その世界はバランスを欠いている。 かつて、世界は魔王率いる闇に支配されていた。 混沌と闘争。 魔王の配下による蹂躙だけではなく、人の中でも内紛が絶えず、飢饉や疫病も流行った。 暗い暗い感情に沈んだ血にまみれた世界。 苦しんだ人々は神に祈り、神とそれに仕える精霊獣達は闇を倒す力を人に与える。 そして光の戦士達がその闇を打ち砕いた。 魔王は討伐され、世界は平和になった。 ――はずだった。 変化はほんの数日だった。 闇を失い、光が強くなりすぎた世界はぐらりとバランスを崩し、規律が反転する。 光が悪に、闇が正義に。 世界が引っくり返る。 神や精霊獣など高位の存在は、幸か不幸かその影響を受けなかった。 しかし、世界の生命達は影響を受けた。 光の戦士達が闇に堕ち、かつての魔王のように振る舞う。争いが再び巻き起こる。 そして、魔王を倒してしまった今、戦士達に対抗するような力はもはや残っていない。 神はやむを得ず、精霊獣に戦士を殺させた。 かつて力を貸して共に勝利と平和を喜んだ者として、それはとても悲しい出来事だった。 世界のバランスは少しだけ元に戻ったが、揺れ続けている。 神々はバランスを崩す原因となったことを悔いていた。 『いつか、あるべきバランスに……』 精霊獣は神の意思を継ぎ、世界のバランスを保つために奔走する。 それでも世界は揺れる。 シーソーのように、光が闇に、闇が光に。 神は怯えている。いつか自らも世界のバランスに巻き込まれ、今とは違うものになってしまうことを。 そんな世界。 そんな世界での出来事。 ――そこはとても美しい場所だった。 天井からは細く淡く光が差し込み、清涼な空気が空間を満たす。 壁は水晶。 洞窟の主が棲み始めてから急激に成長し埋め尽くしたというそれは、ゆっくりと呼吸のリズムで明滅している。 そう呼吸だ。 静かな中に響く、深い呼吸。 四色の翼を持つ美しい毛並みの大きな獣が、そこで呼吸していた。 瞳の色は翼の色を混ぜたような赤、青、緑、黄。二本の角が優美に頭上に伸びている。 精霊竜。世界のバランスを保とうとするもののひとり。 美しい洞窟の主は、かなり高位の精霊獣であった。 しかし歳月が体を蝕み始めてから、さらに時は過ぎ、自由に動くことの叶わぬ身となってからは水晶に身を護らせ洞窟の奥深くで静かに伏せっている。 未だ揺れる世界を憂いながら…… そして今、精霊竜の前には一つの球体が浮かんでいた。 それは淡く、精霊竜の瞳と同じ色にひかり、時折微かに動いている。 精霊竜は鋭利な目を緩ませ、自らと比べるとあまりに小さなその球を愛おしげに見つめ、時を待っていた。 ゆっくりと、ゆっくりと。 呼吸をしながら待っていた。 チリリと。 水晶の声が騒ぐのを聞き、精霊竜は洞窟の入り口に目をやった。 「――来たか」 発した声は低く響くようで、鈴の鳴るようでもある。不思議な響きが水晶達を振るわせた。 久々の来客。ずっと、待っていた客だ。 入口に立つのは、5人。 年若い人間の男女、白い毛並みの人狼、耳の長い――エルフだろうか、そして翼を持つ青い竜。 精霊竜はひとりひとりの姿を眺めた。 青い竜は顔見しりだ。まだ人の傍にあったのかと、嬉しくなる。竜としては小型であることを嘆いていたが、この場に現れるとはなかなか出世したのではないか。 耳の長い女は武器を腰に刺してはいるが、強い魔力を感じる。こちらの力への感受性も強いのだろう。5人の中で一番険しく眉を寄せていた。 白い毛並みの人狼は、なかなかの体格。青竜と並んでも見劣りしない。顔は聡明そうで、パワーばかりではないのを窺わせる。 人間の女は弓を持ち、身軽な様子だ。若いが我を前に胸を張るその勇気は何物にも代えがたい。 そして、多様な姿の5人の中でも、特に異質さで目を引くのは人間の男だった。 