるという。黒曜重工の神曲煉火が殺されるという案件の背景には、ヴェルシーナも深く関与しているようだ。 そして五つ目の勢力・暁闇。ウィーロウを筆頭においたこの組織は他の街区から流れてきた少数民族などから成る集団で、組織と言うよりは傭兵集団のようなものに近い。 これまではこの五つの組織がそれぞれにバランスを保ちながら互いを牽制し合ってきていたのだが、それも黒曜重工の神曲煉火が死亡するという経緯などを経て、大きく変化しようとしている。 ――否。 その均衡は、いずれにせよ、遠からず瓦解していたのだろう。暁闇の筆頭であるウィーロウの手によって。 ◇ インヤンガイ、封箱地区。 インヤンガイに数ある街区の中でも比較的に小さなこの一郭にある男人路。男娼が集い、それを買うための男色家が集う小路の入口に置いた粗末な台を机にして、ひとりの老人が座っていた。 台の面には”占”の文字。 かつてはそれなりに高い評価を保有していた占い師であったらしい老人も、齢に心神をやられたのか、今ではほとんど意味を成すことのない言葉しか吐かないようになっている。 しかし、知る者は言う。 老人の名はジーピン。 彼は、今は暗房と称される地下街を出自とする者だという。 インヤンガイに建ち並ぶビルの高層階には有力者たちが住まう。逆に言えば、地に近い場所になればなるほど、住民たちの暮らしは貧しくなっていくのだ。 インヤンガイにはあらゆる欲が蔓延している。等価さえ払えば大概のものならば手に入る。けれども時として、その等価に利用されるものの中には人間の命ですらも含まれるのだ。 かつて、インヤンガイの地下には貧民街が広がっていた。 地上に住まうことすら出来ない者、親に捨てられた子ども、地上で身を売ることすらままならない男や女、身寄りのない者。そういった者たちが流れ着き居住していた、語られぬ街区が存在していたのだ。 しかしある時、その地下街区は、とあるマフィアの有力者によって”買い取られ”てしまった。 その男は地下街区に住まう者たちのほとんどを、実験という名のもとに虐殺した。何かを造り出そうとしていたらしい。だが何を造り出そうとしていたのかは誰も知らない。 けれどおそらく男の実験は徐々にかたちを成していたのだろう。反面、地下街区には無残に殺された者たちの怨念めいたものが渦をまくようにもなっていた。 地上に住む者たちは恐れた。いつか地下街区を満たす怨念が地上に害をもたらすのではないか、と。現にその兆候は見え始めてもいたのだから。 そこで地上に住む者たちは地下街区をさ迷う怨念が地上に上がって来れぬよう、地下街区を迷路のように増築したのだ。 霊たちは迷路に妨げられて地上に出てくることが出来ず。 その上で、人々は地下街区に通じる入り口を封鎖したのだ。地下街区を暗房と名付け、不用意に出入りする事のないようにして。 ジーピンは地下街区に住んでいた。彼の占いが当たるのは、地下街区をさ迷う霊魂と通じているからだと、噂はまことしやかに広がっていた。 ゆえに、ジーピンが心神をやられたのは、霊魂たちとの接触が原因だと言う者もいる。 古びた椅子の上に座り、老人はうつむきがちに独りごちる。 化け物が来る。化け物が来る。 暗房の迷路に電気を通した者がいる。入り口までの道のりを書き記し残した者がいる。ゆえに、暗房をさ迷い出てこれずにいた怨念どもが、目印を伝い地上に這い出てこようとしている。 化け物がくる。あの男が造り出した化け物だ。 この街は滅ぶ、滅ぶのだ。 ◇ 派手な隈取りのなされた面は、天狗のかたちを成していた。 男は天狗の面をかぶり、ゆらりと立って空を仰ぐ。 封箱地区、男人路の奥に広がる金網の壁を前に、ぼんやりと佇む彼が身につけているのは黒のチャイナ服だ。 顔をうかがう事は出来ない。面にある眼に穴は開いていない。面で覆われ見えはしないが、男の双眸は潰され、光は奪われている。 