この世界では見かけない顔つき――強いて言えば東方の者に近い顔つきで、幼いと言ってよいほどだ。そして髪も目も服も黒。不思議な形をした衣は東方の暗殺集団が使う装束だったか。 ゆっくりと頷くと、5人は緊張した面持ちで、精霊竜の前まで歩く。 黒装束の男だけ足音がしないことに精霊竜は気づいた。 「――噂は聞いている」 そこでフゥと息を吐く。水晶がキラキラと煌めいた。 「異世界から来た救世主だな」 言葉には通訳の魔力が乗せてある。 精霊竜から感じる神々しさと大きなプレッシャーに圧倒されながら、黒装束の男は頷いた。 「光を取り戻すために我の力を借りたいと」 今度は5人が、強く頷く。 それぞれの顔は使命と責任に引き締まり、希望と決意に目が輝いている。 精霊竜はその様子に満足げに目を細めると、ゆっくりと上半身を起こす。 洞窟が揺れ、水晶がピキピキと音をたて欠片を零した。 「よかろう。だが我は老い、動けぬ身。よって我の力を遣わそう」 眼の先には淡く光る小さな球体。 風が急にぐるりと渦巻き、5人が息を呑む。 光がだんだんと強くなっていき、空気が振動する。 水晶が鳴り歓喜の歌を叫ぶ。 膨れ上がる力。 球体が歪む。 表面に。 罅が。 光が。溢れ。 真っ白に―― 圧倒的な生命の息吹――! 「……」 ぶわりと音を残して、 光と風は急速に収まった。 でもって、そこには何も無かった。 「!」 「!」 「!」 「!」 「?」 周囲に張り詰めてた空気も何となく白けた感じに無くなっていた。 あんなに神々しく明滅していた水晶は特に光ってないし。 精霊竜も心なしかちょっと疲れた感じに見える。 神秘とか威厳とか人間が畏敬や畏怖を感じる全てが吹っ飛んでしまったようだ。 「……」 あんまりな空気の変化に、ちらっと。黒装束の男は青竜の方を見た。 ……駄目だ。竜の顔って表情読めない。内心舌打ちをする。 「……」 他の顔を見てみると、みんな口を開けぽかんとしているように見える。見えるというか、ぽかんとしている。 女は目も口も丸く開け放ったままだし(虫が飛んでたら絶対入る)、エルフは先程までも険しい顔をしていたが、さらに険しい顔をしているので眉の間の谷が崖っぷちだ。 白狼人に至っては、こちらの視線に気づき口を閉じて、尖った爪の先で少し頬を掻いて見せた。 おい、何だそのジェスチャー。 「――我の」 突然、精霊竜が言葉を発し、勿体ぶったようにそこで切ったので、黒装束の男は慌てて顔を向けた。 思わず普段浮かべたことが無いような愛想笑いまで顔に張り付ける。 まるで授業中によそ見を注意された生徒のようであるが、ともかく焦ったのだ。 精霊竜は落ち着きを払って、至極厳かに、こう言った。 「我の魔力を幾分か、分け与えたのだ」 そう言うと満足げに頷き、目を閉じ、起こしていた体を下ろした。 もうお仕舞いだとばかりに首はぷいと、奥を向けて。 そして、ゆっくりとした呼吸の音だけが響きだす。 それ以上の説明は無かった。 「……」 「……」 「……」 「……」 「……」 ……俺達何のためにここに来たんだっけ? 俺、異世界から来たんだけどなぁー。 黒装束が後にして来た故郷とかを思って少し涙ぐみそうになったあたりで、 青竜は居心地悪げに身をよじった。 太陽の光は眩しく、草原には甘い花の香りがした。 フカフカした草の絨毯の上で、白くもふもふとした生き物が鼻をひくつかせて空気の匂いを嗅ぐ。 四足で体は白い毛におおわれ、頭から背だけが少し灰色。 背中には四枚四色の羽根。 ぱっと見開かれた瞳は羽根と同じ四色。 「――キュ?」 世界のバランスを、護らなきゃ。 世界を隔てた地にて、もふもふは目を覚ましてそう思った。 そして歩き出す。とりあえず美味しい匂いのする方へ! 世界は今日も平和です。 たぶん。 (終)
このライターへメールを送る