だらりと下げた両手の先には細い三日月のような、触れる者すべてを切り裂くであろう鉄の爪が伸びている。爪の先で金網の壁をなぞった。甲高い、耳障りな音が一面に広がる。 奪われた視界に代わり、男の聴覚は人のそれを遥かに上回るものへと変じていた。必然、金属がこすれる耳障りな音も脳内に響き渡る。 男は咆哮する。記憶の隅、かすかに残る甘やかな映像。その片鱗を消し去るためにかぶりを振った。 振り上げた爪が金網の壁を一息に破り、潰し、破壊する。苛立たしげに金網のすべてを破壊し終えて、男は咆哮をぴたりと止めた。 殺さなければならない。殺さなければならない。 ――誰を? すべてを。
ロストレイルがインヤンガイのターミナルに近付いていく。 インヤンガイの一郭に位置する、とある街区。その隅にある、いつからか放棄され、人々の記憶からも失われつつある地下鉄の駅の廃墟。今となっては足を寄せる者も絶えたその場所が、ロストレイルの発着場所だ。 滑り込むようにして地下に潜り込んで行く列車の中で、坂上健は降車の準備を始めた同行者たちの名を呼ばわり、視線を引き寄せた。 「頼みがあるんだけどさ」 言いながら、手にしていた五枚の写真を広げて見せる。五枚はどれもまったく同じ。セクタンと共に映るひとりの少年のものだった。 健からそれを見せられた同行者たちは、写真の中の少年の顔を検めて、それぞれに異なる表情を浮かべる。 その中のひとり、ニノ・ヴェルベーナァは緑色の双眸をうっそりと移ろわせ、眼前に立つ健の顔を仰ぎ見た。 ニノと健は、先日、御面屋の店舗の奥で催された酒席を共にしている。ゆえに対面を果たすのも言葉を交わすのもこれが初ではないのだが、ニノの目にはおよそ健に対する感情というものが認められない。 「俺の友だちなんだよ」 眉根を寄せ、健は絞り出すような声でそう告げた。 写真に映っている少年の名は虎部隆。健の大切な友だちである少年は、少し前の依頼でインヤンガイに赴いたまま行方不明となってしまった。未だにその行方も知れない。 「もしも虎ちゃん……虎部隆を探す気があったら、写真持ってってくれないか? 本人は駄目でもセクタンなら問題ないだろ? これ連れたオールバックっぽい髪型した男って聞き込みで情報集まらないかと思ってさ」 半ば祈るような気持ちを抱きながら、それでも健は冷静を努めつつ、ニノに写真を差し出した。ニノは健の顔を見つめた後、写真の中で笑う少年の顔に目を向ける。 「……お預かりします」 ニノに代わり手を差し出したのはメイド服で小柄な身を包んだ女性――ジューンだった。 健とジューンは幾度か依頼を共にした事もある。覚えのあるその姿に、健の表情がようやくわずかにやわらいだ。 「助かる」 簡易的な礼と共に写真を一枚ジューンに渡す。ふわふわとしたピンク色の髪にヘッドドレスをつけたメイドは、健の表情を真似するかのように、ピンク色の眸をふわりとすがめ笑みを浮かべた。 写真の中、デフォルトフォームセクタンを連れた少年が悪戯めいた笑みを見せている。虎部隆。行方不明となったままの少年だ。 ジューンはほのかな笑みを浮かべたままで写真を見つめ、それから視線を持ち上げて健の顔を覗き見てうなずく。健もまたジューンの顔を見据えてうなずき、きびすを返した。 次に健が写真を差し出したのはセーラー服を身につけた少女だった。声をかけるのにわずか逡巡するような金色の髪、正統派な日本人形を膝に抱え、その人形との会話を楽しんでいるかのようにひとり遊ぶ。 意を決した健が声をかけると、少女はぐるりと首をまわして健の顔を仰ぎ見た。表情は皆無。一見すると茶に見える双眸は、その実赤く濁っている。 「錵守輝夜、だったっけ。あんたも持っててくれよ」 改めて写真を突き出す健に、少女――輝夜は表情を一変させた。満面に人懐こい笑みを浮かべ、差し出された写真を受け取った。 「この人、トラベでしょ。報告書読んだよ。行方不明なんでしょ。ウィーロウって人の洗脳とか、魅了とかさ。そういうののせいじゃないのかな」 写真と健の顔とを交互に見ながら、輝夜は忙しなく語る。健とジューンの表情がわずかな変化を帯びた。その向こう、ニノがうっそりとした視線を輝夜に向けている。 「洗脳とかされて何かやらされてたりしてって思うんだけど、どう思う?」 健たちの表情が帯びた変化に気がついているのかいないのか。輝夜は止まることなく言を続ける。 「……俺もそう思う。だから、ウィーロウに関する噂を集めようと思うんだ。封箱地区ってウィーロウの支配街区のひとつらしいし。調べていけば虎ちゃんに関する情報も何かあるんじゃないかって」 「暗房ってとこへの入り口があるのも封箱地区なんでしょ。ずっとあった封印を解除したのも、道を示したのも私たち。じゃあ責任取らなきゃって言う話なのかもだけど、やったのは「私」じゃないしなあ」 「虎ちゃんはさ、俺とはもう違うんだよ」 足をバタバタと動かしながら座りつつ、今ひとつ噛み合うことのない会話を交わす輝夜の言にうなずいて、健はやたら神妙な顔をする。 「?」 笑みを浮かべたまま首をかしげた輝夜に、健はしぼりだすような声を放った。 「あいつはさ……もう、俺みたいなKIRINには届かない遥かな高みに上っちまったんだよ」 「きりん?」 「でも虎ちゃんは友達だ! 簡単に見捨てられるわけがねえんだよ!」 「きりん?」 「彼女いない歴イコール年齢、の略を、KIRINと言うのだそうです」 ジューンが口を挟む。輝夜は初めて「おおー」とうなずき、それから改めて健の頭からつま先までを確認した。 アナウンスが流れる。――ほどなく、インヤンガイのターミナルに到着だ。 ◇ インヤンガイにおけるロストレイルの発着は、放棄され使われることのなくなった地下鉄のそれを利用している。構内はおろか、周辺にすら人気のない地下にたどり着き、四人はそれぞれに地上へと抜け出て行く。 初めに動いたのはジューンだ。ジューンは健から預かった写真を大切そうに持って、ふわりと一礼を残した後にインヤンガイの街中へと消えて行く。 その後ろ姿を見送った後、ニノもまた黙したままに街中へ姿を消した。彼は結局、一瞥こそしたものの、虎部の写真を受け取ることはしなかった。 足音すらろくに立てずに消えて行ったニノの背を、健はどこか苦々しい表情で送る。 「ねえ」 ニノを送る健の肩ごしに、朱の袖をまとった日本人形が表情のない顔を覗かせる。驚き、身をすくめた健の後ろから、輝夜が続いて顔を覗かせた。 「私、訊きたいことがあるから、占い師だっけ。そのお爺さんのとこに行こうと思うんだけど」 人形の表情とは対照的に、輝夜は変わらず人懐こい笑みをたたえている。けれど健は輝夜のその笑顔にも何故か薄ら寒いような感覚を覚え、わずかに体を引いた。 「ああ、俺もジーピン暖人のところに行くつもりだ」 「じゃ、一緒に行ってもいい?」 首をかしげ無垢な笑顔を浮かべる少女に、健は腹の底で小さなかぶりを振り、満面の笑みをもってうなずく。 「ああ、そうしよう」 ◇ インヤンガイの主だった街区は現状、大まかに分ければ五つのマフィア組織によって治められている。 むろん、正確を言えば、政府組織である咎狗や、先だってロストナンバーによって長を殺害されたことにより、事実上瓦解する段階にある組織もあるのだが。 いずれにせよ、ジューンはひとり、マフィア組織の内のひとつ、鳳凰連合のもとを訪れていた。 インヤンガイという薄汚れた街の中にあっては、ジューンの服装は確かに目を引くものではある。が、メイドはインヤンガイにおいても存在しうる存在だ。 寄せられるのは、半ば監視にも近しい好奇の眼差し。しかしそれらを気に留めるでもなく、ジューンは黙したままに目的地へと赴く。 「本件を特記事項β11-11、誘拐犯の一味と目される集団への情報収集に該当すると認定。リミッター限定解除、該当集団に対する殺傷コード一部解除、事件解決優先コードA7、C2、保安部提出記録収集開始」 ひとりごち、ほどなくたどり着いた鳳凰連合の拠点を前にして、ジューンは門を守るようにして集っていた男たちに視線を向けた。 「フォン様もしくはリュウ様にお話を伺いに参りました。いらっしゃいますか」 物怖じするでもなく淡々と口を開いたジューンに、男たちは互いの顔を見合わせた後、訝しげな表情でジューンを囲む。 ジューンはわずかに笑みを浮かべたまま、注がれる視線が値踏みするようなそれへと変じていくのにも、わずかほどにも身じろぎすることもない。 「……お前、旅人ってやつだな」 ジューンの頭から足の先までを検めつつ、男のひとりが告げた。 「残念だが、お前らが来たらこう言って追い返せって言われてるんだよ」 「……追い返す、ですか」 ジューンの目が男の顔を捉える。男はどこか汚物でも見るような目でジューンを見ていた。その手には短銃が握られている。 「お前らのツレが黒曜の頭ァ殺しただろう」 「そのようですが」 「理由は」 「私には解りかねます。報告書を確認した限りでは、黒曜重工がキサちゃんを狙っているものと判じられたからではと」 ジューンのこめかみに短銃が突きつけられる。しかしジューンは表情を変えずに横目で男の顔を見据えた。 男の行動に連鎖して、ジューンを囲む残りの男たちの銃口もまたジューンの頭を狙い向けられる。 ジューンは黙したままに男たちを見やる。それでも口もとに浮かぶかすかな笑みは歪まない。 「ハオ家の方々は今、どうされていますか」 「ハオ家だァ?」 男のひとりが低く笑う。 「お前、アサギの知り合いか。アサギなら勝手にくたばりやがったぜ」 続けた男のその言葉に、別の男も笑う。ジューンの表情がようやくわずかな変動を見せた。 「まだなんかあるのか? 答えならひとつだけくれてやる。お前ら”旅人”はもうこれっぽっちも信用なんざされちゃいねェ。そんなお前らに俺らが情報なんざくれてやる義理もねェ。文句なら黒曜の長ァ殺したあの男に言うんだな」 「ジャックさんですね。了解しました。それでは今度会うことがあれば、そのように申し伝えておきます」 言って丁寧に腰を折り曲げたジューンに、初めに銃口を向けた男が小さな舌打ちをした。次いで、空気を引き裂くような音が轟いた。 「お前らが起こした騒ぎのせいで、俺のツレが死んだんだ」 吐き出すように告げられた男の声に、しかし、ジューンは何ということもなさげに応えたのだ。 「私どもの仲間の行方を捜すための一助になると考えての質問でした。……失礼いたしました」 丁寧な言葉と共に上体を持ち上げる。次いで差し出した手の中に、男の銃口から放たれた弾丸が収まっていた。 ◇ 金網は端から端まで破壊されている。まるで強い力で一息に裂かれ、握りつぶされたかのような状態だ。 ニノは男人路を行き過ぎて通路の奥にある破壊された金網を通り越し、さらにその奥にある物々しい空気を放つドアに迷いもなく手をかけた。 報告書によれば、この奥からも放棄され封印された地下街区――暗房と呼ばれる暴霊域へ通じているらしい。 真夏の、色濃く燃え盛る樹海の色を浮かべた双眸が、ドアの向こうで口蓋を開く闇の奥へと向いている。 ニノの表情は一貫している。感情の一切を読み取ることの難しい、変動の見られないものだ。そのうっそりとした表情の中、深い樹海を映した眼が、肌にまとわりつく粘度をもった闇にすがめられる。 ――依頼内容を反芻する。 おそらくはこの闇の中に、御面をかぶった標的はいるはずだ。奇妙な確信めいたものがある。 標的がどんな相手なのかは知れない。が、少なくとも、破壊された金網の残骸を見るに、ある程度以上の身体的能力を保有しているのではないかということも、充分に推察できる。 口の端を手の甲で拭って、ニノは闇の中を歩き出す。表情は再びうろんなものとなっていた。 ◇ 「だからさ、俺は客じゃねえんだって」 半ば悲痛な色を滲ませながら、健は必死で占い師の爺に話をする。 ジーピンという名の老占い師は比較的にすぐ見つけることができた。封箱地区の男人路、その狭い路地へ通じる入り口に台を置き、ぼんやりと宙を見つめている爺を、輝夜が先に見つけたのだ。 走り寄って話しかけた輝夜だが、ジーピンは輝夜の顔をわずかに一瞥しただけで、以外の反応は何一つとして返してこない。反応のなさが面白くないのだろう。輝夜はいまは健の後ろで頬をふくらませていた。 「手相見るのにいつまで手握ってんだよ、ジイさん」 青褪めた顔でジーピンを見やる健の声はわずかに震えている。 「いくらKIRINでも、俺は男色じゃないっ!」 ようやくジーピンの手を振り払い、健はわずかに力をこめて台を叩いた。 「悪いが、ジイさん。俺はあんたに占ってもらいに来たわけでもないんだ。俺が訊きたいのはこの写真のこいつのことだ」 台に叩きつけたのは虎部の写真。ジーピンの目が虎部の顔に向けられる。健の肩ごしにジーピンの顔の変化を探り見ていた輝夜だが、ジーピンの表情にはなんの変化もなかった。 「……いいや、知らないのう。ここいらの常連じゃないじゃろう」 首をかしげるジーピンに、健は小さなため息をつく。 「それじゃあ次の質問だ。この一帯はウィーロウが締めてんだろ?」 爺の目が写真から健の顔へと戻された。 「そうじゃよ」 数拍の間を置いた後、ジーピンは低くうなるように応えた。 「なんじゃ。おまえら、どこの使いじゃね? 鳳凰連合か? 黒曜は潰れたっちゅう話じゃが」 「どの組織でもねえよ。……で、ウィーロウは何を企んでるんだ? 男集めて何かやばい事やってたりする?」 健の問いかけに、ジーピンは肩を震わせる。 「ウィーロウはワシらと違う。男じゃろうが女じゃろうが、年寄りじゃろうが子どもじゃろうが、分け隔てなんぞせんよ」 「ド変態ね」 輝夜が吐き捨てた。が、ジーピンはやはり輝夜のことは気に留めない。構うことなく、輝夜は健の肩ごしに顔を覗かせ、ジーピンに問う。 「あなた、暗房で暮らしてたんですってね。興味あるなー。暗房ってどういうトコだったの? どんな生活してた? お店とかあったのかな。壱番世界に地下街っていうのがあるんだけど、あんな感じなのかな」 続けざまにいくつかの質問をぶつける。が、ジーピンは輝夜の言葉に耳を貸そうとはしない。台に置かれたままの健の手に指を這わせ、悦に入ったような面持ちで笑っているだけだ。 健の表情が怖気を示す。背筋が粟立つ感覚を覚え、無意識に背後を検めた。 輝夜は満面の笑顔のまま、胸に抱いた日本人形の黒髪を撫でている。 「男じゃないと嫌? んー、しょうがないわねー」 弾むような声のまま。が、その末尾は確かに暗い響きを含んでいた。 健の視界の端を何かが走る。次の瞬間、ジーピンがくぐもった声を落とした。 「差別はよくないよー。お願いだから私の質問にも答えて? ね?」 細い三日月のかたちに歪めた双眸でジーピンをまっすぐにみやる輝夜に、健は続ける言葉の選択に迷う。 ジーピンは黒い筋めいたもの――己の影によって全身の自由を戒められていた。輝夜が笑う。その腕の中、日本人形も笑っていた。 「でも面倒くさいから、お願いするのはもうやめるわ。だって、きっと答えてくれるようになるもの」 能力を用いてジーピンの自由を奪った後、輝夜は爺の頭に両手を伸べる。大切なもの扱うように優しく撫でた後、輝夜はジーピンの頭皮から薄く残る毛髪を一掴み、むしる。 「おま……!」 健が制止に入ろうとするが、いつの間にか輝夜の腕を離れていた人形が健の腕を塞ぎ、口角をあげ歯を見せて笑う。 「急ぐんでしょ? 情報は少しでもあったほうがいいに決まってるもの」 輝夜は楽しげに声を弾ませながらジーピンの髪をむしる。むしられ落ちるジーピンの毛髪は、落ちるそばから糸となり、糸となったそれは自我を得た生物のようにジーピンの指先に這っていく。 「答えて? 暗房の中の構造についてとか、実験の内容とか。みんなどうやって死んでいったの? 暗房から出てくる化けものって何? 変飛ってやつのこと? 違うの?」 輝夜の質疑は矢継ぎ早に吐き出される。 頭皮から鮮血を溢れ流しパニックに陥っている老人に、輝夜は大きなため息をついた。 「おい、やめろ!」 健が抑止を叫ぶのと、ジーピンの指先が毛髪を媒体にした呪詛によって骨ごと砕かれたのは、ほぼ同じタイミングだった。 ◇ ニノが踏み入れたその空間は、喩えるならばコンクリート壁の続く迷路のようなものだった。 間接照明の仄かな明かりを思わせる光源によって照らされ、歩き進むのに苦心はさほど要しない。 壁の所々にうたれた矢印は、これまでこの場を訪れたロストナンバーたちが記し残したものなのだろうか。いずれにせよ内部が迷路状になっている空間であるならば、この目印はあって困るものではないだろう。 ――目指す男は確かにこの中を進んでいる。 ニノのうっそりとした眼差しが、通路のそこここにゴミ屑のように転がる――無数の人形のようなものの残骸を一瞥した。 事前に聞いた情報によれば、暗房内には影魂と呼ばれるものが現れるのだという。おそらくはこれらがそうなのだろう。何者かがこれらを破壊しながら進んでいるのだ。 指先から落とされるのは植物の種だ。種はニノの指を離れ床に触れるや、芽を伸ばし、コンクリートの床を破り、ツタのように床や壁や天井を這い伸びていく。 ツタがニノに先んじて通路を進む。伸びる葉に自身の視力を重ね、ニノは男の姿を捜した。 「……見つけた」 それはニノのいる位置から数百メートルほどの距離の先。 地を蹴り、ニノは走る。口もとがわずかな笑みのかたちを描いているのは、ニノ本人ですら気がつかないまま。 ◇ 天狗面の男――かつてはリュウという名であった男は、混乱する記憶を抱えたままに暗房を進んでいた。 迷路のような構造のなされた暗房内部は、外部からの侵入者に対する防壁のための対策ゆえの構造を成しているのではない。むしろ内部をさ迷う怨念の塊が暗房の外に漏れ出るのを防ぐための防壁だ。 地下街区は、元々は地下鉄なども内包する空間であったという。けれどいつしか地下街区は貧民が集い住まう空間となった。 彼らの居住空間に過ぎなかった程度の場所なのだ。初めから迷路のような構造であったわけではない。 ――なんだっていい。視力を潰された身となった今では、視覚的な障壁など大きな意味を成すわけでもない。 ゆらゆらと体を揺らしつつ進む。爪が壁や床を裂き、鳴らす。 その耳が、それまでにはなかったはずの異音を聞きとめた。足を止め、振り向く。 異音の元が急速に成長し這い伸びてくる植物のそれだとまでは、この段階では気付きはしなかった。 が、次に耳が捉えたのは、確かに弾道のそれだった。通常の弾丸ではない。リュウは咄嗟に態勢を低く構え、一度目のそれをやり過ごす。それから低く構えたのを利用し、足もとを大きく蹴り飛ばした。長い跳梁。次いでもう一度だけ、今度は壁を蹴る。蹴り離れた壁に二発目の弾丸が穴を開けた。 ◇ リュウがニノのすぐ目前に現れたのは、リュウの姿を遠くに捉えたニノが、ライフルにも似たギア・緑銃から弾丸を放った後のことだった。放った弾丸は続けざまに二発。ゆえにリュウは一発目を放った、ほぼその直後にニノの眼前に現れたと言っても過言ではない。 二度の跳躍だけで移動できる距離ではない。が、考える隙も与えず、リュウの爪がニノの首目掛け振り下ろされた。 「リュウ!」 健の声が地下空間の中でいんいんと響く。喉を庇い、代わりに両腕に深い傷を負ったニノの視界が健と輝夜、それからずっと離れた先にいるジューンの姿とを同時に捉えた。植物の目を通し見ている映像だ。ニノの目は眼前に対峙する天狗面の男の姿だけを見ている。 鉄の爪でえぐられた傷は決して浅くはない。が、男――リュウは地下空間に響く健の声が障害となったか、わずかにその動きを鈍くした。その隙に、ニノは用意していた苔を傷口にはり付ける。止血の作用をもたらす種類のものだ。それでも痛みがやわらぐことはないのだが、今は自己暗示によって痛覚は感じない身となっている。 「ウィーロウのお膝元で嗅ぎ回ってりゃ、誰かしら釣れるとは思ってたが」 苦々しげに顔を歪め、健は数歩を進める。ニノとリュウが対峙している地点まで、まだ十数メートルほどの距離がある。だが先ほど遠目に見た限り、この程度の距離ならば、リュウは瞬きよりも早く健の前まで距離を詰めてくるだろう。 尋常ではない身体能力を保有しているのは知れた。が、少なくとも健の記憶にあるリュウは、ここまでの動きを可能とする人間ではなかったはずだ。 「呪石による作用ではないかと思います」 健の疑問を読み取ったかのように、ジューンが穏やかな口調で放つ。 「呪石? 分からないけど、さっき情報仕入れてきたの。あの人たぶん、ウィーロウの実験材料にされちゃったんだわ」 輝夜が、ジューンの声に間を挟むことなく続ける。 リュウの肩が、ウィーロウという名を耳にするたびに小さく揺らぐ。振り上げられた爪を避けようともせずに、ニノはまっすぐにリュウの顔を仰ぎ見た。 怒りを感じる。 眼前に立つこの男は、きっと怒っているのだ。――その矛先が何であるのかまでは知れないが。 けれど、鉄の爪がニノの肉をえぐることはなかった。爆発的な成長を遂げたツタの葉が、まるで鎧のようにニノの身を守っているのだ。 ギアの銃身を振り上げ、近くに引き寄せたリュウの頭を殴り飛ばそうとするが、その動きよりも一瞬早く跳ね飛んで後退するのだ。 「……くそ」 忌々しげに眉をしかめ、健はふところに手を突っ込む。取り出したのは閃光弾と催涙弾。 ――リュウがまだ生者であるならば、閃光弾が放つ音の攻撃はきっと少なからず作用するだろう。催涙弾の効果は一時的にでも咽喉の不具合を引き起こすはずだ。 「報告書読んだりしたし、噂にも聞いたよ。……おまえ、彼女はどうしたんだ。どうして彼女を捨てたんだ。なんで……そんななってんだよ」 しぼりだすように告げた健に、リュウの動きが再びわずかに淀む。壊れた人形のように首をかたむけて、面の下の口もとに薄い笑みを浮かべた。 次の瞬間。床を軽く一度蹴り上げたリュウの体は、ニノの前を離れ、健のすぐ目前にあった。驚く暇さえない健の喉を狙い、鉄の爪が振り下ろされる。 が、鉄の爪はまるで健の幻影をかすめるかのように宙を迷うばかり。 「私のギアのおかげよ。今度なんかおごってね」 無邪気な笑い声を落とし、輝夜が身を躍らせた。 輝夜の腕の中、今はあの人形の姿はない。視界を巡らせた健の目が、まったく別方向で転がる人形を見つけた。 ズタズタに引き裂かれ、無残な姿となっている。 「地下だし、閃光弾とか催涙弾? とか使ったら、私らにも被害きちゃうかもしれないよ」 健の顔を見据え、輝夜はふわりと笑みを浮かべた。 リュウはすぐそこにいる。健が危惧を述べようとしたが、輝夜は笑ってかぶりを振った。 「私、この人に言いたいことがあって」 言いながら振り向き、天狗面に隠されたリュウの顔を仰ぐ。 ぼうやりとした明かりを落とす照明の下、幾重にも重なり伸びたツタと影とが楔となってリュウの全身を縫い止めていた。 ◇ もうニ度と、愛する者の喪失など味わいたくはなかった。 けれど、心を通じ合わせた女が襲われ、命の危機に落ちたとき、彼は己に課せられている業の深さを思い出したのだ。 吐き出し、ぶつけたあの言葉が真実のものであったのかどうか ――ああ、でも、もうすべては手放した記憶の底にある。思い出すことも、きっともうニ度とないだろう。 ◇ ジューンの目がリュウに向けられる。 「ねえ、ウィーロウを殺すの?」 輝夜が無邪気に問いかける。リュウは応えない。楔につながれ、呻くことすらしないままだ。 「ジーピンから聞いたの。ここ、昔はけっこうたくさん人が住んでたんだってね。でもほとんどみいんな殺されちゃったんだって。知ってる? ウィーロウが金に物を言わせて地下に住んでた人たちの命ごと買い取ったんだって」 ニノがうっそりとした表情で輝夜を見る。その目には、輝夜が語る話の内容に対する興味などかけらほども感じられない。 「ウィーロウって実験好きなんだってね。人間を、別のものに転生させる方法を研究してたみたい。それが変飛とか影魂ってやつなのかな。でも影魂はあなたがけっこう倒してたよね。見てきたけど、あれ、どう見ても人形とかそういうのなんだよね。じゃあ変飛にする研究? それと、暗房から出てくるっていうバケモノ、ウィーロウが作ったらしいんだけど。作ったっていうのかな。殺されたひとたちの怨念のかたまりで、一つ目って言われてるんだって」 応えようとしないリュウを放置で、輝夜はあれこれと考えながら、口を閉ざすことを知らない。 どこか楽しげでさえある輝夜の横をジューンが過ぎる。ニノがうっそりとその動きを見つめていた。 「リュウ様。貴方をクリーチャーに変えた方々には必ず罪を償わせます……カン様と安らかに」 静かに、憐れみさえこもっているようにも思えるような声音で、ジューンはゆったりと目をすがめる。 両手に鉄の爪を持つ姿態となってしまったリュウのそれは、リュウの父親の姿と重なり、見えた。 ジューンの手がリュウの首に向けられる。 カツリと音をたてて面がはずれ、床に落ちた。現れたリュウの顔は、両の眼孔を潰された無残なものとなっている。 「ダメよ」 ジューンの指がリュウの首を貫こうとした矢先。輝夜の腕がジューンの動きを制した。 ジューンの目が輝夜を見る。輝夜は明朗とした笑みを浮かべながらジューンを見つめ返し、楽しげに目を細ませた。 「この人は生きるの。いろんなものを手放して、実験をうけてバケモノみたいになって。でもそれってこの人が自分で自分の破滅を望んでるからだわ」 唄うような口調。ジューンはわずかに表情を歪める。 「残念ね。最後の野望も私たちが潰したわ。……あとは? どうするの?」 ジューンの手がリュウの首を掴んでいる。輝夜はリュウの顔を覗きこみ、重なることのない目を見つめて満面の笑みを浮かべた。 リュウの表情はわずかな迷いを見せ、しかしそれも次の瞬間には消え失せていた。口もとに小さな笑みが浮かぶ。 「……俺は、」 「なりません」 「ジューン!」 リュウの声は、ジューンと健とが続けた声によってかき消された。 ジューンの指はリュウの腹を貫通し、背中へと突き抜けていた。 「どうぞ、安心してお休みください」 その声は、温度を持たない冷ややかなものだった。 けれど、そのすぐ後に起きる現象の兆候は、ひとり離れた位置から事態の流れを見ていたニノの目には見えていた。 楔で捉えられた後、リュウの頭上に表示されていた数字が急速な点滅を繰り返すようになっていたのだ。それは、噂には耳にしたことのある事象のようでもあった。 リュウは笑う。嬉しそうに、安堵の色すら滲ませて。 「あ」 輝夜が小さな声を落とす。 リュウの全身が淡い雫のような光で包まれた。 「……恩に着る」 しぼりだされたかすかな声が、ようやく聞き取れる程度のかたちとなって四人の耳に触れた。 そうして次の瞬間、リュウは淡い雫に飲み込まれるようにして姿を消したのだった。 ――ディアスポラ。 あるいは、ウィーロウによって施された何らかの術の効力なのかもしれないが。 いずれにせよ、リュウは大きな血だまりだけを残し、そのまま姿を消したのだった。
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